大森荘蔵(おおもり しょうぞう、1921年8月1日 - 1997年2月17日)は日本の哲学者。独自の現象主義的な思考方法によって、独我論的な「立ち現れ」一元論を主張した。中島義道は大森哲学を「独我論的現象一元論」と定義している。
1944年東京帝国大学理学部物理学科を卒業。その後1949年東京大学文学部哲学科を卒業する。戦後アメリカのスタンフォード大学、ハーバード大学に留学し、分析哲学の影響を受ける。帰国後東京大学教養学部助手を経て、さらに留学後、東京大学教養学部教授(科学史・科学哲学科)に就任。現在第一線で活躍中の多くの日本の哲学者たちを育て、影響を与えることとなった。
大森の弟子たちによると、「哲学とは、額に汗して考え抜くことである」という信念をもっていたという。また大森と議論したことのある長井圴は、「大森さんは現在の自説が有効に論駁されることにしか興味を持っておられないようであった」といい、「完璧に哲学的であると感じたと」と大森の印象を語っている。
大森は1960年代後半の学生運動が盛んだった頃、マルクス主義を信奉する左翼学生からブルジョア哲学の代弁者のように非難され、鉄パイプで殴られて入院したことがあった。退院して授業に復帰した大森に、当時学生だった中島義道が「どのように哲学をするべきか」と尋ねると、大森は次のように答えたという
やりすぎることです。直感的にある考えが正しいと思ったら徹底的にやってみる。毛沢東のように、やりすぎなければ革命はできません。
大森の哲学は時期によって変遷している。前期は自他共に認める現象主義であった。しかし論理実証主義の要素主義は否定する。中期には現象主義を独自に発展させた立ち現れ一元論を主張する。最後の著作となった『時は流れず』では、時間の実在性を懐疑し、アウグスティヌスやマクタガートの時間論に接近している。
なお大森はしばしば現象主義を批判しているのだが、それはエルンスト・マッハの感性的要素一元論や論理実証主義の感覚与件論など、狭義の還元主義的な現象主義を対象としている。「立ち現われ」一元論や「重ね描き」、また実在論を批判する大森の論法は一貫して広義の現象主義であり、「非還元主義的現象主義」と定義することが可能である。
二元論の否定
大森は二元論に対しては終生一貫して否定的な主張をしていた。たとえば机の上にカップがある場合、「カップはどこにあるか?」と問われたなら普通は机の上を指して「そこ」と答えるだろう。しかし二元論者がそう答えるのは間違いになるという。彼が見ているのはカップの知覚像であり、その知覚像を生み出した物質、つまり物自体ではないからだ。これをテレビにたとえれば、テレビに山が映っていた場合、この山はどこにあるのかと聞かれて、テレビ画面を指して「そこ」と言うようなものである。このことが示すのは、自分の内界と外界との位置関係を問うことの無意味さである。私が理解している空間的位置とは、私の内界における位置なのである。その内界を生み出す原因である外界はどこにあるかと問われても、私の内界と外界との位置関係というものは不可知というのでなく無意味に過ぎないのである。また大森は、二元論の立場では、私の内界と外界の時間的関係を問うことも無意味だとみなしていた。たとえば知覚は脳の作用によって生じると考えられているが、百年前や千年前の脳の作用によって今の知覚が生じていると考えても、何の不思議もないし、自然科学も何の影響も受けないのだ。
このような現象主義的な二元論批判から、大森は後述の「重ね描き」を提唱することになり、そして重ね描きは「立ち現われ」一元論へと発展することになる。また実在論に対する懐疑は、1980年代後半には科学的実在論の批判的検証という形でより徹底したものとになる。
普遍概念と無限集合
「普遍」がそれ自体で実在するという考えを「実念論」といい、普遍とは名詞としてしか存在しないという考えを「唯名論」という。実念論の代表的な人物はプラトンであるが、現代でこの立場を取る哲学者は少ない。例えば「猫」という語があるが、実在しているのはタマやミケや名もなき野良猫など、個別の猫たちだけであり、「猫一般」なるものが存在しているわけではない。しかし、にも関わらず我々は「猫」とその他の動物を区別できるのであり、その区別は何によってなされるのか、個別の猫たちは何によって「猫」という概念の枠組みに入れられるのかという問題がある。その問題を解決するために「無限集合」の概念を用いる経験主義的な立場がある。例えば、「猫」とは猫の「様相」の無限集合であるとするものである。つまりこの世界で存在することが論理的に可能な、ありとあらゆる猫の全ての集合が「猫」の意味だとするものである。
