ティツィアーノとヴェネツィア派展
2017年1月21日~4月2日
東京都美術館
本展の目玉作品の一つ、初来日のティツィアーノ《教皇パウルス3世の肖像》。
《教皇パウルス3世の肖像》
1543年
カポディモンテ美術館
モデルは、当時75歳の老人男性。「政治力」「知性」そして「狡猾」。
本展にて、権力者中の権力者の肖像画が、若くて美しくて肌を見せる女性像《フローラ》や《ダナエ》と比べて分が悪いのは止むを得ないが、ティツィアーノの肖像画の傑作の一つであることは確か。老人の皮膚の描写。緋色の衣服の質感。素晴らしい。
1534年、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿は、教皇に選出され、パウルス3世を名乗る。
翌1535年、孫のアレッサンドロ・ファルネーゼ(当時14歳)を枢機卿に任命する。
ファルネーゼ家の美術パトロン活動は、主にこの二人により展開されていく。
ティツィアーノは、当時既に国際的に活躍。ヨーロッパ中の君主・貴族から制作依頼が殺到し、さらに画家自身を自身のもとに呼び寄せたいとの君主からの要望も少なくなかったが、画家は特定のパトロンにつくことをよしとせず、ヴェネツィアを離れようとはしなかった。
ファルネーゼ家も、既に肖像画を描いてもらっていた皇帝カール5世への対抗心もあり、自分の肖像画を描いてもらいたい、一族の画家になってもらいたい、と画家へのアプローチを開始する。
最初の注文は、1542年、「すぐに教皇の肖像画を注文するのではなく、たとえ画家に断られてもあまり面目を失わないですむような人物の肖像画」。
教皇の孫(枢機卿の弟)、当時12歳でありながら、「すでにマルタ騎士団所蔵騎士およびヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・デイ・テンプラーリの騎士修道会管区長」であったラヌッチョである。ティツィアーノは承諾する。
《ラヌッチョ・ファルネーゼの肖像》
1542年
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
ファルネーゼ家は、画家の弱み、息子ポンポニオのために実入りのいい聖職禄を獲得したいという願い、につけ込み、画家のローマへの招聘を働きかける。
まずは、1543年、画家をボローニャに招集。教皇と皇帝カール5世との面会の予定地だが、そのことは画家に(というか全世間的に)秘密にして。
その地で最初の教皇の肖像画が制作され、皇帝の前で披露される。記事冒頭の作品である。身に付けた指輪と財布は、皇帝へのメッセージである。
《教皇パウルス3世の肖像》
1543年
カポディモンテ美術館
引き続きローマへの招聘を働きかける一方、アレッサンドロ枢機卿は、ウルビーノ宮廷にて1538年作の《ウルビーノのヴィーナス》を見てから、自分も魅力的な裸婦像を画家に依頼したいと願う。
画家はヴェネツィアで制作に着手。
そして、1545年10月、ついに働きかけに応じて、制作途上の作品とともにローマに到着。ローマで作品を完成させる。本展出品作である。
《ダナエ》
1544-46年頃
カポディモンテ美術館
「これに比べたら、閣下がペーザロのウルビーノ公の居室でご覧になった裸婦は、テアティノ会の修道女のようでございます」(在ヴェネツィア教皇大使デッラ・カーサからアレッサンドロ枢機卿あて1544年9月付書簡)
確かにエロチック度は格段にアップ。なお、同書簡にてダナエという言葉は出てこない。制作途上でのダナエへの主題変更が推定されている。
ローマにおいて、画家はファルネーゼ家の依頼に応じ、教皇の肖像画2点のほか、いくつかの作品を制作する。
その代表作。
《教皇パウルス3世と孫たち》
1545-46年
カポディモンテ美術館
二人の孫は、枢機卿アレッサンドロ(左)と公爵オッターヴィオ(右)である。
本作品に関するドラマは、三元社刊、ロベルト・ザッペリ著『ティツィアーノ《パウルス3世とその孫たち》』に詳しい。ただ、訳者が述べているように、必ずしも時系列に沿った記述になっていないこと、原著のイタリア語版を翻訳したドイツ語版からの重訳であることで、結構読みづらいところもある。
他には、以下のような作品が制作されている。ただし、画家の手によるものか否かは参照先によりマチマチ。
《カマウロを被った教皇パウルス3世の肖像》
1545-46年
カポディモンテ美術館
《枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼの肖像》
1545-46年
カポディモンテ美術館
《ピエル・ルイージ・ファルネーゼの肖像》
1546年頃
カポディモンテ美術館
*教皇の息子。アレッサンドロ枢機卿とラヌッチョの父親。軍人として活動。初代パルマ公となる。パウルス3世念願の「ファルネーゼ王国」の誕生である。1547年死去。
《若い女性の肖像》
1545-46年
カポディモンテ美術館
狡猾なファルネーゼ家。息子の聖職禄どころか、自身が制作した作品に見合うだけの報酬ももらえない。悟った画家はローマを後にする。1546年3月のことである。
1549年、教皇パウルス3世死去。
以降、画家とファルネーゼ家との関係は切れてはいないようだが、深まることもない。
画家は、アレッサンドロ枢機卿の求めに応じて、1567年に本展出品作と考えられている《マグダラのマリア》を送っている。これは、既に何作も制作していた作品の焼き直しバージョンといえる。また、1568年には《聖ペテロの殉教》も。これは現存しない。
ティツィアーノは1576年死去。
アレッサンドロ枢機卿は1589年に死去。
パウルス3世時代のファルネーゼ家の美術パトロン活動としては、ティツィアーノ以外には、ミケランジェロとの関係が有名かつドラマティックである。
システィーナ礼拝堂の壁画《最後の審判》の制作を筆頭に、パオリーナ礼拝堂の壁画《聖パウロの改宗》《聖ペテロの殉教》の制作、サン・ピエトロ大聖堂の改築・大ドーム建設など。
また、1570年にヴェネツィアからローマへやってきた当時30歳前のエル・グレコが、ファルネーゼ邸に滞在し、アレッサンドロ枢機卿のために《燃え木でロウソクを灯す少年》(2010年のカポディモンテ美術館展に出品)などを制作したとされている。
ファルネーゼ家では、1591年に枢機卿に就任するオドアルド・ファルネーゼ(アレッサンドロ枢機卿の弟の孫)の美術パトロン活動も、カラッチ一族(特にアンニバーレ・カラッチ)の重用など、バロック美術の誕生を後押ししたことで知られる。