寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

過去と現在の狭間で揺れて居る・・・・・。

僕の心は板の上で晩餐を取るのが難しい。夕暮れ時の街で、僕の考えて居る事が、何であるかを知るために全世界は休止せよ。僕の休暇はもう数刻で終わる。僕はそれを考えて居る。明日は不眠のまま仕事に出掛ける。僕は僕の心が居ない間に、世界の方々で起きる事が許せないのだ。だから夜は殆ど眠らない。眠るものたちは赦すものたちだ。神はそのものたちを愛撫する。そして愛撫するものはひょっとすると神ばかりではない。君の女も雇い主も、破局を好まないものは神経に幾らかの慈悲を垂れるに違いない。幸せはそんな処に転がって居る。たれが自分を無残と思わないで生き得たか。僕は今も傲慢な廃人であるから、僕の目は僕の心の中に落ち込みそこで不満を訴える。生活は苦しくなるばかりだが、僕はまだ匿名の背信者である。僕が真実を口にすると殆ど全世界を凍らせるだろうと言う妄想によって。僕は廃人であるそうだ。おう、此の夕暮れ時の街の風景は無数の休暇で立て込んで居る。街は喧騒と無関心によって僕の友である。苦悩の広場は僕が1人で地ならしをして、ちょうど僕が入るにふさわしいビルデングを建てよう。大工と大工の神話は要らない。不毛の国の花々。僕の愛した女たちお別れだ。僕の足取りは確かで銀行の裏路、汚れた街中を散策する。僕は秩序の密室を知って居るのに、沈黙を守って居るのが唯一の取り柄である患者だそうだ。要するに僕を恐れるものは僕から去るがいい・・・・。

                     吉本隆明「初期詩集より」

 

昨日の夕食です。。。久々に外食をした。ポークジンジャーが美味しかったです。。。

 

 

ミニサラダ付きです。。。

 

 

「エッセイ」

よく親が子供にレールを敷くと子供は駄目になると言うが。私が子供の頃は反対に親にレールを敷いて貰いたかったですね。何故なら、周りに居る。子供たちが余りにバカすぎてしょうがなかったから。私は幼稚園は1年遅れで入園したのですよ。だから先に居る園児たちは、もう折り紙の折り方とか教えて貰って折って居たけど。後から入った私はちんぷんかんぷん。だから2人居た先生の一人に「折って・・・。」と言って渡したら。もう一人の先生から偉く怒られた。「先生を頼るのは辞めなさい!!自分で折りなさい」そうは言われても折り方が解らない。そして折って貰えなかった。だから私は何時も幼稚園では一人で遊んで居た。同じ幼稚園には一人いじめっ子が居て。そいつは悪ガキだった。何時も私を叩いて泣かせて居た。私はこう言う近所の子供たちの輪に居るのがトコトン嫌だった。そして小学校に上がる様になった。私は地元の小学校が嫌だった。公立の小学校は大工の倅も鳶職の倅もはっきり言ってヤクザの子供も居た。私はそれが嫌だった。私はもっと頭がいい人たちのサークルに入りたかったからだ。

ちなみに、あのバカ親父の従兄弟の子供たちは。皆私立に行ったのだった。私立に行けなかったのは従兄弟ではゆきかず、けんじだけだった。ある従兄弟の家に泊まりに行くと。私だけ布団で寝て居て。同い歳の従兄弟は、朝6時には起きて勉強をして居た。私はその様子を見て居て、自分は何なんだろうと思って居た。その従兄弟はバカ親父の2番目の兄貴の息子でまさおと言った。そして私は嫌がるのに私の父親は、、すぐに泊まりに行けと言うのだ。相手は築地でマグロ問屋をして居て。当たって居て。すでに数億円の資産があった。あのバカ親父は自分が兄貴に勝てないものだから、私を出しに使ったのだ。まさおちゃんの家に遊びに行くと必ずこう言われた。「おいお前は絵を描け、そしてまさおに見せつけて驚かしてやれ!!」私はそう言われるのが本当に嫌だった。要するにあのバカ親父は自分の家は貧しい。それなのに兄貴は裕福に暮らしやがって気に食わない。しかし自分には誉められる様なモノは何も無い。だから当時、小学校で、毎年、私が描くポスターやら絵画で賞状を貰って居るのを、見せつけてやろうと言う算段をするのだ。