大森は「机の上にカップがある」というような文を「物言語」と呼び、実際に机の上のカップを見た時のような映像の知覚を「知覚像語」と呼ぶ。そして物言語とは知覚像の無限集合を生成する言葉であると考える。つまりカップの知覚像は、あらゆる視点から無限にありうるものであり、それぞれの知覚像は微妙に異なっている。それら知覚像の無限集合を表現する言葉として「カップ」という語があるのである。しかしこの無限集合をわれわれは作り上げることができない。できるのは特定の視点を与えられた時にどう見えるか、ということだけに留まる。つまり「見え姿」作成のアルゴリズムを知っているだけである。これをたとえれば、人は想像し得る無限の掛け算をやることはできないが、掛け算のやり方――アルゴリズムを知っていれば、任意の二つの数字を与えられれば掛け算をやることができる。このことが掛け算を「知っている」ことであるというように、任意の視点からのカップの知覚像が与えられた時に、それがカップの無限集合の一要素であるか否かの判別ができるということが、カップという語を知っているということなのである。
立ち現われと無限集合の関係については、例えば部屋にいて「富士山」という語を見た時、私は富士山のイメージを思い浮かべる。富士山という語は「知覚的立ち現われ」に加えて、「思い的立ち現われ」の無限集合を生成する言葉なのである。
大森の無限集合についての考えは現象主義的であるが、論理実証主義の感覚与件論のように、知覚描写によって物理的描写が消去できるとは考えない。われわれは日用品などだけではなく、高度で複雑な物理的概念も理解している。それらの理解には長い経験によって無数の知覚が区分され、統制され、また新たな科学理論によって絶えず訂正され、複雑さを増しながら整理が進む。従って、
(a)物理的描写は知覚描写の集まりである。
(b)しかし前者を後者で置き換えて消去することはできない。
この二つの主張は両立しうるとし、科学者の抱く「客観性」の概念は損なわれないという。
唯名論者のいうように、個物から離れた「円」や「三角形」そのもの、つまり普遍は確かに知覚できない。しかし普遍は「思う」という様式で日常的に経験されているのである。従って「思い存在」ということもできる。
後に大森は「重ね描き」の方法論によって、直接に知覚できない原子やクォーク、また法則や仮説などの理論を、「語り存在」として解釈する。実数や自然数などの「普遍」もまた、世界を言語によって記述していく過程で、その存在意味を獲得する「語り存在」なのである。
語り存在や思い存在は、知覚存在に比べてその存在強度が薄いというわけではない。それらはともに我々の経験世界の中に存在しているのである。
重ね描き
重ね描きとは、大森荘蔵が心身問題の解決策として提唱した現象主義的な方法論である。心的なものについての描写と、その心的なものを生み出しているとされる物的な脳の過程とミクロな物理現象についての描写は、重ねて描かれるしかないとする考えである。この立場では心的因果はもとより、心と脳の因果関係そのものが否定される。つまり脳がクオリアなど心的なものを作っているというのではなく、またクオリアが脳に作用するというのでもない。互いに互いを還元することはできず、心的なものと物理的なものは個別に描写するしかなく、その二つの描写を重ね合わせたものが、人の「経験」の正確な描写なのだとする。この重ね描きという方法を採用すれば、心と脳の関係という難問は解消し、なおかつ現代の脳生理学の知見は訂正の必要がないと大森はいう。
重ね描きと心身並行説は似ていると受け取られるかもしれないが、大きく異なっている。並行説が心と脳は別のものだと見做す二元論であるのに対し、重ね描きは現象一元論である。また並行説では心と脳の関係が偶然的であるのに対し、重ね描きでは(心脳同一説のように)論理的である。そして重ね描きと心脳同一説との違いは、重ね描きでは還元主義を拒否することである。
重ね描きは性質二元論とも大きく異なる。性質二元論では、心的なものと物的なものは「一つの実体」の二つの性質だと考える。中立一元論も類似の考え方である。たとえば「痛み」があるとき性質二元論では、
1、「痛み」という日常言語による記述
2、痛みをもたらしている「脳の状態」の科学言語による記述
以上のように「痛み」には二種類の記述方法があるとし、片方はもう片方に還元できないと考える。しかし重ね描きは現象主義なので「一つの実体」を想定しない。そして上の「二種類の記述を合わせたもの」が「痛み」という経験の正確な描写だと考える。つまり還元を拒否し、なおかつ片方の記述だけでは不完全だと考え、さらに双方の記述の不可分性――論理的関係を主張するのである。要約すると、重ね描きは現象主義的な「出来事一元論」ということになる。「痛み」という一つの出来事は日常言語でなければ記述できない要素と、科学言語でなければ記述できない要素があるということである。
