哲学日記

当世無視するのが流行の不浄観と死随念

 

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その67」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) - YouTube


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[感想]

せっかく出家して不浄観を受け入れたはいいが、それが解脱に励む修行に向かわず、肉体さえ捨てれば抜苦できるという邪思惟に陥り、自ら命を絶つ者達が現れた。

今回の佐々木先生の講義は、この問題をとりあげてる。

 

(しかしその前に、世の圧倒的多数者が不浄観を蛇蝎のごとく嫌って無視してる現実を押さえておきたいとおもいます)

 

当世「驚異の人体」とか賛美して、身体は不浄でないとみなす世俗的願望はピークに達している。
事実に反する。
自分を損なう質の悪い妄想でもある。
何の利益にもならない。

ブッダは
身体は不浄である
と言明してます。

 

(ブッダの真理のことば ダンマパダ 中村 元訳)
 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄きよからぬものであると観じて修する人は、実に悪魔の束縛のきずなをとりのぞき、断ち切るであろう。
(引用終)

 

 



人間中心の世俗主義的思考に馴らされた大多数の人々は、これがさっぱりわからない。

大昔の古臭い間違った考えでしょと思ってる。
アホバッカリヤ

 

 

 

 重要なポイントは
仏道は自分で実行するためだけにあり、
からだが不浄であるという事実をふかく観じる
不浄随念がそのかけがえのない入口だ

ということだ。

 

 

パティパダー巻頭法話:悪魔に勝つために①

より引用させていただきます。


 身体は穢いものです。それは事実です。その証拠にあなたは毎日のように入浴をするでしょう。
一週間ほどからだも顔も洗わず、歯も磨かず、下着もそのままにしていたらどうなるでしょう。結果は想像できますね。人間はみな美味(おい)しいものを食べます。しかし、美味しいと思ったその食品も口に入った途端汚いものに変化していきます。因(ちな)みに、自分の大好物な食べものをひと口噛んだあともう一度手のひらに戻しその大好物だった食品をよく観察してみてください。それからその一度噛んだ食品をもう一度口のなかに戻してみましょう。ちょっと常識ではできませんね。実際それをやらずとも想像するだけでも試してみる自信のある人などいないはずです。

 咳、痰、膿、尿、便、汗、鼻くそ、耳垢をはじめ、胃や腸など内臓など自分のものでないかぎり他人を不快にするものばかり人間一人一人が所有しているのです。さらに言えば、口から入ったものは内臓を下に行けば行くほど不浄なものに変わってしまい最後は大便として排出されてしまいます。人間の肉体はまさに不浄の塊、不浄の工場といった観があります。
 ところで、不浄随観(ふじょうずいかん)は仏教の冥想法のひとつです。からだが清浄なものとおもっている妄想概念を越えて、からだが不浄であるという事実をふかく観じることができると、まず快楽を求めるからだに対する煩悩が消滅しはじめます。高慢で自我中心的の間違いだらけの生き方に気づき、心が清澄になり、日頃の悩み、苦しみ、不安といった汚れた心がなくなっていきます。

 こうなると、もう安心です。心ははじめて真の安らぎを感じられるようになり、さらには、完全で清浄なる、人間本来の真の本体が輝きはじめ、すばらしい精神世界を目指して励む心にも、縦横な確信が湧出して身についてきます。もう、どんな悪魔にも負けることかありません。

[引用終]

 

 

 


不浄随念に抵抗して
「本来汚いも綺麗もない」
と反論する人達がいる。

こういう人達は、坐禅を見ても
「座ろうと立とうと関係ない」
と言う。
知識が仇になってる。

悟った人の口真似をしていてはダメだと気づかないのか。

(結論としては真理だが、前提としては自己欺瞞になる)

 

 

 

 

 

 

ブッダが弟子たちに説きます。
(HP『ターン・プッタタート』ブッダの言葉による四聖諦・完全版「九種類の墓(つまり体)」より引用させていただきます)

 

(1) 比丘が、死体を捨てる墓地に捨ててある、死んで一日経ったのでも、死んで二日経ったのでも、死んで三日経ったのでも、腹が膨れ、醜い緑色をして、膿が気味悪く流れている死骸を見るように、その比丘は「この体もこのような状態があり、当たり前にこのようなことがある。このようなことから逃れられない」と、このように引き比べて見ます。このように普段から比丘が体を熟慮して見ているのは、内部の体もあり、外部の体もあり、内部と外部の体であることもあります。

そして平素からダンマを熟慮して見る人が、(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマ、(この)体の中で(体が)衰える原因であるダンマ、体の中に(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る時の、彼の「体がある」というサティ(想起)は、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は渇望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。

比丘のみなさん。普段から体の中の体を熟慮して見える人と言われる比丘は、このようです。

[引用終]

 ※ディッティ 見。見解。

 