私はこの親父の貧相で醜い考え方が大っ嫌いだった。だから「嫌だね!!」と何時も言うのだが。そうすると途端に怒られた。「いいから描け!!」私は仕方が無く「ちばてつやの漫画「あしたのジョー」を書いて置いて来た。すると向こうの方が上手だ「いやぁ〜、美味いものだねぇ」とお世辞を言うのだ。するとバカ親父はいい気になってもう一枚書いて見せてやれと言う。私は烈火になって怒って「描かないよ!!」と言うと。「お前には、それしか取り柄は無いんだから。言われた通りに描け!!」と言うのだ。私は毎回嫌になった。大体が私は小学校に上がる時に。母と父に勉強するから。皆んなと同じように私立の小学校に行かせてくれと言ったはずだった。私は親に勉強と言う。学校と言うしっかりとしたレールを敷いて貰いたかったのですよ。周りに居る子供たちが、皆んなバカに見えて居たし本当にバカが多かった。公立の小学校でこう言う事があった。渡辺と言う男の子だが。彼と私はよく漫画を描いて居た。しかしその渡辺は色情狂だった。小学校3年生にして、そうなのだ。この年代は、今はどうかは知らないが。昔は体育などの授業の時には下着姿になって。女の子も男の子も一緒に昔は着替えた。しかしそいつは女の子が履いて居るパンティーに拘った。「パンティーなんか履いてるんじゃねえ、パンティー女!!」と言うのだ。そのうちに女の子たちは下着の上に見せパンを履くようになって行った。ブルマーとかだ...。

私は渡辺に「何で女の子の下着に、お前は拘るんだドスケベ野郎!!」と言ったら、彼はこう言った。「お父さんが女の人のパンティーを舐めて居る」要するにそいつの家ではセックスを子供の居る前で見せて居るのだった。だからそいつは精神状態が小学校3年生にして淫乱極まりないのですよ。そして、体育の時間になると女の子のスカートを捲って、パンティーを履いて居る子が居ると、「今度履いて来たら承知しないぞ!!」と脅すのだ。もう本当に嫌だった、、そしてそいつは鼻くそをほじり「いえ〜い」と言い出して。「鼻くそ鼻くそ〜〜!!」と言っては鼻を穿って居たら血が出て来た事が有った。私にそしてこう言うのだ。「お前の父ちゃんも。女の股ぐら写真が載って居る雑誌読んで居るだろう?。」私はそれ以来そいつと話すのを辞めた。小学校3年生にして色情狂なのだ。親のせいだ。。。人間、環境が如何に大切か。私は自分の身を寄せる処では無いなと思えば。そこからは潔く身を引きます。バカ相手に話してもどうにも成りませんからね。

実家を建て替えた時に。玄関前に小さな庭を作ったのだが。親父は、ある日そこに灯籠を買って来て3本も置くと言い出し。また石も置くと言い出した。何故なら灯籠は数億の資産家のよしきちが1960年代に建てて居た豪邸で3本建ててあったし。石はかしろうの家にあったからだ。勿論、私が物凄い怒声罵声でバカ親父を怒鳴って辞めさせた。あのバカ親父は当時は1990年だと言うのに何も知らなかったのだ。ただ自分が知って居る事は兄貴たちの庭に置いてある1960年代の灯籠と石だけだった。そして、それがステータス・シンボルだと思って居たのだ。私は私立の小学校から中学、高校、大学まで行きたかった。何故なら、私立は誰でもが入れる公立とは違って、試験と面接それに親も試験に賭けられる。それを突破しないと受からないのだ。そしてテストの点だけ取ってもダメだ、親御さんの素養も試される。特に名門校は。しかし、だからこそ入学さえしてしまえば。あとは良家の御子息しか居ないのだ。私はそう言った環境に身を置きたかった。私は親に散々泣き付いた。中学の時でさえ、中学から私立に行かせてくれと泣きついた。しかし言う事は聞いて貰えなかった。私は公立の小学校と中学を出て、高校こそは平凡ながら私立高に通った、そして大学。訳あって夜学だった、働きながら通った。ただ、如何にせん程度が低すぎたようだ。拓殖大学は留学生も来て居る処だが、、やはり夜学と言う事でバカな学生も多かった。

まあねぇ、大学生と言う種族は大方バカと相場は決まっては居る。何故なら大学に入っても、殆んど勉強をしないからだ。私は本来なら慶應義塾大学に生きたかった。まあ、私の頭では合格は難しかったが。そんな中、私の弟は小学校から私立に入学した。何せ、勉強が命の次に好きな子だったから。幼稚園の頃に女の子と遊んで居て、彼は自分の考えた答案用紙と宿題を郵便受けに入れて「お勉強しよう」と言った幼稚園児だった。お陰で何時も煙たがれた。私立の小学校の入試テストが終わった時には、どんな問題が出て答えはこうだよと言って居て。試験会場で自分の子供の様子を見て居た、親御さんたちが、皆、弟に聞きに来た程だった。そして親の面接になった。あのバカ親父は、それなのにどこをどう聞けばと言う様な話をして仕舞い。困った母は「主人は、何か勘違いをして、思い込みをして居ますので、話は私が中心で致します」と言ってその場を収めて、門から出て来たら「あなたねぇ〜〜!!もし落ちたらあなたのせいだからね💢!!!」と大喧嘩になった。何しろ、あのバカ親父は。私の勝手掛かって居た立川のクリニックで「先生、息子の精神病は人に移るんでしょう?」と聞いた程のバカだ。どこの世に精神疾患が赤の他人に移る事があるのだ!!当時の主治医は怒って居た。「お父さんは一体何ですか!!」私はそう言われた。私には何時もチャンスが廻っては来ない。高校、大学はちゃんと受験をして、自分の手で掴み取った学校だった。

