『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』
今から半世紀前、1969年に東京大学駒場キャンパスで行われた有名な討論会をテーマにしている。この討論会は書籍化はされているが、ここまでまとまって映像が作品化されるのは初めてだろう。TBSに秘蔵されていたフィルムと言う事で、歴史的価値は大きい。しかし本作は「過去の遺物を垣間見る」と言う以上の強烈な面白さをはらんでいる。
とは言え、この作品を面白く鑑賞するためには、それなりの予備知識が必要だ。まず三島由紀夫。戦後を代表する作家であり、この討論会の翌年に市ヶ谷の自衛隊に突入し、自決して果てたのは誰でも知って居る。しかしもうひとつの知識として、三島が日本の戦後社会をどう見ていたのかと言う事を知っておく必要がある。
大正生まれで戦中派の三島は、終戦時に20歳で東京帝大の学生だった。招集され学徒出陣するはずだったが、入隊検査で肺浸潤が見つかり即日帰郷となる。病床で終戦を迎えた。多くの若者が戦死した中で自分だけは戦場にも行かず、生き残ったと言う事へのわだかまりが、三島の精神に長く暗い影を落とす事になる。
その帰結が、1960年代の三島の「右旋回」だった。終戦後に人間宣言した昭和天皇を否定し、「天皇」を古代から続く日本の歴史と文化の中心であり、現実の天皇個々人の人格を超えた、抽象的な「神聖」の概念だと捉えるようになった。三島はその「天皇」と言う概念によって、彼が堕落したと見ていた戦後社会がひっくり返せると考えたのだ。
では、討論の相手だった東大全共闘とは何か。1960年代末は日本のあちこちで学生運動が起こり、さまざまなセクトができたが、それらのセクトが大学ごとに集まって作ったのが「全学共闘会議」、すなわち全共闘。
東大全共闘と言うと、この討論会の少し前に本郷キャンパスの安田講堂を学生が占拠し、機動隊と対決した「安田講堂攻防戦」が有名だ。しかし東大全共闘のユニークさは、もっと別の所にある。
三島由紀夫・伝説の討論会3/5 50年ぶり秘蔵映像発掘「VS東大全共闘」#3「暴力と闘争」
東大生たちは、受験戦争を勝ち抜いたエリートである。戦後民主主義は平等を教え、自分だけが利益を得る事は倫理に反すると教えたが、受験エリートはそうした戦後の価値観をもともと否定した処に成り立っている。加えて、幾ら学生運動に邁進して反体制を唱えても、卒業後には官公庁や大企業などでのエリートの座が約束されている。此れらの現実に対する「罪悪感」が、東大全共闘の根底にあった。自分たちは資本主義を口では批判しながら、実は資本主義を支える側じゃないか、と言う強烈な自己矛盾があったのだ。
だから他の大学では学費値上げ反対や自治会の自主独立など、おおむね具体的な運動目的が挙げられていたのに対し、東大闘争だけはまったく違った。「自分たちの生き方を変えて行かなければならない」「自分たちにとって学問とは何なのか」と言う抽象的な理念が目標として掲げられたのである。つまりはエリートである自分を否定しなければ運動は始まらないと言う、当時流行した言葉で言えば「自己否定」をテーマとしたのだ。
この自己否定と自己の変革と言う話は、本作の討論にもところどころに出て来る。東大全共闘屈指の論客と呼ばれていた芥正彦(のちに劇作家・演出家)とのやり取りが面白い。三島が目の前の木製の机をさして言う。「机は授業の為にあるが、バリケードの材料にもなる。生産関係から切り離されて、戦闘目的に使われて居ると言う事だ。しかしそれは諸君が生産関係から切り離されて居るからではないか。それが諸君の暴力の根源ではないのか」
つまり、所詮は働いて居ない学生じゃないかと皮肉を飛ばし、生産関係と言う資本主義から切り離されてる。だから運動は持続しないんじゃないかと迫ったのである。これに対して芥は鋭く言う。
三島由紀夫・伝説の討論会5/5 50年ぶり秘蔵映像発掘「VS東大全共闘」#5「三島さんは敗退してしまった人」
「大学の形態の中では机は机だけど、大学が解体されれば定義は変わる。この関係の逆転に革命が生まれるんだ!」
このあたりのやり取りは今見ても、実にスリリングである。芥正彦の鋭い応答に、三島もたじたじとなって居る感がある。しかし本作で最も面白いのは、後半になって出て来る天皇に付いてのやり取りだ。
小阪修平(のちに評論家)から天皇観に付いて聞かれ、三島はこう答える。
「天皇親政と直接民主主義には区別はなく、ひとつの共通要素がある。それは国民の意志が、中間的な媒介物を経ないで国家意志と直結する事を夢見ていると言う事だ」
