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母の最期

2024-07-31 00:58:31 | 日記
父の死から、母はひとりで何を思い、生きようと思ったか?

ただ、兄との二世帯住宅だったから、悲しみも少しは和らいでいたのかな〜。

相変わらず私は東京で働いていました、3人の男の子の父として、妻は看護婦で頑張っていました。

殆ど家にいない私に変わり、妻は良く小さな3人の子たちを殆どひとりで頑張ってくれたと感謝しています。

但し、人生は色々ありますね、大学2年20歳から付き合い、22歳で青山会館で結婚。
40過ぎまで、私と妻は、一生懸命に子どもを育て、30代で家を買い、順風満帆に進んでいました。

今思えば、彼女は少しづつ我慢していたんだなと思いました、常に私の顔色を見て、子どもを育て、仕事もハードなポジションにおかれ、心のストレスが出たんだとおもいます。これは全て私が、感じ心を引き出せなかった包容力の無さです!

私達は少しづつ気持ちが離れていきました。
長男が20歳、次男が17歳、末っ子が14歳の時、お互いに、別れる事を選びました。
長男だけ話に参加させて、何回か3人で話をしました。
彼女は、もう限界だと、決心をしていました、私は、まだ子ども達が小さいので、それを待って別れる事は出来ないかと、言いましたそれは、子ども達もそうですし、経済的にも、お互い700位でしたので、家もカバー出来、子ども達にもそれなりの生活をしてあげれましたので、半分になったら、かなりシビアに厳しくなると思いましたが、妻は、あるきっかけで、実家に帰り、2人は離婚しました。

それから約10年、私ひとりで、多感な男の子3人を見ることになりました。

今も、小さい時の、感謝は忘れませんが、子どもをおいて、ひとり帰ることは、今でも、私は間違っていると感じます、子どもを産む事は、凄い決意がいります、親の勝手で、子ども達に先の道を変えさせたくない!

それからの10年弱は、一生分の力を使い切りました。

営業でしたので、決まった時間はなく、子どもを第一に考え、仕事もフルで、やりきり、帰って、子ども達の食事、洗濯を夜中1時ころに良く干したものでした。

たまに、「何で俺だけ!」「何か悪いことした?」
と、初めて仏様を恨みました。

少し休みます、んじゃ
👋また、かっち




良く飲んでた父、良く働いていた父

2024-07-30 17:07:57 | 日記
午前中のblogでは、父への、すまなさの気持ちを書きました。

でも、楽しいことも沢山ありました、枚方パークへ行ったり、箕面の公園に行ったり、二人で海で沖までいったり(ただし、父は自分だけ先に沖の岩場まで行き、私は海水を飲みながら必死でついて行った思い出があります。

大阪で育ち、一番早く家をでて東京へ!以来40数年になります、そう考えてみたら、父と一緒にいたのは時間にしたら2.3年という短さ、仕事をしている時間、寝ている時間などを考えると、すごく短い時しか、一緒にいなかったな〜。

人生とは、儚く短いもんだね。でも、一度も会えない人もいるんだから、まあいいか。

父は、酒が好きです、給料日の日には天下をとってきたように満面でした。
昔は、現金支給だから、封筒が立つぐらいに、持ってきても、必ず封は切らないで、母に渡していました。

母は、それを畳に並べ、3人の私達子どもはニコニコしていました、が母はもうしっかり計算していました(こわいね)

その後、母は父にビールとお刺身か、ナマコの酢の物(父の好物)を出して、三ツ矢サイダーのコップにビールをついで「お疲れ様でした」といつも言っていました、父は、その時のお酒が一番美味しかったんだと今は思います。

家に余りお酒は買い置きしないのですが、父があるだけのんじゃうから!

だから、父は、「ちょっと出かけてくる」と言っては、外の自動販売機でワンカップをのんでいました。

まあ、唯一の楽しみだったんでしょう!母も何もいわなかったから。

3人兄弟の兄、姉、私で、私が結婚してから、帰省を楽しみにして、道路まで出てまっていました。

帰ると、母もまずビールがでるから、運転で疲れていましたが、父と良く飲みました。

父は!私が遠く離れた末っ子でしたので、実家にかえると父は「一緒に飲みたくて飲みたくて」「かっちゃん!まあ飲めや飲めやで」なんか実家にかえったら、煮しめと酒しか口にしないほどでした。

最後の帰省のころには、私も、男の子3人孫でしたから、あまり付き合いもしなくなりました。

いま、思えば、父は私と、一緒に飲むのを凄く楽しみにしていたんだと、今私が3人の孫がきたら「まあ、飲もーや!」ていいますが、上2人は「コーヒーでいいわ」だからね!がっくり。父の思いが今わかったようなきがします。反省!