私は、訳があって中学を卒業する時に、家の関係で、高校は夜間高校に行くしか無いかとも、一瞬頭を過ぎったが。流石に学校の先生は、ちゃんと全日制の高校を受けなさいと言って居た。だから全日制の高校受験をした。しかし大学は夜学だった。まあ、程度は低いだろうけど何しろ高校は兎も角。大学は拓殖大学の商学部の夜学科だ、しかし今はその学科は無いと言う。拓大では商学部の夜間部は数年前に廃止になったそうです。私は母校はあるが正確な学科は無くなって仕舞った。私には全てのものが無くなろうとして居る。もういいだろう神様此れで、、この間、5人位の人に私はアニメの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の番組を焼いたDVDを上げて見た。観た感想を聞いては見たが結果、皆さんの反応は、「忙しいから、、あんなの見られてないわよ。」と言う反応しか無かった。誰からも「ありがとう」のお礼は何も言われなかった。訪問看護師には見たいと言うので。貴重な映画を録画した洋画のBlu-rayを上げたが。結果は同じだった。人から物を貰ったら。「すみません。有難う御座います・・・。」では無いのか。私はDVD代を掛けて時間を裂いて録画して居るのです。だから私はもう2度と他人に上げるのは辞めようと思って居る、ああ、恋人は別だ、何時もありがたがってくれるから。今回の話は此処までです。この後も話は続きます、、、

 

 

 

私が好きで応援して居る青木志貴ちゃんです。彼女は声優さんで、モデルで、舞台俳優で、歌手で、自分のアパレルブランドのデザイナーで、ゲーマーで、コラムニストでYouTuberです。皆さんも応援して下さいね、、☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

散歩だけど、久々、書店に行って見た。つらつら見て回り、「意味も知らずにプログレを語るなかれ」「意味も知らずにブルースを歌うな!」「戦いの音楽史」の計3冊を買って帰って来た。どれも音楽を論じた本です。「戦いの音楽史」の著作「みの君」は大した博識だ。まだ35歳ぐらいだろうに。此れだから最近の若者は侮れないですよ。情熱と狂気の20世紀音楽史を、流暢な言葉でしかも判りやすく語って居る....。ローラーコースターやら、最近では、ブルースハーピスト石川二三夫のバックバンドで、軽快なブルースギターを弾いて居る小出斉が書いた「意味も知らずにブルースを歌うな!」はブルースの代表曲の歌の歌詞を日本語に翻訳して。その曲の歴史的意味にも迫って居ます。そして「意味も知らずにプログレを語るなかれ」だ。プログレは曲が長い、曲調が何度も変化しジャズやクラシックの影響、変拍子それがプログレッシブ・ロックだ。プログレの長い曲では言葉数が増える。そんな詩を書くのは文学趣味を持つ、アーティストが多い。だからどんな小説や詩からどう言う影響を受けたかも書いてある。此の3冊は最近の音楽書籍としては値段も安い事もあり。一度読んで見られる事をお勧めします。

 

 

 

「鬼畜」

 