端的に言い切ってしまえば、三島にとっての「天皇」と言うのはルソーの一般意志の様なものなのだろう。三島がこう答えているときに、会場からヤジが飛ぶ。「チンはたらふく食ってるぞ なんじ臣民飢えて死ね」。終戦直後の窮乏期にデモのプラカードに書かれた有名な言葉だが、三島はヤジにこう返す。
「もし本当に天皇がたらふく喰ってたブルジョワジーだったら、革命は簡単に出来ただろう。そうじゃなかったから革命は難しいのじゃないのか」
つまり天皇とは概念であり、たらふく喰ったりする実在の人間ではない。続けて三島は言う。「それは民衆の底辺にあるものなのだ。それに私は天皇と言う名前を与えている」
これに芥が噛み付く。「天皇と自己を一体化させる事に美を見出すわけ?」。三島は「そうだね」と答える。
芥「それはオナニズムじゃないか。あなたは日本人であると言う限界を超えることは出来なくなってしまうだろう」
三島「出来なくていいんだよ。僕は日本人として生まれ、日本人として死んで、それでいいんだよ。その限界を抜けたいとは全然思わない」
芥「人間には最初から国籍なんかない」
三島「それは自由人として尊敬するけれども、僕は日本人である事を否定しない。そこに喜びを感じるのだ」
此処で芥は「僕はもう帰るわ。退屈だから」と吐き捨てて、壇上から去ってしまう。しかしこの辺りから、討論会の会場には不思議な空気が流れ始める。1000人の全共闘学生と三島のあいだに、なにか共感の様なものが生まれて来るのだ。
小阪修平が言う。「天皇と言う観念を三島さんも全共闘も共有出来るのだったら、そこに天皇という名前を付ける必要はないのでは」。これに三島はなんとこう答える。「天皇とひとこと言ってくれれば、僕は諸君と手を繋ぐのに」
三島は、日本の戦後保守が親アメリカになっている事に反発していた。それに比べれば全共闘は左翼であっても、反米である。だったら全共闘とはナショナリズムと言う一点で共通しているのではないかと三島は考えていたのだ。そして、そのハブとなるのが天皇概念だと考えたのだ。
ではもし、三島と全共闘が共に手を繋ぐ事があったとしたら、共通の敵は存在したのだろうか? それに対する答えも本作の終わりの方で用意されて居る。「熱情」と題された本作の最後のパートは、実にスリリングで面白い。ハードルの高い作品だが、日本の戦後の左右のイデオロギーとは一体何だったのかに付いて考えたい人には、可也お薦め出来る。
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「三島由紀夫に魅せられた人たち」JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス
皆さんは三島由紀夫と言うと。正気を失った気狂いとか、身の程を知らなかった馬鹿者とか。色々と憶測で物を言って居ますが。この自衛隊の連中の前で何を喋ったのか知らない人の方が殆どです。私がこう言う事を書くと平和憲法を蔑ろにして居るとか。右翼だとかとも言われそうだけども。記録として三島由紀夫が最後に言った事を記して置きたく思います。1970年11月25日12時過ぎ、三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地の本館バルコニーで、集まった自衛官を前に9分ほどの「演説」を行った。それが、記録に残る三島の「最後の肉声」となりました。
この演説の全ての録音に成功したのは文化放送の新人記者だった三木明博氏(のちに同社代表取締役)でした。当時、文化放送の社宅は市ヶ谷に至近の四谷にあり、いち早く現場に駆けつけた三木氏は木の枝にマイクをくくりつけ、録音に成功したと言う。。。演説の部分的映像は現在「YouTube」などで確認する事が出来ます。最も、ヤジやら上空を旋回するヘリコプターの音で明瞭には聞き取れないですが。ですから此処では出来るだけ三島の最後の演説を収録します。
【三島由紀夫】『文化』を大いに語る
『三島由紀夫「最後の演説」1970年11月25日 自衛隊市ヶ谷駐屯地』
私は、自衛隊に、この様な状況で話すのは恥ずかしい。
しかしながら私は、自衛隊と言うものに、この自衛隊を頼もしく思ったから。こう言う事を考えたんだ。そもそも日本は、経済的繁栄にうつつを抜かしてついには精神的にカラッポに陥って、政治はただの謀略、自己保身だけ・・・・・。作り上げられた体制は何者に歪められたんだ!!
