近鉄御所駅から新宮行バスに揺られて20分ほど、風の森バス停から歩き始めると、目の前に金剛山から葛城山が屏風のように迫ってきた。大阪側とは山の見え方が全く異なる。
金剛山をアップで
ミゾソバ
ヨメナだと思う
和気藹々と歩く。 藤田さん靴を新調されたが、この後トラブルがあるとは・・・。
15分ほど歩いて高鴨神社に到着
先ずはお参りしましょう。
本殿への階段。本殿は1453年の再建で国の重要文化財だそうだ。
池に張り出した舞台が有った。能など奉納するのだろう。
読みにくいが、由緒によれば、この辺りは縄文時代晩期から集落が形成され、この神社は全国の鴨系神社の元宮で、古代から祭祀が行われていたそうだ。
鳥居の前でパチリ。歩き始めたばかりで皆さん元気!!
大きなサンザシの実が赤く色付いていた。
おお待ちどうさんです。
葛城古道の道標がしっかり整備されていて迷う心配は無かった。
路傍のお地蔵さん。
この辺りは城のように立派な民家が多い。
高天(たかま)への入口。「神話の里・高天ヶ原」の標識があった。この辺りにも天孫降臨の高天ヶ原伝説が有るそうだ。宮崎県の高千穂だけだと思っていた。
高天彦神社の入口にある原始的な鳥居。ここから神社まで標高差80mの階段の急登がある。
ヨメナだろう。高天彦神社の駐車場付近に咲いていた。
この花は一際鮮やかな紫色だった。
高天彦神社に到着。ここがこの日の最高地点で、標高450m。
高天彦神社にお参りする保田さんとお参りに向かうK子さん。
保田さんは賽銭箱が有ると必ずお賽銭をあげる。きっとご利益があることでしょう。
次にお参りするK子さんはどうなんでしょう???
高天彦神社の由緒。神社の背後にそびえる白雲岳がご神体だそうだ。白雲岳は下から見ると非常に急峻でピラミダルで、いかにも神が降臨しそうな山容だ。
ダイトレを登って行くと一の鳥居の大分手前に白雲岳頂上985mがある。こんな謂れがあるとは知らなかった。
神社の横から金剛山への登山道が続いていた。ヤマレコを見ていると奈良県側からは良く登られているようだ。登山道の横に水車がある。
杉の巨樹の根元は洞になっていた。
参道を振り返る。
縦位置で
境内の休憩所(左)は飲食禁止だったので、神社の横で昼食休憩した。
藤田さんここで新調した靴をバーナーで焦がしてしまった。大事には至らなかったが危ない所だった。歩行に差し支えなかったが不幸中の幸いだった。
高天彦神社から下って行くと、高天寺橋本院がある。高天寺は高野山真言宗の古刹で、往時は聖武天皇から鑑真が住職に任命されたこともあるそうだ。その後、南北朝の争乱に巻き込まれて衰退したが、1677年に高天寺の一子院橋本院として復興し、現在に至っているそうだ。
門前の厄除け十三仏
背景の三角形の山が白雲岳のようだ。
十一面観音を祀る観音堂。
葛城古道は庭園の中を通っている。足裏に優しい道だった。舗道が多かったのでホッとする時間でもあった。
境内の庭園には十月桜が咲いていた。
橋本院の庭園で白雲岳を背景にこの日のメンバー。背景は白雲岳
カメラマンを交代して
紫の鮮やかな菊が咲いていた。ノコンギクのようだ。
橋本院を出ると道は一転して山道の急坂となった。
急な山道を下り、沢を渉って登り返すと開けた場所に出る。そこでは大峰山の大展望が開けていた。
中央左よりは山上ヶ岳、右端は稲村ヶ岳。
少し右に振って、大きな山体の弥山と八経ヶ岳。
極楽寺の鐘楼門
鐘楼門を境内から
極楽寺本堂
よく見ると菊池さんも信心深いようだ。ご利益ありますよ!
住吉神社
道標
何の花だろう???
葛城山が段々と大きくなってきた。
高木神社
境内の大銀杏
大銀杏の下は銀杏で埋め尽くされていた。K子さんは毎年大阪城公園で茶碗蒸し1回分を拾っているが、今年はこの神社で10個ばかり頂いてきた。
収穫を終えたK子さんと見守る皆さん。
道標と葛城山
葛城山に近づいて大きく見えるようになってきた。
大分歩いて名柄の集落。古い街道の風情が残っていた。
杉玉があったので、酒屋さんだと思って進むと、
葛城酒造の醸造所でした。
道を隔てて中村家住宅
この辺りは柿の木の畑が多かったが、収穫せずに放ってある畑が見られた。
この木は広場の端に一本生えていたが、渋柿なんだろうか?
