執着の捨て方|スマナサーラ長老の初期仏教月例講演会(21 Jul 2012 代々木) - YouTube
戒禁取見
「空なるがゆえに、苦も無く、集も無く、滅も無く…」
は、世間において、永久に理解不能の呪文に過ぎない。
呪文を唱えて、何事かなしたとするのは、ブッダの教えではない。
苦行
世人の本音は
苦行は大好きだが、
自分ではやりたくない。
これはあからさまに矛盾する欲求なので、
二つに分けて、別々に言い実行してる。
[苦行は大好き]部分は、
人にやらせて拍手喝采して、済ませる。
そこで宗教芸人がウケ狙いの苦行芸。
破れ鍋に綴じ蓋だ。
[自分ではやりたくない]部分は、
ブッダが禁じた苦行だと言い、
骨身を惜しまぬ修行を頭から否定し、
呪文を唱えて、済ませる。
この自己欺瞞について「マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法.pdf」
に次のように注意されている。
ある人は苦行という意味を釈尊の意向と反対に受け取り説法しています。彼らによると骨を惜しまず修行することを苦行といっています。それだと釈尊の意向と反対になってしまいます。釈尊は身体と命を惜しまずに定と智慧の修行を激しく努力すべきだと勧めています。…
考えてみてください。八戒を守って いる、ある若い人は空腹でも正午過ぎ、夜に食べず に戒を守っているのは苦しくありませんか?ある沙 彌や若い比丘などが空腹でも夜食べずにいるのは苦 しくありませんか?苦しいのは明らかです。ですが 戒を満たす行為なので苦行とはいえません。 ある人たちは不殺生戒を守って我慢してい るのは苦しいことです。しかし、戒律を満たす行為 で苦行とはいえません。その様に苦しみに耐えて実 践することを釈尊が「現在苦しくとも将来良い結果 を与える行為である。」と讃えて大受法経(MN,46)に 説かれています。
…持戒、定、智慧を生じさせる実践ならば(anatthasamhita 無益ではなくatthasamhita 利益に関係する実践なので)避けるべき苦行ではない。実践すべき中道だとしっかりと覚えておいてください。持戒、定、智慧などが何も生じずにただ疲れるだけの行為は苦行と呼びます。
(以上Q&A17より引用させていただきました。強調は私です)
ゴータマ・シッダルタ(後の釈尊)は釈迦族の王子として生まれたが、29歳の時、すべてを捨てて出家した。
以来、ウルベーラの森ですさまじい断食や苦行の生活を続けること六年におよび、骨と皮だけに痩せ衰えたが、結果は悲惨であった。
(現代語仏教聖典 釈尊編 2章1節「心のたたかい」より引用させていただきます)
苦行は、結局、道を全うする所以ではない。
六年の歳月は、空しく過ぎた。
(以上)
常人なら、ここでおもいきり落ちこんで後悔するところだが、シッダルタは、そんなくだらない後悔に時間を費やすことなく、すぐ次の行動にうつる。
これ以上ない苦痛に耐え続けた6年が徒労だとわかった直後にだよ…おれは心底から尊敬する。
シッダルタはすこし体力が回復すると、菩提樹下に坐し、不退転の決意をする。
(同引用)
私は、真実道を完うすることが出来ないならば、生きてこの座を立たぬであろう。
(以上)
ところで、これも苦行じゃないの?
もちろん、これは苦行ではない。
瞑想のコツ
ほっとけ
思考はゴミ。
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
(My Favorite Songs)