此れは日本でだ。ただ一つ、日本の魂を持って居るのは自衛隊であるべきだ。我々は自衛隊に対して、日本人の根底にあると言う気持ちを持って戦ったんだ。然るにだ。我々は自衛隊と言うものに心から・・・・・・。
静聴しろ、静聴。静聴せい。静聴せい!
自衛隊が日本の国軍・・・・たる裏に、日本の大本をただしていい事は無いぞ。と言う事を我々が感じたからだ。それは日本の根本が歪んで居るんだ。それを気が付かなんだ、日本の根源の歪みに気がつかない、、それでだ、その日本の歪みを正すのが自衛隊、それが如何なる手段においてだ。
静聴せい。静聴せい!
その為に、我々は自衛隊の教えを乞うたんだ。
静聴せいと言ったら解らんのか。静聴せい!
然るにだ、去年の10月の21日だ。何が起こったか。去年の12月21日に何が起こったか。去年の10月21日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて、これが完全に警察力で制圧されたんだ。俺はあれを観た日に、これはいかんぞ、これで憲法が改正され無いと檄嘆したんだ。何故か。それを言おう。何故か。それはだ。自民党と言うものはだ。自民党と言うものは常に警察権力を持って如何なるデモも鎮圧出来ると言う自信を持ったからだ、、、
治安出動は要らなくなったんだ。治安出動が要らなくなったのが、既に憲法改正が不可能になったのだ。解るか、この理屈が・・・・・・。
諸君は、去年の10月21日からのあと、諸君は去年の10月21日からあとだ、もはや憲法を守る軍隊になってしまったのだよ。自衛隊が20年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだ。もうそれは政治プログラムから外されたんだ。ついに外されたんだ。それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
去年の10・21から1年間、俺は自衛隊が怒るのを待っていた。もう、此れで憲法改正のチャンスは無い!自衛隊が国軍になる日は無い!建軍の本義は無い!それを私は最も嘆いていたんだ。自衛隊に取って建軍の本義とはなんだ!日本を守る事。日本を守るとは何だ。日本を守るとは何だ。日本を守るとは天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守る事だ。
お前ら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ!男1匹が、命を賭けて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。
それがだ。今日本人がだ、此処で持って立ち上がらなければ、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものは無いんだよ。諸君は永久にだねぇ。ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君の任務と言う物を説明する。アメリカからしか来ないんだ。シビリアン・コントロール・・・・シビリアン・コントロールに毒されているんだ。シビリアン・コントロールと言うのはだな、新憲法下で堪えるのがシビリアン・コントロールじゃないぞ。
どうしてそれが自衛隊・・・・(野次大きくなる)だ。そこでだ、俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。そうした自衛隊で4年待ったのは、最後の30分に、最後の30分に・・・・・・・・
俺は今待ってるんだよ.....。
諸君は武士だろう、諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法の為、自分らを否定する憲法と言うものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君ってものは永久に救われんのだぞ。
諸君は永久にだね。今の憲法は政治的諜略に、諸君が合意だかの如く装っているが、自衛隊は違憲なんだ。憲法と言うものは、ついに自衛隊と言うものは。憲法を守る軍隊になったのだと言う事に、どうして気が付かんのだ!俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。諸君はその中でも、ただ小さい根性ばかりに惑わされて。本当に日本の為に立ち上がると言う気は無いんだ。
(野次)「その為に、我々の総監を傷つけたのはどう言うわけだ!」
抵抗したからだ(野次)「抵抗とはなんだ!」憲法のために日本を骨なしにした憲法に従って来たと言う事を知らないのか。諸君の中に、1人でも俺と一緒に立つ奴は居ないのか。
1人も居ないんだな。よし!武と言うものはだ。刀と言うものはなんだ。自分の使命と心に対して・・・・・・。それでも武士かぁ!それでも武士かぁ!諸君は憲法改正のために立ち上がらないと、見極めが付いた。此れで、俺の自衛隊に対する夢は無くなったんだ。
それでは此処で、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。
天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!
