ブッダは
四聖諦の超絶至高の価値
を明確に説いている。
から引用させていただきます。
(まず項目だけ )
四聖諦を知らずに苦から脱すことはあり得ない
四聖諦を知らないから輪廻する
四聖諦は変化を知らない不変のもの
凡人の感覚は常に四聖諦の教えと違う
世俗の餌に夢中の人は愛欲の話を好み、静かさの話を聞かない
四聖諦を聞くにふさわしいのは、洗浄した心だけ
まだ洗浄していない心が滅諦を見るのは非常に困難
(以上、実際の本文はブッダヴァチャナによる四聖諦「四聖諦に関して知るべきこと」を見てください)
そして、この後、次のように教えています。
(HP「ターン・プッタタート」ブッダの言葉による四聖諦・完全版の導入部4「四聖諦を知ることは不可能でない」より)
ヴァッチャさん。すべての漏が終わって漏が無いチェトーヴィムッティ、パンニャーヴィムッティに到達し、生きているうちに素晴らしい智慧で明らかにした私の弟子である比丘は、百人でなく、二百人でもなく、三百人でもなく、四百人でもなく五百人でもなく、実にたくさんいます。
ヴァッチャさん。すべての漏が終わって漏が無いチェトーヴィムッティ・パンニャーヴィムッティに到達し、生きているうちに素晴らしい智慧で明らかにした私の弟子である比丘尼は、百人でなく、二百人でもなく、三百人でもなく、四百人でもなく五百人でもなく、本当にたくさんいます。
ヴァッチャさん。白衣をまとった在家で梵行を行っている私の弟子である清信士の中に、サンヨージャナ(十結)の下の五つがなくなって、次の有で涅槃し、当然戻って来ない不還である人は、百人でなく、二百人でもなく、三百人でもなく、四百人でもなく五百人でもなく、本当にたくさんいます。
ヴァッチャさん。白衣をまとった在家でまだ愛欲を味わっている私の弟子、清信士で、教えに従って行動する人であり、教えに報いる人の中に、疑念を越え、疑念で「これは何ですか」と言う必要が無く、脅えがなく、他人を信じる必要がなく、教祖の宗教の梵行を行っている清信士は、百人でなく、二百人でもなく、三百人でもなく、四百人でもなく、五百人でもなく、実にたくさんいます。
ヴァッチャさん。白衣をまとった在家で梵行をしている私の弟子である清信女の中で、サンヨージャナ(十結)の下の五つがなくなって、次の有で涅槃があり当然戻って来ない不還である人は、百人でなく、二百人でもなく、三百人でもなく、四百人でもなく、五百人でもなく、実にたくさんいます。…
昔も今も、人間のクオリティに変化はない。
昔の男女ができた事は、今の男女も当然できる。
「今は末法だからできない」
は、ボンクラの妄語だ。
「ラヴ・センセーション」