ナウシカ・レクイエム
毎度お馴染み!!kiyasumeの部屋!!万年床!!
kiyasumeが最近使っているCDラジカセ。音が凄くいいです。。。
今日の夕食。。。。チキンカレー。。。
藪睨みのkiyasume。顔つきがこわ〜〜いのです。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾
【フェルミ】※そのままだと破産します。絶対やめた方がいいお金の使い方【まとめ/切り抜き/漫画動画】
エッセイ『母よ』.....。
最近、思う事がある。私は嘗て絵が描けた。海外から賞状と賞金を貰った事もあった。若い頃は丁度、その時分に流行り始めた、アニメーションが好きに成り。アニメ業界に憧れた。そして同時に映画にも憧れて居たので、シナリオの勉強だとかもして居たし、自分で漫画も描いて居た。病気に成り、その夢は潰えた。しかし私は絵でどうやっても評価が得たかった、だから、似顔絵やイラストを書いた。母にそれを見せて当時者と似て居るかどうか聞いて見た事がある。母は怒って言った、「お前は嫌なものを書くねぇ!!観たくも無い!!」私は大学は美大に行こうと思って居た。いや子供の頃は近所の絵画教室に通わせてくれと母にねだった。なぜなら小学校や中学で同じ同級生が殆嫌に成って居たからだ。小学校6年間は毎年自分の書いた絵、ポスターなどで賞状を貰って居た。クラスの同級生は皆口を揃えて「〇〇は絵が上手いものなぁ」と言ってくれては居た。それでも僻む者も居た。しかし私は有頂天に成る事は決して無かった。今の自分の絵では物足り無い、本当の絵が描きたいと思って居たからだ。私はだから絵画教室に通えば、そこで先生に絵の書き方を基礎から学べると思ったのだ。
しかし母は行かせては暮れ無かった。私は高校に成ると漫画を描き始めた。漫画は一人で劇が出来るからだ。音は擬音(効果音の文字)を書けば、それで表せられる。そして絵だからどんな世界でも描ける、表す事が出来るのだ。だから後はしっかりとしたストーリーだ。私は高校の頃に、脚本の勉強がしたくてシナリオの書き方の本も購入した。丁度、黒澤明が映画専門学校を開講して居たからだ。私はシナリオの本で脚本の書き方を学びながら近所の文房具屋で、400字詰の原稿用紙を100枚程買い込んだ。文房具屋の親父は言った。「おいおい、何を考えて居るのか知らないけど、やめたほうがいいぞ。どうせ碌な物には成らないよ」他人は何時も足を引っ張る。私はそのうち30枚に渡って、あるストーリーを考えた。その話はSF物だった。そしてそれで映画専門学校の審査を受けた。まだ高校生だ、勿論落選した。しかしその時のシナリオの下書きは今でも思い出の品として保管してある。私はしかし漫画家で喰って行こうとは思わなかった。自分の未熟な絵など多寡が知れて居る。大体が漫画家は絵描きと同じで喰えない事は知って居た。だから自分としては映画監督、しかもアニメーション映画監督に成りたかった。あくまで映画監督にだ。
当時実写の映画業界は斜陽だった。しかしアニメーション業界は活気があった。まだ黎明期で人材を募集して居たのだ。私は当時、手塚治虫が作った虫プロの映画祭に良く通って居た。そして虫プロのアニメーターと友達に成って行った。丁度、虫プロは当時、手塚氏が負債を2億円抱えて居て倒産し、手塚氏の元を離れて別の経営者が再び立ち上げたアニメーション制作会社になって居た。だが手塚氏が離れた後も手塚氏の遺産であるアニメーションの版権は手放しては居なかった。しかし、少ないアニメーターの人数では新作アニメは撮れない。だから、アニメーターを探して居た。私はよく誘われた。「アニメーターに成れよ。一緒に働こう」私は黙って居ると「君ぐらい絵が上手かったら、十分業界で通用するし解らない事は私たちが教える」と言う。勿論アニメーターになるには試験が待って居る。しかしアニメーターには余り成りたくは無かった。出来高制だからだ、セル画一枚100円の世界だ。海外のアニメ・スタジオは給料制だ。だから外国、アメリカやら、フランス、韓国のアニメ関係者や、海外の日本のアニメファンは、日本のアニメ・スタジオで家も無く寝袋で寝起きしているアニメーターを凄いと言うのだが。実際は喰えないのだ。あの「エヴァンゲリオン」で有名な庵野秀明監督も若い頃、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」での巨神兵のキャラクターの作画を頼まれた時も住居が無く。スタジオジブリの床の上で寝袋で寝て居た。