感覚与件論やカントの統覚を「加工主義」と批判していた大森にとって、知覚をもたらすとされる物理的な現象、特に脳の作用と知覚現象(後の立ち現われ)の関係を説明する必要があった。そして『言語・知覚・世界』(1971)で、人間の世界とは五感によって捉えられる風景であり、世界の科学的描写はこれと独立に存在するわけではなく、ましてや知覚風景が見えることの原因を発見するわけでもないとし、科学的描写と知覚風景は時空的に重ねて描かれるべきだとする「重ね描き」の方法論を提唱した。
重ね描きでは、まず知覚される山やリンゴやテーブルといったマクロなものが日常言語で描写される。そして知覚対象の分子・原子レベルの細密な構造が科学的に描写され、かつ知覚対象から光波が反射し人の網膜に入り、脳のニューロンが活動するという過程が科学的に描写される。それらの描写を重ね合わせたものが、人間の知覚経験という出来事の、最も正確な描写だとする。例えばカップを見る場合、物理学がカップを構成する粒子(または場)が存在するとした空間領域の表面に、知覚像を重ねて描くのである。つまり科学理論による説明とは、知覚風景の科学的描写なのである。
重ね描きは現象主義的方法論であっても、マッハの還元主義的な現象主義や論理実証主義の感覚与件論とは大きく異なる。重ね描きでは、直接に知覚できない原子やクォーク、また法則や仮説などの理論は、「語り存在」として解釈されて、他の何かに還元されることはない。つまりクォークなどの知覚できない理論的存在は、それを語ること、つまり知覚および日常言語と繋がる科学用語で描写されることによって、存在の意味が見出されると考えるものである。
従って実在論的な考え方を逆転しなければならない。
まず原子が存在してそれを言語で表現する、という通常の考え捨てねばならない。事は正反対であって、日常言語描写に重ね描かれる新しい一つの語り方、一つの新しい言語、すなわち自然科学の言語が開発案出される、そしてその開発の中で原子の存在の意味が新たに開発されたのである。語られるということで対象性が発生し、その対象性が存在に成長する、と考えたい。科学言語という新しい言語の語りの中で新しい存在意味が生み出されたと考えたいのである。科学言語の語りが原子存在の意味を創造制作したのである。
そもそも物理的対象のあり場所、また形状や大きさも、知覚風景の中で言語によって定義されたものである。実在しているとされるボールペンが、知覚のボールペンと同位置、同型であるのは、事実としてそうだからではなく、そのように定義されたからなのである。科学的描写は必ず知覚風景に重ねて描かれるものであり、知覚風景と独立して描くことはできない。
しかし知覚風景を根本的前提としながら、一旦描かれた科学描写は独り歩きを始め、知覚風景を全て消し去り、この世界の科学描写をすれば、それが真の世界描写であり、知覚風景は二次的に生じた幻のようなものという本末転倒の考え方が生じる。たとえば、実在しているボールペンに光が当たり、その反射光が眼に入り、視神経から大脳の視覚領域に伝わることにより、ボールペンの知覚が生じる(知覚因果説)というように。これは全く逆なのである。知覚風景なしでは科学描写は意味を持ち得ない。
知覚風景は必ず特定の視点や、場合によっては感情的なフィルターを持つ。それに対し、物理学の描写には特定の視点や感情がない。「死物」の世界像である。日常言語で「青い箱」と呼ばれるものを、科学では分子構造などが描写される。そこには色の言葉は不要である。つまり科学描写とは日常言語で描写されたものを、記号と数学という感情の無い人工言葉で改めて語り直すものなのである。
これを大森は「略画」と「密画」の対比によってたとえる。たとえば夏の山は、遠くから見れば地平線上の青い盛り上がりに見える。これが山の略画である。しかし山のすぐ麓から見れば樹木や土石が見える。これが山の密画である。両者は異なる存在ではない。同様に我々が生活で用いる日常言語と、それの細部を描く科学描写は、同一の現象のマクロ記述とミクロ記述の関係であり、記述の細かさだけが違うということである。従って知覚によって表現される日常描写と、数学によって表現される科学描写の関係は、「因果」ではなく「即ち」の関係として捉えなければならない。また両者は不可分の関係である。遠くから山を見る場合、山の樹木や土石は見えないが、樹木や土石があるから山があるのである。すなわち略画と密画の存在論的身分は同一なのである。
