サイドバーリンクからも、また今年の5月19日の記事からもご理解いただいているかと思いますが、1985年の日航ジャンボ機墜落事故については、僕はこの20年間ずっと自分自身で事故を風化させないという気持ちを持ってきた一人だと自負しています。
8月2日付け神戸新聞より引用
>>死者520人を出した1985年の日航ジャンボ機墜落事故の遺族らでつくる「8・12連絡会」が、事故から21年となる12日、同会の活動の軌跡をまとめた「旅路-真実を求めて」を出版する。日航や運輸省航空事故調査委員会(当時)への要望書、空の安全を願って発表してきたアピール文などを網羅。同連絡会は尼崎JR脱線事故の遺族らとも交流があり、「他の事故で被害に遭った人々の道しるべになれば」としている。(中略)
同会は翌年、日航、事故機を製造・修理した米・ボーイング社、運輸省の関係者を業務上過失致死傷罪などで告訴。刑事責任の追及を求めて26万人分もの署名を集めたが、事故から5年後、不起訴が決定した。(中略)
「旅路」では、不起訴理由の説明会で交わされた前橋地検(群馬県)の検事と遺族の詳細なやり取りも掲載。遺族が日航に求め続けていた残存機体の保存・公開施設が今年四月、「安全啓発センター」としてようやく実現した経緯なども紹介している。
同会は昨年、遺族の文集「茜雲(あかねぐも)」を出版。「事故を知らなかった」という若い世代からも大きな反響があり、空の安全を訴え続けてきた会の活動について伝える意味をあらためて感じたという。(以下略)
5月に羽田の安全啓発センターに行って残存機体や圧力隔壁、座席の残骸などをを見てきました。安全啓発センターは入場料を取るような施設ではなく、モノレールの整備場前駅で降りた日航の普通のビルの中にあります。予約をしないと入れず、そこを訪れる人も僕が行ったときはほとんどが日航の関係者ばかりでした。
垂直尾翼や圧力隔壁を直接手に触れ、破損した座席の残骸を見ていたら、その事故の悲惨さがますます増幅される。そして僕が一番印象に残ったのはフライトレコーダーの拡大版の高度計の部分でした。本などで機体の高度推移は見ていたつもりですが、詳細な高度を見ると、墜落直前はほとんどまっさかさま。ボイスレコーダー(CVR)は右にずいぶん前からリンクしてありますが、事故調の報告では「・・・・・・」となっている墜落直前の機長の最後の叫びがしっかりと聞き取れます。「もう・・だめだ!!」と。
事故に関係する書籍は僕が知っている範囲で20冊以上になると思います。ここ数年でほとんどを読破しました。なぜそんなに本が出るのかと言うと、事故調の最終報告が僕から見てもどうにも納得ができないものだからなのでしょう。まして遺族の方なら到底受け入れられないものだと思います。詳細はここでは避けますが、急減圧はなかったとする多くのジャーナリストの主張に同感です。ただ自衛隊機が撃墜したとか突拍子もない説を展開する小説まがいの書籍もありますので、そのあたりはスルーするのが賢明かと思われます。
以前から相模湾の海底から残骸をすべて回収しないのが不思議だと思っていました。その残骸があればもっと正確な墜落原因がわかったはず。ただ今僕たちが出来ることといえば、とにかくこの事故を風化させず語り継いでいくことしかない。航空会社も最近の価格競争やリストラ等で安全の本質にしっかり目を向けているのかをも問いただしたい。2度とあのような悲惨な事故が起こってはいけないのです。サイドバーのJAL123をクリックしてくださいね。
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