寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

昔の話、、、(過去記事から抜粋しました。また読んで見て下さいね。。。)

 
青木志貴ちゃんのブランドGreen Eyed Monsterの服です。限定発売のために品薄だそうです。。。
 



プレゼント開封の儀!
 
しかし志貴ちゃんは可愛いなぁ〜〜。。。

 

親父の思い出で、いいものは皆無だ。会社では私が倉庫番をやって居たら、自分が外回りが出来ないと言って、倉庫に来て居て、私がラジカセで音楽を聴いて居ると、「そんなものを聞くな競馬を掛けろ!!」と言いたい放題。挙げ句の果てには競馬のノミ屋を会社に連れ込んで私が邪魔だと言って、「てめえは外に行ってろ!!」と怒鳴る始末。私がそんな会社が嫌になり従兄弟のゆきかずからの嫌がらせもあって会社を辞めて家に居ると、夜12時に帰って来て、私が楽しみに観ている放送大学の「芸術論」「メディア学」を見させない算段をする。私の前に来て夕刊を広げて観るのを邪魔をする。私が怒ると「おめえはバカだ!!勉強なぞは学生時代だけでいいんだ。あとは遊んで暮らせばいいんだ。」と大バカな事しか言えない。そしてバカ親父は会社が5時半に終わってから、パチンコ屋に行き夜12時の閉店までパチンコをして居た。聞く処に寄ると、親父は金が無く成るまでパチンコをして、金が無くなると隣の人がやって居るのを見て居たそうだ。そして隣の人が呆れて「じじい!!球ならくれてやらあ!!」と投げつけられた球を拾い、それでまた2時間遊び。そして球が無くなると、今度は床を這いつくばって落ちて居る球を探し。あるとそれでまた遊ぶ、乞食のような真似をしても恥ずかしくは無かったバカだ。

会社で一緒に働いて居た頃。或る日、親父が私に食パンを買って来いと言う。何故だと思ったが自分で食べるのだろうと思い買って来ると。それに会社の倉庫にあるサンプルのジャムを塗れと言う。そしてそれを皆んなに配れと言う。私は「こんなものをあげても誰も喜ばないよ!!」と言うと「おりゃあな、みんなに缶コーヒーを奢れば8百円は掛かるんだ。これなら百八十円ですむ!!」と言う。私が「金がないなら奢らなきゃ、いいだろ!!」と怒っても私に皆んなに食パンを配れと言う。「私が配ると社員は困った顔をし、私にいらないと返してくる」するとあのバカ親父は「儲かったじゃねえか、お前が喰え、美味いぞ!!」と言う。「いい加減にしろバカヤロー!!」と私がブチギレてバカ親父を怒鳴りつける有様だった。バカ親父にビデオデッキを挙げた時だ。当時14万8千円の安いビデオデッキだったが。親父の寝室のビデオデッキが壊れて居て無いので、挙げてテレビに繋げて「これでビデオテープが見られるよ」と言ったら、「これは幾らしたんだ」と聞く。「安いものだから14万円だよ」と言うと「だからおめえはこれを幾らに値切ったんだと聞いて居るんだ!?」と聞く。私は呆れて「新品なんだから定価だろ!!」と言うと「見た所、箱もねえし、新品じゃないだろう!!いくらで買った、いくらに値切ったんだ!!」と言うのだ。

私は激怒した、親父が好きな時代劇を録画して観られる様に、一週間前に私用の予備のビデオデッキとして買って居たものだ。それを挙げたのに。。。そして自分は小遣いを全部パチンコ。競馬。オートレースにつぎ込んで、金が無くなると、姉さんの家にまで行って「今日のパチンコ代、2万よこせ」と言っては姉に怒られて帰って来るバカだった!!そして私にも「今日はおめえの運がいいんだ。だから俺に1万円を寄越せ」と言って来た。私が賭け事も程々にしろと怒ると、「おりゃな、遊ばせて貰ってるんだ。金なぞ幾ら掛っても遊び代だ」と言う。親父が肺がんで入院した時に、弟の友人の内科医が見舞いに来て「お父さん、パチンコ屋に毎日7時間余りも居たのは良くなかったですねぇ」と皮肉を言われたが。私が「タバコの煙が充満する処に毎日6時間から7時間も居て、ガンにでも成ったらどうするんだ」と言って居たが「おりゃ、生きても72だ。俺の親父が死んだのは72歳だ、人間はそう生きられねえんだ!!」と言って居て、言う事を聞かなかった。呆れ果てたバカだった。ガンが末期に成って、骨ガンに転移して医者から酸素呼吸器を充てがわれて居た時に、私がバカ親父の手を握って、「意識があるのなら手を握り返して来な」と言ったら、凄い勢いで握り返して来たが、私はその時思った。「あれほど言ったのに自分で命を詰めて、こうやって思いっきり握って来るとは、死ぬのが嫌らしい。もう遅いんだよ、あんた...。」

親父は安楽死だった、医者が注射を打って息を引き取らせた。私は自分に流れて居る親父の血を嫌だと思う。私は親父の家系は大っ嫌いだ。親父は明治大学を卒業したと言うが私は疑って居た。大卒にしてはバカすぎるからだ。親父は学生時代、香料の会社でバイトをして居て、大学を卒業してから香料の会社に勤めたと言うが、本当に明治大学を卒業して居たら、そんな会社には就職しない。親父は会社を立ち上げた、菓材材料の卸問屋だ。兄弟の兄と一緒に立ち上げた。しかし、近所の人は、特に家の裏に住んで居た宗教に凝って居た人が、「〇〇さんは立派な会社なぞ立ち上げて、此れも何も神様のお陰だから、気張って寄付をしてくれないと困るよ。」と周りもロクでも無い事を言って居た。親父は優秀だった弟が医大に行く勉強をして居るのに、「頼むから俺の後を継いでくれ、医大なぞは行くな、高卒でいい」と言ったそうだ。弟は毎日夜遅くやって来てそう言って来ると怒って居た。菓材材料の会社なぞ、今はどこも潰れて居る。会社会社と自分が作った会社をなんか特別に凄いと思い込んで居た。私は子供の頃、板チョコを買って貰えなかった。板チョコが欲しいと親に言うと、親父が厚さ3センチはある原料用の板チョコを割って持って来て「これを食え、同じチョコレートだ」と言うのだ。厚みがあって食べられない。そして甘くは無いのだ。

