小原克博「世界大戦のただ中から(3)── D. ボンヘッファー」(講義「現代神学」第4回、同志社大学) - YouTube
(動画59分頃)ボンヘッファーのことば
を引用します。(強調は私です)
知識の探求に明け暮れたその生涯の終局に、ファウストが「われわれは何も知りえないのだということが、わたしには分かった」と言う時、それこそ結論なのであるが、しかしそれは、こういう言葉が自分の怠惰を正当化するために最初の学期に学生によって使われる場合とは全く違う(キルケゴール)。その言葉は
結論としては真理であるが、前提としては自己欺瞞である。(p.5,1.-p.6,1.3)
〈引用終〉
「すでに救われてる。このままで初めから悟ってる」が大衆の妄想になる現代。
イスラム大詩人ルーミーの一節に
神の部屋に入りたくて、ドアを必死で叩き
「開けて!開けて!」と泣き叫んでいたが、
ふと気づくと自分は初めから部屋の中に居た。
みたいな意味の詩がある。
これは、大乗仏教やヒンズー教やキリスト教の「本来本法性天然自性身」「梵我一如」「あなたはありのままで神様に愛され救われています。あなたはこれを信じるだけで良いんですよ」と同じバカ話のイスラム版だ。
おれはルーミー等が
一概に嘘を言ってるとはおもわないが、
結論としては真理であるが、(智慧)
前提としては自己欺瞞である(知識)
智慧知識問題に、まったく顧慮しない点で、
犯罪レベルのミスリードを
(あえて)犯しているとおもう。
ブッダはそういうネタバレ話を推奨しなかった。お前も我慢すべきだろと言いたいだけだ。
自分の怠惰を正当化するために
最初の学期に学生によって使われる
大衆レベルの妄想に劣化してる
現代ではなおさらだ。