このblogを読んで居る方はもう知って居ると思うが、私が小学校の頃。まだ手塚氏が虫プロを離れる前に、同級生の親が虫プロでアニメーターをして居た。その同級生の弁当は、何時も日の丸弁当だった。喰うや喰わずだったのだ。だからアニメーターが喰えない事は知って居た。しかし私は、それでもいいとさえ思って来て居た。要はその業界に飛び込む事なのだ。しかし親がなんと言うかだ。私の母は私が映画館で購入して来た貴重な映画のパンフレッドやら、ポスターを全て捨ててくれた。何故ならこんな物があると勉強をしないと言う理由でだ。私は学業で偉人に成れるだけの頭は無い。そして母が何と言おうが芸術肌だと思って居た。実際学校の先生からも、「学業で生計を立てるお子さんでは無い。彼は芸術肌だ」と言われて居た。母は焦った。自分の親戚でみーちゃんと言う絵が物凄く上手い人が居た。その人は或る有名な画伯の元に弟子入りさせられたが、3年間で我慢が出来ず帰って来てしまった。
「あの、みーちゃんだって来る日も来る日も絵は教えて貰えずに、掃除洗濯しかさせて貰えなかった。その道を行かせる訳には行かない.....。」だから私が美大を受けると言うと猛反対をしたのだった。弟はそんな私の理解者だった。「兄貴とみーちゃんは別人なのに・・・」と言ってくれた。母は「お前はお父さんの仕事を継げばいいのだから」と、飛んでも無い事を言い出す。親父の会社は親父と親父の兄貴が一緒に働いて居る会社だ。案の定。私が後年、障害を持つ様に成って、止む無く会社に入って居ったら、兄貴の息子である、ゆきかずはあんなに酷い嫌がらせをして来たでは無いか?イビリにイビリ捲ったでは無いか。親父は私ではダメだと踏んで、弟を会社に引き摺り込んで会社を二つに割ろうとしたが、弟は頭が良かった。本当なら東大医学部にでも入れた器があった。それで弟が医大の受験勉強をして居ると夜中に部屋に入って行って「頼むからお父さんの後を継いでくれ」などと言って「大学には行くな高卒でいい。俺と一緒に会社を盛り上げてくれ」と泣き付いたのだ。弟は私に言った。「毎日毎日、午前1時に成ると来て勉強を辞めろと言うんだよ、頭に来るよ...。」と溢して居た。私と弟は芸術家肌だったのだ。親とは違った。それに時代が違うのだ母や父が生きて来た時代では最早無い古いのだ。
母は私に何かあるとボンボン育ちをさせようとした。例えば、この話もこのblogを読んで居る方はもう知って居ると思うけど、私に大学時代付き纏って居た、宗教団体のストーカーの男が、大学の授業が終わって着いて来た時も、玄関先で押し問答をして居るのに「〇〇、ちょっとこっちに来なさい。お前は世間を知らない。あの人に教えて貰いなさい」と言った人だ。そいつには「お母さんもああ言ってらっしゃる!!」と部屋に上がられた。そしてそのお陰でストーカー行為が酷く成ったのだ。私はその後、母を殴らんばかりに怒鳴りつけた。そうしたら母は「そうならそうと言えばいいのに・・・。」と言うのだ。お嬢さん育ちをして居て世の中を知らないのは母の方だった。例えばこんな事があった。或る時に使って居たビデオデッキが壊れた。私は修理人を呼んで直して貰ったが、母は何を思ったのか小さな封筒にお金を包むと、私にあの修理人に渡して来なさいと言う。私は「何考えてるの!?」と言ったが、怒って私に渡して来いと言う。私は仕方がなく渡しに行ったらその修理人は怒って「こんなお金は受け取れないよ!」と言って突っ返して来た。私は母にそう言うと、母は私の渡し方が悪いんだろうと言う。私はやってられなく成った。その後ビデオデッキが壊れるとその修理人はすぐにヘッドが駄目になって居るといい、それ以降、調子が悪く成るたびにヘッドしか交換しなく成った。何故ならヘッドを交換すると部品代だけで1万8千円は取れるからだ。いいようにカモにされたのだ。