子供の頃は親父が学校で同級生にチョコバーがうちにあって一個80円だと言えと言うのだ。小学生当時チョコバーは人気があった。同級生の子供らは私から話を聞くと、当時130円して居たチョコバーが80円で買えると皆んな喜んでこぞって買いに来た。親父はうまく在庫が掃けたと喜んだ。一から十、そう言った具合だ。私はよくダシに使われた。親父は材料を下ろして居る相手の会社が倒産すると、その会社の倉庫から食料品を持って来て会社で売って居た。よく、バターだとか油、小麦粉などを仕入れて来ては私に学校で安く売ると言えと言って居た。その度に私はそう言い、友達のお母さんが買いに来た。1990年代に成ると会社は何億の儲けを出す会社に成って居た。そして親父が苦労して育てた会社は、親父と一緒に経営して居た兄とその子供に乗っ取られた。親父は「俺はもう駄目だ」と泣き崩れた。弟はそんな親父に「後の生活は自分が金を家に入れるから」と言って慰めた。親父と母は戦後すぐに出会った。母が神田神保町の新星堂の本屋に書店員として勤めて居た時に親父に会ったそうだ。母は初め親父のことを同僚に言うと「あの人だけは付き合うのやめた方がいいよ」とよく忠告されたと言って居た。母は当時3畳半の下宿で一人暮らしをして居た。母は17歳で両親に死なれて居る。自分を好きで通ってくる親父に根負けして結婚したらしい。

親父は3畳間の母の荷物を荷車に乗せて母を連れて自分の実家に来させたそうだ。そして結婚式は自宅で挙げて一緒になった。母は苦労した。姑は鬼だった。親父の父親は嫁の母が大好きで付いて回ったそうだ。いつも母の30センチの処に居て、母が体を動かすと必ずおじいちゃんにぶつかったと言って居た。そして実家を出た親父たちは長屋に住み、その長屋を売って2階家を立てた。2階家を立てた時に、実家兼会社は社員と住むための2階家で、お勝手を広く取ったのは、社員たちに食事を取らせる為だと言った。私は自分の部屋は無いのかと聞いたら、社員を住まわせるために家族が使える部屋は2部屋だけだと言う。私は小学校2年生なりに「それはおかしいんじゃ無い。お父さん達が立てた家じゃ無いの?」と言った。しかし従業員は初めのうちは2階のお勝手まで食事を食べに来て居たが、悪いと自分で食べ物屋に行って食べる様に成った。1階は会社だ。2階には部屋が5部屋あった。そのうち2部屋に学生を一部屋に2人ずつ置き。母が下宿屋を始めた。残り3部屋のうち1部屋がリビングで、もう一部屋が親父と母の寝室。残り一部屋が姉と私の子供部屋だった。私は姉と布団を敷いて寝た。1960年代から1970年代初頭。私はよく部屋で朝方早く置きて居た。明け方の5時になると決まって掃除婦のおばあちゃんたちが、家の前の通称「青バス通り」を10人ぐらいで大声で話しながら通って行った。その後小学校3年生ぐらいになると部屋は姉専用の部屋になり。私は廊下の角の空いたスペースに机を置いてそこが私のコーナーと成った。

私は中学に成るとその廊下の角にベニヤ板と秋葉原で買ってきた1千円のスピーカーを使って、自分でスピーカーボックスを作ってラジカセを繋いで鳴らして音楽を聴いて居た。そして高校生に成った時に1階にうなぎの寝床程の部屋を増築した。そしてそこが私の部屋と成った。その部屋は大学を卒業するまで私の部屋と成った。私は部屋に靴箱の横長のものを置いて、その上にビデオデッキとテレビ、ステレオを置いた。音楽はバイトで買った3万幾らかのモジュラーステレオを買って聴いて居た。広い横長の靴箱の上に家電は全て乗せて、下の靴箱の中にレコードとビデオテープを収納して、その前にベットを置いて居た。そして人と会うときは行きつけのブルース喫茶で会って居た。やがて自宅はマイクロソフト社を立てる為に、地上げ屋に地上げされて土地を他に用意して貰い、今度こそ自宅だけの家を建てた。この時、親父の兄貴がやって来て。「一階を前みたいに会社にしてくれ」と言って居たが、親父は兄貴に「何!都合のいい事ばかり言ってるんだ?会社は雑居ビルの1階に入居すると言っただろう!?」と言って取り合わなかった。正解だった。私は今度は10畳間が自分の部屋と成った。弟は自立したいと言い、4畳間と3畳間そして10畳間を貰い。階段は外階段をベランダに付けて貰った。

私は10畳間一部屋で暮らして居たが、ビデオテープが1千本。レーザーディスクが400枚ぐらいに成り、またレコードも400枚ぐらい合ったものだから部屋が狭く成って居た。楽器演奏をする為に、10畳間は防音に成って居てギターアンプとエレキギター2本とベースが1本、ブルースハープとハープ用のアンプもあったので、隣の6畳間ものちに貰う事に成った。そして問題が無ければそのまま暮らせる筈だった。しかし親父は先に書いた通り亡くなり弟は結婚して田園調布に家を持ち。母は認知症に成り。困った私は、弟が出ていった部屋の10畳間を300万掛けてリフォームしてトイレとシャワールームを付け、10万で貸して、働いて貯めた金とその10万で認知症の母と共に暮して来た。しかし、自分が障害を持つように成ったら、姉弟からは家を出て行ってくれと言われ、今度は弟の援助で、月11万のデザイナーズ・マンション、8畳間と5畳半の2部屋の処に住み、暮らして居た。ビデオテープ1千本は持って来れず実家に置いて居たが、弟が亡くなり。実家は処分された。その時にビデオテープも処分された。そして家賃が払えなく成り、今、こうやって6畳間と5畳間の5万円のアパートに越して来て、今が有ります。何遍も言う様ですが持ち金で暮して居る為に今年の夏までは住めると思いますが、それ以降は生活保護で暮らすつもりです。障害があって働けないですから。仕方が無いです。。。

 

紀伊国屋書店に行って来る。まあ、散歩がてら見てきた。此の間、ネットの古書店で本は購入して居るので立ち読みです。

 

 

 

ー1960年代ー

1966年それは来るべき炸裂を予告する様な年だった、4月にフランスで出版されたフーコーの「言葉と物」がその謎めいた文体によって人々を魅了し始めた頃。ビートルズはコンサート活動に終止符を告げる、そして狭いスタジオの中に立てこもる。1967年。フランスでは昨年来、奇妙なモードが氾濫して居た。若者たちが、前年に発表されたフーコーの書作をかかえながら、ビーチに集い<人間の終焉>と言うつぶやきをモードとして受け止めていたのである。その年、ジミ・へンドリックスやジャニス・ジョプリンなど、その後のロックを決定するミュージシャンが相次いで群衆の前に姿を現し、ジャック・デリダと言う哲学者が「グラマトロジーについて」と言うスキャンダラスな書物を発表して居る。日本では、前年から放映されて居た「ウルトラマン」が最終回を迎える、秋から新シリーズとして「ウルトラセブン」の放映が開始された。そしてビートルズは急激に豹変した。コンサート活動を休止した成果が、67年に「サージェント・ペパーズ」となって結実したのである。レコードと言うメディアから何かが炸裂したと言っていいだろう。そこにはステージで再現不可能なロックが有りレコードに固有の臨場感だけが唸りを上げて居た。又ビートルズは同年、コンサートやレコードとかけ離れた方向から人々の前に姿を現して居る。すなわち、スタジオである楽曲をレコーディングしながら、その光景を人工衛星によって世界中に中継して見せたのである。