古い郵便局舎を利用したカフェ「郵便名柄館」赤いポストが懐かしい。
長柄神社。
地名は「名柄」で神社は「長柄」、読みはどちらも「ながら」だ。
ここも延喜式内社で1000年以上の歴史を持つ神社だ。
境内の大ケヤキ
案内板
一言主神社の参道
一言主神社。一段と風格を感じた。
お参りする人も多かった。
拝殿。扁額には「式内 大社」とある。延喜式内社だからここも相当に古い。
一言主命は神話の登場人物だが、この地方に勢力を張ったが最終的には大和朝廷に服従した古代葛城族の代表か一族の総称なのだろう。生駒山周辺に勢力を広げていた饒速日命(ニギハイヒノミコト)と同じようだ。饒速日命は東大阪に鎮座する石切神社の主祭神だ。
無患子(ムクロジ)の木。樹齢650年とあった
ムクロジと社務所
ご神木の大銀杏。樹齢1200年。
一言主神社を辞して、集落を抜けると小さな池が有った。
池の土手に咲いていたツリガネニンジン。堤の下には群落が有った。
刈入れの終わった田んぼ
ヤマハッカが群生していた。葉はハッカの香りがした。
ハッカ水を自作して虫よけに使っているが、実物を見るのは初めてだ。
(ハッカ水はハッカ油2mlを10mlの無水アルコールで溶かした後、蒸留水を加えて100mlにする。爽やかな香りがして、ブヨなどの虫よけにもなる。)
高丘宮跡の碑。綏靖天皇(すいぜいてんのう)は神武天皇の第三王子で、日本の第2代天皇と言われていて『日本書紀』での名は神渟名川耳天皇。神話の登場人物だから実在性については諸説ある。全く知らなかった。
棚田のはるか向こうに畝傍山と天香久山が見える。耳成山は手前の森の陰で見えない。心安らぐ景色。
棚田の横を通る古道
道端に祀られた石仏
九品寺。
行基の開創という古刹。偶然に住職さんと話ができた。本堂の横に銅像が立っていたので、浄土宗の寺だから法然上人だと思って聞いたら行基だった。近鉄奈良駅を地上に上がった噴水の所と、もう一ヶ所の3ヶ所にあるそうだ。本堂左の鐘楼の鐘は元々興福寺にあったが、変遷を経てこの寺にあるとの事と、右手の地蔵堂の地蔵尊は麓の集落で祀ってあったが行き場がなくなったのでこの寺で祀ってあるそうだ。境内の奥の千体石仏が有名だそうだが、この日は時間が無かったので参拝でできなかったので、是非とも再訪しようと思っている。
山門前には六地蔵が2セット。古道を行き交う人たちの安全を祈願したのだろう。
六地蔵の先に祀られた地蔵尊
この日の最終目的地「六地蔵石仏」に着いた。
巨岩の一部に六地蔵が彫られている。大分風化が進んでいる。
石仏の前で休憩する皆さん。大分お疲れです。
このあたりは櫛羅(くじら)という地名で、葛城山の登山口になっている。
登山道は櫛羅の滝コースと北尾根コースの2本あり、前者には櫛羅の滝がある。落差は10mくらいだったと思う。
御所駅に向かう道で振り返ると、金剛山が随分遠くに見え、葛城山との鞍部になる水越峠から差し込む夕日が神々しく見えた。
六地蔵石仏から田んぼの中の生活道路を東に約2km歩いて、ゴールの近鉄御所駅に到着。
皆さんお疲れさまでした。
この時点で皆さんの意識は既に反省会に向いていたはずだ。
反省会は橿原神宮駅中の「きはる」で行い、深く反省したことだった。
< 感想など >
この5月に計画していたが、コロナで延期していた葛城古道を歩いてきた。古道は云いながら大部分は舗装道路だったが、古道から見える山々の大展望には感動したし、古い歴史を積み重ねてきた地域の持つ独特の雰囲気を感じることが出来た。すぐ西側に金剛山と葛城山が障壁のようにダイナミックにそびえたって、1000m級の山とは思えないほどの迫力で迫っていた。終始この山並を眺めながら歩けるという贅沢さだった。南方は大峰山の山並みが連なっているのが遠景として望むことが出来た。山上ヶ岳から稲村ヶ岳、弥山、八経ヶ岳が確認できた。八経ヶ岳の向かって右は仏性ヶ岳、孔雀岳、釈迦ヶ岳などであろうが、同定は難しかった。大峰山の西方向には高野山の山々も確認できた。東の一角はは多武峰が画していた。
この辺りは標高300m前後の丘陵で縄文時代晩期から集落が形成されていたそうだ。縄文人が好む高燥地だ。稲作が広まるにつれてだんだんと低湿地に移っていく歴史がある。一帯に存在する神社や寺は京都や奈良などのように大きな規模ではないが、殆どが1000年以上の歴史を持ち、幾多の変遷を経ながらも、豊かな地域の皆さんに支えられているのだろう。最初にお参りした高鴨神社は古代鴨族の神社だし、高天(たかま)という所には高天彦神社が祀られていて、高天ヶ原という神話の世界の舞台の候補地の一つだそうだ。いままで高天ヶ原と言えば高千穂と思っていた。神話の世界が現在も生きているような錯覚を覚えてしまった。その後、高天寺・橋本院、極楽寺、住吉神社、長柄神社、高丘宮跡、一言主神社、九品寺などを巡って最後に櫛羅(くじら)集落にある六地蔵石仏にお参りしてから、東に2km程歩いて近鉄御所駅をゴールとした。御所一帯は古代葛城族が栄えた場所であり、日本でも有数の展望と歴史と神話が混然一体となって現在につながっている所であった。このような場所を皆さんと一緒に歩けたことは大きな喜びであった。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
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