「人間、捻くれる奴は、何を遣ってもどんな環境に居ても捻くれる。人間は追い詰められた時に真価を発揮する物だ......。」アントニオ猪木の言葉です。私の父親の会社に、小学校もまともに行って居ない人間が居た。私は今から40年前、もう、抗精神薬を飲んで居た。そして後遺症があるので、利尿剤も飲まされて居た。だからオシッコが近かったのだ。でも、何故か出て来るまで時間が掛かった。そして残尿感が凄かった。だから働いて居て、トイレが一番の問題だった。私は会社の社員で、小学校中退の岡本と言う男の車に乗せられた。そしてその男に、いい様に嫌がらせをされたのだ。何故ならゆきかず寄りの人間だったからだ。私がトイレに行きたいと言うと、大抵その男もトイレに来た。そして私が男子用トイレでズボンのジーパーを開けて立つと、岡本は私のすぐ後ろにピタリと寄って立った。私は唯でさえ、オシッコが出にくい。だから、私は暫く、りきんで居る。すると後ろから彼が言うのだ。「何してんの。さっさとションベンすれば良いだろ」私は言った。「後ろに立たないでよ」するとこう言う「ケッ!へぇ〜。そんなに高級な生まれをして居るの〜〜!!」私は尿が出て来ない。だから立って居ると岡本が言う。「〇〇ちゃん、ションベンなんか出ないんだろ!!」私は仕方が無いんで、オシッコをするのを止めるのだ。そして車に乗り込む。それでトイレを我慢する、そう言う事が1回や2回では無い。私は強力な精神安定剤を飲まされて居る。だから頭が回らないのだ。嫌がらせだ...。だから岡本と車に乗ると。膀胱がパンパンに腫れて激痛が走る様になる。大体時間にして5時間はトイレで出て来ないのです。そして私は付いに我慢が出来なくなって、隠れて立ちションをやる事に成って行った。ある時など我慢に我慢を重ねて電柱の影で立ちションをしたら、鈍い痛みと共に血が混ざって出て来た事があった。

 

岡本は会社に帰ってから、ゆきかずに私は嘘つきだと話す。ションベンがしたいと言っても、ションベンなんか出無いと言うのだ。するとゆきかずがやって来て。私に「嘘をつくな!!」と言う。私の敵は彼らだけでは無い。肝心のバカ父親も「岡本から聞いた。お前はションベンなど出無いんだろ!!」と言うのだ。ある時に私は親父の車に家族と一緒に乗った。しかし矢張りトイレが近い利尿剤のせいだ。だから親父に言ったのだ。「トイレをどこか探してくれ」と。すると、親父は言う。「立ちションをしろ!!」....。私は怒って言った、「最近は立ちションでも見つかると、軽犯罪法で罰金になるんだよ!!」そしてファースト・フード店かガソリン・スタンドで用を足す事に成る。しかし出ないのだ。どんなにりきんでも出ない。すると親父が言う「おりゃ、岡本から聞いて居るんだ!!ションベンなどは出はしねえんだ!!」当時私は東京医大の精神科に罹って居た。だから新宿方面に行った時に診察日では無いが、病院に駆け込んだ。親父は車で待って居た。そして、私が、先生に尿が出にくいから、出る様に薬をくれ、と言うと、また利尿剤が処方される。私は殆困って仕舞った。そして車に戻ると親父がこう言った「いやぁ〜おめえが精神科なぞに罹って居るから、此処で待って居たら親戚のよしきちが車を側に停めて病院に入って行った。おりゃぁ、顔を手で覆ったぞ〜〜。」

 

ある時に、矢張り、岡本の車に乗せられて、得意先回りをした時だ。私は何時もの通り嫌がらせをして来るので、また電柱の影でオシッコをして居た。すると、どこかのおばさんが自転車で通りかかった、そして「フン!!良くもまぁ〜。どう言う奴だ!!」と私を睨みつけて側の自宅に入って行った。私は嫌なババアだなと思ったが、やっとの事でオシッコをして、配達に来た家に置きにバイオレットを2体担いだ。ちなみに一体は25kgあった。 肩には50kg がのし掛かる。その粉糖を留守にして居る客の家のドアの前に置いたら。その隣のさっきのババアが出て来てこう言った。「あんた!!何して居るの!!そんな粉糖を置いて、警察に言うわよ!!」私は製菓材料の会社の社員だと言った、すると、またこう言う。「何が社員なものか、髪の毛を浮浪児見たいに長く伸ばして!!良い加減な事を言うんじゃ無いよ!!」そうしたら岡本がやって来て言う。「おい、ちゃんと仕事をしろ。やあ、かあちゃん、こいつは、おらさの連れです」「あんたは連れに立ちションさせてるの!!」私は頭に来たから、其の儘そこを離れ、「どこに行くんだ・・・」と言う岡本の車には乗らずに黙ってその場を後にした。そして通りに出てから電車に乗り込み。新宿に出た。そしてジャズ喫茶「サムライ」に行って夜遅くまでバーボンを飲んだ。午前1時に成り店は閉まって仕舞うので公園に行った...。そして1夜を過ごした。家には帰ら無かった。

 