その数年前にJFKの暗殺シーンが世界を駆け巡った様に、ビートルズのレコーディング風景が地表のすみずみにまでばらまかれた。日本では夜もしらじらと開けると言う頃NHKで放映された。ビートルズはいったい何を達成したのであろうか?単なるレコーディングによって、それまでのどんなコンサートより遙かに多くの聴衆を自室のモニターの前に釘ずけにしたのである、私はたまたま朝早く起きてしまってテレビを付けたら、この映像が流れて居て、観たのを覚えて居る。1967年が重要なのはビートルズが群集の前から姿を消したからでは無い。彼らが群集を前に演奏するとは別の形で、それもきわめて意図的に公衆の面前に出現したからである。ビートルズは関係の触接性を放棄した訳では無いし、メディアを介した間接的な関係の中に埋もれてしまった訳でも無い。自体は逆の方向に進んで行った。一見すると局所的な空間に制限された「今ー此処」のアクチュアリティが各地に分散し、異なる時空に開かれた「今ー此処」へと切り開かれて行った様に思われるであろう。しかしながらビートルズはコンサートに嫌気が指して居たのだ。或いはこう言って良いだろう。ー叫びにかき消されるような現在など、始めから無に等しく、それ故に彼らはアクチェリアリティの亡霊を追い払ったに過ぎないのだと。

すでに19世紀の頃から現在とは点である事を辞めて居た、出来事は縦横に層をなし、多数の場所で複雑に交差して居る。現在とは、ある一点における炸裂では無く、幾つもの層を貫いて前後にぶれ、そのぶれの中で過去にすでに反復され、やがて未来に反復されるべき出来事に成って行った、この点を実戦的に証明する事により、ビートルズはナム・ジュン・パイクの予言を正確に実現して。パイクに並ぶ先駆者の栄光まで手にし得たのである。「ウルトラマン」も、また、やがて「真夜中のカウボーイ」の中に引用されるだろう。映画の中のテレビ画面に「ウルトラマン」が上映されたのである。しかし「ウルトラマン」が前年に終了し、「ウルトラセブン」が渇いた都市の風景を描写して居た年、すなわち1968年にはまた別な出来事が炸裂し始めていた。日本では全学連による新宿騒乱が起こり全共闘の学生たちは「ガロ」に掲載されていた白土三平の「カムイ伝」をバイブルとしたのである。そしてジル・ドールズが「差異と反復」を発表し、吉本貴明が「共同幻想論」を出した年でもあった。1969年1970年と年は変わりアポロは到達したが革命の時代はやっては来なかった。若者は挫折し打ちのめされ、時代は変貌を遂げて行った。そしてビートルズは「レット・イット・ビー」を発表したのだった。

 

The Beatles - A Day In The Life

Girl (Remastered 2009)

Michelle (Remastered 2009)

Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (Remastered 2009)

While My Guitar Gently Weeps (Taken from Concert For George)

 

Hard Rock Cafe

 

処で幼稚園の頃から小学校低学年の頃だが、父方の祖父は聞く処に寄ると、工事現場の主任をして居たそうで、左手が麻痺して居て、ゆだれが止まら無い状態だった。なんでもある日、仕事から帰って来てから大飯を喰らい寝てしまって、起きたらそう言う状態に成って居たそうだ。医者に連れて行っても原因が解らないとの事だった。その祖父は飛行機が好きで、親父が何時も車に乗せて羽田まで飛行機見学に連れて行った。勿論、私も付いて行った。よく親戚の従兄弟が付いて来る事もあった。私は羽田のロビーで、レストランにあった唐揚げを見て生まれて初めて見る、唐揚げと言うものに興味を示し食べたいと言ったら、一緒にいた従兄弟たちまで食べると言い出した。勘定は全て此方持ちだ。私は食べた後に母から拳骨で殴られた。「お前が食べると言うから今日は幾ら掛かったと思うんだ」と言うのだ。従兄弟はゆきかず、けんじの他に、あと4人居た。何時も着いて来る様に成って、私たちはウンザリして居た。私が何か買うと、従兄弟らが自分にも買ってくれと母に言うのだ。そのせいで何時もそいつらの分まで母が買ってやる羽目になり。私はその度に母から拳骨で殴られた。

思えば子供の頃からいい思い出など無い。しかも皆んな私立に小学校から行って居るのだ。私は子供心なりに私立のちゃんとした小学校から中学校、高校、大学に行けば、素晴らしい大人になれると信じて居た。私は家に居た、慶応大学の学生やら上智大の学生を見て居て、あんな大学生に成れればいいなあと思って居た。しかし思いは叶わなかった。父が会社の経営者であっても、薄給なのだ。だから自宅を下宿屋にして学生を5人も置いて居たのだ。母は苦労して居た。私は前に此のblogで書いた通り、小学校2年生の時に扁桃腺の手術をした。それまでは、何時も40度の高熱を度々出しては寝込んで居たからだ。身体はガリガリに痩せて居た。父は二番目の兄貴の家によく私を連れて行った。二番目の兄は築地でまぐろ問屋をして居て金持ちだった。自宅は日本庭園がある広い純日本家屋の豪邸だった。私は何時も「原子力潜水艦シュービー号」と「バットマン」のTVドラマを、そこの家のカラーテレビで観て居た、当時まだ、カラーテレビは発売したばかりで鮮明に色彩は付いては見えず。観れた代物では無かったが・・・。しかし私は当時、子供達に人気だったバットマンとロビンの活躍を面白く観て居た。

そして小学校2年生の時に扁桃腺の手術をする為に、父の二番目の兄貴が知って居た医院まで母に連れられて行った。先生は温和な先生で「坊や、おとなしく手術を頑張って受けるとお母さんから何が貰えるのかな?」と聞かれて、「宇宙家族ロビンソンの、宇宙船のプラモデル!」と嬉しそうに言ったら。「そうかじゃあ、痛いけど我慢だね」と言われた。手術はハサミ状の先が丸っぽく成って居て先端が鋭利にギザギザに成っている器具で扁桃腺をねじり取ると言う方法だった。喉に局所麻酔を注射で4、5本打たれて、「さあ、取るぞ坊や!我慢しろよ!」と言われその器具で腫れている扁桃腺を掴むと一気にねじり取った、片方を取り、もう片方も同じくねじり取った。麻酔が効いて居た為、思って居たほど痛くは無かったが、取るときの音が凄かった。手術器具でねじってブチ切るのだ。バリバリ、ブチと言う音がした、大きな音だった。扁桃腺を取ると先生は私に見せてくれた。何とゴルフボールぐらいはあろうか、2つとも随分と肥大して居た。