以上です、この当時の録音はテープ・レコーダーの音質も悪く。また野次も飛んだり、ヘリコプターの音も煩かったので、現存する音源は此れのみです。今回此処で、私の私見を述べる事は辞めて置きます。ただ彼がこの後、すぐに切腹をした事。また楯の会の会員から介錯された事はもう皆さんご存知かと思います。ただあの当時は、日本は高度成長期真っ盛りでした。経済発展も遂げて、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われて居ました。言ってみれば平和な世の中を迎え様として居ました。また、この年は大阪万博がありました。日本初の万博でした。三島由紀夫がどうであれ、彼がした事がどうであれ、歴史的事実の一つであると言う事に間違いはありません。
さて、此処で三島由紀夫の自伝記的な映画の紹介です。若松孝二監督作品の「11.25自決の日、三島由紀夫と若者たち」です。主演は井浦新さんです。。。
「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」予告編 若松孝二監督作品
この作品は、アルツハイマー型認知症の母と最後に観に行った映画で、若松監督にサインを貰った映画です。2回程、別の日に観ましたが。初めは年配の60歳代から70歳代の観客と一緒に観ましたが、2回目は舞台トークがあると云う事で、若い20代から30代の女の子が殆ど席を埋めて居ました。作品としては何時もの映画コードを破る若松監督の手腕が良くて、又、役者の演技も素晴らしく、確かカンヌ映画祭のある視点部門で上映され、感極まった女の人が若松監督に駆け寄って「美しく素敵な映画をありがとう。」と云ったそうです。まあ、題材が三島由紀夫なもので、賛否両論あるとは思いますが、1980年代にポール・シュレイダー監督が撮った「MISHIMA」よりは私は若松監督作の此方の作品の方がしっくり来ました。低予算の映画ですが、静かなる若松イズムが爆発しています。2012年公開作品です。
愛する家族の死に動物と子供が絡む感動的な実話という、凡庸な作り手の手に掛かれば幾らでも後ろ向きで湿った、映画になる。かつて若松孝二は<性と暴力>を武器に数多のスキャンダラスな問題作を放ったが、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」以後、明らかに大きく変貌を遂げた。現代史の闇を抉るような主題を好んで取りあげ、とくに若い世代に向けて、まるで楔(くさび)を打ち込むように苛烈なメッセージで挑発し、鼓舞する映画作りを実践して居たからだ。
【岡村洋一のシネマストリート】映画「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」若松孝二監督へのインタビュー(前編)
【岡村洋一のシネマストリート】映画「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」若松孝二監督へのインタビュー(後編)
三島由紀夫の衝撃的な自決を描いた本作でも、三島の美学的世界には一顧だにせず、彼が死への傾斜を深めて行った1960年代という<時代>を、まるで実録もののように、新宿騒乱、金嬉老事件、よど号ハイジャック事件など当時のニュース映像を援用しながら、浮き彫りにしようとする。
冒頭に現れる浅沼稲次郎を刺殺し、獄中で縊死した山口二矢が影のキーパーソンで、このあまりに滅私な祖国愛に憑かれた若きテロリストの痛々しい魂が全篇を静かに覆っている。三島を自決に導いたかに見える純粋な民族派の学生たちとの濃密な師弟関係も、彼らの度外れた愛国のロマンティシズム、義侠心の美しさが謳い上げられ、同性愛の匂いが画面から周到に排除されて居るのは注目すべきだろう。