そして翌朝に成って家に帰ってから、大切にして居た愛用のエレキギターESー335を手に取った。そして暫く見て居た。思い出が蘇って来る....。思えば8年間良くこのギターで演奏した物だ。私はギターにキスをして「今まで有難う」と言って、ギターと電池で鳴る小型のMarshallのアンプ。MPー2Rを持ちだし、玄関先に出て、ブルースを弾いた。涙が出て来た。会社の事務員の女の子がそれに気づいて側まで来て聴いて居た....。私はそれから自宅の側の道路に行った。そして目を瞑って大上段に降り被りギターを振り上げた。それから道路に何遍も叩きつけた。ギターのネックがぼっきり折れたが、同時に私の手もザックリ切れて血が滴り落ちた。私は血を滴らせながら、憮然と立って居た。それを観て居た岡本とゆきかずと親父は吃驚して私を観て居た。私は家に入ると自分で包帯とガーゼと軟膏を取り出して血を拭い。軟膏を塗って包帯を腕に巻いた、すると親父が家に入って来て。私の名前を呼んで狼狽て居た。しかしすぐに何処かに行ってしまった。母は黙って見て居た。壊れたギターは翌日の朝、ゴミ捨て場に捨てられた。そうしたら、馬鹿な岡本と会社の社員たちが言った。「おいエレキギターが捨ててあるぞ。拾って帰ろうかな!」「いや、あれ壊れて居るぞ...。」

それから暫くの間、私はもう車には乗らなかった。そして外回りは辞めて倉庫番と成った。誰も文句は言わなかった....。ギターに付いては日頃思っては居た。もうバンド活動は出来ないのだ。ギターがあったら、未練が残る。私は何もかも諦めたかったのだ。暫く経って、私は会社を辞めた。その後、岡本は得体の知れない奇病に罹った。筋萎縮性側索硬化症(ALS)だと言う、筋肉が固まって小さく成り痙攣を起こし。もの凄い激痛に襲われるのだ。彼は言った「おらさは何か悪い事をしたんだろうか・・・。」ゆきかずの胃には穴が空いて悶え苦しんで治療した。親父は肺癌に罹りそれから骨ガンに罹って仕舞った。そして死んで行った。岡本は唸りながら死んで行った。死ぬ間際に野獣の咆哮見たく声を挙げたと言う。私は捻くれはしなかったが、周りは皆んなおかしく成って行ったのです。私は思って居る。どんな試練がこの先に待ち受けて居るかは分からない。今はたった一人暮らしだ。この先。此の儘、好きなブルースとジャズとロックをブルースハープで演奏して。映画を見て音楽を聴いて本が読めればそれで良い。私にはもう身内と呼べる者は恋人を除いて誰も居ないのだから、それだけが生きて居る証なのです。あと生きても10年ぐらいだろう。此の儘、此の儘で良いのだ。人は傷が深い程他人に優しくなれると言う。私はこれからも人の役に立つ人間に成りたいと思う。

 

 

下のハーモニカ・アンプは購入した時に箱が大きいので、大きいのかなとか思っていたが、梱包を解くと可也小型のアンプだった。早速、ハーモニカ用の小型のシェイカー・マイクとオールド・スタンバイを手に持って鳴らして見た。一応アンプに付いているツマミで音が割れる処まで動かしてみる。出力が小さいのですが、使い勝手は良いです。部屋でアンプを通して小さな音で練習するには丁度良く、音の広がりも良いし、歪み具合もツマミで切り替えられるし、コーラス、フェイザー、トレモロとエフェクターの効果ツマミもあり、小型アンプの割には良い作りだ。満足して居ますよ。購入して良かったと今更ながら思って居ます。

 

 

"Orange Dude Blues" - John Sebastian Annie Raines harp duet 

 

下は、押井 守氏の「人狼」「紅い眼鏡」から、2次創作した「紅い少女」です。よく出来て居るので、是非皆さん見て下さいね。面白いですよ・・・・・。(((o(*゚▽゚*)o)))♡

紅い少女(ケツネコロッケのお銀) 

 

 

 

 

Yohji Yamamoto: “Designing men’s clothing is very difficult for me” | V&A 

地雷系?女子メイクに挑戦してみた。 

#StayHomeWithMe 一緒にお家で猫と過ごそう 

 

 

「別荘に泊まったこと・・・。」

 

1980年代の初頭、姉が結婚した旦那の実家が逗子に平屋の一軒家の別荘を持って居た。そんな関係で、逗子のその別荘に泊まりに行った事がある。6日間、夏の暑い盛りに、海水浴に逗子に行ったのだ。その別荘はなんと海から500メートルくらいしか離れて居なく。庭には海岸に居る小さなイソガニ「(磯蟹、学名Hemigrapsus sanguineus) は、十脚目モクズガニ科(旧分類ではイワガニ科)に分類されるカニの一種。西太平洋の熱帯から亜寒帯地域まで広く分布し、和名通り海岸の水際や水中でよく見られる。」が朝になると何処から来るのか、湧いて出た。そんな別荘で、姉と旦那、そして、親父と母、私と弟とで楽しい休日を過ごして居た。