医者は其れから直ぐに自分の布団を敷いてくれて1時間程、横になって居なさいと寝かしてくれた。だんだん麻酔が切れて来ると、鈍く扁桃腺を取った後が痛み出した。そして、橋の上で屋台の焼き芋を買って(何故か覚えて居る)タクシーで家まで帰って来た。それから水差しにカルピスの冷やしたものを入れて、2ヶ月半ぐらいはそれしか飲めなかった。それからおかゆを3ヶ月ぐらい食べて治るまでに半年は掛かって仕舞った。私はそれまで学校の成績は良かったのだが半年授業を休んで居る間に勉強に付いて行けなくなって仕舞った。その後は前にblogに書いた通りです。成績はガタガタに悪く成って行った。自分では誰かに半年休んで居た分を教えて貰いたかったが、それは叶わなかった。誰も勉強など教えてくれはしないのだ。その後、明日テストだと言う度に父の妹、まあ、叔母さんが従姉妹を連れて来て、泊まりに今日来いと強引に自宅に私を連れて行った。「叔母さん、僕は明日テストだから勉強しないとだから行けないよ!!」と言って居るのに強引に連れて行った。

そして叔母さんが教えるとか行ってトンチンカンなことを教えて、「かおり!お前は私立に行ってるんだから、こんな公立の勉強なんか、簡単に出来るわよね〜え」と言うのだ。今考えれば嫌がらせだったのだ。。。。そうこうして居たら、北海道から明星大学に通う学生が下宿人として来た。前にも書いたけど、この北海道から来た大学生は、ヤケになって明星に入ったと言う学生で。本当は東大でも入れるぐらいの頭脳明晰な頭をして居た。私はこの大学生に飛び付いた、家に居る時はどうせ自分の部屋など無いのだし。この学生の部屋に入り浸ってこの学生が読んでいた「ガロ」とか「COM」を読ませて貰った。子供向けでは無い白土三平の「カムイ伝」とか、つげ義春の「ねじ式」「赤い花」とかを読んで、そして寺山修司やら蜷川やらの芝居を知った。この学生は結局6年間はうちに下宿していた。しかし、親に下宿屋の子供の勉強を見てやって居ると、何気なく言ったら送金がストップされて仕舞い。下宿代も払えなく成って仕舞った。

その学生は慌てて母に事の次第を伝えたら、母は下宿代は要らないからと言って下宿代をタダに仕手置いてやって居た。ただ夜寝る前にラジカセでラジオをタイマーを掛けて、ロックなどを聴いて寝て居て朝起きるとラジカセが無いのだ。初めは何故無いんだ?と思ったがよく耳を澄ますとその学生の部屋からラジオが聴こえてくるのだ。「お兄ちゃんか....仕方がないなぁ〜〜。」と思い部屋に行って「勝手に寝てる間に取ってかないでよ...。」と行って返してもらう毎日だった。でも時には丸一日貸して挙げて居た事もあった。何せ、その男も複雑な家に生まれて居て、親は居なくて育ての親に育てられて居たからだ。送金が一銭も送って来ないのだ。でもその学生が大学に行って居る処を私は見た事が無かった。専攻が建築設計なので、テストの時だけ図面を引いて居たのは見たが、テストの成績は満点を取って居た。恐らく姉さんやら、私が居なくなった後、明方近くまで勉強して居たのだろう。

 

「紅い花」(つげ義春)映画ゲンセンカン主人(1993年石井輝男監督)より 

つげ義春はなぜ懐かしいか Part2 音楽;寺山修司、総監督:秋蛇星 2016.12.12発表 

 

その学生の友達は冬は何時もマキシを着て現れた。お兄ちゃんも長髪にして居たが、その男はもっと長く髪を伸ばし、そしてレイバンのサングラスを何時もして居た。ただこの男は水商売の女に引っ掛かり大学を中退して仕舞った。お兄ちゃんは嘆いて居た。

そんな彼がたまにバイトをして居るなと思ったら、トランペットを新宿の楽器屋で買って来た。私は興味津々で「お兄ちゃんジャズやるの!」と聞いたら。甥っ子に買ってやったそうで。音楽を嫌って居た。高校で吹奏楽部に居た甥っ子はプロのトランペット奏者に弟子入りすると言うのだ。あんなものはロクなものでは無いと怒って居た。中学1年になって私が質流れのガットギターを弾いて、ブルーノート・スケールを弾いてロックぽく演奏し始めたら「〇〇ちゃん、ほらほら弾き方が普通の人とは違うよ。そんな本格的にロック見たく弾く様に何時の間に成ったんだい。辞めた方がいいのに!!」と怒って居た。そして大学を卒業すると北海道の実家に帰って行った。

 

【祝! 芸能活動再開報告記念!】GACKT特別インタビュー@マルタ共和国「忘れていた幸せ」「GACKTの日常」「GACKTの手料理?!」NORTH VILLAGE 北里洋平が再びマルタへ!

 

私が高校2年の頃だ、従兄弟のまさおが火事を出して豪邸が燃えて仕舞った。まさおは親が金を持っていたのでトランペットやらギターを持って居たが、全然演奏出来なかった。火事になる前に一度遊びに行った時に彼が、「俺は上手くはないけど友達は弾けるぜ」と行ってギターを取り出したので、貸してみてと行ってバーニー・ケッセル風なジャズ・ブルースを弾いたら、驚いて聴いて居て、「〇〇ちゃんは絵だけじゃないんだ?ギターも弾けるんだ!!」と驚いて居たが。絵に付いては私が嫌がったのに必ずたつきちの家に行くと、バカ親父はお前は絵を描けと言うのだ。嫌だと言うと怒る。しょうもない見栄の為に自分では何も対抗が出来ないので私を代わりにダシに使って居たのだ。全く嫌な話だ。しかし金があると言う事は凄いもので、焼け跡にすぐに業者が入って前とは違った超近代的な3億の豪邸をすぐに建てた。処でバカ親父が2度目の家を建てた時に、うちの前に小さな庭を作ったのだけども、兄貴達の影響でか、この時代に、会社の社員に石を持って来るのを手伝わせて並べて居るので家族で一体何やってんだと怒ったら「兄貴たち見たいに、日本庭園を造るんだ灯籠も買って此処に3つ並べるんだ!!」と言うので私が、物凄い勢いで「今は平成の世の中だ!!何、何時迄も昭和30年代しか頭に無いんだ。何言ってるんだ!!あんたはバカか!!」と怒鳴りつけた。

石はかしろうの家に置いてあったし、灯籠はたつきちの家に置いてあった。私は怒声で言ってやった。「あんたね。少しは考えな!モダン建築の家を見てみるとか、建築家の本を買って見るとか家を建てる時に何もしなかっただろう。何時迄、昭和30年代で止まって居るんだ、少しは勉強したらどうだ!!」と言うと、「オリャ〜兄貴見たく成りてえんだ!!」と叫んで居たが、家族全員で「灯籠なんか買わせないから!」と言って辞めさした。当時は建築家では礒崎新とか有名で安藤忠雄とかが出てきた当初で、2度目の家も三菱地所で建てた家だった。最近では建築家では右上純也などが有名ですね。今度の家は、私は楽器をやったり、映画とか音楽をドルビーサラウンドのケンウッドの4チャンネル・サラウンドのステレオで聴くので部屋は防音室作りに成って居た。バカ親父は本当にギャンブルと時代劇の事しか頭に無かった。私は映画のビデオ・ソフトを買い。コレクションして居たので、例えばダミアーノ・ダミアーニ監督のマーティン・バルサム。フランコ・ネロ主演のネオレアリスモの系譜を引いて居る名作「警視の告白」やらコスタ=ガブラス監督の「Z」「戒厳令」らの社会派映画やら、マカロニ・ウエスタンの名作「群盗荒野を裂く」「続・夕陽のガンマン」やらフィルム・ノワールの名作。アラン・コルノー監督のイブ・モンタン主演作「真夜中の刑事」ドッチオ・テッサリ監督のアラン・ドロン主演作「ビックガン」などや勅使河原宏監督の「他人の顔」「砂の女」寺山修司の「書を捨て町へ出よう」「田園に死す」などを始め親父とお袋には相当数の映画を観せた。

