多くの若者が一生非正規の仕事にしかつけない現実がある。
将来への不安から少子化が進むのは当りまえだ。
団塊の世代の老人は、若者のことや将来の日本のことなど考慮していない。
考え心配しているのは、自分のことだけだ。
しかし、今若者の人間も、老人になれば同じことをする。
それが普通の人間の、最も普通の利己的な生き方だ。
これは、獣の生き方と、何ら変わらない。
生き方において、
本能の奴隷である獣には、選択の余地がない。
(選択の余地のない所には罪もない)
しかし、
自由な人間は、自ら望んで獣の生き方を選択している。
これに関して、ショ-ペンハウアーはくり返し言っている。
生れたままの個人のまなざしは、マーヤーのヴェールに曇らされている、と。
この意味は二つある。
1 自分の存在と重要さを盲信するいっぽう、自分以外の存在と重要さを本当には信じていないのが人間の自然状態である。
2 このような自他を敵対するもの、というより事実上真に実在しているのは自分だけだとみなし、外界の存在をすべてたんなる表象にすぎないものとして、その重要さを軽視する動物的な限定されたエゴイズムは、錯覚なのだ。
人間の常態と、それが錯覚であるということ。
これを「個別性の迷妄」と呼ぶ。
(ショ-ペンハウアーによれば、自然が全体として示す盲目のエゴイズムがすでに錯覚である。だから、この個々の存在者が示す自己に限定されたエゴイズムは二重の錯覚である)
しかし、
なんと強固な錯覚であることか!
頭で錯覚だと分かっても、
なまじなことでは抗えないのだ。
※「人間の常態」
自然状態の人間を、普通に表から見ると「無反省な実在論」だが、同じそれを裏から見ると「無反省な独我論」なのである。
(ショ-ペンハウアーの主著「意志と表象としての世界・正編」第六十一節。西尾幹二訳・中央公論社)から引用させていただきます。
いかなる個人といえども無限の宇宙に比すればほとんど無にも等しいほど小さく、今にも消え入りそうな存在であるにすぎないのに、それにもかかわらず各自があえて自分を宇宙の中心だと考えて、自分自身の生活と幸福とをほかのなによりもまず先に願慮し、いや、それだけにとどまらない、自然のままの立場にいるときには、彼は自分の存在のためとあらば、ほかのあらゆるものを犠牲にしてもよい覚悟であるし、自らは大海のなかの一滴にすぎないというのに、自分の自我をほんの少しでも長く保持するためならあえて全世界の絶滅をも辞さないという心がまえでいる
(引用終。強調は私です)
自分の自我をほんの少しでも長く保持するためならあえて全世界の絶滅をも辞さないという心がまえでいる←これを自己の問題として捉えずに他人事とするなら、いくら考えても時間の無駄になるとおもう。