マッハの現象主義によれば、物体が感覚を産出するのでなく、感覚複合体が物体をかたちづくるのであり、物体の本質とは「記号」である。重ね描きの方法論は、マッハの現象主義にゲシュタルト心理学の知見を取り入れ、さらに感覚与件論の反省を踏まえて独自に発展させたものと思える。上に引用した論文「過去透視と脳透視」で、大森は「脳変化は外部風景変化の原因であるが因果的原因ではない。私はそれを前景因と呼びたい」と書いていた。その「前景因」は、マッハからすれば、「特定の感覚」を存在させる「法則の構造」ということになるかもしれない。
バークリーの現象主義では感覚の無限分割可能性を否定しており、素粒子まで辿り着いた現代科学との相性が悪い。事実バークリーに近い立場を取ったマッハの現象主義は原子の実在を巡る論争で躓いた。しかし大森の現象主義は、感覚的なものと非感覚的なミクロな存在を「重ね描き」で同時に表現することができる。
近代科学の方法論を構築したガリレイは「幾何学があらゆるものの中で最も有力な手段である」として、すべてを幾何学的方法によって証明しようと意図した。彼にとっては、世界とは神が数学という言語で書いた聖書の一つだった。「それは数学の言葉で書かれてあり、使用されている文字は三角形や円その他の幾何学図形」なのであるが、その数学とは時間と空間上の形とその位置変化、つまり幾何学と運動学なのである。また科学とはわれわれが知覚するものを、可能な限り細かく分析していこうとするものであり、現代においては原子や素粒子などの段階まで細密に描写している。科学的手法というものを要約するならば、われわれが生活する略画世界の密画化・数量化なのである。しかし密画化されたもの、つまり原子や素粒子には色も暖かさも匂いも味も欠如している。従って科学によって描かれたその密画が世界の事実だということはありえない。密画はわれわれの知覚する略画と「重ね描き」されなければならない。「立ち現われ」とは、密画と略画が重ね描かれたものなのである。
大森は実在論を断固として拒否しており、科学的実在論を、実用的実在論(素朴実在論)と同一視している。日常経験を成り立たせている実用的実在論がなければ、科学的な研究も、科学的な記述も不可能だからである。科学的実在論とは、実用的実在論を時間空間的により細密にしたものなのである。
「重ね描き」の立場からすれば、心の哲学における意識のハードプロブレムは存在しないことになるだろう。科学理論による説明とは、略画である知覚風景を科学理論という手法によって描写した密画であるとすれば、「描写されたもの」が原因で知覚風景が生じていると言うに等しい神経生理学の考えは本末転倒となる。
大森は知覚因果を明確に否定している。
知覚風景は、(科学的描写によって描写される)大脳の状態を原因として生起するものではない。
人の知覚とは、外部の物の情報を感覚器官が受け取り、脳がその情報を処理する過程で生じると科学では説明される。これが「知覚因果説」である。これは実在論を前提とした二元論であるが、実在論に批判的な大森はこの知覚因果説を批判して「脳信仰」「脳産教理」と呼んでいる。
大森は、例えば視覚風景は「透視風景」であるという。霧の向こうに何かが見えているとする。霧が濃くなれば当然見え方は変わる。サングラスをかけても風景が変わる。このように前景が変わるとそれ以遠の風景が変わるという構造を視覚はもっている。これが「透視構造」である。さらに手前をたどると、瞼を塞げば風景は消える。眼球や視神経に障害が生じれば風景も変わる。そして脳に異常が生じれば風景は変わる。
脳の状態変化が視覚などの変化と相関することを大森は認めるが、両者の因果関係は否定する。
脳変化は外部風景変化の原因であるが因果的原因ではない。私はそれを前景因と呼びたい。
この前景因、「すなわち」の関係、は因果系列を逆方向に「透視」したものだと見ることができる。例えば、爆発→光の進行→眼球→網膜→視神経→脳、という因果系列を、今現在という一瞬に「逆透視」したのが今現在の視覚風景である。それゆえ、その系列の一部の変化はすなわち、それより以遠、以前、の系列部分の変化なのである。
大森が想定した「透視構造」は知覚因果説の逆であり、脳→視神経→眼球→空気→物、という透視系列である。ここで重要なのは、大森のいう透視構造はダニエル・デネットがカルテジアン劇場として批判したような、脳の中にいる「小人」が脳や視神経や眼球を透して風景を見ている、という構造ではないということである。知覚の透視構造とは、脳から物へという構造をもっているというだけであり、脳が物の知覚像を産出するというのではなく、物と知覚像は「同一のもの」なのである。上述したように、或る知覚とは「一つの出来事」であり、その出来事は日常言語でしか記述できない要素と科学言語でしか記述できない要素があるということである。その知覚像は脳から物へという系列を構造としてもっているということなのである。赤いサングラスをかけると風景が赤く見えるというのは、サングラスと風景の「因果関係」ではない。赤く見えている風景は知覚像として端的に存在しているのだから、それには透視構造があるというだけであり、サングラスをかけた「ゆえに」風景が変化したというのではなく、サングラスをかけることと風景が変化することは同一の出来事であり、即ちサングラスと風景は「論理的関係」なのである。
