人間には、肉体以外価値あるものを見出せません。建前を抑えて本音を言うならば、人間にとって絶対的な神様は、他ならぬ肉体なのです。特定の信仰があってもなくても、人間はほとんど肉体様の信徒なのです。
肉体の管理者である心は身体より偉いですが、性格は悪い。だらしない。無知。自己管理さえもできない。一定しない。あてにならない。信頼できない。わがまま。私たちの支配者、管理者(心)は、こんなものです。だから肉体至上主義で生きようとするのは、心の決まりなのです。当然、間違っているのです。ゆえに、人間の生き方は限りのない悩み苦しみに溢れているのです。
地球の全財産を破壊しつつ、精神的なエネルギー全てを費やして肉体の維持管理をしても、必死で肉体を守っても、確実に肉体様に裏切られるのです。肉体は、老いて崩れて、壊れてしまうのです。肉体は死ぬのです。一生の努力、費やした財産、全てが無駄になるのです。完全に無駄なことをやっていると知りながら無駄なことをやると、しゃくに触るのです。だから、皆いい方法を考えているのです。「皆死ぬ」という事実を無視するのです。「私が死ぬ筈がない」という前提で、肉体信仰を続けるのです。死ぬ筈がないならば、肉体のために苦労しても納得がいくのです。経済発展、科学技術の発展、争い、戦争などは、よく納得した上で行っているものです。身体のために生きるべきということは、何の疑いも立たない、納得した生き方なのです。この納得の裏にある理念は、「私が死ぬ筈がない」です。
釈尊が「死」という事実を徹底的に観察するようにと説かれたのは、人間の無駄な愚かな無意味な生き方を、有意義な生き方に変えるためです。
私は死ぬものだと知る人は、
争い闘いなどは決してしない。(Dh.6)
と説かれたのです。
当たり前の事実を否定して、真理に達することはできません。事実を否定して、存在もしない妄想的観念では、幸福になるはずもない。
当たり前の事実を否定して、真理に達することはできません。事実を否定して、存在もしない妄想的観念では、幸福になるはずもない。
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(ブッダの説法)
心というのは、絶えず汚れが湧き出るものです。のんびりしている時も、寝て休んでいる時も、心は汚れっぱなしです。汚れた心は苦しみの結果を作る。従って、仏弟子たちには昼も夜もありません。昼であろうか、夜であろうか、心が常に汚れ続けているので、修行には休憩はないのです。修行というのは、瞬間瞬間の心を観察して、汚れが湧き出ないようにと気付くことです。汚れを絶って、必ず涅槃を体験するぞと目的を定めて精進するのです。瞬間瞬間の心を観察すると、事実無根の妄想はできなくなる。妄想ができなくなると、目耳鼻舌身意に触れる色声香味触法というデータを歪曲することなく、そのまま認識します。客観的にものごとを観察することができて初めて、全ての現象は無常であること、苦であること、実体がないことを発見するのです。これが、智慧というものです。智慧が現れたら、『執着するに値する現象は何一つもない』とわかる。この理解によって、心から執着したがる気持ちと、汚れという感情が落ちるのです。二度と現れないのです。これが、涅槃ということなのです。
[以上引用終。強調は私です]
「瞬間瞬間の心を観察すると、事実無根の妄想はできなくなる。妄想ができなくなると、目耳鼻舌身意に触れる色声香味触法というデータを歪曲することなく、そのまま認識します。客観的にものごとを観察することができて初めて、全ての現象は無常であること、苦であること、実体がないことを発見するのです」←ヴィパッサナー冥想はこの実現のための唯一の道です。
(My Favorite Songs)
元も載せときます。