kazzdokkのひとりごと

酒呑みの翁の日常の出来事

討ち入り

2010年12月11日 | Weblog

300年ほど前の元禄15年(西暦1703年)12月14日、大石内蔵助を筆頭に赤穂四十七士は吉良屋敷へ討ち入り、主君の仇である吉良上野介の首を取った。

昔はこの時期になると必ず「忠臣蔵」がTVで放映されていたが、最近はTVではなく無料動画Gyao!で「赤穂浪士」と「忍法忠臣蔵」の2作品が配信されている。
両方の映画を観たら何だか急に歴史の現場検証に出かけてみたくなった。

茶系の着物に雪駄履きで、目指すは吉良邸討ち入り現場。
両国駅から5分ほど歩くと何やら凄い人出である。どうやらこの時期に合わせて地元のイベントが開催されているようだ。



 

今でこそ狭い吉良邸跡地ではあるが、当時は2,550坪という広大な敷地だったという。
ここには吉良上野介の碑があり、忠臣蔵に関わる浮世絵や、四十七士の名前等も掲げられている。

吉良の首を取った赤穂浪士総勢四十七名は、朝6時半頃ここを出発し、11キロ離れた主君の眠る品川泉岳寺到着は9時頃であったそうだ。雪駄で3時間歩くのはちと辛いので電車に乗リ込む。

泉岳寺の入口には赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助の像があり、境内の左手の方に進むと、ここで吉良の首を洗ったとされる首洗井戸がある。




 

井戸の前を更に歩いていくと浅野内匠頭と赤穂四十八士?の墓がある。
ひとつ多いのは討ち入り前に無念の死を果たした義士のものであるとのことだ。
墓の後ろの立札に書かれた名前と年齢を見ると10代の若者もおり、この討ち入りで主君の無念を晴らした翌年2月4日に切腹・殉死した。

 

松の廊下刃傷事件の原因は吉良上野介が強欲でよほど陰険だったのか、浅野内匠頭が気働きができない短腹だったのかは分からないが、主君や老家臣たちの行動に翻弄された若い浪士が不憫に思えてならなかった。

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