より引用させていただきます。
…人は自分のことを最後まであきらめてはいけません。心は常に悪い方向へ回転する傾向がありますが、いい方向へ導くためには、気がついたところで努力すればいいのです。私はもうだめだと思うのは、仏教的ではありません。だめで元々と思ってでも努力する必要があります。一方、世の中を見ると、社会的な目的のためにあきらめずに努力する人々が見られますが、財産、名誉のために一生をかけるなら、それは仏教の立場から見れば無意味なことです。社会のどの立場にいても、知慧が優れていても、有りあまる財産があっても、心が汚れているなちばその人の人生は何の価値もないのです。清らかな心を作ることこそ、生命にとって唯一の財産になります。それを得るために、あきらめずに努力することを勧めています。たとえ一度だけでも聖者の言葉を聞かない人生は、むなしいものです。
人間は長い人生の中で、色々なことをしで生きています。でも、人が行っているすべての行為はただ生きるためか生きることを楽しむために限ります。死ぬとき、このすべては何の意味もない、無意味なものとなります。ですから生きるため、楽しむためという目的を超えて、人は、清らかな心を作るため、人格を向上させるために善行為を行うべきです。
特に、聖者の言葉、真理の言葉には我々の自我中心的な心を正しい方向へ導く力があります。そのような真理の言葉は、普通の人間が使うすべての言葉より優れています。
◎経典の言葉
無益な語句をたびたび語るよりも、聞いて心の静まる有益な語句をひとつ聞く方が優れている。
(Dhmapada-100)
[引用終。強調は私です]
ブッダの言葉を学ばなければ、普通の人は、自分が死ぬことさえ分からない。
たとえ、がんばってノーベル賞をとっても、
けもののサガから出られない。
ブッダから学べば、
「自分」は死を超えられないと解り、
無常・苦・無我を知り、
生まれて初めて自由になる。
(My Favorite Songs)