確かに、脳と心には因果関係があるよう思える。その因果関係を研究する脳生理学が間違っているというわけではない。物質が反射した光波を網膜が捉え、活動電位が発生し、それがシナプスを伝って脳の視覚領域に到達する――この因果過程は事実であろう。しかし重要な点は、その因果過程は「私に……が見える」という視覚経験の事態の中で生起しているということである。決して、その因果過程が「原因で」視覚経験という事態が生じているというわけではない。脳産教理においては、因果過程によって視覚が生じるという本末転倒の考え方をしているのである。
視神経や脳に傷害が生じれば視覚にもそれに対応した変化が現れるのは事実である。しかし、だからといって脳産教理を肯定する必要はない。正常な視覚の事態の中には無傷の因果過程が生起しているが、異常な視覚の事態の中にはそれに対応した傷害のある過程が生起している、と解釈すればよいだけである。
重ね描きの核心は、脳を原因として心的な視覚経験が生じるというように「原因・結果」の枠組みで脳と心を考えるのでなく、脳を視覚風景の一部分として位置づけるという点である。「私に……が見える」という視覚経験全体の状況の一部分として脳がある。ゆえに視覚経験と脳は重ねて描かれるしかないのである。
立ち現れ一元論
二元論と実在論を否定し、「重ね描き」の方法論を提唱した大森が、さらに独自の現象主義を発展させた存在論が、「立ち現れ」一元論である。「立ち現れ」という言葉はフッサールの「射映(Abschattung)」からとってきたものだという。
「立ち現れ」一元論は現象一元論である。心的現象や物的現象がさまざまな思いや構造を持って立ち現れるとし、その現象外部のものについては不可知であるとする。「立ち現われ」には、感覚的な「知覚的立ち現われ」と、非知覚的で思考的な「思い的立ち現われ」がある。
二元論者によれば、知覚は物理的対象の表層である。「表象」という語は表象するものと表象されるものが区別されることを前提している。このような考えに対し、大森は立ち現れが何ものかの表象であることを否定する。二元論者が想定する物理的対象といった私の外界――経験を超越したものは、立ち現れの「外」でなく、立ち現れの「中」で捉えられなければならない。従って立ち現れは「背後をもたない」とされる。このような考え方は「存在とは知覚されること」としたジョージー・バークリーの現象主義と近似的であり、実際大森はバークリーを援用して以下のように述べている。
なるほど確かにバークリーはそれは「心の観念」だと言った。彼にはそれと対比さるべき「物」が存在しなかった。より正確には、意味をなさなかった、ことを忘れてはならない。だから彼の「観念」は何ものの「像」でもありえなかったのであり、実物そのものだったのである。(中略)われわれは「観念を飲食し、観念を着ている」(『人知原理論』38節)、バークリーの「観念」とはそういう観念なのである。だから、彼の言う「心」とは実は世界それ自身のことなのである(そして、われわれの言う「心」もまたそうであると私は言いたいのである)。
いずれにせよ、次のことは言えよう。もし私に「見え」、私が「触れ」、私が「味わう」ものすべてが「心像」であるならば、私の生きる世界はすべて「心像」であるはずである。だとすれば、「心」は私の内にひそむ何ものかではなく、私の部屋に、街に、海に、空に、日に月にまで拡がっている何ものかなのである。幻といわれるものすら私の外に見えるのである。まさに「心」と呼ばれたものは「世界」なのである。
大森がバークリーと異なる点は、知覚的なものだけでなく、抽象的な思考作用も「存在」に含めたことである。したがって「知覚的立ち現われ」と、非知覚的で思考的様式としての「思い的立ち現われ」が区別される。さらに能動的な意識主体としての「心」を想定していたバークリーとは異なり、立ち現れは無主体論的な思考形式であり、むしろデイビット・ヒュームやバードランド・ラッセルの立場に近い。大森は立ち現われを提唱する前段階として、イマヌエル・カントのような主体による「統覚」を想定する思考形式を、「加工主義」と呼んで批判していた。たとえば「私が見る」という場合、「私」という主体が客観世界を、時空という感性の形式と因果のような悟性の形式によって加工されて認識が成立すると考える。しかし、加工するという場合、加工される前の素材が想定されなければならないが、そのような想定は無意味である。例えば「赤いボールがある」という場合の「赤」については、既に人間に知覚されたものであり、知覚されない「赤」はないといえる。加工される前の素材を人間は云々することはナンセンスである。人間には加工済みのものだけが与えられているのだから、「加工」というプロセスは不要のものであり、主観や主体の働きは必要でない。したがって赤いボールがある場合、それを端的に表現するなら「赤いボールという知覚像がある」というのみである。
