貴方のお部屋に異空間

美術やイラストレーションに関するお話を綴ります。

松丸君ちのスマート家電

2021-11-28 19:48:18 | 日記

 11/26放送、松丸亮吾君ちのスマート家電。次々に紹介される最新家電の中の1つに、イーゼルに載せた額縁がありました。一見単なるウッド調の平凡なフレームの額縁なのだが、これが優れもので、フォトフレームみたいに中側に名画が次々に映写される額縁型のディスプレイ。精細な画像が映る松丸君ちの優れもの。しかし、小生はちょっと納得できないのですね。

 つまり、絵画は絵が独立変数で、額縁は従属変数。つまり、まず所与としての絵があって、そしてそれに似合う額縁が見繕われます。人間が自分に似合う服を選ぶようなものです。だから額縁が独立変数で、中側の絵画か従属変数、つまり中身がぽんぽん変わったりするのでは、絵画は成立しないと。

 簡単に言いますと、絵画は額縁を含めて絵画。もっと言うと、飾られる場所を含めて絵画なのです。前世紀のドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミン氏が指摘し、アウラ(オーラ)という概念を提唱。同時代の知識層に多大な衝撃を与えた・・・

 た、頼む。誰か彼に教えてちょ。あれは違う・・・と。


放浪の画家ピロスマニ

2021-11-28 13:31:50 | 美術映画

 本日はグルジア映画「放浪の画家ピロスマニ」をご紹介します。1969年製作。2015年にデジタルリメイク版がリリースされ、この時小生は神保町の岩波ホールにて初鑑賞。空いてました(^^;)

 この映画はピロスマニに興味がなくても、映画好きなら十分に楽しめる映画です。ただ、エンタメじゃないから、映画にも興味がない人は「つまらない」とか「退屈だ」と感じると思うので、誰かと一緒に見るなら相手の趣味も念のため確認しておいたほうが無難。感性も古いです。

 シェンゲラヤ監督は当時の政治的な背景は描いていません。主役はあくまで画家ニコラとその絵画。
 テレビもラジオもない貧しい時代のグルジア。当時人々は食べていくだけで生活に余裕がないから芸術に興味など持たない。一生懸命生きている。交流は密ではあるが利害関係が支配的。そういう時代に生きた近代の一人の貧しい独身芸術家ニコラの、揺れる心の軌跡が実に上手く描かれています。全編哀切で限りなく美しいシーンの連続。テーブルを囲む場面では手前に人を配置せず、左右と向かい側に座らせて観客目線で撮影。総じてカメラアクション控え目な演劇的正面撮影。音声も少なく静謐な基調で貫かれています。
 よくあることですが、監督の画家に対する思い入れが強いと、ついつい日曜美術館みたいに「ニコラは実はモデルをこう使っていた!」とか、「制作手順は実はこうだった!」とか、余計なうんちくを盛り込んでしまいがち。でもこの映画にはそういう説明的な描写によるうんちくはありません。この割り切りが重要で、凡人の監督にはなかなかできないことだと思います。
推奨環境はカップル、そして夫婦。(子連れ鑑賞はNG。同性の友人との鑑賞もいまいち・・・)
 KAZU一押しの名画。


