子供の頃から、銀座と上野は、よく来る所です。
上野の山と呼んでいました。
明治政府に来ていたオランダ医師が
「どの先進国都市にも市民のための公園がある
この高台の場所は最適である」
と、言わなければ、上野が東大医学部の場所であったかもしれない。
江戸城は無血開城したものの
徳川慶喜が謹慎していた上野寛永寺が
幕臣の強硬派の拠点となり、慶喜が水戸に逃れても
彰義隊と新政府軍との戦いが上野の山を燃やすこととなる。
その焼けた山肌を見て
オランダ医師ボードウィンがよくぞ言ってくれたものだ。
それでも、不忍池側は、かつての原生林が残っているとされる。
確かに大木もある。
この清水観音堂から眺める図は都への憧れか
不忍池を琵琶湖に見立て、浮かぶ弁天堂は竹生島を見立てたもの
観音堂の中の壁面に上野戦争の絵図が描かれている。
( 写真が見つからない )
竹生島を想い弁天堂を眺める。
この松は、近年の物!
観音堂から清水の舞台とまでは云えないが落差がある。
そこから又、同じ位落差があり、不忍池
この辺りに彰義隊と新政府の激戦の象徴でもあった
かつての黒門が有ったとされる。
彰義隊の遺体を火葬したとされる処に
訪れる人は少ないが墓石がある。
花がいつもある。
千住の円通寺にも葬られて
そこに黒門は移築された。
チャンスがあれば、訪れるつもり・・・
東京の人間は西郷隆盛が結構好きだ。
この銅像のお陰かもしれないが
判官びいきでもある。
西南戦争で逆賊となった西郷さんの銅像が何故?
(東京の人は、親しみを込めて西郷さんと呼ぶ)
明治22年に明治憲法の発布の大赦により正三位も贈られている。
銅像は御下賜金と有志による物とされる 高村光雲作 明治30年
肖像には議論が多いが、
西郷さんのイメージはこれだよね~~~
明治10年には、「第一回内国勧業博覧会」も上野にて開かれている。
西南戦争開戦の中である。
寛永寺本坊跡にレンガ造りの美術館が建ち
東西の本館2館に加え農業館や器械館なども建てられたようだ。
その時も本坊表門は、そのまま使わていた。
現在は博物館より線路寄りの輪王寺に移築されて
つい最近改修工事が終わった。
改修前の写真も探せばあるのだが・・・
上野戦争にも焼け残り
関東大震災後、帝国博物館の改修により
輪王寺に移築、国指定重要文化財です。
今年の物ではないけれど写真を見付けたのでUP!
手前の枝垂桜が見事なので、春は人も多いけれど
必ず、寄ります。
秋は人影もなく、、、静かでいい。。。
境内には、幸田文宅の門なども移築されている。
寛永寺は奥に移転して、あまり人と出会うことはない。
東照宮も五重塔も写真を探したけど、、あきらめた!
上野の山は、、、
そこここに、トリップ出来る代物が残っている。
HPも少しづつ作っていきます。お待ちください。
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★東京に拠点を移して、アトリエ活動始めました。
もちろん、名古屋の仕事も続けていきますので、
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