親父にもお袋にも押井守の「天使のたまご」「ゴースト・イン・ザ・シェル・攻殻機動隊」などのアニメも観せたが、気に入って居た様だった。ところが貸した後、テープに酷いノイズが入って居たり蓋を開けると明らかに傷が付いて居るのだ。何故だと思い。或る日、親父にテープを貸して観に行って見たら、テープを戻しのサーチで再生しながら巻き戻して居る。慌てて部屋に入って行って「なんでこんな事をやって居るんだ!!だからあんたに貸すとテープにノイズが入るんだろう!!」と止めたら。「バカヤロー!!こうしないと巻き戻らないんだ!!」と言うので。「バカヤローはどっちだ!!観終わったら停止ボタンを押して巻き戻しだろうが!!。操作の仕方も解らないのか!!分かった。もうあんたには貴重なテープは貸さない!!2度と今日から映画は観られないと知れ!!自業自得だ!!バカヤロー」と言ってそれ以来2度と貸さなかった。私は自慢をする訳ではないがビデオソフトは1000本ぐらいは所有して居た。障害を持つ様になってから実家を追い出されて、親父が死に、弟が死に姉が実家を売る時に、此方には知らせずに売って仕舞った為に実家にあったビデオテープ。録画したものも含めて1000本のビデオテープがどう処分されたんだかは解らない。電話が姉から、ケア・マネージャーのところに掛かって来てセコムを1時間だけ空けと居てやるから、必要なものは取りに来いとの事だった。1時間で実家に行くまで20分は掛かるどうする事も出来なかった。

私は今は6畳間とお勝手5畳間の部屋に住んで居るが、2年半後に引っ越す予定だ。今度は6畳一間とあっても3畳半か4畳ぐらいのお勝手の所だろう。ビデオテープも実家から持って来たものが40本ぐらいあるがこれも廃棄処分だろう。皆さん自分が大切にして来たものを捨てなくては成らない気持ちが分かりますか、訪問看護師や区役所の職員などは本棚が二つあると言うと本を処分しろと言う。まあ、人の事だと思って言いたい放題だ!!落ちぶれたくは無いものです。。。。それから訪問看護師に言える事だけども、特に若い子。あのねぇ〜〜いくら障害で此処数年着るものもいいものを着ずに、ブクブク醜く太って居たからと言ってもねぇ〜〜薬の副作用だから、・・・歳の差はねぇ、、変えられないんだよ。あんたらは、まだ此れから結婚したり、結婚してるなら子供をちゃんと育てたり。俺の歳までにはやらなきゃならない事が山程あるんだよ。俺はね、もう人生一周した人間なんだよ。同列に考えなさんな。バカにしたけりゃバカにしな。そんな事はどうでもいいんだよ。それにね、女と男を同列に比べなさんなと言いたい。俺はもう生きても十数年という歳なんだよ。。。それから私が何か気の利いた事を言おうとするとせせら笑う。私は訪問看護師たちに、いい気になって愚痴だとか生い立ちだとか言い過ぎたんだよな。

私は自分の事を解って貰いたくて、言っている面もあったがもう言うの辞めた。此れからは病状の事だけしか言わない様にする・・・・それから、こう言ったblogの事だけども。無料なんだから自分でも書いて見れば良いじゃないか........気に成るならば・・・・それからこのblogに書き込みしたかったならしていいよ。仮名を書けば言いたい事が描けるだろう。大体が私は昔からなんでも一人でやって来た。誰も頼りに成ら無いからね・・・・生活保護に成るまで此処で暮らしたいよ。出来ればね、親は駄目。姉弟からは見捨てられる。他人は駄目。毎日死ねと言われて居る様なものだよ。私はもう姉も頼りにして居ないし。誰も頼りに仕手居ないよ。自分一人だけだよ。最近出来た優しい妹が心配してはくれるけど。言っとくけどあの世なんて無いから。解剖学者が言って居たけど。ガンとかで死ぬ寸前まで苦痛の表情を浮かべて居た人が。死ぬ間際になって急に温和な顔になって死んで行くと、皆さん天国に行ったからだと言うらしいけど。苦しんで居た顔が死ぬ間際になって温和で穏やかな顔になるのは、死ぬと硬直して居た筋肉が普通に戻るからだそうです。縮まって居た、筋肉の筋が伸びるからだそうですね。天国は関係無いよ。ただ身体機能の停止で穏やかな顔になるだけだから。私が今一番望んで居る事は安らぎだけだよ。

 
「Follow me」
 
Follow me to a land across the shining sea
Waiting beyond the world we have known
Beyond the world the dream could be
And the joy we have tasted.

私について来なさい、光り輝く海を渡り、
我々の知るこの世界の彼方で待っている国へと
夢見たことさえ無い世界が、
味わったことの無い喜びが待っている国へと。


Follow me along the road that only love can see
Rising above the fun years of the night
Into the light beyond the tears
And all the years we have wasted.

私について来なさい、愛だけが見ることのできる道を通って、
歳月を重ねた夜の喜びよりも高みへ昇るその道を、
決別の涙も及ばず、
費してきた歳月も及ばぬ、光の中へと。


Follow me to a distant land this mountain high
Where all the music that we always kept inside will fill the sky
Singing in the silent swerve a heart is free
While the world goes on turning and turning
Turning and falling.

