ルカ・ランドゥッチ(Luca Landucci、1436頃〜1516)は、フィレンツェの薬種商。
ランドゥッチは、1450年から彼が亡くなる1516年までのことを書き記す。
(その後、氏名不詳の人により、1542年まで書き続けられる。)
その日記は、市井から見た(美術史でいうと盛期ルネサンスにあたる時代の)フィレンツェの歴史を知るうえで重要な史料とされている。
以下、ランドゥッチの日記から、1478〜79年のフィレンツェの疫病に関する記載をピックアップする。戦争や聖務禁止処分と重なった苦難の時期である。
なお、当時のフィレンツェは、3月25日が新年の始まりである。
【1478年】
1478年4月26日
(パッツィ家の陰謀)
1478年6月
(教皇シクストゥス4世によるロレンツォの破門、フィレンツェの聖務禁止処分。)
1478年7月
(教皇・ナポリ王連合軍が侵入。戦争へ。)
1478年9月14日(疫病発生)
この日、終身刑でカーサ・デル・カピターノの牢に入れられていた男が疫病で死んだ。同じ牢から疫病患者が一人、疫病対策班によって運び出され、スカラ病院に運び込まれた。この病院には他にも患者が運び込まれていた。このところ疫病がひどい被害を出していて、いまやその病院には患者が40人か、それ以上いた。そして一日に7人、8人と死んでいき、11人死んだ日もあった。それに町中でも人が死んでいった。病院に行かない患者もいたのだった。
1478年9月29日
このところ疫病患者が町中と病院をあわせて、60〜70人いた。戦場でも患者が出はじめていた。
1478年10月6日
このところ疫病患者がスカラ病院に100人くらいいた。フィレンツェ市内でも何軒もの家で患者が出ていて、なかでもサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の中のベンチで、疫病で死んだ患者が見つかった。
1478年10月11日
サン・パゴロ病院の門のところで疫病にかかった男の子が見つかった。しかし、スカラ病院に運んでやる人はいなかった。
1478年10月14日
一人の女の患者がスカラ病院に行くところだった。召使たちが手を貸して歩かせ両脇を支えていたが、ポルチェッラーナ病院まで行ったとき、息が絶えて倒れた。疫病の力はすごいといえた。
1478年12月24日
この日アルノ川の水嵩がひどく増し、メッセール・ボンジャンニの家の向かいからあふれた。大きな被害を出した。
このころ、悪疫が死人を大勢出していた。これも神の思し召しなのだ。
クリスマスのこのころ、市民は戦争と悪疫、教皇による破門と悪い知らせの不安に怯えていた。
1478年2月4日(一旦沈静)
このころ、疫病がぐっと弱まった。神がほめたたえられますように。
1478年3月9日(再び)
このころ、疫病がわれわれを苦しめていた。ひどくぶりかえしたのだった。
【1479年】
1479年4月18日(疎開)
疫病があまりひどくなったので、わたしは一家を引き連れてディコマーノの私の田舎に移り住んだ。店は店員たちに開けさせておいた。
(✳︎いつフィレンツェに戻ったのか、日記からは確認できず。)
1479年12月6日
ロレンツォ・デ・メディチがフィレンツェを発ち、ナポリへ王のところに行った。
1479年1月20日(三たび)
疫病がわれわれをひどく苦しめていた。
1479年3月
13日、ナポリから戻ってくるところだったロレンツォ・デ・メディチがリヴォルノに着いた。
15日、かれは21時にフィレンツェに着いた。
16日、夜中、7時ごろ、講和の知らせが届き、みんな大よろこびで祝い火を焚き、鐘を鳴らしてこれを祝った。
【1480年】
1480年3月25日
(講和の布告)
(以降、フィレンツェにおけるロレンツォの支配体制が確立したとされる。)
疫病は、1478年9月〜1月、1479年3月〜しばらくの間、1479年冬、がひどかったようである。
次の疫病の記述は、1481年6月と、1年5カ月ほど間が空く。
(引用:『ランドゥッチの日記』中森義宗、安保大有訳、近藤出版社、1988.5刊)
1478年時点の主なフィレンツェ派の画家の年齢
ゴッツォリ 57歳頃
バルドヴィネッティ 53歳
ポライウォーロ兄 46歳頃
ヴェロッキオ 43歳
ポライウォーロ弟 37歳頃
ボッティチェリ 33歳
ギルランダイオ 29歳
ペルジーノ 28歳頃
レオナルド 26歳
フィリッピーノ・リッピ 21歳頃
クレディ 19歳頃
ピエロ・ディ・コジモ 16歳
フラ・バルトロメオ 6歳
ミケランジェロ 3歳
ラファエロ 生まれていない