現在美術

2021-11-13 16:25:06 | 美術書評

去年の10月に読破いたしました本の中から一部をご紹介します。時はコロナショックによる外出自粛要請真っ只中。サラリーマン時代は仕事も忙しくて、読むことも書くことも随分おろそかにしてしまっていたので、このときは読書のスピードも以前のペースを取り戻すのに大分苦戦しましたが、なんとか回復。慣れると読書はやはりいいものです。
 今日取り上げるのは「現在美術」という伊東順二先生の本。1985刊。36年前。小生が23歳で大学を出た年です。当時出た最新の美術評論で、刊行直後を含めて何回か読んではいるんですが、よくあることで図録以外は読み飛ばしていたので、じっくり読まないまま多くの年月が流れました。しかし改めて読んでみるとなかなか素晴らしい内容です。
 以前から小生は自分の出不精を棚に上げ、「海外旅行なんかしなくても日本に居ればそれだけで世界の美術が向こうからやってきて、解説付きで最高のエッセンスを見ることができる。作品を見たいから海外へ行く、なんて馬鹿馬鹿しい」と考えていました。そしてそれは一応正しかったんですが、しかし今考えると、それがいかに稀有で尊いことだったのか、と改めて思い知らされます。伊藤先生みたいな、決して日本に大勢居るわけではないこういう凄い人たちが頑張ってくれていたから、日本にいたまま世界の最先端の美術に触れることができていたんだと痛切に感じます。当時先生は32か33歳くらい。その歳で世界中のコンテンポラリーアートを同時に目撃し、そしてこの本を書いたということなんだなと、改めて考えさせられました。
 当時圧倒的な魅力で全世界を魅了していたアメリカのアートをまず冒頭に持ってきて「ニューヨーク」という章で語った後、編は「ローマ」「ベルリン」「パリ」「東京」と続きます。まだ壁の時代だから「ベルリン」の章は一番暗い。そしてラストは現在との対話として横尾忠則氏と大竹伸朗氏との対談で〆ています。
 当時コンテンポラリーアートを扱ってこんな離れ業をやれる人は世界中でも伊東先生しか多分いなかったのでは。まだまだ世界はそれぞれ自分の歴史の延長を生きていて、今日のように同じ時間を生きてはいなかったから。そしてこの本が、最先端の思潮として最終的に論じているのが、ニューペインティング。様式的には20世紀初頭のドイツ表現主義に似ているものはあるが、別物だと強調しています。1985年当時のアートシーンのとらえ方として、これ以上の識見がありうるかな・・・。素晴らしい。ていうか、本のまとめ方、展開の仕方としてとにかく美しいと思います。
 細かい話をすれば、小生は思想的背景は理解できても、ダダやミニマルアートは嫌いです。ダダは建設的要素がなく破壊的。ミニマルアートは、すかして思わせぶりで中身は何にもない。(中身が何にもないことが大事だったようだが)。しかし先生は、これら思潮が果たした歴史的役割にも適切な評価を与えているのでした。
 苦言を少々。この本もせっかく素晴らしい内容なのだからもっと沢山の(この5倍くらい)図版を入れて欲しかった。できれば5冊ひと組の分冊の画集にして欲しかったな。(今からでもできる!)取り上げられている作家の多くが、作品の図版がわずかなので、読後にフラストレーションが残ります。そもそも画集は画像があってなんぼの世界。80年代は雑誌全盛の時代で、美術雑誌にも力があったから名前だけで同時代人には通じる素地はあったのですが、やはり時代を超えて読み継がれていく本としては、単体ですべてを語っていて欲しい。35年も経過すると、そんな余計なことも考えてしまいます。
 KAZU一押しのお勧め本。


看板写真のお話

2021-11-07 11:32:12 | 日記

「貴方のお部屋に異空間」本格稼働です。これからMarchel出品作の紹介をはじめ、幾つかのテーマに添いblogを綴っていきますのでよろしくお願いします。看板に使っている画像は、原宿駅を出たところの表参道を、かつて手前の交差点にあった歩道橋の上から撮影した画像です。(歩道橋がない現在ではこの角度からは撮れません。)

原宿駅は通勤でよく利用していましたので、この歩道橋の上から見た景色は好きでした。そこは知る人ぞ知る渋谷の観光名所の1つ。人出の多い土日などにこの歩道橋に上ると、「シャッター押して」と頼まれることもしばしば。いつも若い女性がすずめのようにとまって携帯で写真を撮っていました。外国人も大勢来ていたように思います。
商工観光課で仕事でもお世話になった渋谷生まれの写真家 佐藤豊先生が「街の写真は少し高い位置から撮ると奇麗なんだ」と教えてくれたことを思い出します。先生は助手に脚立を持たせて撮影に回ったり、渋谷の交差点であおむけに寝て魚眼レンズで空を撮影し、周囲のビルが外周部に見えるようなかっこいい写真も撮影しています。先生の言葉は重い。「少し高いところから撮影した街は美しい」というのは小生も同感です。

こんな素敵な歩道橋だったのですが、怪しい雲行きにさらされるようになります。「高齢者や障害者は階段を登れないし、歩道橋なんてバリアフリーの考え方になじまない」「老朽化が激しい」「歴史的使命は終わった」また、近所の商店会からも撤去の要請が寄せられていたとのことです。

なんか変ですね。歩道橋が高齢者や障害者の邪魔をしているわけではないし、高齢者や障害者のための設備は歩道橋とは別に考えればいい。それに設置されたのは高度経済成長期の1960年代とはいえまだまだ使える。老朽化は方便ではないか。歴史的使命は何をもって「終わった」というのか。今も果たしているのに、などといろいろ反論を考えてしまいます。

小生は絵を描く人なので、あの歩道橋は、「単にベージュ色が若干目障りだった」ためにいろいろ言われたんじゃないだろうか・・・・と考えてしまいます。本体がベージュ、手すりが水色だった。これがこげ茶色だったら目立たず、何も言われなかったのでは。


 結局歩道橋は2014.01.26に取り壊されました。苦言を言っていた人は、文字通り、「歩道橋の立場に立って」ものを考えたことがあるのかな?当時小生はそんなふうに考えたものです。