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ニューエストモデル私評

2005-11-16 23:58:11 | エッセイ・コラム

※『ニューエスト・モデル』は
1985年結成、1989年メジャーデヴュー、
1993年同レーベル所属の『メスカリン・ドライヴ』と合体、
『ソウルフラワーユニオン』と改める事で発展的解散となった
日本のロックバンド。

パンクを出発点に多彩な音楽性へ発展、
主張の強い詩もファンを魅了した。
世間的認知の最上位は1992年発売の5thアルバム、
『ユニバーサル・インベーダー』のオリコン10位。

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先日の日記
他者への批判の意味で引用した
ニューエストの歌詞引用、
あらためて見たらこりゃ俺の事だ、
と気付きヘコむ。

自分とカブる要素だから
無駄に深く理解できてしまうから
必要以上にハナに付いてしまい、
だから何とか理論立てて
批判という結論でまとめて
自己完結しようとする…。

近親憎悪のメカニズム恐るべし…。

そーいやライヴとかインタヴューとかでの
中川って不必要に態度悪いんだけども
それは彼もまたそんな自分ゆえに
近親憎悪によってあんな歌詞が書けた、
という事なのかも知れない、と思った。

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…にしても、ニューエストの
ソングライティングは
あらためて本気でスゴいよなぁ。

自分を含めた全てを批判し
全てに精神的自活を促そうとする
循環というか輪廻というか、
そんなんが根っこあるように思う。

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惜しむらくは
最後のオリジナルアルバム『ユニバーサルインベーダー』で
批判の対象がヘンに狭義になっちゃって
最後には「だからこうしなさい」と
行為の部分にまで踏み込みだす始末。

そうなると宗教と一緒じゃんよ。
まぁ、『ユニバーサルインベーダー』から
自分らをソウルフラワークリーク(ソウルフラワー党)って
言い出してた時点で末期の彼らは
…うーむ、だったのですが。

個人的には最後のシングルの最後の曲の最後の歌詞が
"right now Think! Yourself!"(後は自分自身で考えろ!)
だったのが強烈にカッコよくって。
でもこの次に出たCDが
『ユニバーサルインベーダー』だったので
絶対引き際間違えたよなぁ、ニューエスト。
とか思います。

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そんな事を考えながら
ネットサーフィンしてたら
はみがきさんがブログで
ニューエストについて語ってた。

タイミングがタイミングでびっくり。

彼がニューエスト知ってるのは
古くから知っていたけれど
語ってるのを見るのは初めて。
どうも酒の勢いで書いた文のようですが
貴重な話、ありがとうございました。

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で、俺はニューエストが
何を批判しているのか?は
気を抜いた時の人間の行為全般
ではないのかと思います。

自己完結して現実逃避
陰口(他者の批判)で現実逃避
漠然な夢や希望で現実逃避
愛だ恋だで現実逃避
カタルシスして現実逃避

人間が無意識的(本能的?)に持っているであろう
「己が他より優位である」という
高慢な思考と行為(という名の幼稚性)に対して
理性で持って自覚、克服し
今の自分を縛っている自分を乗り越えよう、
という意味での「全てへの批判」、
だと考えています。勝手に。

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音楽に限らず漫画だったり映画だったり
ゲームだったり演劇だったりといった創作表現とは
受け手に同情して慰安したり
無責任に夢や恋を説いて
無責任な現実逃避をさせたりするだけの
「慰みモノ」ではないはずだ。

何より気持ちいいだけの
肯定や快楽や優しさや癒しは
甘えからくる逃避でしかなく
その悪循環の輪廻の先には堕落しかない。

人が悩み、苦しむ事への根本的な解決には
その痛みと向き合い、理解し、乗り越えるしかない。

俺を含む多くの人々がいつまでも
「自分の痛みにばかり敏感で、
他人の痛みには無神経かつ無関心」

い続けていいはずがない。

そしてそのための「優しき叱咤」が
ニューエスト・モデルの楽曲郡にはある。

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…と、これが彼らに問われ、
10年以上考えた俺の今現在での
"right now Think! Yourself!"への回答です。

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(2005.11.24追記)
実は初のニューエストモデルのレヴュー文。
と、いいつつもレヴューという建前の
俺自身の自己紹介文になってしまい
ダシにして内心ごめんなさい、という感じ。

実際のニューエストは
かなり具体的な政治批判的の色合いも強いし
音楽的な部分でも多くの挑戦をしているのですが
(めっちゃノれる曲なのに詩は正視できない、ってのもその一つ)
そのへんをばっさり切ったレヴューでもありました。

でもまだ10代のクソガキだったころ
邦楽における詩のあり方について理屈たれまくりだった時、
ニューエストの詩の完成度のお陰で、なんつーかふっきれて
いろんな音楽を肩の力抜いて聴けるようになれた事には
本当に感謝しているのですよ。

(2005.12.7追記)
そしてどーして俺がこういう視点で
ニューエストモデルを考察してしまうのか、というのは
後日書かれた別トピック、
『他人事ではないADHDとかのはなし』に続きます。


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