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写真付きで日記や趣味を書く。

くちなしの花

2024-08-01 14:02:41 | 日記
子どもは、私の宝です。

良く、孫は可愛いいね、罪がないからね、ってよく耳にする言葉ですが、私にとっては、孫6人います凄く可愛いいですが。

でも、やっぱり3人の我が子が一番。あっ家内(再婚した)も大切ですし、最初に守ってあげないといけない人。

写真は、くちなしの白い花🎵
1輪、初めて見ました。
渡 哲也を思い出しますね😋


母の無念さ

2024-08-01 10:51:56 | 日記
先日は、私の生活について
少し書きましたが、そんな事、誰しも沢山の方々が、もっと大変な事をしているわけで、単なる自分自身少し苦労しただけです。

私が東京で、必死で生きていた頃、よく母から、電話や手紙がきました。

内容は、いつも同じ「子ども3人見るの大変でしょ、大阪帰ってきたら」「今度いつ帰ってくるの?」ばかり、母は私が東京で家を守り、3人の子ども達を一人で守らざるを得なかった我が子に対して、辛く不憫だろうと、その事ばかりを心配していたんだろうな〜。

私は、帰る気もありませんでしたし、子ども達も生まれ育った、この町を離れる選択肢は毛頭無かったんだと思います、それより、別れて妻が実家に帰る事になり、二男と末っ子の二人で、駅まで見送りに行ったそうです、その場面と子ども達の気持ちを考えると、私は償うことのできない、事を子ども達にさせたと今でも辛い気持ちになります。し、死ぬまで後悔の念は癒されないこと。

でも、まあ大変だった!
仕事を休むと生きて行けない、長男は丁度美容室に雇って頂きスタートし、二男は建築の方に行きたいから、専門学校に行きたいと、末っ子は中3になり、何度か先生と話し会い、本人は、小学校の先生になりたいと…

えっ「どうしよう!」絶対無理でしょう。

でも、夫婦の問題で、子ども達の希望を諦めさせるのは、一生後悔する!

銀行強盗してでも、いかせる、道はつくるが、あとは、各自の努力。

幸い周りに、本当に良い友達がいて、沢山の援助をしてくださいました。

お陰様で、二男は50人位の建築会社に入り、末っ子は、推薦一本で学費の安い公立の大学に受からせて頂きました。感謝!

その時は、10円でも無駄に出来ない生活でしたから、母に会いに行きたいが、電車賃もなく、「今、ちょっといそがしいからと」断っていました、母は「日帰りでもいいから、ちょっとだけでも、話がしたい!」と何度も言っていました。

今、思えば、無理してでも一度会いに行きたかった。

長男も少しづつ給料も上がり、二男は勉強はできないが、友達が凄く多く、中学のころより、良く友達が遊びにきていました。
ある日は、ライオンの頭見たいな友達や、またある日は、牛乳瓶の様なメガネをした学年一番の友達やら、いつも小さかったけど、輪の中心にいて、みんなと容姿関係なく、付き合っていました。
これは、私にも絶対できない、才能だと、なんだか感じていました。

それを、実感したのは、二男が、入社2年目に、営業のサポート、製図、事務全般をしていて、自分に期するところが、あったんだと思います。「お父さん、俺、会社やるから」とまだ22歳!なんちゅうやつだ!
でも、まだ失敗しても若いからと!応援しました。

1人は、営業トップ。
1人は、不動産おたく。
そして息子の3人でした。

二人は順番にやめて、最後に息子が「今日、社長へ言うから」と、私は、私は「二年前、お前を拾ってくれた社長だから、ちゃんと理由を言って、しっかりとお礼を言って、辞めなさいね」と言いました。

後で、聞いた話で社長も若い頃に会社を興し、息子の気持ちは凄く解ると」理解をしてくれたそうです。

ちょっと仕事しま〜す!
んじゃ👋かっち




母の最期

2024-07-31 00:58:31 | 日記
父の死から、母はひとりで何を思い、生きようと思ったか?

ただ、兄との二世帯住宅だったから、悲しみも少しは和らいでいたのかな〜。

相変わらず私は東京で働いていました、3人の男の子の父として、妻は看護婦で頑張っていました。

殆ど家にいない私に変わり、妻は良く小さな3人の子たちを殆どひとりで頑張ってくれたと感謝しています。

但し、人生は色々ありますね、大学2年20歳から付き合い、22歳で青山会館で結婚。
40過ぎまで、私と妻は、一生懸命に子どもを育て、30代で家を買い、順風満帆に進んでいました。

今思えば、彼女は少しづつ我慢していたんだなと思いました、常に私の顔色を見て、子どもを育て、仕事もハードなポジションにおかれ、心のストレスが出たんだとおもいます。これは全て私が、感じ心を引き出せなかった包容力の無さです!

私達は少しづつ気持ちが離れていきました。
長男が20歳、次男が17歳、末っ子が14歳の時、お互いに、別れる事を選びました。
長男だけ話に参加させて、何回か3人で話をしました。
彼女は、もう限界だと、決心をしていました、私は、まだ子ども達が小さいので、それを待って別れる事は出来ないかと、言いましたそれは、子ども達もそうですし、経済的にも、お互い700位でしたので、家もカバー出来、子ども達にもそれなりの生活をしてあげれましたので、半分になったら、かなりシビアに厳しくなると思いましたが、妻は、あるきっかけで、実家に帰り、2人は離婚しました。

それから約10年、私ひとりで、多感な男の子3人を見ることになりました。

今も、小さい時の、感謝は忘れませんが、子どもをおいて、ひとり帰ることは、今でも、私は間違っていると感じます、子どもを産む事は、凄い決意がいります、親の勝手で、子ども達に先の道を変えさせたくない!

