Miyuki Sawashiro Seine No Kaze Ni (Adieu)
【R指定】映画ばるぼら見てきた!手塚治虫禁断のエロティック問題作!ガチ絶賛レヴュー!稲垣吾郎、二階堂ふみ、手塚眞
2020年11月20日(金)「ばるぼら」本予告
=「其の一」=
此の間。私のケア・マネージャーに言ったのだが。「姉さんに連絡して生活保護受けるからと言って見てくれないでしょうか?」と言ったら。その人は恐らくは勘違いしたのでしょう、「お姉さんは幾つですか?」「65歳ですけど?」そうしたら「あなたの面倒は見ることは頼めませんよ!!」と言う。だから私は「???」となって仕舞ったから続けて言った。「いやね、聞く処によると姉さんやら親戚一同、姪にまで、面倒見られないかと連絡が行くそうだから」と言ったらこう言われた「そんな事は無いですよ。もしそんな事が行われたらプライバシー侵害じゃないですか?」、そして続けて言った。「お姉さんはもう自分の面倒見るので大変な処に持って来てあなたの面倒なんか見られないですよ、、」私は黙って仕舞った。だから一応、「解りました」と言って電話を切った。私は内心怒って居る「誰が面倒見てくれと言った!!」とね。何遍も言うが私が、もし、承認されなかった場合どうなる事でしょうか?。
世の中、甘くは無い事ぐらい私は肌身で知って居る。それから今回も2人のある哲学者の事を書いたが。哲学なんて知らなくたって生きては行けます。哲学に私は酔って居る訳ではありません。むしろ哲学で武装して論争を仕掛けて来る人は大っ嫌いです。私は哲学を紹介するのは。「ものの道理を考える上に置いて、役に立ちますよ」と言って居るだけです。哲学者みたく哲学で武装しないと行けないとは一言も言っても居ないし思っても居ません。あくまで教養の範囲内で知って置く事はいい事だと言いたいだけです。くだらない論争はしたくはありませんよ。処でさっき迄。「ぶらどらぶ」と言う押井監督が36年振りに監修を務めたTVアニメ一挙6時間を観て居た。流石は押井さん「つげ義春」とか「ひまわり」とか昔の漫画やら映画ネタを使って。それを現代的に脚本にし演出して居た。私は全12話すべてHDに録画した。あとでゆっくりBlu-rayに焼こうと思う。だから、今日でオリンピックも終わりなんだろうけど、何も観ては居ない。でもオリンピックでメダル獲得数がダントツとは凄い事だなぁと思って居ますよ。だからアスリートたちはこの暑い中大変だったと思いますよ....。このあとパラリンピックでしょうか?みんな頑張れ!!
LOVEBITES / Winds Of Transylvania [VLADLOVE Version] MUSIC VIDEO
黒い色は重く感じる。白い色は軽く感じます。重力的に言うと黒は重く感じるので下になり。白は軽く感じるので上になります。何の話かと言うと、服の話です。だから普通は黒い色のパンツを履いて上は薄い白系のものを着るといいのだそうです。私は何時も最近は黒いYシャツに黒いパンツに黒いべストを着て居ます、夏なので、薄めのものと厚手のロングベストを両方持って居るので。今は薄手のロングべストでしょうか・・・。春先とか秋口には厚手のロングベストを着ますが。それと白いYシャツにデニムベスト、そして青いジーンズでしょうか?それが夏服です。そして秋口にはデニムバッチ・ジーンズにミュージシャンが印刷されているTシャツに、デニムバッジ・シャツを上着にして着て居ます。私は白いジーパンを1本だけ持って居るのですが、何時も履くのは黒いUNIQLOの感動パンツです。それを2本しか持って居ませんが。取っ替え引っ替え履いて交互に洗って居ます。もう1本購入したく思うのですが。何時もサイズが売り切れでありません。