また、私が歯が悪く成って近所の歯医者でどこがいいかと思って居たら近所の72歳の歯医者がいいと言う。私はそんな処よりも、近所のスーパで開業して居た、最新鋭の機器を揃えて居る若い先生が居る所に行こうとしたら、折菓子を持たせてその72歳の歯科医の処に行けと言う。私は仕方が無く、そこに行ったが、何か治療が曖昧なので、母には内緒で、スーパーの歯科に行くと若い先生が診てくれて、怒って居る、どうしたのかと訊いたら被せてある歯の中に綿棒と綿が入って居たと言い。「歯科医師協会に訴える。どこの歯医者だ!!」と言って居た。私は「だから言ったのに!!」と怒った。母に付いてはまだある。私が丁度、20歳に成った頃、トレンチコートが欲しく成り、買おうとしたら母が激怒した。私はやってられなく成り。普通はニューヨーカーだとかの有名ブテックで購入するのだろうけど、デパートに行ってダーバンのものを購入しようとしたら、着いて来て、「お前はデパートの店員に騙されて居るんだ!!何がトレンチコートだ!!」とデパートの中で大喧嘩に成った。私は怒りが込み上げて来て。デパートの真下の歩道が見える喫茶店に母を連れて行き「下を見てみろ!!下を!!皆んな何を着て居るんだ!!」と怒鳴ったら下を見て「皆んなトレンチコートを着て居る・・・・」と要約、黙ったのだった。私が入院中に習った料理のレシピを纏めた紙を置いて居たら、どこにも無い。何時の間にか捨ててある。怒ると「お前は料理などしなくても良いんだよ」と言う。もう、何にも時世にもあって居ないし。はっきり言って私を困らせる事しかしない。思えば母はその頃から認知症の気があったのだと思う・・・・・。
1980年代に母がデパートでお前に買って来てやったと、灰色のダッフル・コートを渡した、どう見てもどこのおぼっちゃまが着るんだと言うショート・コートだ。私は暫く、それしか無いのでそれを着て居たが。2000年代に成って、弟夫婦と押井守監督の実写映画「アヴァロン」と言う映画を見に行ったのだが、周りを見たら皆んな、黒いトレンチコートを着て居る。モードが流行って居たのだ。私は恥ずかしく成った。それ以来、コートは7種類買い込んだ。コートフェチだ。その時の反動なのだ。
そんな訳で、私は美大に行けなかった。そしてアニメ業界にも結果的に行けなかった。親に反抗すれば家出をするしかない、それは出来ないからだ。私は大学は家の事情もあって。拓殖大学の夜学の経済学部に行った。だから、昼間はバイトで働き、あとバンド関係で忙しかったが。成績は可也頑張っては居た。2年間オール優を取った。しかし統合失調症を発病してしまった。そして今だ。しかしそんな母だったが音楽だけは何も言わなかった。私が高校の頃にプログレッシブ・ロックのレコードを聴いて居たら、母が来て、部屋の前で立ち止まって聴いて居る。後で、母は私に「お前が勉強して居ないと怒りにお前の部屋まで行ったけど、あんなにいい音楽を聴いて居るなら、仕方がないかと思って帰って来た。後で私にも聴かせておくれ」と言って居た。母はRockやJazzが好きだったのだ。若い頃、母が貧しかった日々、勤め先の帰りに銀座の雑居ビルの地下のクラブから聞こえて来る、Jazzのバンド演奏に聞き惚れて居たそうだ。貧しかった母は毎日、冬の間、ビルの地下から漏れて聞こえて来る、ジャズバンドの演奏を楽しみにして、ビルの前で立ち尽くして。その聞こえて来る演奏を黙って聴いて居たそうだ。
そしてこんな事もあった。私がまだ小学生だった頃。何故か私の手を引いて新宿まで行った事があった。母は自分の人生が嫌になって居たのだと思う。私と映画館に行って一緒に「イージーライダー」を観た。映画を観た後に、昔、母が新宿で働いて居た頃に、よく来て居たと言う喫茶店に入った。そして2人で、今見た映画について話しあった。母は言った。「お前、この映画を観てどう思った?」私は答えた「ヒッピーで平和主義者なのに、アメリカの南部の人たちは酷いね。撃ち殺すなんて」すると母が言った。「人はね、世の中から少しでも外れた人間、変わって居る人は許さないものなんだよ。」そして続けて言った。お前がよくラジカセで聞いて居る「ジョン・レノンの「イマジン」あの歌好きだよ」そして二人でチョコレートパフェを食べた。それ以来、私はパフェが好きになった。今、母はどこの施設に居るか解らない。姉さんが教えないからだ。困って居無いかい母さん。寂しくは無いかい母さん。母は私の下手なBluesharpも「お前は上手いよ」と聴いてくれた。私は今思う。これで良かったのだと。私はそれ以来、絵は封印した。もう描く事は無いだろう....。此処まで読んでくれて有難う御座いました。
今から遥か45年前(17歳)の時に描いたモノなので、自分でもどう言うストーリーだったか覚えて居ません。ただ主人公の恋人同士が。最後は2人とも死ぬと言う漫画だったと思います。写真も不鮮明で漫画自体も古く鮮明ではありませんが。見てやって下さいね・・・・・。( ´ ▽ ` )
涙腺 崩壊!「かあさんへ」吉 幾三・TYD 大堀遠州・1810a1・
今回は此処までです。読んでくれてありがとう。。。。