それからの10年弱は、一生分の力を使い切りました。

営業でしたので、決まった時間はなく、子どもを第一に考え、仕事もフルで、やりきり、帰って、子ども達の食事、洗濯を夜中1時ころに良く干したものでした。

たまに、「何で俺だけ!」「何か悪いことした?」
と、初めて仏様を恨みました。

少し休みます、んじゃ
👋また、かっち




良く飲んでた父、良く働いていた父

2024-07-30 17:07:57 | 日記
午前中のblogでは、父への、すまなさの気持ちを書きました。

でも、楽しいことも沢山ありました、枚方パークへ行ったり、箕面の公園に行ったり、二人で海で沖までいったり(ただし、父は自分だけ先に沖の岩場まで行き、私は海水を飲みながら必死でついて行った思い出があります。

大阪で育ち、一番早く家をでて東京へ!以来40数年になります、そう考えてみたら、父と一緒にいたのは時間にしたら2.3年という短さ、仕事をしている時間、寝ている時間などを考えると、すごく短い時しか、一緒にいなかったな〜。

人生とは、儚く短いもんだね。でも、一度も会えない人もいるんだから、まあいいか。

父は、酒が好きです、給料日の日には天下をとってきたように満面でした。
昔は、現金支給だから、封筒が立つぐらいに、持ってきても、必ず封は切らないで、母に渡していました。

母は、それを畳に並べ、3人の私達子どもはニコニコしていました、が母はもうしっかり計算していました(こわいね)

その後、母は父にビールとお刺身か、ナマコの酢の物(父の好物)を出して、三ツ矢サイダーのコップにビールをついで「お疲れ様でした」といつも言っていました、父は、その時のお酒が一番美味しかったんだと今は思います。

家に余りお酒は買い置きしないのですが、父があるだけのんじゃうから!

だから、父は、「ちょっと出かけてくる」と言っては、外の自動販売機でワンカップをのんでいました。

まあ、唯一の楽しみだったんでしょう!母も何もいわなかったから。

3人兄弟の兄、姉、私で、私が結婚してから、帰省を楽しみにして、道路まで出てまっていました。

帰ると、母もまずビールがでるから、運転で疲れていましたが、父と良く飲みました。

父は!私が遠く離れた末っ子でしたので、実家にかえると父は「一緒に飲みたくて飲みたくて」「かっちゃん!まあ飲めや飲めやで」なんか実家にかえったら、煮しめと酒しか口にしないほどでした。

最後の帰省のころには、私も、男の子3人孫でしたから、あまり付き合いもしなくなりました。

いま、思えば、父は私と、一緒に飲むのを凄く楽しみにしていたんだと、今私が3人の孫がきたら「まあ、飲もーや!」ていいますが、上2人は「コーヒーでいいわ」だからね!がっくり。父の思いが今わかったようなきがします。反省!

その様な、同じ父と子の感情だったんだな〜。

んじゃまた👋かっち

死に立ち会えなかった無念

2024-07-30 09:37:16 | 日記
私の、父は66歳で、大阪で兄と二世帯住宅でした。

夜中、父が母に
「ちょっと背中をさすってくれるか?」と言い、ベットに寝ていた母は、畳に寝ていた父に近づこうと、豆球でしたが暗く30cm位の段差にころび、よろけながら父の背中を朝までさすっていたそうです。

開け方、母が兄に「お父ちゃんちょっとだいぶ苦しそうやから、近くの病院連れて行ったってくれへん。

兄は、朝イチで、10分くらいの総合病院へつれていきました。

長椅子に横になり、順番を待っていたのですが、なにせ沢山の病人で、だいぶ待っていたようです。

父が余りにも苦しそうだったので、兄はブチギレて看護婦に言ったそうですが、皆さんお待ちですからと、職業丸出しの返事に、もう誰も兄をとめれません!やーさんでも自衛隊でも無理!

兄は、父を背負って、勝手に診察室に入りました。

びっくりした医者は、すぐ父をみたのですが、「すぐ集中治療室へ!」

姉は、宝塚にいましたから、急遽こちらに向かってくるとのこと、私は旅行会社で北海道に、添乗に行っていました。

兄から連絡をうけ、代わりの社員に交代して翌朝、朝イチで伊丹にいきました。

途中、千歳から兄に連絡したら「お父ちゃん今家に帰ってきたわ、と言い、ちょっと頭がこんがりましたが、当日夜中、入院もせず兄と姉と母に看取られ、なくなりました、肝不全だったようです。

私は、私は父の死体を家に連れて帰って来たことが、やっとわかりました。

母は、ベットから落ちた事で鎖骨を骨折していました、しかし自分の痛みもこらえ、父を朝まで背中をさすってあげていたようです。

私は、家に帰って来た時は、布団に顔に白い布をかけ、やさしく眠っていました。

私は父の死に目には、あえませんでした。親不孝です。

これは、本当の夫婦の在り方と、子どもの親に対する恐ろしい愛情だとかんじた、父の死でした。
ではまた👋かっち