既存のイデオロギーに生理的な反発を抱く若松孝二に取っては、恐らく、あさま山荘に立て籠った連合赤軍の戦士も、三島と行動を共にした楯の会の若者たちも等価な存在なのだ。むしろ、彼らの些末なエゴを超えて、<義>に殉じた精神こそ、若松孝二が、自分と対極にある三島の謎めいた生涯のなかで、唯一、深く共鳴したものではないか。特に、三島を演じた井浦新、森田必勝を演じた満島真之介の軽佻さが、微塵もないひたむきな表情が印象に残った。若松孝二は、前作『キャタピラー』の撮影を終えてから、“次回作は三島由紀夫を撮る”との宣言通り新作を完成させた。若松組常連の井浦新(ARATA)が主演を務めた。2012年(平成24年)初頭にARATAは芸名を本名の「井浦新」に改名したが、そのきっかけとして、本作で三島を演じてその思想を感じ、エンドロールで三島を演じた役者の名前がアルファベットで流れるのは美しくないと考えた事を挙げて居る。
2011年(平成23年)11月25日、三島由紀夫の命日にあたるこの日に1日限定の特別試写を行なっている。
皆さんは、戦後の日本文学界を代表する作家の一人である三島由紀夫をご存じでしょうか?三島由紀夫はノーベル文学賞の候補になるなどし、日本だけでなく海外でも広く認められた作家でもあります。とても有名な人物ですので、作品は知らなくても名前は聞いた事がある人も多いかも知れませんね。そんな三島は、自衛隊員に憲法改正を訴えてクーデターを起こし未遂に終わりましたが、その後に割腹自殺を遂げると言う衝撃的な結末の「三島事件」を起こしています。三島事件は三島の思想上の問題や、政治や社会の隠れた問題が絡み合って居る為、表面化できない部分も多く謎も多く残っています。
「三島事件」
作家三島由紀夫の割腹自殺事件。 1970年 11月 25日午前 11時 10分から同日午後0時 15分にかけて三島は「楯の会」の会員4人を伴い,東京都新宿区市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部総監室を訪問,総監の益田兼利を縛り,不法監禁するとともに総監室を占拠。これを排除しようとした自衛隊員に日本刀などで切りつけ8人に重軽傷を負わせた。三島は自衛隊員に決起を呼びかけるアジ演説を行なったのち,早稲田大学学生、森田必勝とともに割腹自殺した。警視庁は小賀正義,小川正洋を暴行,傷害,不法監禁,公務執行妨害の容疑で現行犯逮捕した。三島の自決は平和な戦後社会に強い衝撃を与えた。さらに右翼だけでなく極左陣営の青年にも刺激を与え,左右の青年7人があと追い自殺をはかった。この事件は,三島の動機に付いてさまざまな推測を生んだが,同時に彼の死によって特異な才能をもった作家が,この世界から失われた事が惜しまれている。
11/25、自決の日、三島由紀夫と若者たち。ノーカット版です是非観て見て下さいね。
「11・25、自決の日。三島由紀夫と若者たち、映画公開時の若松孝二監督と主演の井浦新のインタビュー記事を抜粋して載せて置きます。
若松孝二監督(76)の「実録連合赤軍 浅間山荘への道程」「キャタピラー」に続く“昭和三部作”の第3作「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」(6月2日公開)が完成し30日、大阪市内で若松監督と主演の井浦新(ARATA改め)が会見した。
━━━三島由紀夫の映画を撮る動機は?
