ヴィパッサナー実践の持続には特別な活力が必要なのだが、それは苦聖諦を学ぶことでしか得ることができないからです。
人類の99%はそういう人間だ、昔も今も(たぶん)これからも。
ほとんどの人間は苦諦を知りもしないのに本能で毛嫌いする。
そのため、いくら頭がよくても、真昼の太陽のように明々白の事実に気づけない。
すなわち、誰もが例外なく、横道・脇道・隠場一切なしの逃げようなき1本道に、すでに立ってる事実に。
誰もが例外なく、横道・脇道・隠場一切なしの逃げようなき1本道に、すでに立ってる事実
に関して追記します。
いまだに究極奥義みたいに囁かれてる
そのままですでに救われている。
もともと初めから悟っている。
という妄語がそれです。
上記記事の表現とよく比べてください。
一部真実を含んでるが、明らかに誇大妄想解釈で、必竟修行逃れの言い訳でしょう。
上記表現から修行の必然性を取り除くと、彼岸で初めてできることを此岸でできてるという能天気な主張が現れるからです。
因みに、これは人類普遍の悪癖で、キリスト教の一部にも昔からしつこく繰り返されてる倒錯です。
あなたはありのままで神様に愛され救われています。あなたはこれを信じるだけで良いんですよ。
というやつです。
受け取り方によっては微妙っちゃ微妙ですが、でもこれはやっぱりダメでしょ。
人類普遍の宿痾ですから、イスラム教にも同趣の奥義めかした瑕疵がすぐ見つかります。
たとえば、イスラム大詩人ルーミーの一節に
神の部屋に入りたくて、ドアを必死で叩き
「開けて!開けて!」と泣き叫んでいたが、
ふと気づくと自分は初めから部屋の中に居た。
みたいな意味の詩があります。
これは、大乗仏教やヒンズー教やキリスト教の「本来本法性天然自性身」「梵我一如」「あなたはありのままで神様に愛され救われています。あなたはこれを信じるだけで良いんですよ」と同じバカ話のイスラム版でしょう。
おれはルーミー等が
一概に嘘を言ってるとはおもわないが、
結論としては真理であるが、(智慧)
前提としては自己欺瞞である(知識)
智慧知識問題に、まったく顧慮しない点で、
犯罪レベルのミスリードを
(結果として)犯してるとおもいます。
ブッダはそういうネタバレ話を推奨しなかった。お前も我慢すべきだろと言いたいだけです。
なぜ呼吸瞑想や坐禅をするのか。
結論としては真理だが、
前提としては自己欺瞞になる
[智慧知識問題]
を、なんとしても解決する必要があるからです。
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
禅には有名な
十牛図
の教えがあります。
おれは最初一通り聞いたとき、
さんざん苦労して悟ったら、元の状態に戻ってた
という話だと受け取った。
「なんだ、それ。やらなくてよい苦労をして、馬鹿じゃん」
と、おもったものだ。
これは、当時のおれに
智慧と知識の大違い
がまるで分ってなかったからです。
聖書にも、文脈は違うが、なんとなく十牛図を連想する教えがある。
心を尽くして知恵に近づき、
力を尽くして知恵の道を歩み続けよ。
足跡を追って、知恵を探せ。
そうすれば、知恵が見つかるだろう。
しっかりつかんだら、それを手放すな。
ついには、知恵に憩いを見いだし、
知恵は、お前にとって、喜びに変わるだろう。
(シラ書6・26~28 新共同訳)
聞いて分かった気になっても、それは知識にすぎない。
貪瞋痴は知識で分かっても消せない。
修練で体得する智慧によってはじめて消せる。
自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
(ヤコブの手紙1・22より)
同じ教えを、イエスの言葉のほうは、優しい揶揄が含まれてて、余裕を感じさせます。
今の時代を何にたとえたらよいか。
広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、
踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、
悲しんでくれなかった。』
(マタイによる福音書11・16,17 新共同訳)
大多数の人々は、智慧の教えを聞いて、情報として記憶して終わる。
あなたがたは、何を見に荒れ野に行ったのか。風にそよぐ葦か。
では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
(同11・7,8より)
知識は、
人がそれによって知ったかぶりになると
自滅させる危険物なのだが、
修練で智慧に育てると、得難い益となるものです。
学生道元が比叡山で勉強中に
本来本法性天然自性身
(人間は生まれながら、そのままで仏である)
と教わった。
道元は
それなら、なぜわざわざ発心修行する必要があるんですか。
と至極当然の質問をした。
ところが、まともに答えられる高僧が一人もいなかったという嘘みたいな話がある。
しかたがない、道元は自分で答えを探しに中国まで行った。
そして、ようやく見つけた答えが、これだった。
ちなみに僧きたりてとふ、風性は常に住して周からざるところ無きなり。なにをもてかさらに扇をつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住を知れりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理を知らずと。
僧いはく、いかならんかこれところとして周からざる底の道理。
ときに師 扇をつかふのみなり。
僧礼拝す。
…常住なれば扇をつかふべからず、つかはぬをりも風をきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。……
あおぐのを止めると風は消える。
衆生本来成仏であるが、修行しなければ仏性は現れない。
修行を止めると仏性も消える。
修行=悟り
が道元禅師の解答だったわけです。
「本来本法性天然自性身」←ナンセンス!!
と断じればそれで終わりだが、体制内改革者の道元禅師は諸方面に気を使って苦労が多い。
落とし所もいまいちスッキリ感のない玉虫色になってないですか?
本来本法性天然自性身は梵我一如とおんなじです。
永久不滅全能唯一絶対神(大我)と個々の不死の魂(小我)は一緒というヒンズー教の主張です。
梵我一如はブッダの悟りでも教えでもないのです。
大我と小我いずれも我に過ぎず、それが一如だとて何の意味がある?
ブッダはすべての我を虚妄と見抜いたんです。