SF映画の金字塔
2001年宇宙の旅
ウィキペディア『2001年宇宙の旅』より引用させていただきます。
実存主義、人類の進化、科学技術、人工知能、地球外生命体の可能性などをテーマに、未知の存在モノリスを発見した人類が、人工意識を持つコンピューターHALと共に木星に向かう航路で勃発した事件を描いたサスペンス。
4K/BD【予告編】『2001年宇宙の旅 HDデジタル・リマスター』
2001: A Space Odyssey (1968) - 'The Blue Danube' (waltz) scene [1080p]
生成AIの進化と人類の退化|スマナサーラ長老の切り抜き法話(初期仏教Q&A)#ChatGPT #IT社会 #jtba
(以下、青字は動画中の言葉の引用。黒字はおれの感想です)
0:30
ChatGPTには瞑想できませんからね。
(引用終)
人間は(AIには原理的にできない)瞑想ができる能力を本来持って生まれてきてるのに、貪瞋痴で捏造した「瞑想できない自分」に腰を落ちつけて動かない。おれが冗談に「世人はAIの出来損ない」と言ってるのは、そこのところに気づいて奮起してほしいからだ。
秒進分歩のAIに関して、
佐々木閑先生が有益な考察を発信してくれてます。
生成AIに関する新しい動画です。怪しい教祖様も登場します。
6:23
……考えてみますとね、AIは初めから自分自身を苦しめるような要素は持ってないわけですから、AIというものの存在は実はもうその壊れていないという意味では悟ってるんじゃないかと。
つまり我々が悟りに向かっていくというのは、実はAIのような状態に向かって進んでいくだけなのであって、AIというものは最初から悟った状態でいるじゃないかと。
まあちょっと逆接的なんですが、私そういうことを思いましてね、なるほどこれは自分でも面白い考え方だなと、なかなかいいこと思いついたじゃないかと思って、ちょっと嬉しくなったんです……
(引用終。強調は私です)
人間は本来、瞑想ができる能力を持って生まれてる。
しかし現実には、大多数の人間は貪瞋痴で捏造した「瞑想できない自分」にへたりこんで動こうともしない。
これでは、佐々木先生が指摘してるように、こんな放逸な世人より、AIの方がよほど悟りに近い存在だという逆説が成り立ってしまう。おれが「世人はAIの出来損ない」と言ってるのも、もはや冗談じゃなくなる。
おい!目覚めてくれよ!
スマナサーラ長老の法話 0:38
あのシステムプログラムは、この人間の脳みそが働く同じ仕組みで、プログラム組み立てているんです。だから人間がびっくりするんですよ。だから瞬間で100万通りのデータプロセスにできるという。
我々もそういう風にやってますよ。瞬間で大量のデータを脳の中で処理しているんです。あれも概念を使ってるんだから。自分たちは、我々は遅いと思ってるんだけどね。
例えば、目を閉じて、私は目を開ける。開けたらカメラ 見えるでしょ。これ、カメラと認識するために莫大なプログラムが働くんです。
でも一秒の百分の一、もっと早いでしょう。だから、この脳のニューロンネットワークシステム、同じですからね、何となくみんなびっくりしますけど。
だから大した事ない、あれは。今の時点で私から見ればね。
(引用終)
たしかに脳の処理能力は凄い。それは確かだ。しかし、生成AIはAGI、ASI……と加速度的にスケールアップしてくから、情報の量的処理能力はじきに人間を超える、いやもうすでに超えてる。
だから、情報の質的処理能力としての瞑想を体得することは、今や人間すべての焦眉の急だとおもう。
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
4:58
…進化の、これ以上無理っていう所になったって事です。すぐ退化が始まるんです。その波は、お釈迦様が仰ったとおりにね、ズーっと上がって、次に下がって、また上がって、また下がって…
だから我々は今、恐らく経験してるのは、人間の進化の頂点かも。これから人間が退化するんです。私は若者見ると、相当退化してると見えるんです。
でも、本人たちは我々よりすっごい優れてると思ってるんだけどね。
(引用終)
大多数の人間が
情報の質的処理能力としての瞑想を体得することが結局できず、そのためかえって居直って、貪瞋痴で捏造した「瞑想できない自分」を図々しく誇り、自分たちへの批判をすべて「冷笑主義」と荒っぽく断じ、AI的なものすべてに盲目的恐怖を懐き無差別攻撃しだすかもしれない。
これから人間が退化するんです。私は若者見ると、相当退化してると見えるんです。
でも、本人たちは我々より すっごい優れてると思ってるんだけどね。
(引用終)
まあ…同感です。SNSなんか見てると、その兆しが顕著だもの。弱い者いじめだけで足りず、強い者いじめまで始まってる始末だ。
人間が、仏説通りの退化ステージに入ってると仮定すれば、それもこれもあれもすべて納得ですわ。目覚めてくれ!っていくら叫んでも、水に沈んでく石に「浮き上がれ!」って言ってるようなもんで、届かんわ。
もっとも、本物の芸術家が山師の一面を兼ねるのはなんら悪いことではなく、むしろ必然だ。
自分の作品を100%理解して作り上げるのは単なる職人であって芸術家ではないからだ。
「作ったものの、自分でもよくわからない代物で」と正直に認めたくなければケレン味で撹乱するしかない。それは作品自体の中でもおこなわれる。
共同制作者アーサー・C・クラークは
続編 2010年 ボーマンからの警告 【日曜洋画劇場】