私について来なさい、この高い山の向こうの遠い国へと、
そこでは、私達がいつも内に持っていた全ての音楽が空を満たすでしょう
静寂なる逸脱の中で歌えば、心は開放され、
そして、世界は周り、回り続け、
回って、落ちてゆくのです。
 
 
 Ghost In The Shell Innocence - Follow Me 

 

話がズレたが、、親父は銀行とか行ってもお金を積む事も、下す事も出来なかった、特にATMに成ってからは、私にやり方を教えろと言って来たが。一切教えなかったし、母も教えなかった。まあねぇ・・・あのゲーム機のようなパチンコは出来たのにねぇ〜〜必ず1日、1万、2万掛けてすっても、自分は遊ばせて貰ったんだ。だから対等な対価だなどと、言って居たけどねぇ。。それに機械音痴というか、姉さんは今年で65歳ぐらいになるけど、パソコンはキーボードが打てません。ローマ字打ちも出来なければ、キーボード・アレルギーで本当に簡単な操作しか出来ません。まあ、文章は書けないでしょうね。このgoo blogを見て居ると70歳過ぎの方、80歳になろうと言う方。などが沢山居られますがねぇ...。さて、書く事も、もう無くなって来たので。今回も此処まで読んでくれて有難う御座います。最近、私のblogは荒れてますがそう言った心境なので、まあ、長い目で見てやって下さいね。。。今この文書きながら、HDに録画して居た蝶野正洋選手司会の、過去の新日本プロレスの番組見ながら書いていますが、昔のプロレスは良かった。藤波辰爾の過去の試合映像ですが。地方の試合で、体調悪くてちんたら試合して居たら。アントニオ猪木が竹刀持って入ってきて「てめえら、何ちんたら試合してるんだ!!」とぶん殴られたそうですね。客がビックリして居たとか。。。まあ、ゆきかずちゃんの言った事だけども、タイガーマスクこと佐山聡がダイナマイト・キッドと試合して居て床に倒れて居て、ダイナマイト・キッドがトップ・ロープに上がったら起き上がって雪流れ式ブレーンバスターをしたのを見たらしく。「八百長じゃないか!!」と言って居たので「はぁ〜〜?」と言ったら本当に倒れて居たら立ち上がらないから八百長だと言うのですよ。選手は試合の流れを見ながら演出面も考慮しながら戦って居るのですよね。なんでボクシングに10カウントがあると思いますか?あれはダメージを受けても10カウントまで休めるようにです。プロレスじゃ受け身を選手は知って居るので、まあ、あとは相手を油断させる為に、わざとダメージを負って居る振りをしたりとか駆け引きですよね。な〜〜〜〜んにも分からず。私が1980年代にプロレス・ブームでプロレスを見ていたら「〇〇!!お前はバカだ。あんな八百長見て居て、解らないのか!!プロレスなんて観るのやめろ。このバカがよぉ〜!!」と言ってたけど。「お前が余程のバカだろ。。。。ゆきかず。。」

 

炎の飛竜・藤波辰爾必殺技集

 

 

あんたさ、フランスに会社の親会社と言うか、うちの業種は特約店制度だったから不二製油の社員と共にフランス行った時に手帳に「『I can’t speak English』と意味、私は英語を話せません」と書いてさあ〜「あい、きゃんと、すぴーく、いんぐりっしゅ」とひらがなでなんで発音書いてあったの?中学生レベルの英語だぞ。前に外国人が道聞いてきたので私が「I don’t speak English.」と言ったら笑って聞いて居てさあ、私は「私は英語を話しません」と言ったまでだぞ?。大学で何習ったんだ貴様。自分がどれだけバカか考えた事あるのか?まあ、前に先に車に乗って居てと言って。「またか!!」と思って居たらぐちぐちいびり出したんで(笑)「あんたは、皆んなからどう思われているのか知っているのか!!自分が利口だとでも思って居るのか!!」と怒鳴ったら「言わないでくれ〜言わないでくれ〜」と耳塞いで泣き出して。当時私が40歳、貴様が50幾つだったよなぁ〜〜お前一度首くくれや、ゆきかず。。。ああ、また、ゆきかずの事を言ってますね。この位にして置きます。ああそれからこんな簡単な英語はみなさんご存知だとは思いますが。can't 出来ません。don’t しません。は使い分けるといいですよね。そんな簡単な英語は知ってるわい!!と怒られそうですね。すみません・・・・・

I mostly don't understand English      「ほとんど英語が解りません」

この文は私が外国人と話すときによく使います。だって解らないから(笑)

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痩せたと思っていたら、また太った。体重計がおかしいのか、、太りすぎです。。。。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾

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『 21世紀の哲学へジル・ドゥルーズ』

「ジル・ドゥルーズの写真」の画像検索結果

『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』ついに日本語字幕版発売! 

 

1. オイディプス的構造を乗り越えるために

「何時の日か世紀はドゥルーズ(Gilles Deleuze)のものとなるだろう」とフーコー(Michel Foucault)が予言して、はや数十年の月日が流れた。この間、現代哲学の主流はフランスのポスト構造主義から英米を中心とした分析哲学へと移行し、ドゥルーズの弁を借りるなら哲学はまさに哲学内部から出現した哲学の暗殺者によって殲滅の危機に瀕して居ると言える。

ドゥルーズにとって分析哲学は科学の範疇に属するものにすぎず、またそれが科学である限り思考をオイディプス化に導くものであり、生命の力を衰退させる否定的な力の側に与して居るのである。こうした現代哲学の窮状を見れば、フーコーの予言にあるドゥルーズのものとなるはずの「世紀」がもはや20世紀でなかった事は明らかだが、翻って此の21世紀は果たしてドゥルーズのものとなるのであろうか???。

「哲学とは概念を創造する事である」とドゥルーズはつねに言い続けて来た。概念とは一般に事物が思考によって捉えられ、かつ表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容の事を言う。ドゥルーズ自身、表象=再現前化を一貫して批判し続けた哲学者だった事を考えれば、彼が論じる「概念の創造」における概念と言う言葉が持つ意味は一般に使用されるそれとは全く違うものである事は容易に想像出来る。

2011年に生起した「3.11」という出来事以降、生命の力に対する迫害や抑圧を国家と個の間におけるダブルバインドと言うかたちでより一層リアルに感じるようになったわれわれ日本人にとって、ドゥルーズの言う「概念の創造」はこのダブルバインドを人間にもたらして居るオイディプス的構造を乗り越えるための唯一の方法であると感じて居る。その意味でもドゥルーズが彼の哲学において一体何を企図して居たのか今一度真摯に検討を加えて見る必要があるだろう。

この小文ではドゥルーズの絶筆となった『現働的なものと潜在的なもの』と言う小論をもとにドゥルーズ哲学のエッセンスとその思考のベクトルが秘めた可能性(ドゥルーズならばそれこそ潜在性と呼ぶだろうが)についてその概要を探って見たい。

2. 現働的なものと潜在的なもの

『現働的なものと潜在的なもの』はクレール・パルネ(Claire Parnet)との共著での『対話』の中の巻末付録として設けられたわずか7ページほどの短い論考である。ドゥルーズ哲学の最も基底的な骨格とされる「現働的なもの」と「潜在的なもの」と言う二つの概念がそのままタイトルに付されたこの論考がドゥルーズの遺稿となった事は決して偶然ではないように思われる。

周知のようにドゥルーズの思考の足跡は大きく四つの時期に区分する事が出来る。まずは思想史家としてヒューム、ベルクソン、ニーチェ等の研究をスタートさせ、第二期はそれらの研究成果を『意味の倫理学』差異と反復と言った主著の中でドゥルーズ独自の理念論として発表する。第三期になると一転、精神分析家のフェリックス・ガタリと共同して『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』を著し、自らの理念論をより実践的な思想とするために社会学的、政治学的な分野へとその応用可能性を論じていく。第四期は打って変わって知覚論や感性論へと分け入り、『感覚の論理』『シネマ』等の極めて深遠なドゥルーズ的芸術論を繰り広げる。『現働的なものと潜在的なもの』はこうした思考の遍歴を経た後に自らの思想の一つの総括の様にしてしたためられた。

