年老いた暁には、身は老いても老いることのない労作に青春の力をことごとく打ちこんでしまったということくらい、慰めになるものはない。
(引用終)
あきらかに、ショーペンハウアーは、自分のことをいっている。
「意志と表象としての世界」を書いた自分の青春のことを。
オーソドクスな哲学界で、ショーペンハウアーが常に軽く扱われてきたのは、彼の思想が西洋的思惟にとって異質であり、今だに理解できないからだ。
「意志と表象としての世界」には、他の西洋思想が決して超えられない哲学が卓絶した表現で書かれている、とおれは思う。
ショーペンハウアーはこの偉大な思想をドレスデン時代(1814~1818)に20代で自分のものにした。
そしてこの偉大な思想を72歳で没するまで生涯変わることなく自分自身で敬拝し続けた。
( 引用終)
ショーペンハウアーについての現在も続く、わけの分からない紋切り型批評の典型がここにある。
生の無価値にして厭うべきことを説くことと、疫病を恐れて町を飛び出したり、ホテルで数人前の食をとったり、愛人と手を携えてイタリアを旅することは、必ずしも矛盾しない。
生の無価値にして厭うべきことを説く理由は、それを事実だと知ることが涅槃に至る道の入り口だからだ。
青春の哲学の涅槃を説くことが矛盾だとも、おれには思えない。
もっとも、哲学に興味のない人には、なにを感激することがあるんだと思われるかもしれないが…
ペシミストは世間を厭っているのではなく、こんなものは最悪だと突き放しているだけなのだ。世間がくだらないというのではない。世界はそういうくだらない世間しかつくれないと見切ったのだ。ブッダの「一切皆苦主義」とは、このことだ。それゆえペシミストはブッダがまさにそうであるけれど、世界の再生や心の安寧は「苦しみ」を直視できないところからはおこらないと洞察したわけだった。
ショーペンハウアーも、そうだった。しだいに本来のペシミズムの只中において世界を認識し、そこにありうるのは「解脱の可能性」でしかないだろうと見たのであった。