悟りに必要な最低限の知識|スマナサーラ長老の切り抜き法話 - YouTube
動画よりスマナサーラ長老の言葉を引用させていただきます。
なにか現れたら、それは必ず消える
それだけおぼえてください。
森羅万象なんであろうとも
過去現在未来なんでも
現れたら消えます。
その理解は、預流果って言うんです。
シンプルでしょ。
消えていかないものはなにもない。
※
よりブッダの言葉を引用させていただきます。
地上における一国の王になることよりも、天上に至ることよりも、この世界の君主になることよりも、預流果のほうが優れている。
—ダンマパダ, 178
[感想]
人々は「無常は難しくない。分かる」と言い「すべて無常」を口先で簡単に認めるが、
「人生は無意味。一切は無価値」と聞くと「とんでもないことを。それは最悪のニヒリズムだ」と嫌悪し認めない。
また「人間皆死ぬ、そんなの常識」と言うくせに、自分が死ぬとは知らない。
死とは「人はみないずれ死ぬものだ」ということではない。そんなよそごとの話じゃない。
死とは、自分が、今、死ぬことだ。
こう言うと、おおかたはわからない。
仏教の本質は修行にある。それを考えればわかるかも。
「頭燃を払う」という。
頭についた火を必死で消すように修行しないなら、そんなものは修行ではないとブッダが教えているのはなぜか、一度真剣に考えてみるべきだ。
いつか死ぬのはわかってるが、今日明日の話じゃないとおもってるなら、どれだけ長生きしたところで、タイムリミットが来てアウトになる、大まぬけのパターンだ。
ことさらに自分が今死ぬとおもえ、ということとはまったく違う。
修行のテクニックや処世術じゃない。
そうではなくて、それが死ということの眼前の事実だ。
また「無常は認める」という彼らが「無常なるは苦なり」は認めてない。だって花火も シャボン玉も 楽しいからだ。
「自分」だけは無常じゃない
と妄想してる彼らは
自分のことは棚に上げて
無常を楽しがれるのだ。
同様に、無我を決して認めない。
この世界でこの上なく確実なものは「自分」だ
という沈潜した妄想があるからだ。
世間知は、
無我を蛇蝎のごとく嫌ってる。
「無常は苦」も蛇蝎のごとく嫌ってる。
無我と苦を断固拒否することで
無常の事実も拒否してる。
分かった気でそつなくふるまう自分のヤバさに、気づかない。口先で「無常くらい知ってるわ」と言うことによって、預流果から最も離れていく。
石火電光、目の前なれども、無常幻化なる事をしらず。
(鈴木正三禅師 盲安杖)
(My Favorite Songs)
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