元来、「現働的なもの」と「潜在的なもの」と言う対比概念は『差異と反復』の第二章「それ自身へ向かう反復」で示されたドゥルーズの時間論にその多くを負って居る。此処ではその詳細を語る余裕がないので別の観点からの説明に止めざるを得ないが、「潜在的なもの」とはドゥルーズが考える理念の様態の事であり、「現働的なもの」とは潜在的なものが諸々の種や対象として現象の中にあらわれ出たものの事を言う。通常、この現働的なものと潜在的なものはドゥルーズ哲学を支える二元的要素に見られがちなのだが、しかし、これら両者は決してプラトンのイデアと仮象のような短絡的な二項関係を意味するものではない。

ドゥルーズが展開する生成の地理学においては、この両者は互いが互いを包含するような形で、ある二つの仕方において一つの回路を形成して居る。それはドゥルーズに言わせれば「ある場合には、潜在的なものが現動化されるような巨大回路の中で、現働的なものが[自ら]とは別のものとしての潜在的なものに向かうと言う仕方で、ある場合には、潜在的なものが現動的なものと結晶化するような最小回路の中で、現働的なものが自分自身の潜在的なものとしての潜在的なものに向かうと言う仕方」においてである。

此処で巨大回路と最小回路と言う明瞭な対比で言及されて居るように、ドゥルーズによれば、生成は現働的なものと潜在的なものとのカップリングによって絶えず変動を起こしていく〈時-空間〉的力動であるのだが、このカップリングの仕方には大きく分けて二つの類型があるのである。それは単純明快に言えば力が大きく開いて生成を産出する場合と、力が小さく閉じて生成を産出する場合の二通りの仕方と言っていいだろう。力が大きく開いて働く場合は潜在的な諸力が浮上し、現働的なものとして作用して居た諸力はあくまでもその補完部分の中に取り込まれる。反対に、力が小さく閉じて働く場合には現働的なものが自らの中に潜在的なものを押さえ込み、潜在的なものを表象=再現前化の再帰的円環の中に閉じ込めて仕舞う。

ドゥルーズ哲学に敢えて二元論的要素を見て取ろうとするならば、このような二通りの生成の回路の在り方がそれに相当すると考えなければならない。これら二つの生成の回路は『意味の論理学』で論じられたところのクロノス的時間における生成とアイオーン的時間における生成とも言えるだろうし、スピノザ(Baruch De Spinoza)に即して言えば、順に能産的自然と所産的自然と呼ばれるものに相当するだろう。

このような新しい二元論的図式の構想はドゥルーズの中ではすでに「ニーチェと哲学」において用意されて居たと考えてよい。何故なら、この二元性はニーチェ(Friedrich Nietzsche)が能動的な生成と反動的な生成と呼ぶものにほかならないからである。ドゥルーズがニーチェの哲学の中に見たのは、これら二つの回路の切り換えを決行する蝶番とも言える「根源」の到来についての思考であったと言ってよいだろう。この「根源」の到来は周知の通り「存在するものすべての最高の形相」であるところの永遠回帰と呼ばれて居るものの事である。ドゥルーズは言う。「根源には、能動的な力と反動的的な力との差異が存在する。能動と反動は継起的な関係にあるのではなく、根源そのものにおける共存関係のうちにある」のであり、「反動的な力の側から見ると、差異的な系譜学的境位は逆さまに現れる」と。そして、此処で逆さまに現れる差異的な系譜学的境位こそが、潜在的なものを最小の回路の中に閉じ込めている現働的なものが主導権を握ったわれわれ人間=自我と言う反動的生成の場なのである。

つまり、根源には根源の転倒した「人間」と言う像が常につき纏って居るのだ。ドゥルーズが絶えず哲学に「概念の創造」を要求するのもこのニーチェ的な「根源」としての永遠回帰の場所性から見たものとして考える必要があるだろう。となれば、「概念の創造」とはニーチェの言うところの「力への意思」の言い換えでもあり、ドゥルーズにとってこの「概念の創造」が力の発生論的な境位であるとともに、かつ諸力の総合の原理たる理念となるのは理の当然となる。ドゥルーズはこの確信を以て、『差異と反復』において諸力の総合の原理をそのままドゥルーズなりの超越論的構成の原理と重複させて語って居る。

つまり、現働的なものが支配する超越的な場の中で「思う我」と「ある我」との両極の間でひび割れていたデカルト的コギトはニーチェの言う「価値評価する視点の転倒」を自ら是正する事によって自らが形作る〈現働的なもの/潜在的なもの〉がただ反復するようなクロノス的円環に捻りを入れ、このひび割れを修復するような超越論的運動に入ると言う事である。この新たな境位において主体は今まで文字通り潜在化して居た潜在的なのものを純粋な内在性のうちに自らの本性として発見する事になる。潜在的なものが現動的なものの支配下にあるうちは単にベルクソン的な持続としてしか働くことはなく、表象=再現前化の運動の中に絡み取られてしまう。それは「反動的諸力は能動的な力からその一部ないしほぼすべてを抜き去り、そしてそれによって能動的になるのではなく、逆に、能動的な力を反動的諸力と合流させ、新たな意味においてそれ自体反動的となるようにする」からである。

ベルクソニズムが哲学の中に潜在的なものと言うアイデアを導入したのは大いに評価されるとしても、その潜在的なものの奥行きを悪戯に拡張していっただけでは、それはクロノス的時間の中で現動的なものに回収されるにすぎず、神秘主義と見紛うような茫洋とした生気論に終始するしかない。ドゥルーズにとってベルクソニズムをより精度の高い生成論に生まれ変わらせるためには、ニーチェという逆光のプリズムを介入させ、潜在的なものの諸力をそのままダイレクトに能産的自然の諸力として変容させる必要があったのである。ドゥルーズ哲学のキーワードとなる差異と同一性の関係についてもほぼこれと同じ事が言える。現働的なものにおいて差異は同一性に従属するものでしかないが、ニーチェ的な存在の転回においては大いなる肯定によって潜在的なものが認識の表面へと出現し、そのために今度は同一性が差異に従属する側に回ることになる。つまり、同一性は差異の系譜学的展開であるところの、「諸差異を他の諸差異に関係させるシステム」によって担保されるものでしかなくなるのである。

3. 現代物理学とドゥルーズ的思考

『現働的なものと潜在的なもの』の冒頭において、ドゥルーズは「哲学とは多様体の理論である」とも言う。ドゥルーズによれば潜在的なものも現働的なものもすべてこの多様体の範疇の中に含まれて居る。哲学が「概念の創造」であり、且つ、それが同時に多様体の理論であるのであれば、哲学とは理念としての多様体を思考によって空間的に創造する営みにほかならない。それは直裁的に言えば、〈時-空間〉的力動の在り方を現働的なものの優位性から潜在的なものの優位性へと転換させ、われわれの時空に対する知覚様式を全く別な様式へと変革していく事に等しい。この変革によって、今まで客観世界に従属して働いて居た内在野は主客関係を超越論的に総合した内在平面へと変容を起こし、そこでの概念を理念として機能させる事が可能になるのである。