UNIQLOは本当に安くて素材の生地もいいので、感動パンツはいいですよね。あとジーパンかな?UNIQLOのものです。見た目はジーンズに見えるけど伸縮する素材で、出来て居る変わったジーンズです。それとまだ購入して履いては居ませんが、少しカーキ色がかったクリーム色のズボンです。此れもUNIQLOから購入しました。今年の春先には左右色が違うデニム・ジャケット。半分薄いブルーと半分紺のものです。これを購入しました。先ほど言った白いズーンズは白いジージャンと2年前に購入しましたが。如何にせん、あれからズボンのサイズがLLかXLに成って仕舞ったので。恐らくLサイズなので履けないでしょうね。押入れの奥の方に入って居てどこにあるのか分かりません。それと3年前の秋口に購入した、まだら模様のドレーブニット・コートを持って居ます。2年前迄はよく着て居ましたけどね。あとロング・マキシ・トレンチコート、日本製だと思いますよ。そしてヨウジ・ヤマモトブランドのものと、そっくりのチェスターコート。(本物は高くて購入出来ませんでした。)
それと他にアート・チェスターコートと、まだら模様のチェスターコート。それから秋口と春先に着られるヨウジヤマモトの薄手のコート。ジャケット4着、うち1着はヨウジヤマモト。ああ、そしてショートコート。ラシャ柄のもの2着と普通のもの2着。バーバリの高級コート1着。デニム・ジャケット1着。ミリタリー・ショートコート1着。ミリタリージャケット1着。まあ、書いて見たら可成り持って居ますけど(^_^;)、、ほぼコートと上着は此れだけ持って居ますね。。。まあ、私はTシャツは殆んど着ないんですよね。だから、何時も黒いYシャツですよ。夏も冬もね。此間ヘルパーのおばさんから言われたけど?暑く無いって?、、「何時もYシャツじゃ無い?何でTシャツ着ないの?」と言われて居ますけど・・・・。前の美容室の大バカヤローの美容師ならず理髪師からは「何でTシャツなんか着て居るの?」と言われたしね、
人の言う事を一々間に受けて居たら、どうしようもありませんよね。私は私なのだから好きな格好をします。誰がどう言おうとね。前に中華飯店に初めて入った時に。私の長髪と着て居るものを見て、ウエイトレスのおねえちゃんが何故か「ロックスターだ!!」?と言って騒いで居たり。その次には喫茶店で食事して居たら。今時だと思うけど、その喫茶店は部屋の中が薄暗かったのだけども、1眼レフのデジタル・カメラのシャッター音とフラッシュ焚かれて写真撮られて?一体なんだろ?と思って居たら。どうやら雑誌の喫茶店特集の記事の写真だったらしい。そして「あいつなんだ?芸術家か?、いや、ミュージシャンだろ?それか物書きかな?」とかヒソヒソ話されて仕舞い。人は何思うか、、そこの喫茶店は可也此処の界隈では有名な所ですから。沿線沿いの喫茶店として雑誌によく載る事があります。もし雑誌見て居て、喫茶店でポークジンジャー食べながらアイス・カフェオレ飲んで居た。私の写真を見つけたら、まあ、、よろしくです。全身黒ずくめですから一眼で解りますよ。このblog読んで居る人なら、顔はもう知って居るでしょうからね。
眠たくてうたた寝して居るkiyasume.....。
前に私のケア・マネージャーが来た時に言って居たが。私のBoomBoxを観て、笑いながら言って居た。「デカいラジカセですねぇ、今時こんなアンティークなものがあるのですか?」そして私がこの「Boon BoxにはBluetooth機能が改造で付いて居るから。スマホのストリーミングも聴けますよ」と言ったら。笑って居た。要するに「こんな古いものを購入して何が楽しいんだ?」と言いたそうだった。若い人だけでは無い、ヘルパーのおばさんも「こんなものよく購入したわよねぇ、最新鋭の家電製品が沢山あるのにさぁ、、」と言う。まあ、普通はそうでしょう。今はスマホのストリーミングでなんでも聴ける時代だから。でもカセットテープ専門店「Waltz」の角田太郎さんが言って居たけど。ストリーミングは水道水。レコード。カセットテープは沢の湧き水だと言う。まあ、今のステレオと言うかステレオももう無くなって仕舞って居る。
本当に今はスマホ一つにヘッドフォンがあればイイのですね。音の調節はスマホで出来るのでして。ヘッドフォンでも6千円も出せば可成りな重低音が出るし。またイヤー型ヘッドフォン (イヤフォン)でも一万円も掛ければ重低音が鳴るものも売って居る。私は2年ぐらいにデンオンがステレオ製作から撤退したと書いたが。過去のステレオという形態が最早古いのだ。私は聴いて居る音楽はブルースとロックとジャズだ。そして持って居るパソコンはiMacだ。だから音楽を聴くのもラジカセとカセットデッキに。レコードプレーヤー。そしてそれをアンプ替わりに繋げた、CDレシーバーにスピーカーを繋げて居るのです。私はそれでイイと思って居るし、、、
