シルバーウィークが無事に終わって、学校に登校した次男君が『明日~沖縄から転校生がくるんだよ~どんな子かな?話しかけられるかな?仲良くなれるかな?』ってすごく楽しみにしている様子を見て・・・・
私もそう思われていたのか?ってちょっと思い出して見ました。
私は、横浜の神奈川区というところで育ちました。電車の最寄り駅は東横線の妙蓮寺というところ、生まれたときは川崎でしたが、物心つく前に越してきました。
長男だった父と、母と弟と。父の兄弟と、父の母と大家族でした。
小学校は学区内の学校に入学しました。幼稚園は保育園に行っていたので、親の職場の近くで同じ小学校に一緒にいくお友達は居ませんでした。
小学校2年の終わりまで、入学した横浜の小学校で過ごしました。
大家族だった我が家は、私たち家族とおばあちゃん(父の母)との折り合いが良くなくて。父は母の事を考え横浜を出ることになりました。
母の実家が伊豆大島だったので、私と母と弟は大島に、父は理容師なので、神奈川に残り、生計が立つめどがついたら私たちを迎えに来てくれるという約束で、1年間、離れて暮らしました。
そのとき私は1回目の転校を経験しました。
横浜のマンモス学校とは違い、大島の小学校は全校の生徒数も少ないし、私が入った3年生はたしか・・・10人居たかいないか・・・だったと思います。
30数年前の大島は本当に田舎でした。
10人足らずのお友達でも、仲良くなって1年。4年生にあがるときに、父が生活のめどをつけて、私たちを迎えに来ました。
次は、神奈川の藤沢です。
転校は2回目なので自己紹介も慣れていました。学年が変わるとき、職員室には数人の転校生が居たのを覚えています。
私は白いブラウスに、紺のひだスカート、しろのハイソックスでちょっと見、制服のようなスタイルで登校したことを覚えています。
教室の黒板の前で、名前を書かれ自己紹介もしました。
どこから来たの?とかどこに住んでるの?とか友達が群がったのを覚えています。
仲良しもすぐにできて、心配ないほどなじんでいました。
5年になったらクラス替えがありました。先生も変わり、友達とも離れてしまいました。しばらくすると・・・学校に行くと具合が悪くなるという症状が現れて、特に給食室から匂いがしてくると、吐き気がして頭が痛くなることが増えました。
ほとんど給食は保健室で食べる・・・というか運んでもらう状態でした。
ひどい日は、登校しようとすると激しい頭痛が襲いいけなくなり、熱も急に出てきます。休むことになるとケロッと治るんです。
それでも母は無理やり学校に行きなさいとは言いませんでした。
体を心配して精密検査を受けました。でもどこも悪いところがなかったのです。
担当の先生が「学校で嫌なことがあるんじゃないですか?」と切り出し。私は学校は好きだったのに、精神的に転校と家庭の事情などで、今で言うと「鬱」状態になっていたんでしょう・・・・。
病院で診てもらい、自分でも安心したためか・・・その後頭痛や吐き気が起こることがなく、ちゃんと登校できるようになりました。人数編成で6ねんでもクラス替えがあって、仲良かった友達とまた一緒になれた6年せいのときは活発にいろんなことをしました。友達から・・・「転校してきたとは思えない、はじめから居たみたいだね・・・」って言われました。良いか悪いか・・・「すごく頭がよさそうに見えたよ~転校してきたとき・・・」って言われたけど・・・。
違ったんだな・・・・印象と・・・・。まあいっか!
