以前紹介した名作「死の棘」が今
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死の棘
GYAO!タイトル情報より引用させていただきます。
別離の危機に瀕した夫婦の絆と家族の再生を描いた人間ドラマ。島尾敏雄原作の同名小説の映画化で、脚本・監督は「伽耶子のために」の小栗康平、撮影は「帝都大戦」の安藤庄平がそれぞれ担当。
結婚10年目の夫婦ミホとトシオ。1944年、トシオが特攻隊として島に駐屯したときに、島の娘ミホと出会い、二人は恋に落ちた。二人は死を覚悟するがそのまま敗戦を迎え、そして現在、二人の子どもの両親となっていた。が、ある日、トシオの浮気が発覚。それをきっかけにミホは精神の激しい発作に見舞われる……。
(以上、引用終)
映画「死の棘」は、
原作者島尾敏雄とその妻島尾ミホの結婚10年目の物語だ。
ふたりのそもそものなれそめは太平洋戦争末期で、
1944年、トシオが特攻隊として島に駐屯したときに、島の娘ミホと出会い、二人は恋に落ちた。二人は死を覚悟するがそのまま敗戦を迎え、
と、このころの物語は、島尾ミホ等原作映画「海辺の生と死」に描かれてる。
「死の棘」←「海辺の生と死」
の構造なので、併せて観ることで理解が深まります。
「海辺の生と死」もいずれ無料配信があれば、その時また紹介しますが、YouTubeなら(低画質ですが)今すぐ観ることもできます。
ついていけないでしょうか たとえこの身がこわれても 取り乱したりいたしません
過去ブログで、二階堂ふみ主演『この国の空』について書いたのと同じことを
「海辺の生と死」を観ておもった。
これは反戦映画にはなっていない。しかし面白かった。
と。
その理由も同じだ。
たとえば今のテレビ番組を見ればすぐわかるが、善悪美醜も喜怒哀楽もすべてがふやけたイミテーションだ。
苛烈な戦時下では、イミテーションの存在余地は無くなり、善悪美醜も喜怒哀楽もすべてがいや応なく本性剥き出しになる。その非日常のヴィジョンは平時の人間を強く惹きつける。
切なく美しいリアルな恋物語として消費される。
製作者の深い意図はどうあれ、そういうふうに伝わってしまう作品になってるとおもう。
坂口安吾「堕落論」に、こうある。
…昭和二十年の四月四日という日、私は始めて四周に二時間にわたる爆撃を経験したのだが、頭上の照明弾で昼のように明るくなった、そのとき丁度上京していた次兄が防空壕の中から焼夷弾かと訊いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は一応腹に力を入れた上でないと声が全然でないという状態を知った。…爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。…
… あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。…
…偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
(引用終)
敗戦の表情はただの堕落にすぎない。…つまり平時の堕落より戦時のリアルを良しとするのが安吾の結論かというと、
そうではない。
真反対だ。
安吾はすぐにこう続ける。
だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎない…
(引用終)
おれは、この安吾の結論に激しく同感する。
安吾は名著「堕落論」を次の言葉で締め括っている。
…堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
「海辺の生と死」で満島ひかり&永山絢斗が演じたトエ&朔の、現実のモデルは島尾ミホ・島尾敏雄夫妻である。
島尾夫妻の戦後の驚くべき恐ろしい現実(トシオの不倫を機にミホが精神病になる)は、名作『死の棘』で徹底的に描き込まれている。
この平時のリアルと比べる時、初めて
あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎない
と、深く気づくことができる。
「死の棘」の真価は
この対比の中でこそ
最高に発揮される。
島尾敏雄『出発は遂に訪れず』読書会 (2021.8.13) - YouTube
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[和訳] Honesty - Billiy Joel - YouTube
(過去記事再録)