大森はこのような主観の働きの否定から、必然的に「心の働き」や「心の作用」を否定することになる。
或ること「を知っている」とは、知覚とは違う様式ではあるがやはり一つの風景があるということである。痛みを痛むのでなく、端的に痛みがあるのである。
これは「知っているという思いが立ち表れる」「痛みが立ち現れる」と言い換えることができる。知覚作用や思考作用などなく、端的に知覚的なものや思い的なものが立ち現れるだけなのである。また音がした場合、「音」は聞かれている音知覚であり、既に気付かれているのである。認識論では「気付いていることに気付いているか否か」ということがしばしば問題にされる。しかし「気付いていることに気付いてない」というのは意味をなさない。
意識を意識する云々は無限に重ねられていく鎖ではなく、同じ乾板に同じ風景を何度も写すようなもので、何も付け加えるものではない。
先刻ある音知覚があったというだけのことで知覚「作用」があるということを何等意味しない。
現在の意識内容はわざわざ二重に意識されるまでもなく、今ここに余すことなく与えられているのである。
大森は図によって自身の無主体論を表している。ここでは大森の図の概念を記号化して表してみる。
[私が] → [見る] → [A] の形でなく、
{ 私が ( 見る [A] ) } の形なのである。
この意識作用の否定は、バートランド・ラッセルの自我についての考察と同型のものである。また大森は「心」や「私」というものの実体性を否定して次のように述べている。
人は心あるから悲しいのでなく、悲しい状況にあるから心あるのである。心の中、そんな場所はどこにもないのである。
私はここに居る。確かにそうです。しかし「ここのどのあたりに居るのか」という問いは馬鹿げて聞こえます。私の眼のあたりの疲れ、尻の痛さ、手の動き、若干の想念、そして眼前の風景、(中略)その全部、それが「私はここに居る」ということなのです。その全部の他に「私が居る」のではなく、その全部のあり方(身体のあり方、遠近のあり方、等々)、そのあり方(構造、と言いたくなります)が「私はここに居る」ということなのです。(中略)
簡単に言うならば、私は世界の一項目としては存在しないのです。世界の一構成部分として登場しているのではないのです。私は世界の部品ではありません。ただその世界のあり方が「私がここに居る」ことなのです。
立ち現れは常に志向性をもっていると大森は考えていたようである。
「知覚されている」とはかならず「思いをこめて知覚されている」ことなのである。
思いが全くこもらない知覚(知覚的立ち現れ)はありえない(悟性的要素を全く排除した直観の多様などありえない)。しかし、たとえ思いがいかに濃密にこもっていようとも、机を「見る」こと「触れる」ことと、見も触れもしないでただ(心に、頭に)「思う」こととの分別は子供にも見誤ることのない歴然たるものである。ただ全く純粋な知覚的立ち現れとは、感覚与件と同様考えることのできぬものであり、すべての知覚は思いのこもった知覚である、このことを忘れてはならない。いかなる知覚も思いをこめての知覚なのである。
無主体論と無時間論
大森荘蔵の哲学について野矢茂樹は、全てが「今」に立ち現われるという意味で、立ち現われには「今」が刻印されており、なおかつ全ての立ち現われは「私」に立ち現れているという意味で、「私」を刻印していることと対になっており、つまりあらゆる立ち現われには「今」と「私」が刻印されていると解釈している。これは立ち現われ一元論の妥当な解釈だと思われる。
しかしそれならば、なぜ「今この私」が「この立ち現われ」なのか、という意識の超難問に類した疑問が生じざるを得ない。これは大森と同様に無主体論者であったデイビット・ヒュームが躓いた問題でもある。
ヒュームは知覚の重要な原則として、
1、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること
2、その別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと
という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えた。その二つの原則は論理的な矛盾はないのだが、しかし他のものと接続せず、他のものに還元不可能な、完全に独立した全一的な知覚たちが、孤立的に次々と生起することは極めて不自然に思える。素朴に見るならば、多様な知覚たちはジグソーパズルのピースのように、他の知覚たちと連携して一つの、まとまりのある人格・全体を形成しているよう思えるからだ。ヒュームが人格の同一性問題について、「迷路に巻き込まれた」と告白したのは当然の心境でもあった。
しかし無主体論を否定することもできない。デレク・パーフェクトは人格の同一性問題において、堆積のパラドックスを応用した思考実験で、人格の「主体」が存在することの困難を主張した。このパーフィットの思考実験は強固であり、反駁に成功したものはいない。
「立ち現われ」はヒュームの「知覚」と同様、他のものと接続せず、他のものに還元不可能な全一的なものである(それゆえ「物自体」や「過去自体」と区別される)。そして立ち現われは過去も現在も未来もその内に含んでいるという。しかしそれならば、なぜ「今この私」が「この立ち現われ」なのか、他のものに還元不可能なはずの全一的な立ち現われが、なぜ生じ、なぜ消えていくのか、というアポリアが生じる。他の何かに還元できないということは、他の何かから生まれることはできないということだからだ。大森は自身の哲学がヒューム哲学と共通する難点を抱え込んでいたことを理解していたに違いない。無時間論への接近は、その難点の克服の試みであったと思われる。
立ち現われは「今この私」なのであるが、世界は極めて多様である。しかしヒュームの「知覚」も大森の「立ち現われ」も、その多様な世界の一部に過ぎない。もっとも「立ち現れ」の場合は「世界」そのものだとされていた。「立ち現われ」は世界の中に位置づけられるのでなく、世界が「立ち現れ」内部の構造として位置づけられるのである。しかし、「立ち現れ」が一つのパースペクティブをもって世界を表象している点が問題である。固有のパースペクティブを持つ限り、「なぜこのパースペクティブであり、他のパースペクティブではないのか?」と問わざるを得ない。やはりヒュームの「知覚」と同根の困難を抱えているだろう。世界の一部であるように見えるものが、他のものと接続せず孤立して存在しているというのは極めて不可解である。
このような難問から必然的に、部分と全体の関係についての形而上学、現代ではメレオロジーといわれる問題について考究せざるを得なくなる。唯物論的なメレオロジーでは、個別的な素粒子のみが実在すると主張するのがニヒリズムであり、逆に素粒子は全て互いに関係し合っているゆえに、真に実在しているのは「全体」であるとするのが一元論である。もしメレオロジーの観点から一元論の立場を取るならば、それは古代エレア派、スピノザ、ヘーゲルが展望した世界観に他ならない。なお時間論に限定して一元論を主張するなら、まさに最晩年の大森が接近したアウグスティヌスの立場に他ならない。
もしアウグスティヌスの無時間論の立場を取るならば、前述のヒュームの難問は乗り越えられるかもしれない。無時間論では、過去は「あった」というのでなく、未来は「あるだろう」というのでもない。過去・現在・未来の全ての出来事は、全て平等に、一挙に「現在」として存在すると考えるのである。
エレア派のような言い方をするならば、過去が「ある」ものであるならば「ない」ものになることはできない。未来が「ない」ものならば「ある」ものになることはできない。世界の全体は「ある」もので満ちていなければならない。パルメニデスは以下のような詩を残している(井上忠 訳)。
それはかつてあったのでも、いつかあるだろう、でもない。なぜなら「ある」は、いま、ここに一挙に、全体が、一つの、融合凝結体としてあるわけだからである。(Fr.8.5-6)
過去・現在・未来の全ての出来事は「一つらなりのもの」として、ただ「ある」と考える。この立場では、「今この私」というのは存在全体の切片を捉えた錯覚のようなものである。たとえて言うならゼノンの無限分割のパラドックスの、一つの分割段階、つまり実在性が否定される概念的な存在に過ぎない。「今」とは対応する存在をもたない概念であり、無主体論の立場では「私」もまた対応する存在をもたない概念である。「今この私」というのは錯覚のようなものである。
大森がカントの「物自体」になぞらえて「過去自体」としたものも、無時間論的な一元論では包括することができる。またヒュームが知覚たちの結合を見出せないとしたのは、知覚たちが時間によって切断されているからであるが、時間の実在を否定するならば、知覚たちは時間によって切断されず、結合していることになる。ヒュームが躓いた無主体論の難問は無時間論によって解消される。無主体論を貫徹するならば無時間論に至るべきである。