スマホからのストリーミングはBluetooth搭載機のBoomBox(ラジカセ)で聴いて居たがBluetooth機能が壊れて仕舞ったので、今はCDラジカセのAUX端子にスマホのiPhone8からコードで繋げてApple Musicを聴いて居る。だから今の流行も追っても居る。私が購入した。東芝のCDラジカセTY-AK1も音が可也いいですね。重低音が結構出るラジカセです。でも今はもう製造が終了して居ますから。この機種にBluetooth機能を付けた。新型の機種TY-AK2と言うのが発売されて居ますから。この記事読んで居てこう言った重低音が出るラジカセが欲しかったら、その機種なんかがお薦めですよ。
ただ電車の中や歩きながら。また病院の待ち時間に音楽は余り聴か無い様にして居る。通勤中やら通学中しか時間の無い人はそれでイイだろうとは思うが。私は時間はあるからです。自宅でゆっくり聴けますから。私は体調がずーっと悪く入退院を繰り返して居たのでステレオを購入したのは5年前だ。そして念願のカセットデッキを購入してTSUTAYAからCDを借りてダビング録音をして居ます。それからBoombox(大型ラジカセ)を購入したのは2年前。しかし中古で古くて壊れて仕舞ったので。
昨年。CDラジカセを購入した、そして音楽に付いては此れで充分です。自分への投資なのですよ。これだけ持って居ればもう何も必要とはしないだろう。そしてヘルパーのおばさんは言う。「あんた。服とラジカセに埋もれるよ」確かに6畳一間ですからね。それに此処の処、本を7冊も購入した。今は要約、その内。4冊は読んで居る。勿論金は僅かしかもう無い。可成り無理をして居ると思う。カードで購入して居るのが殆んどだから。4万円の請求が続けて来て居る。
VLADLOVE official PV
私は前はお金は慎重に使って居ました。欲しいものも買わずに居た。そして毎日自分の運命を呪って居た。しかし、昔の自分を思い出した。昔は自分に労働の対価をもたらして居たじゃ無いか?訪問看護師が、「〇〇さんは贅沢だ。生活保護になるのだから自粛しなければ」と言うから。その気になって居た。しかし、生活保護費は持ち金がゼロで無ければ貰えないのですよ。確かに節約生活を送れば、それだけ生活保護を受ける時期は遠ざかる。しかし..。私は使って居る様で居て、ちゃんと計算して使っては居ますよ。ものと言うものは後で買うにしても今買うにしても同じなのですよ。要するに買って仕舞えばそれで終わるのです。
それを先延ばしするから、何時迄経っても終わらないのですよ。勿論金が無い場合は買えませんよ。私は過去。月三万円の小遣いでも自分の好きなレーザーディスクとビデオソフトを購入して居ました。私はまず旅行に行きません。そして最近はたまに入りますがジョナサンやらデニーズなどのファミリーレストランには滅多に行きません。それはうちではそう言う習慣が無かったからですよ。私の学生時代は殆んどが音楽喫茶で過ごしました。午後2時に行って。4時頃に腹が減っては380円の焼きそばです。それと後はコーヒー1杯です。食事は家に帰れば夕食がありましたからね。だから太らなかった。大学時代は学食です。きつねうどんが30円でした。カレーライスが80円ぐらいでしたよ。1976年当時でしたからね。学食は安いのですよ。これは大学に行った人なら解ると思います。
考えて見れば当時から、ジャズ喫茶やらブルース喫茶などでレコードをレンタルして居て良く。新宿の「サムライ」などでジャズのレコードを借りて居ましたっけ。それをカセットテープに録音するのです。私はこの頃に伊勢丹の裏方で働いたり。東京出版で働いたりして居ました。後。紀伊国屋書店でしょうか。どれもバイトでしたが。ああ、隣町の古本屋で少しバイトした事もあったかな。記憶が定かでは無いけど。だから会社で働いて居た時には給料もボーナスも親に其の儘挙げて居たしね。前にヘルパーと訪問看護師にそのことを話したら、「見かけによらず、信じられない」と言って居ましたよ。
