朝
玉子とカニカマの具でサンドイッチ。
今日も所用で隣町へ。
昼は定番のスシローで。
今日1日、ながら聴きした朗読.MP3は
大木雄二「おしゃかさま」
【朗読】大木雄二「おしゃかさま」
この子供向け?の仏伝では、なぜか重要な部分が作為的に伏せられてる。
正しい仏伝によると、悟って7週間の準備の後に
「わたしが悟った甚深微妙難見の法を世間は到底理解しがたい。法を説いても、わたしがいたずらに疲労困憊するだけだ」
とおもうブッダに、梵天が
「世間には、法を聞かなければ退堕してしまうが、聞けば悟る可能性のある者もいます。この者たちを見捨てないでください」
という意味のお願いをした。
ブッダはこれを是とし
「耳ある者に甘露の門は開かれた」
と宣言し初転法輪を決意したとある。
この部分は有名かつ重要で省略不可だ。
つまり、ブッダは悟った当初から、人類全員を救うなどと一言も言ってないのだ。みんな一斉に救われたらみんなハッピーかもしれんが、それは絶対にありえない。
滅後の無責任な信徒達がブッダを騙って、全員救うとか、すでに救われてるとか世迷言を繰り返してるだけだ。
ブッダは先駆者として、真理に至る正しい道程を教え、
「ひとりひとり実際におこなって、確かめることによって納得せよ」と説いた。
人の値打ちは「信仰より実際の行為」で決まると、ブッダは説いた。この場合の行為とは「自分で実際におこなって確かめる」=今ここを体得する修行を意味するとおもう。
放逸な人達は馬の耳に念仏で、ブッダの教えは一方から他方に抜けて留まらず、自業自得で苦に夢中だから、救われる道理がない。
ちなみに、今読んでるドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」は、非常に奇怪なことに、すべての人々が救われるべきことを自明の前提にした上で物語が進んでいく。ところが、ユダヤ・キリスト教の神は、全員救うなどと旧・新両聖書の始めから終わりまで言ってない。だから、この小説は、恣意的に混乱したクソミソ話になってる。
斧は既に木の根元に置かれている。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
(マタイ福音書3・10)
夜
パンカレーに飽きて、普通のライスカレー。
と、何度も作ってる自家製甘酢大根詰ちくわ。
生大根のパリっと感がちくわと一体になって、別々に食べるより美味しい。
これを、youtube参考に唐揚げにもした
のだが、加熱で大根のパリっと感が消えた。
手間かけて不味くするパターン(料理下手アルアル)
これは、高温油でサッと衣だけ揚げればよかった。
(My Favorite Songs)
【歌詞日本語訳】The Rolling Stones - Sympathy For The Devil ‘‘悪魔を憐れむ歌‘‘