「ネコの手も借りたい多忙苦戦格闘日記」オーダー専門店k.nyangoケイドットニャンゴの裏側

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デザイン・イメージの現場

上野の山「上野恩賜公園」~幕末編

2014-12-06 21:16:05 | 東京の変化

 

 

子供の頃から、銀座と上野は、よく来る所です。

上野の山と呼んでいました。

 

明治政府に来ていたオランダ医師が

「どの先進国都市にも市民のための公園がある

  この高台の場所は最適である」

 と、言わなければ、上野が東大医学部の場所であったかもしれない。

 

江戸城は無血開城したものの

徳川慶喜が謹慎していた上野寛永寺が

幕臣の強硬派の拠点となり、慶喜が水戸に逃れても

彰義隊と新政府軍との戦いが上野の山を燃やすこととなる。

 

その焼けた山肌を見て

オランダ医師ボードウィンがよくぞ言ってくれたものだ。

 

 

それでも、不忍池側は、かつての原生林が残っているとされる。

確かに大木もある。 

 

 

 

この清水観音堂から眺める図は都への憧れか

不忍池を琵琶湖に見立て、浮かぶ弁天堂は竹生島を見立てたもの

観音堂の中の壁面に上野戦争の絵図が描かれている。

( 写真が見つからない )

 

竹生島を想い弁天堂を眺める。

この松は、近年の物!

観音堂から清水の舞台とまでは云えないが落差がある。

そこから又、同じ位落差があり、不忍池

 

 

この辺りに彰義隊と新政府の激戦の象徴でもあった

かつての黒門が有ったとされる。

 

 

彰義隊の遺体を火葬したとされる処に

訪れる人は少ないが墓石がある

花がいつもある。

千住の円通寺にも葬られて

そこに黒門は移築された。

チャンスがあれば、訪れるつもり・・・

 

 

東京の人間は西郷隆盛が結構好きだ。

この銅像のお陰かもしれないが

判官びいきでもある。

 

 

西南戦争で逆賊となった西郷さんの銅像が何故?

(東京の人は、親しみを込めて西郷さんと呼ぶ)

明治22年に明治憲法の発布の大赦により正三位も贈られている。

銅像は御下賜金と有志による物とされる 高村光雲作 明治30年

肖像には議論が多いが、

西郷さんのイメージはこれだよね~~~

 

 

明治10年には、「第一回内国勧業博覧会」も上野にて開かれている。

西南戦争開戦の中である。

寛永寺本坊跡にレンガ造りの美術館が建ち

東西の本館2館に加え農業館や器械館なども建てられたようだ。

 

その時も本坊表門は、そのまま使わていた。

 

現在は博物館より線路寄りの輪王寺に移築されて

つい最近改修工事が終わった。

改修前の写真も探せばあるのだが・・・

 

上野戦争にも焼け残り

関東大震災後、帝国博物館の改修により

輪王寺に移築、国指定重要文化財です。

 

今年の物ではないけれど写真を見付けたのでUP!

 

手前の枝垂桜が見事なので、春は人も多いけれど

必ず、寄ります。

 

秋は人影もなく、、、静かでいい。。。

 

境内には、幸田文宅の門なども移築されている。

 

寛永寺は奥に移転して、あまり人と出会うことはない。

 

東照宮も五重塔も写真を探したけど、、あきらめた!

上野の山は、、、

そこここに、トリップ出来る代物が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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