私の部屋を見て、こんなものだろうと思う人と、贅沢だと思う人とが居るんですよ。贅沢だと思う人は若者ですか?此間、デリバリーを取ったら、品物を受け取ってドアを閉めた途端に、「くそっ!!俺なんかより良い暮らしをしやがって!!」と怒って居るんですよね。歳考えてくれと言いたかった。そいつはまだ20代。私は60代だ。私はこの6畳間と5,5畳の台所に入るものしか持ち物がないのですよ。その私の部屋を見て学生の部屋見たいだと笑う人も居ますけど。大きなお世話です。ジジ臭くはしたくは無いし。大体がこれ以上部屋を豪華には出来ません。普通はどうでしょうか?家を持って居て。借り家でも。車は最低1台はありますよね。そして子供が居ますよ。私の歳ならもう大学生ぐらいですね。いや、もう成人して孫が居ると思います。私は確かに一見若く見える。だから最近では自分の歳を人に教えて居ますよ。
確かに私の知能レベルは30代止まりでしょうね。それは自覚して居ますよ。私は43年間を棒に振った人間です。nothingですよ。何も無い。若い頃は恋愛もしたし。ミュージシャンか絵の方面で生きて行こうとしました。散々言ってますからお解りかと思いますが。でも障害者になった。すべてが無くなりました。私の前からチャンスは消えて行った。いつも泣き言しか言わないと思うでしょう。だけど、私にはもう何も無いんですよ。最近若い夫婦を見ると話がしたくなる。子供が可愛くなる。歳なんでしょうね。それに、此間はまた障害の発作が起きた。幻聴と幻覚の両方が現れたんです。幻聴は私を罵倒する言葉の数々。2重に聞こえて来る。苦しかった。そして、ぼうーと二つ折にした布団に寄り掛かって宙を見て居たら、そこに男の人の上半身が2箇所に8秒間ぐらい見えた。しかしどんな状況下に陥っても自分は無くさない自負は持って居ます。それがなければ本当の狂人だ。
統合失調症と狂人とは違いますよ。よく人は結びつけて言うけど。それは余りに医学の知識がなさ過ぎる。最近では統合失調症の書籍は大きな書店に行けば可成りの冊数が置いてありますよ。もはや現代病ですからね。ただ差別をされるのが嫌なだけです。口を聞か無くなったり。軽蔑の目で見られたり。此間見たいに買い物をして居たら。「ほら、あいつよ!!おかしいの。」と言われたりね。嫌うのは構わないですが。本人に解る様に言わないで貰いたいです。もし立場が逆だったらどんな気がしますか?解ってやって下さいね。馬鹿にしたいのは分かりますよ。人は自分より劣った人間を見ると本能的に攻撃したくなったり罵声を挙げたり支度為るものです。それから最後に、ヘタクソな漫画やらハーモニカ・ソロをblog に挙げて居ますがご容赦を。気に喰わなかったりしたら聴かないで下さいね。私は皆さんと上手くやって行きたいのですから。。これからもよろしくね。。。。
以下、簡単に統合失調症の症状の解説と、対処法を書いて置きます。
此処で統合失調症に付いて説明すると統合失調症は、本来ならばあるはずのない症状が認められる病気です。幻聴や妄想といった症状が代表的で、陽性症状と呼ばれます。病気の始まりは不安や緊張が目立つ事もあり、なかなか診断されない事もあります。ときには幻覚や妄想に左右されて仕舞って、自分自身が病気である事も自覚でき無く成って仕舞う事もあります。統合失調症は、脳に起こった機能的な変化によって「考えや感情を上手くまとめる力」が少しずつ落ち、幻聴や妄想などの奇異な症状があらわれます。そして少しずつ本来あるべき機能が失われて行き、陰性症状が生じます。そして社会生活や日常生活をスムーズに送る事が困難になって行く病気です。
