【朗読】『カラマゾフの兄弟』9(第二篇 六)何のためにこんな人間が生きているのだ!
もし不死がなければ善行もありません
地球上には人間同士の愛を強制するようなものはけっして存在しない。人類を愛すべしというような法則はけっしてない。もしこの地上に愛があるとすれば、またこれまであったとすれば、それは自然の法則によってではなく、人が自分の不死を信じていたからである
人類から不死の信仰を滅ぼしてしまったならば、人類の愛がたちどころに枯死してしまうのみならず、この世の生活を続けていくために必要な、あらゆる生命力を失ってしまう。のみならず、その場合に不道徳というものは全然なくなって、どんなことをしても許される、人肉嗜食さえ許されるようになるというのです。まだ、そればかりではなく、現在のわれわれのように、神もおのれの不死をも信じない各個人にとって、自然の道徳律がこれまでの宗教的なものは全然正反対になって、悪行と言い得るほどの利己主義が人間に許されるのみならず、かえってそういう状態においては避けることのできない、最も合理的なしかも高尚な行為としてすら認められるだろう
(引用終)
(感想)
「不死(不滅の魂)と唯一絶対の創造神が否定されたら、善悪もなく正義もなく、あらゆる悪が許されてしまう」は、一神教が大昔から主張するワンパターンの脅迫文句だ。
しかしもちろん、この脅迫はまるきし根拠がない。
そもそも、不死が否定されたらも何もないのだ。「ひたすらに生きんとする盲目の意志」は自分の死を決して理解できないのだから。
ここにハナからボタンの掛け違いが生じてる。出発点が間違ってるから、そこから紡ぎ出されたあらゆる主張はみな妄想でしかない。
彼らは、
自分は死を超えられないという事実
を無視した愚かな幻想のなかで生活しているために、正しい判断ができない。
さあいよいよ死ぬというその瞬間、本人が望めば、死こそ確実だという、あたりまえの事実に生まれて初めて気づき、必然的に、それまで疑うことさえできなかった「俺、俺のもの」(不滅の魂)こそ、人生が徒労に帰す元凶であり大嘘だったと気づく。
というのも、欲望のプログラムは、いまや死なんとする個体を、役立たずのものと見限って、
欲望から自由な認識
を、その瞬間初めて彼(彼女)に許すからだ。
どんな欲深い人間でも、死ぬ前には、それまで気づけずにいた存在の意味に卒然として目覚めかける。
残念ながら、その直後死ぬのだが。
これが、全て手遅れになって今さら何もできなくなってから、意地悪く与えられる冥途のみやげ覚知です。
すべての人間は、動物として生まれた時の初期設定がそうなってるので、必ずそのように死ぬしかない、自分で設定値を変えた人間以外は。
だから人生の真の目的は、この「死ぬ直前の気づき」を、ピンピンしてるうちになんとかして得ることだけです。
もし元気なうちにこの覚知を得た者にはさらに、そう気づかせてくれた死等の苦が、実は聖だという鮮やかなパラダイムシフトが起きる。初期設定値が動き出す。
苦聖諦は、苦しみ「が」救ってくれるから苦聖諦と呼ばれてる。
人生楽ありゃ苦もあるさでは、そこそこいい人生だとおもってるわけで、そんな人には仏法の入口扉さえ開かないから、サティの価値もまるきりわからん。
(My Favorite Songs)
Sweet Sisters - Hit the road Jack