小学校卒業と同時に、藤沢から茅ヶ崎に引っ越すことになり、みんなと同じ中学にはいけませんでした。
しらない人ばかりの中学に入学しましたが、部活を通して、たくさんの先輩や後輩、同期の仲間に出会って、中学校から初めて友達になったとは思えない・・・とよく言われました。小学校のとき居たっけ?って聞かれてたもの・・・・。
入学して卒業したのは中学校だけでした。
高校は県立の高校に入りましたが、2年になるときに大島の親戚からこっちに床屋の店がついてる建てて間もない家を売りたいという人が居るんだけど、買わないか?」と話をいただく・・・・。
高校転校になるため、親も慎重でした。
私が行かないって言ったら、やめると。もうこれ以上転校をさせるのは親の都合でも犠牲にしたくないといっていました。
彼氏もいたし本当は行きたくなかった気持ちもあったけど、わたしの意見でいけないのも嫌だった。
転校の道を選んだ。
小学校3年のときに大島で同じクラスだった子と、ずーっと文通をしていた。
その中で行くかもしれないって書いたら、また一緒になるんだねって喜んでくれて、知らない人ばかりではなく、1年間一緒に過ごした友達も居るし、覚悟を決めて転校を選びました。
卒業したら東京に一人出してくれる約束で。
最初は寂しかったし、彼氏とも別れないで来たから、どうしたものか?と悩みました。今みたいに携帯やメールができる時代ではないので文通です。文通と電話が繋げてくれてました。それが一番つらかったかな?結局2ねんの夏に遊びに来てくれたけど、帰すのも寂しかったし。お互い寂しさが増しちゃって・・・お別れ。嫌いじゃないけどのパターンでしたね。
転校って自分を変えるチャンスなんですよね。
意見言うのが怖くて引っ込みじあんだったなら、そんなの誰も知らないんだから新しい自分になって、自分からかかわっていこうかな?とか・・・
泣き虫って思われていたけど、今度はそうならないようにしてみようかな?とか。
キツイ性格で引けなかったから、優しくなってみようかな?って・・・・
誰も知らないんだもん・・・
かえるチャンス到来でしょう!
私はたぶん5年生の登校できなくなったときを除けば・・・
そうやって自分を変えながら楽しみに変えて乗り切ってきたんだと思うんです。
色んなところに今でも友達がたくさん居ます。
ネットの中でも、ずいぶん同級生と出会いました。
ブックマークに『同級生』となっいてる人たちは。それぞれの場所での同級生。
トンボちゃんは横浜の小学校で同じクラスだった子
NONちゃんは神奈川の高校で同じクラスだった子
げんちゃんは大島の高校で同級生だった人・・・・
内部のSNSでも数人、藤沢の小学校だった人・茅ヶ崎の中学校だった人・専門学校が同じだった人・・と再会しています。
転校は大変だったけど・・・・
私は良い思い出とたくさんの友達ができたので、良かったよ。
ただ・・・・・
「転校生どんな子だろうね~」という期待には添えなかったかも知れないけど・・・
私もそう思われていたのか?ってちょっと思い出して見ました。
私は、横浜の神奈川区というところで育ちました。電車の最寄り駅は東横線の妙蓮寺というところ、生まれたときは川崎でしたが、物心つく前に越してきました。
長男だった父と、母と弟と。父の兄弟と、父の母と大家族でした。
小学校は学区内の学校に入学しました。幼稚園は保育園に行っていたので、親の職場の近くで同じ小学校に一緒にいくお友達は居ませんでした。
小学校2年の終わりまで、入学した横浜の小学校で過ごしました。
大家族だった我が家は、私たち家族とおばあちゃん(父の母)との折り合いが良くなくて。父は母の事を考え横浜を出ることになりました。
母の実家が伊豆大島だったので、私と母と弟は大島に、父は理容師なので、神奈川に残り、生計が立つめどがついたら私たちを迎えに来てくれるという約束で、1年間、離れて暮らしました。
そのとき私は1回目の転校を経験しました。
横浜のマンモス学校とは違い、大島の小学校は全校の生徒数も少ないし、私が入った3年生はたしか・・・10人居たかいないか・・・だったと思います。
30数年前の大島は本当に田舎でした。
10人足らずのお友達でも、仲良くなって1年。4年生にあがるときに、父が生活のめどをつけて、私たちを迎えに来ました。
次は、神奈川の藤沢です。
転校は2回目なので自己紹介も慣れていました。学年が変わるとき、職員室には数人の転校生が居たのを覚えています。
私は白いブラウスに、紺のひだスカート、しろのハイソックスでちょっと見、制服のようなスタイルで登校したことを覚えています。
教室の黒板の前で、名前を書かれ自己紹介もしました。
どこから来たの?とかどこに住んでるの?とか友達が群がったのを覚えています。
仲良しもすぐにできて、心配ないほどなじんでいました。
5年になったらクラス替えがありました。先生も変わり、友達とも離れてしまいました。しばらくすると・・・学校に行くと具合が悪くなるという症状が現れて、特に給食室から匂いがしてくると、吐き気がして頭が痛くなることが増えました。
ほとんど給食は保健室で食べる・・・というか運んでもらう状態でした。
ひどい日は、登校しようとすると激しい頭痛が襲いいけなくなり、熱も急に出てきます。休むことになるとケロッと治るんです。
それでも母は無理やり学校に行きなさいとは言いませんでした。
体を心配して精密検査を受けました。でもどこも悪いところがなかったのです。
担当の先生が「学校で嫌なことがあるんじゃないですか?」と切り出し。私は学校は好きだったのに、精神的に転校と家庭の事情などで、今で言うと「鬱」状態になっていたんでしょう・・・・。
病院で診てもらい、自分でも安心したためか・・・その後頭痛や吐き気が起こることがなく、ちゃんと登校できるようになりました。人数編成で6ねんでもクラス替えがあって、仲良かった友達とまた一緒になれた6年せいのときは活発にいろんなことをしました。友達から・・・「転校してきたとは思えない、はじめから居たみたいだね・・・」って言われました。良いか悪いか・・・「すごく頭がよさそうに見えたよ~転校してきたとき・・・」って言われたけど・・・。
違ったんだな・・・・印象と・・・・。まあいっか!