若松監督:「連合赤軍」撮ってる時から、次は三島さんをやろうか、と思っていた。左(連赤)だけじゃなく、右も撮らなきゃいけないんじゃないか、と。映画の中で奥さん(寺島しのぶ)が言ってるけど、40年経って「何か起きたか」と言うと何も起きて居ない。
━━━三島由紀夫氏の映画化には右も左もアレルギーがありそうだが。
若松監督:右翼の人からは「よく作ってくれた」と喜ばれた。偽名じゃなく、みんな本名使ったからね。左翼はインテリの割りにはアホなやつが多いな。パンフレットに出させてもらうために鈴木邦男さん(一水会顧問)や田原総一朗さん(ジャーナリスト)のコメントもらったら、この2人はベタ誉めだった。
━━━関係者から了解は取り付けた?
若松監督: (三島の)原作管理者に話はしたけど、原作を使うわけじゃないから。資料調べの時「盾の会」の人も居たけど、まだ5人残ってるからね。許可してくれなかった。三島さんの家で撮影したかったけど、それはだめだった。
━━━三島由紀夫役は大変だった?
井浦新:監督は4年前から準備して居たそうですが、私は2カ月前まで聞いてなかった。うれしいより驚いた。「自分に出来るのか」と思った。監督の「俺は物まねとか再現を撮ろうと思ってない。お前の好きなようにやれ」と言う言葉に背中を押してもらった。その言葉で楽になった。三島さんは映像見てるし、60~70年代カルチャーに興味もあり知って居たけど(演じるにあたっては)引いて見て居た。本は読んだが、美しく描いた部分は全部排除して監督の台本をもとにした。監督には「どんな心を映し出すか」と何時も言われている。三島だから、ではなく、何時もの若松組で、自決して行った若者たちを夢想して行った。
━━━今回の撮影期間は?
若松監督:12日間。「キャタピラー」と同じ。1回目から「本番」だからね。うまくやろう、と言う気にさせないんだ。1回じゃないと三島さんの感じが出ない。打ち合わせは1回もやった事がない。
━━━三島由紀夫役の決め手は?
若松監督:誰が一番三島さんに近いか、いろいろ考えたがひと回りしてみると新の処に戻って来た。候補は何人か居たんだよ。
━━━三島役に決まってどうだった?
井浦:直前に右足を骨折して、出演を聞いたのはベッドの上。監督は「困る。とにかく治せ」と。追い込まれて居るうちに、撮影までには立って動ける様になって居た。気持ちがしっかりして居れば出来るのか、自衛隊での訓練シーンでは足を引きずり「もう俺はダメだ」と言うところは芝居じゃなく本当にしんどかった。
━━━三島由紀夫を演じて影響を受けたか?
井浦:日本に対して、自分の捉え方を持って居る人。日本の美しさを思う人だとは思うが、左右両サイドやっても、1回自分のフィルターを通して居るので思想的に影響受ける事はなかった。作品と監督の事しか考えてない。
━━━ARATAから井浦新に変わったが、この映画からか?
井浦: そうです。「三島由紀夫」の映画でエンドロールに「ARATA」が最初では美しくない、と思った。
━━━なぜ三島なのか? 彼は本当は何を考えてああ言う事をしたのか?
若松監督: 連赤も(三島さんも)同じように、何かを変えようと思って居た。(割腹自殺は)三島さんの意思でやったのかどうか。(盾の会の)森田必勝に「何時やるのか」と追い詰められたのではないか。自衛隊が決起して革命が出来る、なんて三島さんも思ってなかった。死に場所を探して居たと思う。だから、森田一人を連れて行った。永山則夫(永山則夫事件(1968年)=死刑判決→1997年執行)にも金嬉老(金嬉老事件(1968年)=無期懲役判決→のちに釈放)にも赤軍のハイジャック事件にも影響受けたけど(何故かは)僕自身もホントは分からない。
━━━その後に船戸与一(原作)の「海燕ホテルブルー」を撮って居るが、連赤、三島を撮った後、何を撮りたいのか?
若松監督:次にやりたいのは「東電」に突っ込みたいと思って居る。国が隠そうとしているものをやりたい。残しておかなければならない。今の楽しみは映画撮る事だからね。
聞き手(安永 五郎)
(C)若松プロダクション