と書いてきたついでに
両親の育った環境について少し書いてみたくなりました。
【②】のブログで触れたように父は16歳まで
弟妹の3人兄妹の長男として三条で過ごしていました。
子供の頃から朝早く叩き起こされて
家の手伝いをさせられたり、
学校に行ってても店の配達を手伝う為
学校に電話があって早退させられたり…。
下の弟妹とは違って、
鉛筆1本買うのにも文句を言われながら、
何故自分だけ冷たくされるのか、
厳しくされているのかを疑問に思いながらも、
長男なんだから仕方がないんだと思い込んでいたそうです。
店の手伝いをするように言われ
中学を卒業し進学をしなかった(出来なかった)ようですが、
16歳の頃、親戚の法事で
酔っ払った親戚の叔父さんに
祖父の連れ子だということ、
本当の母親は新潟市にいると言われ、
はじめて自分だけが何故厳しくされていたのかどこか納得できたようです。
母親と思っていた人の子は下の弟と妹で、
父は腹違いの子だったということになります。
親戚に言われてからそのことが頭から離れず
祖母(母親)にキツくあたられると
本当の母親に会いたくて、
幼い時の記憶に、女の子と遊んでいたことや、
学校帰りに何度か声をかけられ
お菓子をくれた着物の女の人のことが蘇り
もしかしてその人が本当のお母さんかも知れない
と思うようになり、
おじさんのところに行き
母親のいる場所を教えてもらい会いに行ったそうです。
産みの母親のいる新潟市まで
父にとっては初めて乗ることになった電車。
大した距離ではなかったはずなのに
新潟までが物凄く遠く遠く感じたようで
新潟につき、歩いて家を探しながら
教えてもらった母親の家に辿り着いたものの、
拒否されたらどうしようと
なかなか玄関を開ける事が出来きず
やっと玄関を開け
出てきたのは同じくらいの年代の女の人で
父が自分の名前を言ったら、
その女の人がわーっと泣き出し抱きついてきて
「お母さん、お母さんー」
「⚪︎⚪︎⚪︎だよ!」
と叫び、奥にいる母親が出てきて
最初は何のリアクションもなくただ父を見て立っていただけで
父が 「⚪︎⚪︎⚪︎です」と言った途端
廊下から裸足で玄関を降り
「 ごめんね、ごめんね…」
と名前を呼んで抱きしめてくれたようです。
最初に出てきた女の人が父の4つ上の姉で、
記憶の片隅にあった女の子。
お菓子をくれた着物の女性は産みの親で間違いなかったようです。
姉も三条で一緒に暮らしていましたが、
おばあさん(育ての親)の仕打ちに耐えられず
7歳の時に家を飛び出し
警察に保護をされた時に実の母親の名前を言い、
その後話し合いで、
姉は産みの母親の元に帰ることができたようです。
その時に弟を連れ出す事が出来なかった事を
ずっと悔やんでいて、
父と再会し泣きながら謝ってくれたそうです。
元々芸者をしていた母親とその客だった父親が結婚し
父も姉も新潟市のその家で生まれたらしく、
芸者をしていることのヤキモチから喧嘩も多かったようです。
そして祖父に別の女性が出来て、
姉と一緒に三条に連れていかれたようですが、
幼かった父はその事は全く覚えてなく、
お姉さんの方は知らない家に連れられ
そこには知らない女の人がいて
お母さんと呼ぶように言われたたものの
お母さんと呼べず、
怒られていたということのようでした。
その日父が人に抱きしめられたのは初めてのことで、
恥ずかしいのと嬉しいのと悔しいのと
辛かった様々な思いが一気に込み上げてきて
父も大泣きをしてしまったそうです。
そしてその日に初めて食べた母親の料理が今までで1番美味しかった
と祖母が亡くなり葬儀の日にも父は話していました。
再会後、実の母親との家を行ったり来たり出来る
関係が築ければ良かったのでしょうが、
理想と現実はうまくいかず、
母親に会いに行ったことが親戚の叔父さんから伝わったその日に
祖父に殴られ、1万円を投げ渡され
16歳で家を追い出され三条を離れる事になってしまったようです。
三条を出た父は18まで群馬県前橋市の親戚の家の
仕事を手伝いながらお世話になって、
その後自衛隊に入隊し習志野に数年いたあと
東京で仕事をしながら生活をしていたようです。
産みの母親とは自衛隊に入隊する前に連絡をして、
それから定期的に連絡だけはしていたそうです。
16で家を出てから、疎遠となっていた
三条の親とは結婚をするのをきっかけに
再び連絡をとるようになったみたいです。
私たちの親の世代なら珍しい
ことではないのかもしれませんが、
母の方は4人兄妹で母親は3番目として生まれました。
母が4歳の時に父親は第二次世界大戦で海軍として出陣。
そして戦死。
後に死因は餓死であったという報告がきたとのことです。
母親も父親が戦争に行っているときに病死をしている為、
幼かった母の記憶には布団に横になっている母親の姿を
薄っすらと思いだせるだけで、
両親の記憶が殆どないらしいです。
でも私の実家にはこの人があなた達のおじいちゃんだよと
確かに私たちからは祖父にあたる人なのでしょうけど、
おじいちゃんと呼ぶには申し訳ないくらい
とても若い出陣まえに撮ったとされる
軍服姿の母のお父さんの写真が飾ってあります。
残された幼い母の兄妹は、別々になることはなく父方の伯父さんが育ててくれましたが、
時代の背景もあり、
兄妹も小さい頃から農作業の手伝いをしながら、
高校には行けず、辛いことや悔しいことなどたくさんあったようす。
農作業を手伝いながらも農家が好きではなかった母は
いつか美容師になりたいという事を夢みて
農作業を手伝いながらアルバイトを掛け持ち
少しずつ貯めたお金を持って
20代後半でようやく美容学校に行くために家を出て東京の学校へ入り、
学校を卒業したあと、東京の美容院で住み込みで働いてる時に父と出会ったそうです。
夕食の時など、そんな両親の生い立ちをよく聞くようになっていましたが、
不思議ではありました。
でも、当時は何となく聞いてはいけないような
両親の話をただ聞きいていただけのように思います。
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