小学校卒業と同時に、藤沢から茅ヶ崎に引っ越すことになり、みんなと同じ中学にはいけませんでした。
しらない人ばかりの中学に入学しましたが、部活を通して、たくさんの先輩や後輩、同期の仲間に出会って、中学校から初めて友達になったとは思えない・・・とよく言われました。小学校のとき居たっけ?って聞かれてたもの・・・・。
入学して卒業したのは中学校だけでした。
高校は県立の高校に入りましたが、2年になるときに大島の親戚からこっちに床屋の店がついてる建てて間もない家を売りたいという人が居るんだけど、買わないか?」と話をいただく・・・・。
高校転校になるため、親も慎重でした。
私が行かないって言ったら、やめると。もうこれ以上転校をさせるのは親の都合でも犠牲にしたくないといっていました。
彼氏もいたし本当は行きたくなかった気持ちもあったけど、わたしの意見でいけないのも嫌だった。
転校の道を選んだ。
小学校3年のときに大島で同じクラスだった子と、ずーっと文通をしていた。
その中で行くかもしれないって書いたら、また一緒になるんだねって喜んでくれて、知らない人ばかりではなく、1年間一緒に過ごした友達も居るし、覚悟を決めて転校を選びました。
卒業したら東京に一人出してくれる約束で。
最初は寂しかったし、彼氏とも別れないで来たから、どうしたものか?と悩みました。今みたいに携帯やメールができる時代ではないので文通です。文通と電話が繋げてくれてました。それが一番つらかったかな?結局2ねんの夏に遊びに来てくれたけど、帰すのも寂しかったし。お互い寂しさが増しちゃって・・・お別れ。嫌いじゃないけどのパターンでしたね。
転校って自分を変えるチャンスなんですよね。
意見言うのが怖くて引っ込みじあんだったなら、そんなの誰も知らないんだから新しい自分になって、自分からかかわっていこうかな?とか・・・
泣き虫って思われていたけど、今度はそうならないようにしてみようかな?とか。
キツイ性格で引けなかったから、優しくなってみようかな?って・・・・
誰も知らないんだもん・・・
かえるチャンス到来でしょう!
私はたぶん5年生の登校できなくなったときを除けば・・・
そうやって自分を変えながら楽しみに変えて乗り切ってきたんだと思うんです。
色んなところに今でも友達がたくさん居ます。
ネットの中でも、ずいぶん同級生と出会いました。
ブックマークに『同級生』となっいてる人たちは。それぞれの場所での同級生。
トンボちゃんは横浜の小学校で同じクラスだった子
NONちゃんは神奈川の高校で同じクラスだった子
げんちゃんは大島の高校で同級生だった人・・・・
内部のSNSでも数人、藤沢の小学校だった人・茅ヶ崎の中学校だった人・専門学校が同じだった人・・と再会しています。
転校は大変だったけど・・・・
私は良い思い出とたくさんの友達ができたので、良かったよ。
ただ・・・・・
「転校生どんな子だろうね~」という期待には添えなかったかも知れないけど・・・