しかし、周知のように、あのソーカル事件以降、「多様体」「微分」「特異点」と言ったドゥルーズが用いる物理数学的概念は科学者たちからは概念の濫用として幾分疎まれがちなものになった事は否定できない。願わくは科学者たちには細かい専門用語の用法ではなく、ドゥルーズの思考の底辺に流れるそのダイナミズムにより注意を払って欲しいものである。

量子力学が明らかにするところによれば、物理的な力の成り立ちは位置と運動量や時間とエネルギーの間の正準交換関係における差異に依拠して居る。此の事は本論で紹介した現動的なものと潜在的なものの二通りのカップリングが作る差異によって力の根源の場が生まれるとするドゥルーズの思考にいたって酷似しては居ないだろうか。かつ、量子力学から発展した場の量子論では、電磁力や弱い力、強い力における三つの相互作用の統合を高次元の複素多様体における回転対称性の拡張の中に求めて居るのだが、こうした統一理論の理論的発展の流れは差異の差異化を潜在的なものの進展と見なすドゥルーズの思考線に沿って進んでは居ないだろうか。さらに言えば、現在、超弦理論よりもより根源的な理論と考えられて居るM理論に登場する空間の極大領域と極小領域を関係付けるT双対性は、極大と極小は同じであると豪語するドゥルーズの思考に酷似しては居ないだろうか。

こうした現代物理学が到達した知の状況をも踏まえて、われわれには今、科学的思考の先端と哲学的思考の先端との協同における新しい「概念の創造」が必要なのである。ドゥルーズが長年にわたって温めて来た理念論はそのための高精度な羅針盤として欠かす事の出来ないものであり、現働的イマージュの中で捕縛された科学的な表象を潜在的イマージュの中へと回収する能力を秘めて居る。科学的諸概念がひとたび潜在的なものをベースとする領域へと価値転換を起こした時には、現代物理学が言うところの力の超統一場の理論は、文字通り、力の発生論的境位における諸力の総合の原理と奇跡的一致を見るに違いない。何故ならば、ドゥルーズが言うように科学的思考はすでに「時間の空虚な形式」としての永遠回帰を経験して居るのであり、あとはそこに流れる直線的時間を「別の円環」へと縫合するイマージュさえ加わればあのアイオーンの扉が開くことになるからである。そのときわれわれはドゥルーズが言わんとした巨大回路の入口に立つ事になるだろう。無論、これはあくまで21世紀がドゥルーズのものになればという仮定の話だが。

 

参照文献

「アンチ・オイディブス」     「一冊で哲学の名著を読む」

「ドゥールズのまなざし」     「読解・ドゥルーズの思考」

「ジル・ドゥールズ/批判と臨床」  「ニーチェと哲学」、、、

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コメント一覧

kiyasume
suisenさん、書き込み有難う御座いました、、
親父は厳しいと言うか、自分勝手なだけでした。

掲示板は私が言ったように。自動で表示出来なくする
事が出来ますので、、何遍も言う様ですが、相手のIDを
登録すれば、自動で表示されなくなりますから、、、

まあ、成りすましのコメントも相手のIDだけは解りますから、、
登録すれば表示は自動でしませんよ・・・・・・。
何遍も言うようですが、goo事務局で教えて
貰って下さいね・・・・・・。

今、私は可愛い妹と楽しく話して居ます。。。
妹が居なかったものだから、、弟は居ましたが、、
弟は亡くなって居るので・・・・・・。

書き込み有難う御座いました、、
また来て下さいね。宜しく・・・・・・。( ´∀`)
1948219suisen
kiyasumeさん、お気遣いありがとうございます。

私も一日も早くコメント欄を開きたいのですが、またあのような嫌がらせが入ると思うと、怖くて開けないのです。

kiyasumeさんのお父様も厳しい方だったんですね。それは、ひょっとすると、お父様ご自身が厳しい育ち方をなさったからなのかもしれませんね。

でも今は可愛い妹さんができて幸せいっぱいですから過去のことは忘れられますね。

どうか、そのお幸せがずっと続きますように!
kiyasume
suisenさん、書き込みどうも有難う御座います、、

なんだかね、私の父親は、どうしようも無かったですね、、
親父の会社に私を入れたのですが・・・・・・。

あの人はね、、どうしようも無かったですよ。
suisenさん、今までやられた事、または今でも掲示板を
開けば書き込まれるとの事ですが、、此のblogには、
特定の掲示板に表示したく無い人の事を、設定上
その人のIDを書き込めば相手のコメントは表示されませんよ、、

また、承認制という事ですが、、、嫌がらせ云々は
表示しませんと、掲示板の書き込み口に書き込こんで、、
設定すれば、書き込みを貰いたくない人の書き込みは
自動的に遮断出来るはずですよ・・・・・・・。

相手は何も出来なくなります。一旦保留にして、、
気の合った人の書き込みだけ表示すればいいの
では無いかな・・・・・・・。

今、suisenさんのblogに嫌がらせをして居る人は、、
多分精神疾患者ですね、、だからもう頭っから相手に
しない事ですよ・・・・・・。

それから警察は当てになりませんよ、、
彼らは被害者が暴力を振るわれたり詐欺の被害に、
でも会わない限り、何もしてくれません・・・・・・・。

だから自衛をするしかありませんよ、、、、

私はあなたに罵詈雑言を吐く人の気が知れません。
元は、なんか、suisenさんが薬に気をつけた方がいいと
言ったのが気に食わなかったのでしょうか・・・・・。

何なんでしょうかね、、その方は年配の人なんでしょうか?
随分と女性に対して失礼ですよね、今、私が言った事を踏まえて、
考えて見て下さいね。よく掲示板の機能が分からなかったら
goo事務局に聞いて見て下さいね。教えてくれると思いますよ。

どうか頑張って下さいね、、また来て下さいね、よろしく、、、( ´∀`)
1948219suisen
kiyasumeさんは物凄く辛い思いをされてこられたのですね。私には想像もできません。私は家族には恵まれてきたかもしれません。しかし昨年からいわれのない誹謗中傷されて、死にたくなるほど辛い思いをしてきました。現在はコメント欄を閉じていることもあり直接の被害を受けていませんが、それでも成りすましとかされますので油断ができません。今もトラウマに苦しんでいます。私は人を殺したいと初めて思いました。だけど私はkiyasumeさんと違って、あの世を信じています。霊魂の不滅も信じています。だから此の世で体験したことは次の世で生かされると思っています。kiyasumeさんは心の綺麗な方ですから次の世ではきっと幸せな人生が送れるだろうと思います。

それでは、また。
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