佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その7」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ) - YouTube
動画10:30頃より
煩悩まみれの五蘊の中にも…煩悩を取り去るプログラムが入ってるんだと。…
それを信じるということが、仏教を信じるということです。
〔以上〕
〔感想〕
阿難尊者に釈尊が与えた
最期の説法は
自灯明
法灯明
であった。
釈尊は「私を信じよ」とは言ってない。
もちろん、世の宗教のワンパターン「神を信じよ」乃至「神の使者を信じよ」とも言ってない。
しかも、「法灯明」より「自灯明」が先だ。
自分を信じない人間は、
正しいことがなにひとつできないからだ。
人間は、
まず自分を深く信じなければならないのだ。
人は誰でも、ありのままの自分を信じて自分を好きになり、自分を励まし、自分を自分で褒められる生き方をすべきだ。
ありのままの自分を信じるとは、自分をそのままで放って置いてよいという意味ではない。
大多数の人間は、五蘊を自分だと妄想してるので、
もちろん、権力者に死活をコントロールされるよりは、業の肯定で動物的に生きるほうがずっとずっとましだが。
とはいえ、
病なんの処にか在る。
病は不自信の処に在り。
(臨済禅師)
「修行が進まないのは、お前が自分を信じないからだ」
と臨済禅師は断言してる。
釈尊の「自灯明」の重要さを説いてるのだ。
釈尊は「自灯明」と示し、臨済禅師は「病は不自信の処に在り」と断じて、自分を信じることの重要性を説く。
語録の王といわれる臨済禄は、
全編ほとんどそれしか書いてないと、おれはおもう。
自分は意志が弱いからダメだと思ってるのに、なんとなくそのままにして生きてる人は、自分を信じてる状態ではない。
意志の弱い自分を丸ごと心底信じきるか、それが無理なら(普通無理なんですが)一度やると決めたことをできるだけ実行することで、信じることができる自分に日々少しずつ近づく努力を続ける。
続けてさえいれば、それはほぼ自分を信じてる状態に等しい。
自分を信じることができた時、自分の意志が弱いとか強いとか気にしない人間になってるとおもう。
普通無理な丸ごとの自分を心底信じきるという「神速の一手」を使えるのは、自分の生まれつきの気質を変えようとせず、その特質をそのまま純化する(できる)人に限るともいえる。
つまり、生まれつき下意識で自分を深く信じてる人間だけが、「神速の一手」を使って覚醒した自信に帰着できるということだとおもう。
もっとはっきり言うと、
人間は、自分を深く信じて生まれてくる人間と、そうでない人間の2種類しかいない。
そして、自分がどっちの人間かは、実際に「自分の特質をそのまま純化する」を本気でやってみた末に初めて分かる。
一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。それをどうして見失うたか。━━世間の見本が悪いからじゃ。常識といい、社会意識といい、党派根性といい、一切合切みんな見本が悪すぎる。よく人々は位の高い人をたくさん並べて、だれがいちばん偉いだろうなどと言うが、そんなひがんだこと言わんでも良い。私はいつも「おれだ」という。「なんだあんな乞食袋を下げて…」と他人は言うかもしれないが、しかしおれは他人の鼻を借りて息をしておらん、おれはおれの鼻で息をしているんだ。自己を冒涜せず、自己を極度に発揮するのが成仏と言うのだ。
そして仏遺教経によると、
釈尊は遺言として一代の説法の真髄
不放逸
を簡潔に説き
汝等比丘、常に当に一心に出道を勤求すべし。一切世間の動不動の法、皆な是れ敗壊不安の相なり。汝等且く止みね。復た語を得ること勿れ。時、将に過ぎなんと欲す。我、滅度せんと欲す。是れ我が最後の教誨する所なり
と言って、静かに亡くなられた。
感動してるのは、おれだけか?
(My Favorite Songs)