その様な、同じ父と子の感情だったんだな〜。

んじゃまた👋かっち

死に立ち会えなかった無念

2024-07-30 09:37:16 | 日記
私の、父は66歳で、大阪で兄と二世帯住宅でした。

夜中、父が母に
「ちょっと背中をさすってくれるか?」と言い、ベットに寝ていた母は、畳に寝ていた父に近づこうと、豆球でしたが暗く30cm位の段差にころび、よろけながら父の背中を朝までさすっていたそうです。

開け方、母が兄に「お父ちゃんちょっとだいぶ苦しそうやから、近くの病院連れて行ったってくれへん。

兄は、朝イチで、10分くらいの総合病院へつれていきました。

長椅子に横になり、順番を待っていたのですが、なにせ沢山の病人で、だいぶ待っていたようです。

父が余りにも苦しそうだったので、兄はブチギレて看護婦に言ったそうですが、皆さんお待ちですからと、職業丸出しの返事に、もう誰も兄をとめれません!やーさんでも自衛隊でも無理!

兄は、父を背負って、勝手に診察室に入りました。

びっくりした医者は、すぐ父をみたのですが、「すぐ集中治療室へ!」

姉は、宝塚にいましたから、急遽こちらに向かってくるとのこと、私は旅行会社で北海道に、添乗に行っていました。

兄から連絡をうけ、代わりの社員に交代して翌朝、朝イチで伊丹にいきました。

途中、千歳から兄に連絡したら「お父ちゃん今家に帰ってきたわ、と言い、ちょっと頭がこんがりましたが、当日夜中、入院もせず兄と姉と母に看取られ、なくなりました、肝不全だったようです。

私は、私は父の死体を家に連れて帰って来たことが、やっとわかりました。

母は、ベットから落ちた事で鎖骨を骨折していました、しかし自分の痛みもこらえ、父を朝まで背中をさすってあげていたようです。

私は、家に帰って来た時は、布団に顔に白い布をかけ、やさしく眠っていました。

私は父の死に目には、あえませんでした。親不孝です。

これは、本当の夫婦の在り方と、子どもの親に対する恐ろしい愛情だとかんじた、父の死でした。
ではまた👋かっち

父の役割なのかな?

2024-07-29 14:37:38 | 日記
私の父は、66歳で亡くなりました。
現代では少し早いかなとも思います、私もあと数年で父の年齢に達します。

父は、兄を戦争でレイテで亡くし玉砕だから、遺骨ひとつもありません、届いたのは紙一枚だったようです。
おばあちゃんが、余りにもかわいそうとの事で、先祖の墓の隣に、慰霊碑をつくりました。
私は、お墓の仕事もしていましたので、約30年くらい前に自分で蓋らしき物を外し、中をみました。
中は、何もなく、小さな穴から、赤いカニが出たり入ったりしていました。
「何もないね」と家内と2人で、がっかりしました。

道具を持っていかなかったし、昔の石づくりだから、蓋も、なかなかきれいに戻らず雨も降っていたのでかなり手こずりました。
もう少しで蓋が納まりそうになった時、手が滑って蓋石30kくらいかな〜
手前に倒れてきて、とっさに私は両手を離したのですが、左手小指が石の下敷きになり、「あっ!」と指を抜いたのですが、雨と血でどうなっているかわからず、泣きじゃくる家内がタオルで濡れた左手を拭いてくれました。

私は、もう小指がぐちゃぐちゃになったなと思いましたが、なんと倒れてきた石のちょうどかけていたところに小指が入った感じで、すぐ近所の方が救急車を呼んでくださり病院へ行きました。

結果、小指が丁度石が欠けたところに入り、指先関節から爪までが、取れそうな状態で、おじいちゃん先生がこれまた素晴らしい先生で「まず、ドロなどを綺麗に流して、2本指に麻酔!
取れそうな指先を4針縫って」「はい終わり!関節もつぶれていなく、奇跡だね!」と「爪は生えてくるから!」と言われ、固定して、おわりました。感謝です、こんな先生今時いないような、神の手を持つブラックジャックおじいちゃん先生でした!

奇しくも、今日は、お墓の後に丹後半島に海水浴に行く予定でした、
とりあえず左手を固定してもらい、宿へ行きました。

夕方から、雨もひどくなり、明日は泳げないね!
と私が言うと「何!バカな事いってるの!」と家内は呆れていました。

二人で食事を「痛い」「痛い」と騒ぎながら窓の外の景色を眺めながら
家内が「今回は、おじさんが泳いだら危ないよっと、言いたくて、指の怪我も奇跡的に綺麗に、欠けた部分に、丁度入って、今では指先に薄く切れたあとがあるだけで、ヤクザと見間違われなくて、ほっとしています。あるんですね😓‼️

では、また次回に👋かっち




正直に生きる事は、勇気がいる。

2024-07-25 10:23:23 | 日記
おはようございます☀️

今日も夏の日差し模様。

あ〜あ〜また今日も暑いか💦

の反面、「また、今年も夏を体験できる

嬉しさ」の両面です。

小さい頃、母は浜辺の木陰にホッ頭して、私を見ています。

私は、浮袋で小さな浜辺を海藻を掻き分け水中メガネをしながら、夢中で遊んだ記憶、少し遠くに行くと急に水が冷たく感じたのを思い出します。

夕方になると、少しづつ赤とんぼが飛んで母の手をとり、片手には、貝やカニを入れた小さなバケツ。

二度とない、思い出😢

なつかしい思い出😂