始めの2日程は昼は「レストラン・ラ・マーレ」と言う。正装でなければ入れないフレンチ・レストランに食事をしに行ったが。レストランに入って見たら、なんと安岡力也が美女を連れて食事をして居た。私は思わず、「安岡力也が居る・・・。」と口走った。姉さんたちは毎年、此処に来るそうで、芸能人は見慣れて居ると言った具合だった。また緩く弧を描く逗子の海岸。その西側、原生林が生い茂る小高い山の崖上に、忽然と白い城塞のような建物が建って居た。石原慎太郎さんの逗子にある邸宅だ。眼下には海が広がり、逗子と葉山のマリーナからの艇の出入りが望める。

姉さんの旦那と弟と私でそんな石原邸を観に行ったりして居た。夜は海岸まで出て花火をして最寄りの海の家でかき氷とアイスクリームを食べた。夕方になると魚を積んだ小型トラックが来て、私たちは新鮮な捕れ立ての鯵を焼いておかずにして夕食を食べて居た。しかしこの楽しい休日も、会社で「娘の旦那の実家の別荘に行く」と親父が言った事で台無しに成った。親父の2番目の兄貴のよしきちがその話を聞き付けて、息子のさとしと共にやって来たのだ。さとしは当時18歳で生意気な奴だった。さとしは弟と同じ成蹊小学校にいたのだが中学の時に万引きをして学校を退学に成って居た。その後、彼は他の高校に行き、この頃は漫画家として生計を立てて居た。

よしきちは海岸に来ると、私はラジカセでジャズを海岸で聴いて居たのだが、「周りの皆んなに聞かせてやれ!!」と言う。よしきちの家では矢張り息子のさとしの兄のまさおがいつも大音響で窓を開けて、ジャズのレコードを掛けて居て。私なぞは「まさおちゃん。こんなに大音響で窓開けて聴いて居たら近所迷惑じゃない?」と心配して言うと「いいんだ、俺は近所の連中に聴かせてやって居るんだ!!」と言って居た。私は叔父さんは一体どんな子供の育て方をして居るのかと毎回、訝しく思って見て居たものだ。まさおは、下北沢にあるブルース・バー「ストンプ」を根城として居て、或る日、私に来てくれと言ったのだが、私は行かなかった。「ストンプ」は今はブルース・ギタリストでシンガーでもある近藤房之助がオーナーを務めているが、昔はブルースをこよなく愛し、以前、ウエスト・ロード・ブルース・バンドのマネージャーもされていた正井芳幸氏が経営者だった。彼は2015年1月16日に亡くなった。今は近藤房之助が経営者だ。。。

 

近藤房之助-Same O'l Blues.mpg 

Sweet angel 近藤房之助 

WEST ROAD BLUES BAND 

 

よしきちには妾が居て。二人の息子は妾の子だった。子供の頃、まさおは弟のさとしの頭をよく拳でぶん殴って居た。さとしはそれが元で小学生の頃はどもって居た。話を元に戻す。よしきちは、金持ちだが、私が一人で海岸で日光浴をして居ると来て、「ラジカセの音量を上げて皆んなに聞かせてやれ」と言うのだ。私は呆れてしまい黙って居たら。「〇〇よぉ〜、俺は金忘れて来てしまった。缶ビール買ってくれないか?」と言うのだ。「初めっから集るつもりなんだろう!?」と思っては居たが、買ってやって渡すと喜んで飲んで居た。そして、従兄弟のさとしは夜に成るとポーカーをやろうとトランプを持ち出した。私は拒絶してやらなかった。実にバカくさい!!

よしきちたちは残りの3日間居た。私は親父に言った「あんたはどうして喋ったんだ!!会社で得意げに娘の旦那の実家には別荘があるだとか言ったんだろう!!」と怒鳴った。さとしは家からラジカセを持って来て居て。「ウルトラセブンの歌」。「ウルトラ警備隊のテーマ」などを掛けて来て。お前はどの曲がいいと思うと言って来た。私は特撮オタクでは無いが、ウルトラセブンが名作なのは解る。そしてウルトラセブンの挿入歌「ULTRA7」は好きな曲だったので、それを言うと「何だ、皆んながいいと言う曲が好きなんだな?」と言い「僕はウルトラ警備隊の曲が好きだ!!」とラジカセに合わせて歌い出し。「キ〜〜、ガシャン、ウルトラホーク発進〜〜!!」と身ぶりを交えて喚く。。。

ULTRA7(東芝レコードVer.) 

