(ブッダの真理の言葉ダンマパダ 中村元訳)より引用させていただきます。
自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。
財をも国をも望んではならぬ。邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。
(道にかなった)行ないあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。
(引用終)
財をも国をも望んではならぬ。邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。
(道にかなった)行ないあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。
(引用終)
釈尊には出家前につくったラーフラという子があります。ラーフラは後に見事十大弟子の1人に成長している。そのうえでの発言です。
「自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ」この教えは出家に示されたものです(いうまでもないが、ラーフラは子を望まなかったし実際つくりませんでした)つまり釈尊は在家に同じことは言いませんでした。在家信者から「私はすでに子がありますが、悪いことなんですか」と訊かれたら「気にするな。私にも子がある。起きたことはつきつめて悩まず受け入れよ」と言ったとおもいます。しかし、だからといって、世間にすっかり調子を合わせて「子が生まれるのは、めでたいことだ。もっとセックスに励め」とは言わないのです。いくら在家相手でも。なぜでしょうか。
どこの修行道場にも「生死事大」と示されています。人生で一番大事なことは、生死の問題を明らかにすることだ、という意味です。このポイントだけは全身全霊でつきつめないと、どうしようもない。仏教の入り口ドアが開かないから。
「釈尊の教えに従えば人類は滅びてしまう」と非難する人がいます。こういう口先だけの人はいつでもたくさんいます。いくら釈尊の説教を聴いても、人類がセックスを止められるわけないので余計な心配しなくて大丈夫です。だから「人類」に説法するような無駄を釈尊はしませんでした。…説法は、男とか女とか人類とかに関係ない個人にします。変われるのは個人だけだからです。
死ぬのは人類ではなく、自分が独りで死ぬのです。
どこの修行道場にも「生死事大」と示されています。人生で一番大事なことは、生死の問題を明らかにすることだ、という意味です。このポイントだけは全身全霊でつきつめないと、どうしようもない。仏教の入り口ドアが開かないから。
「釈尊の教えに従えば人類は滅びてしまう」と非難する人がいます。こういう口先だけの人はいつでもたくさんいます。いくら釈尊の説教を聴いても、人類がセックスを止められるわけないので余計な心配しなくて大丈夫です。だから「人類」に説法するような無駄を釈尊はしませんでした。…説法は、男とか女とか人類とかに関係ない個人にします。変われるのは個人だけだからです。
死ぬのは人類ではなく、自分が独りで死ぬのです。
ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、──意識を失い、無用の木片のように、投げ棄てられて。
(同ダンマパダより)
(同ダンマパダより)
事実そのままを言ってるだけです。釈尊ともあろう至高賢者がなぜ「こんなわかりきったこと」を言わないといけないのでしょうか。
人々が誰も死の事実をちゃんと受け入れずに迷っているからです。
人生の問題を解決する唯一の方法は、幻想を捨てて事実を明確に認めることです。
自分は死を超えられないとはっきり認めたうえで、でも死にたくないと悩むならまだましなのです。少なくとも正直ですから。
人々が誰も死の事実をちゃんと受け入れずに迷っているからです。
人生の問題を解決する唯一の方法は、幻想を捨てて事実を明確に認めることです。
自分は死を超えられないとはっきり認めたうえで、でも死にたくないと悩むならまだましなのです。少なくとも正直ですから。
正直なら悟る可能性があります。
ほとんどの人は、死を不正直にごまかして、死んでも生きているんだと共同幻想して偽安心してるわけで、愚かさかげんはこっちのほうがずっと酷い。さあいよいよ死ぬというその時、それまでずっと欺いてきた事実からの報復は恐ろしいことになるからです。
不正直な人間が悟る可能性は0です。
人々は多いが、彼岸に達する人々は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。
(同ダンマパダより)
人々は多いが、彼岸に達する人々は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。
(同ダンマパダより)
[追記]
冒頭の教えは「子を望んではならぬ」とあるので、当然出家者に言われたものだとおもってました。在家信者にこんな無茶を言う釈尊じゃありませんから。しかし、あらためてよく考えるとなんかおかしい。釈尊在世当時の出家者に「子を望むな」って、そんな基本的注意をするだろうか。さらに当時のサンガに「財産や国家権力を望むな」と戒める必要が一般的にあったとも考えにくい(まあ、例外は提婆達多くらいか)。子も財も国も「邪なしかたによって」でなければ望んでよいと解釈する人もいますが、それならこの表現はないだろうとおもいます。……どうもよくわかりません。
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(過去記事編集再録)