以前は難治の病気で「精神分裂病」と言われ、発症すると入院生活が続いて仕舞う様な難病でした。ですが現在では統合失調症の治療薬が非常に進歩し、早期に発見して適切な薬物療法を行う事で、病気をコントロールしながら社会生活を続けられる患者さんが多く成って居ます。統合失調症は、およそ1%の方が発症する病気と言われて居ます。早期に発見して病気を正しく理解し、継続的な薬の治療が重要な病気です。統合失調症の代表的な症状として、幻覚や妄想が挙げられます。幻覚や妄想が認められたら統合失調症と言う訳ではなく、実は様々な病気で幻覚や妄想が認められる事があります。しかしながら統合失調症の幻覚や妄想の特徴としては、大きく2つの特徴があります。
- 本人にとっては真実で、気分や行動に影響して仕舞う事
- 他人が自分に対して悪い事をする事
本人に取っては疑いもない事実と感じて居るので、周りが幾ら言っても納得が出来ません。ですから本人の気分や行動にまで影響して仕舞います。そしてその内容も、人間関係が中心である事が多いです。他人が自分に対して悪い事をする様な内容です。そしてこう言った幻覚や妄想が続くと、自分自身と他人の思考の違いが判らなく成って行きます。これを自我障害といいます。
具体的に幻覚・妄想・自我障害に訳て、症状を見てみると
【幻覚】
- 自分を批判する様な声が聞こえる
- 自分の行動を外から実況中継して居る声が聞こえる
- 幻聴同士が会話し合って居る声が聞こえる
統合失調症の幻覚では、聴覚に対する幻覚が多いです。いわゆる幻聴ですが、自分を批判する様な幻聴や命令する様な幻聴、他の人が対話して居る様な幻聴が見られます。私は最近この症状が現れました幻聴に対して本人が反応するため、突拍子もない行動をしたり、独り言を言ったり、ニヤニヤ笑いだしたりするので、周囲からは奇妙に見られる事が少なくありません。
【妄想】
- 誰かに付け狙われている(追跡妄想)
- 咳ばらいをしたのは自分が嫌いだからだ(関係妄想)
- 街を歩いていると通行人が自分を見て居る(注察妄想)
- 黒ずくめの服をきた組織に追われて居る(迫害妄想)
- 自分の悪口を周りが言って居る(被害妄想)
- 自分には特別な力がある(誇大妄想)
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妄想は事実とは異なる思い込みで、思考内容の異常と言えます。本人はそれを真実と捉えて居る為、まわりから訂正する事は出来ません。
誇大妄想は本人がツライ現実に向き合わなくてすむ為、なかなか薬の治療に反応しない事もあります。
【自我障害】
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- 自分の考えて居る事が声になって聞こえる(考想化声)
- 自分の考えが周囲に知れ渡って居る(考想伝播)
- 考えが他人に吸い取られて仕舞う(思考奪取)
- 他人の考えが自分に吹き込まれる(思考吹入)
- 自分が他人にあやつられて居る(作為体験)
- 自分の思考がすべて筒抜けになって居る(筒抜け体験)
- 霊が取り憑いで居る(憑依体験)
- こう言った、自分と他人の境界がハッキリしなくなって仕舞い、思考や行動が他人のモノか自分のモノかが解らなく成って仕舞います。
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私の場合は。今まで幻覚妄想はありませんでした。しかし薬を飲まないとそれが起こる確率は高く成ります。だから薬を飲んで居ます。すると、後遺症で頭痛が起きて眠くなり、しかし幻覚と幻聴が現れて仕舞いました。だから働く事が出来ません。ですから、こう言った精神患者は生活保護で暮らす事に成ります...。
日本の生活保護の受給者はその殆んどが精神疾患者だと思われます。精神疾患者は可也、強い薬を飲まされて居ます。大抵の抗精神薬にはその福作用として、身体が太る作用があります。だから精神疾患者はブクブクと醜く太って居ます。そして理由が解らない一般の人は精神疾患者はバカだから太って居るのだと蔑みます。私は勝手、体重が90kgまで行った事がありました。周りの人はあからさまに私をバカにし。「人間1週間ぐらい食わなくても平気だ。痩せたらどうだブクブクと太って見っとも無い」と言われました。好きで太って居るのでは無いのですよ。人は何も知らないくせに、自分の主観で言いたい放題の攻撃をして来ます。その後、薬の種類と飲む量が変わり、自然と体重は落ちましたが。最近はまた太り始めました。私はほぼ10年周期で太ったり痩せたりを繰り返して居ます。