明らかにおかしい?彼は18歳だ。そしてその様子を見て居た、よしきちが何とも言えない苦渋の顔で、息子のさとしを見て居た。私は自分のラジカセで当時最後のバンドとなったジャズとブルースを演奏するバンドでのライブ音源を聴いて居たら。さとしが「ケッ!!見せびらかしやがって!!」と怒鳴って居たが、構わず聴いて居た。そして5日間は過ぎた。よしきちは少しは悪いと思ったのだろうか?「後で返してくれれば良いから」とソニー製の14型のモバイル・カラーテレビを置いて。5日目の朝にさとしを連れて高級外車に乗って帰って行った。私は要約、静かになったと思い。テレビのチャンネルを廻して見たら。丁度、「あしたのジョー2」のホセ・メンドーサ戦の最終話が放映されて居て、それを観て食事をして次の朝には自宅に帰って来た。

そして夏は終わり9月に成った或る日、従兄弟のまさおが天ぷらを揚げて目を離してお勝手から自分の部屋に行ったら。フライパンの火が天井まで上がり火事になり、よしきちの豪邸は燃えて仕舞った。私と弟は取り敢えず筆記用具と下着の着替えを持って見舞いに行った。さとしは焼け跡を彷徨って探し物をして居たが。まさおは私を見つけると身長185センチ体重98kgの巨体を揺すぶってやって来て。まるで他人事の様に「〇〇ちゃん!!此間遊びに来たのは何時だっけ?」と言うので。苦笑いをしたら。「綺麗さっぱり焼けちゃってさあ・・・俺のトランペットなんか熱でひん曲がってしまったぜ〜〜!!」と言うのだ。どうせトランペットなぞ、金にモノを言わせてセルマーの高額な物を買って持っては居たが....ピーとも吹けなかったではないか?と突っ込みたくなったが。火事を出した本人がニコニコして居たのでなんだかねぇ〜〜。と言った感じだった。まさおは「ウエントン・マルサリス」「アート・ファーマー」が好きだった。

 

Milt Jackson & Benny Golson & Art Farmer & NHØP - Whisper Not 

Wynton Marsalis / Stardust

そして、それから半年ほど経った頃。よしきちが自宅にやって来た。丁度1月も半ばだった物で、私は丁度、購入したばかりのナショナルのビデオデッキが応接間にあったものでそれに録画をして居て、6千8百円ぐらいした自分で買った電気ストーブを部屋から持って来て使って居たら。やって来て。「いいのあるじゃないか?俺にそれをくれないか?」と言うのだ。このよしきちと言う男は、金があるのに何時も人の家に来て此方が使って居るモノをくれと言う。私は子供の頃にミニカーのフォルクス・ワーゲンやシトロエンなどを持って居たのだが。それを寄越せと言って私から強引に取って行って息子のまさおに渡して遊ばせて居た。私はハッキリ言った。「嫌です・・・。」そうしたら「なんでお前は俺に逆らうんだ?俺にくれてもいいだろう?」と言うのだ。

私は「なら6千8百円下さい。そうしたら挙げても良いですよ!」と言ったら唖然として「お前は解らん男だなあ、この俺がくれと頼んで居るんだぞ?」としつこい。私が「少ない、こずかいで購入したんです!!あなたはお金持ちでしょう!!自分で購入したらどうですか!?」と断固断ったら。機嫌を損ねて「俺は帰る!!」と要約、帰って行った。それ以来うちには来なくなった。最近聞いた話では、それから、まさおは5歳年上の女の人と結婚し、2人の女の子を儲けて短大まで行かせた。以来、親戚付き合いをして居ないから、詳しくは解らないが、まさおは体重が110キロに成って、さとしは漫画家では喰なく成ったらしい。そして、よしきちは直腸ガンになって手術をしてから調子は物凄く悪いらしいと、今から10数年前に聞いた。よしきちは親父の2番目の兄貴だ。親父は10数年ほど前に72歳で亡くなって居る。よしきちも、生きて居れば87歳ぐらいだ。もう生きては居ないだろう。

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部屋は片付けたので殆んど片付居た様だ。狭いのですぐに散らかるが・・・鞄に書類とまとまった現金が入って居たのだが。もう2万も使って居る。メガネをいつものレーバンのと違ったメガネに変えて見た。メガネはまた作らなければ成らなかったから。その時に3丁メガネを作った・・・。だから今は5丁メガネはあります。しかし今日は部屋を片付けて見たが。なかなか片付かないです。引越しの荷物を箱から取り出さないと行けない。ただ、タンスとか置き場も無いので、箱に暫くまとめて入れて置くと思う。あと、要らない服は思い切って断捨離する。。。。しかし老けたでしょうこの写真見てそう思いませんか???