 幻想でなく真実幸福になるには、無我の世界に触れる必要がある。

そのための入口が苦聖諦であり不浄随観と死随念だ。

この切り札によって、曠劫こうごうよりこのかた続く酷酔から覚めて、「我」が矛盾だと明晰判明に気づけば、無我に近づけるからだ。

 

しかし一切皆苦や不浄随観死随念をごまかしなく説いたら、大多数の人は耳をふさぐだろう(このブログ記事だって、ここまで読み進めたあなたは超少数派だ)

 

動物本能のままグループ呆けし、事実を毛嫌いし続ければ自業自得果の不幸の中で生死するほかない。

まさにこれが無明と呼ばれる状態だ。

 

盲亀浮木の譬え」にある人間に生まれて、動物本能の木偶のままで生死すれば、一生悪業を積み続けたことになる。

そのように生まれてから死ぬまで

 

苦しみ作りに夢中の人

 

が、幸福になりたいといっても、どだい無理な話だ。

 


[引用続き]

(2) 比丘のみなさん。まだあります。比丘は、死体捨て場である墓地に捨てられた死骸を、カラスの群れがつつき、ハゲコウの群れがつつき、ハゲタカの群れがつつき、犬の群れが喰い、狐の群れが喰い、ウジ虫の群れが喰っているのを見るように、「この体もこのような状態があり、このようなのは当たり前だ。このようなのを避けることはできない」と、この体と引き比べて見ます。…

(3) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が、死体捨て場である墓地に捨ててある、肉と血があり、まだ腱で繋がっている死骸を見ると、彼は「この体も、当たり前にこのようになり、このような状態がある。このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。…

(4) 比丘のみなさん。まだあります。比丘は死体捨て場である墓地に捨ててある、肉はないけれど血で汚れ、まだ腱で繋がっている死骸を見て、彼は「この体も、当たり前にこのようになり、このような状況がある。このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。…

(5) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、血も肉もないけれど、まだ繋いでいる腱がある死骸を見ると、彼は「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。…

(6) 比丘のみなさん。まだあります。死体捨て場である墓地に捨ててある死骸を、繋いでいる腱がなく、手の骨は一方に、足の骨はもう一方に、脚の骨は一方に、腕の骨は一方に、腰の骨は一方に、背骨は一方に、肋骨は一方に、胸骨は一方に、肩甲骨は一方に、喉の骨は一方に、顎の骨は一方に、歯骨は一方に、頭蓋骨は一方に、バラバラに散らばっている骨を見ると、彼はこの体を「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。…

(7) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、ほら貝のように白い沢山の骨の欠片を見ると、彼は「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。…

(8) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、一年以上散らばって山になっているたくさんの骨を見るように、彼は「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。…

(9) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、細かい粉になった骨たくさんの骨を見ると、彼は、「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。比丘が普通に体を熟慮して見ているのは、内部の体もあり、外部の体もあり、内部と外部の体であることもあります。

そして平素からダンマを熟慮して見る人が、(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマ、(この)体の中で(体が)衰える原因であるダンマ、体の中に(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る時の、彼の「体がある」というサティ(想起)は、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は渇望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。(10巻325頁274項)
[引用終]

 

 


この不浄観・死随念にたいして、大多数の人々は昔も今もおよそ聴く耳を持たない。

「死ぬことくらい知ってるわ」と言って。


そういうタチの悪い嘘を自分につくから、自他いずれも幸福にできず、醜く苦しく生死する破目にずっとなってきている。


これは、幸福を求める人間独り独りが、明晰判明に知るべき人生の最重要根元事項だと、おれはおもいます。

 

 

この圧倒的多数の不浄観に対して全く聞く耳持たない連中が一方の極端で、その真逆の極端に、肉体を捨てれば抜苦できると邪思惟して、死ぬ者が現れた。

 

これについて、以前スマナサーラ長老は

(死随念は)命ははかないと、伝統的に念ずるだけなんです。

と教えてる。

蝋燭の灯り(命)は空気がないと燃えないが、シュッと空気が吹くと消えますよ。…

これ、科学的に客観的に因果法則観ているだけ。

(引用終)

 

ビー玉で遊ばせると、飲み込んで窒息事故を起こす子供には、ビー玉はあげられない。

見た目大人でも、ビー玉飲み込むのが多いから、

教える前に、スクリーニングが必須だ。

まったく指導者は大変過ぎる。

 

 

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その68」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) - YouTube


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[感想]

ブッダの説法に付いてる因縁譚は(たぶん後世のテキトーな付加だとおもうのだが)いい加減なのやトンチンカンなのがけっこう混じってて(ブッダの完璧な説法を汚してる)と、がっかりしたことが何度もある。それで因縁譚をしだいに見なくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)

岡林信康。
「くそくらえ節」


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