最近、私は病院で精密検査を受けて脂肪肝になって居ると警告されたので薬を変えて食事療法の先生に着きました。今はまた、減量中です。おかげで野菜しか食べられません。しかし野菜は飽きました。だから肉を食べて居ます。脂質は最近の研究では取った方がいい見たいです。炭水化物を取るのを辞めればいいと言いますね。目標は10kg減量です。今回は、過去記事から統合失調症に付いて、病状と症例を纏めて少し加筆しました。まあ、統合失調症は皆さん他人事だと思って居るでしょうけど。100人に1人の割合で成る精神疾患です。要するに脳の疾患です。差別は誰にでも出来ます。物事を知らない人なら。しかしちゃんと知って貰いたく思い、此処にこの様に書きました。人生如何なる時に如何なる帰路に立たされるかも知れませんよ、そう成らない様に充分に気を付けて下さい。その為にこのblog記事が少しでも参考に成れば幸いです....。此処まで読んで呉れてどうも有難う御座いました。
---kiyasume---
最近、吹き込んだ音源ですけどヘタですが、、調子が悪いものでして、、余計にね、、、
0p
ブルースバラード SD 480p
今回の青木志貴ちゃん。痩せたね、大丈夫かな、、頑張れ....。
Lupin the 3rd part 4 Japanese ending
調子悪いので、ヘタな演奏ですが飽きたかもしれませんが。また聴いてやって下さい。
ヘタクソ・ブルースのソロ
ヘタクソな、ハードバップブルース・ソロ
バロック風ソロとクラシック
中古DVD店の店の中。
中古DVDの「ゲンセンカン主人」を見つけて購入した。以前、購入しようとしたが無かった為。つげワールドを石井輝男が映像化して居ます。「季さん一家」「赤い花」「ゲンセンカン主人」「池袋百点会」の4編のつげ義春の漫画を実写映画として撮って居ます。つげ義春に限らず「ガロ」に連載されて居た漫画は映像化されやすいので他にも鈴木翁二の「オートバイ少女」とか「ガロ」の30周年記念にあがた森魚が監督して居ますね。持って居ますが。今は廃盤でプレミア価格が付いて居ますね。「ガロ」で発表された漫画はどれも実写化できる作品が多いです。。。
数十年前、当時のニューアカの中心人物だった浅田彰や中沢新一、また彼らの後見人的存在の蓮実重彦や柄谷行人らも含めて、彼らは吉本隆明という巨大な存在に対する思想的カウンターパートとして出て来た側面があり難解なものを如何に分かり易く説明するかと言う事が一つの流行になって居た事もあった。吉本隆明は知の巨人でした。
吉本隆明。
詩人、評論家。東京に生まれる。東京工業大学電気化学科卒業。幾つかの会社を組合運動で追われるが、その間、戦中世代として受けた敗戦の衝撃からの精神的転機を図る思想劇とも言うべき、詩集『固有時との対話』(1952)、『転位のための十編』(1953)、評論『マチウ書試論』(1954)などを発表して注目された。ついで、戦後革命とその挫折(ざせつ)を弾劾する論拠として、戦前戦後のマルクス主義文学者の戦争責任を糾明する評論『文学者の戦争責任』(1956)から、さらに転向の原因を権力の強制による屈服とする通説に反して、大衆からの知識人の孤立として剔抉(てっけつ)する評論『転向論』(1958)に及ぶ、非共産党左翼の思想と論理の確立に努めた。安保闘争に際して「全学連」を支持し、1961年(昭和36)「自立」を掲げ、谷川雁、村上一郎(1920―1975)と『試行』(1964年に個人誌に切り換え)を創刊。「大衆の原像」論の視点から『日本のナショナリズム』(1964)、『自立の思想的拠点』(1966)の刊行を経て、それを『共同幻想論』(1968)の刊行によって結実する一方、文学における言語表現の分析『言語にとって美とは何か』(1965)、心的世界の解明『心的現象論序説』(1971)の刊行によって既成のプロレタリア芸術論を排した。その後、多様化した評論活動として、『源実朝(さねとも)』(1971)、『源氏物語論』(1981)等の古典文学論、『最後の親鸞(しんらん)』(1976)、『〈信〉の構造』(1983)等の宗教論、『悲劇の解読』(1979)、『宮沢賢治』(1989)等の現代文学論、『マス・イメージ論』(1984)、『ハイ・イメージ論I・II』(1989、1990)等の大衆論と表現論を融合する取組み等、文学と思想の浩瀚(こうかん)な著書によって、不断に革新の展望を開いた。