 

「彼女のこと・・・・・。」

 

恋愛だけで結婚が成り立つ世界は漫画か小説かテレビ・ドラマだけだ!!実際結婚は余程に考えないと仕手は行けないと私は思う。前に、アラン・ドロンが言って居たが結婚は3分で出来るが離婚は3年掛かると言って居た。エリック・クラプトンの自叙伝を読んでも、若い頃の恋はすぐに成就したが長くは続かなかった様だ。二人ともちゃんとした人に巡り合ったのは50歳ぐらいに成ってからだ、私は勝手好きな女の子が居た。その子は勿論一緒の大学だったし、私が行った大学は3流大学だったし、夜学だったから。だから頭はあまり利口だとは言えなかったかも知れない。でも人間が出来て居た。私と映画館に映画を観に行っても何時も自分からアイスクリーム売りを呼んで2つ買う。昔は映画館で上映の合間にアイスクリームを持った売り子が来て、皆んな買って居たものです・・・。

私が金の事を言うと、「そんな事は気にしないで、、」と言った。時代も時代だったが少し古風な処があった。何故かと言うと実家が旅館経営だったからだ。また親御さんは漬物屋もやって居た。お父さんはジャズ・マニアだった。だから何時も私にジャズのライブビデオを、お父さんからアメリカとか、海外のものを譲り受けて私に持って来てくれた。余り美人では無かったが小柄で可愛い子で何時も明るく元気で人を立てた子だった。私はそこに惚れて居た。まだ20代前半にしては30歳ぐらいの考え方が出来て居た子だった。私はゆきかずを恨んで居る。あんな馬鹿な奴のために私は掛け替えの無い女を失った。彼女とデートと言うと決まってゆきかずが邪魔をしたのだ。彼女が外国で仕事をする事になり。お別れにジャズ喫茶で最後に会おうと言って居たが。ゆきかずが邪魔をして会わせない算段をした。だから会う事は出来なかった。未だに残念に思って居ます。私は、今でも思う事が結婚相手にはある。

それは人間的に私よりも利己な人がいいと言う事だ。弟は亭主関白に成りたいなどと、時代錯誤も甚だしい事を言って居た。しかし男のそんな見栄は女の人が家庭に入れば粉々に粉砕されるだろう。それは女の人の方が男より利口だからだ。私は中学から高校2年ぐらいに好きなクラスの女の子が居た。その子はカトリーヌ・ドヌーブに似て居た。要するに美しかったのだ。しかし美人薄命と言うか、いつも悪い噂を立てられた。男を誑かすとかそう言った類の話だ。私は何時も庇って「そんな子ではないよ...。」と言って居た。何時頃だろうか、私が高校の学食で食事をして表に出た時だ、ずぅーと人の視線を感じて居て、ふと後ろを振り返ったら、その子が私の後ろに居て、

「さよなら・・・。」と言い何か言いそうになったが、消える様に居なく成った。それ以来その子は学校に来なく成った。引っ越して行ったのだ。高校は私立だ。だから通ってくるはずだと思った。しかし、その子は来なかった。そして風の噂で高校を他の高校に編入したと聞いた。私は安堵した。何故ならその子は小学校から一緒で私と共に賞状を何回も貰って居た子だったからだ。頭は良かったと思って居た。そして私は良かったと思った。今頃はもう結婚して家庭を持って子供も成人して、早ければ孫が居る歳だ。前に、今から30年ぐらい前に、その子を渋谷で見かけた事がある。イケメンの男性と歩いて居た。髪をカールして、素敵な女性に成って居た。女の子は華だ。生きた華だと私はそう思う。私には、今、可愛い恋人が居る。私とは歳も離れて居る。彼女とはこのgooblogで知り合った。彼女は優しくそして知的な女性だ。趣味が同じと言う事で話が合うのです。彼女はアニメスタジオの仕事をして居る。アニメの仕上げ担当です。だから彼女はサブカルチャーやら映画に詳しい。私はいつも彼女から色々と学ばせて貰って居る。恋人?そうでは無い。それ以上の存在、肉親に近い。何時もメールでやり取りをして居る。

ほぼ身内の様に、まあ、文通の様なものです。彼女は私の事を前はお兄ちゃんと呼んでくれて居た。私にとっては愛しい妹だったのです。まだ、彼女とは会った事は無い。彼女の写真は見て居るし彼女のTikTok の動画も見て居るので、顔は知って居る。彼女も私のblog記事での写真で私の事は知って居る。だから私は今幸せです。こんなに可愛い人が私には出来たのですから。彼女は苦労をして来た女性です。だから私が統合失調症で障害があっても気にしないと言ってくれた。優しい女性です。しかし何時の日か、彼女と会いたいと思って居ます。彼女は地方に住んで居て私は東京と言う事もあるので、なかなか会えませんが、それにコロナと言う事もあるし、、でも一度は逢いたく思って居ます。彼女はまだ正式には周知の中では無いのです。お互いに会った事も無いしね。しかし私には大切な人です。彼女無しでは生きられない。そんな存在です。

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