『時は流れず』は、大森の最後の著作であり、無主体論である立ち現われ一元論が、紆余曲折を経て宿命的に、無時間論という極限に至ったのだと思われる。
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Mark Hummel & The Ultimate Harmonica Blowout - Things Ain't What They Used To Be (101.9 KINK)
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そもそも啞侍(自分では鬼一法眼と名乗っている)が声を失ったのは、父親が長崎奉行をしていた時、密貿易の話を持ちかけられ、それを断るとイスパニア(つまりスペイン)剣士、ゴンザレスが現れ、父と母を殺し、鬼一法眼の喉を掻き切り、さらにいいなづけ菊乃をレイプして行った。
このゴンザレスに襲撃された模様が、毎回まいかい、鬼一法眼の頭の中にフラッシュバックのように現れ、その度に鬼一法眼はゴンザレスへの復讐を誓うのであった。
ここで、この番組の時代設定がいつなのか、見始めた当初は困惑するものもあった。
イギリスやフランスということなら、幕末ということで納得できるが、スペインというと桃山時代とか、よくて江戸初期になるはずであろうと思ったからだ。
しかしある回で、こんなエピソードがあった。
尊王攘夷、倒幕を掲げる若者たちが、山に拠点を築き、村人の子供、さらに代官の子供たちをも人質に取り、無理難題な要求を押し付けてくる。
それができないとなると、子供たちをどんどんと殺してゆく。代官に請われた鬼一法眼は報奨金を受け取り、秘密裏に拠点に潜入し、若者たちを倒し子供たちを救出する。
このようなエピソードが数話あり、この物語が幕末を設定にしたものであるということが分かってきた。
また当初、怪盗卍として活躍する勝新との共演も面白い。
鬼一法眼はゴンザレスを倒すため、イスパニアに渡航しようと計画しているが、実は怪盗卍は海外との出入国を取り締まる神奈川奉行であった。
兄の意思と自身の立場の間で揺れ動く、勝新の演技も見もの。
また監督は若山富三郎、勝新太郎にゆかりのある人が手がけているのも嬉しい。
例えば東映の山下耕作。大映の三隅研次。さらにこの作品は勝プロ制作であるため勝新自身や、若山富三郎自身が監督した回もある。
で、鬼一法眼は堺にいる商人の渡海屋(大木実)にイスパニアへ行く手はずを整えて欲しいと願い出るが、それには千両の金がいると言われ、賞金稼ぎを生業として生きていく。
街や村の番所に貼ってある罪人の人相書きを剥ぎ取って、罪人を捕まえ、賞金を貯めイスパニアへの渡航費を稼ぐ中で、事件やドラマが展開されるという構成になっている。
ドラマの前半は尊王攘夷派の若者たちが、子供たちを皆殺しにするなど、悲惨で救いのない結末が多い。
また物言わぬ啞侍の存在ゆえに、なにか重苦しい空気が漂う。
そんな「啞侍」を見ていたある日、『殺しが静かにやって来る』というマカロニウェスタンの作品を見てみた。そして衝撃を受けた。
主人公のガンマンは聾唖者。しかし射撃の腕はものすごい。だか、このガンマンの過去には暗いものがあり、保安官であった父親が悪党に襲撃され殺されると、このガンマンも口封じのために喉をナイフで切り裂かれ、声を失ったのであった。
ほとんど「啞侍」と同じ設定である。
さらにこの作品のラストが、映画至上最も救いのないものであって、まさかと思わせるほど悲惨であった。
当初、「啞侍」の救いのなさは、同時期に放送されていたと思われる「木枯らし紋次郎」の影響なのかなとか漠然に考えていたが、これは正に「殺しが静かにやって来る」の影響下で作られた時代劇である。
さらによく考えてみると、賞金稼ぎという設定自体が、決定的に西部劇からの影響を受けていると考えられる。
確かに江戸時代、番所や高札に手配者の人相書きを張り出しておく、ということはあったが、それを民間人や浪人などが捕まえて、賞金を受け、それで稼いでいたという者はいなかったと思う。
これは西部劇に良くある設定で、開拓時代のアメリカでは警察力が不安定だったので、賞金稼ぎを生業とする者は確かに存在したのだろう。
さらに鬼一法眼は、剣以外にもコルトガバメンツみたいな連発式小銃を持っているし、その編笠にはバックミラーが付いているし、剣の鞘の部分が仕込みになっているし、体のあちこちに手裏剣を隠しているし、ポンチョみたいの被って、馬にまたがってと、まるで人間凶器なのであるが、これも西部劇からの影響だろう
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