吉本隆明、全著作。
『吉本隆明全著作集』15巻・続3巻(1968~1975、1978・勁草書房) ▽『吉本隆明全集撰』全6冊(1986~1988・大和書房) ▽吉本隆明研究会編『吉本隆明が語る戦後55年』1~12(2000~2003・三交社) ▽『吉本隆明全集』38巻・別巻1(2014~ ・晶文社) ▽『共同幻想論』改訂新版(角川文庫) ▽『心的現象論序説』改訂新版(角川文庫) ▽『マチウ書試論・転向論』(講談社文芸文庫) ▽『源氏物語論』(ちくま学芸文庫/洋泉社・MC新書) ▽『ハイ・イメージ論1~3』(福武文庫/ちくま学芸文庫) ▽『宮沢賢治』(ちくま学芸文庫) ▽吉本隆明著『わが「転向」』(文春文庫) ▽『定本言語にとって美とはなにか1~2』(角川文庫) ▽鮎川信夫著「吉本隆明論」(『吉本隆明詩集』所収・1958・ユリイカ) ▽磯田光一著『吉本隆明論』(1971・審美社) ▽菅孝行著『吉本隆明論』(1973・第三文明社) ▽埴谷雄高著『吉本隆明を「読む」』(1980・現代企画室) ▽好村冨士彦著『真昼の決闘――花田清輝・吉本隆明論争』(1986・晶文社) ▽神山睦美著『吉本隆明論考――了解を基礎づけるもの』(1988・思潮社) ▽松岡祥男著『吉本隆明と吉本ばななのあいだ』(1990・大和書房) ▽鷲田小弥太著『吉本隆明論――戦後思想史の研究』(1990/増補版・1992・三一書房) ▽斎藤慎爾編『埴谷雄高・吉本隆明の世界』(1996・朝日出版社) ▽吉本隆明・吉本ばなな著『吉本隆明×吉本ばなな』(1997・ロッキング・オン) ▽芹沢俊介著『主題としての吉本隆明』(1998・春秋社) ▽小浜逸郎著『吉本隆明――思想の普遍性とは何か』(1999・筑摩書房) ▽岡井隆著『吉本隆明をよむ日』(2002・思潮社) ▽竹田清嗣著『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』(講談社学術文庫)』
昔買った、「共同幻想論」のCD-ROM.
✳︎「共同幻想論」とは。
共同幻想論とは、幻想としての国家の成立を描いた国家論である。当時の国家論は、集団生活を成立させる機能として国家を作ったと言う社会契約説や、国家とはブルジョワジーが自分の既得権益を守るために作った暴力装置であると言うレーニン的な国家論が一般的であった。つまり、国家とはルール体系であり、機能性を重視したシステムなのである。しかし、吉本は、国家とは共同の幻想であると説く。人間は、詩や文学を創る様に、国家と言うフィクションを空想し、創造したのである。これはルイ・アルチュルセールのイデオロギー装置論に似て居る。人間は自分の創り出したフィクションである共同幻想に対して、時に敬意を、時に親和を、そして時に恐怖を覚える。特に、原始的な宗教国家ではこれは顕著である。その共同体で、触れたら死ぬと言い伝えられて居る呪術的な物体に触れたら、自分で本当に死ぬと思い込み、心的に自殺すると言う現象も起こりうる。個人主義の発達した現代でも、自己幻想は愛国心やナショナリズムと言う形で、共同幻想に侵食されて居る。共同幻想の解体、自己幻想の共同幻想からの自立は、現在でもラジカルな本質的課題であると吉本は指摘して居る。
吉本は血縁・氏族的共同体(家族)が、地縁・部族的共同体(原始的な国家)に転化する結節点として、兄妹・姉弟の対幻想に着目して居る。兄妹・姉弟の対幻想は、夫婦の対幻想とは違って、肉体的な性交渉を伴わない対幻想なので、幾らでも無傷に空間的に拡大できる。兄妹・姉弟の対幻想が、他家との婚姻と言う形で空間的に拡大しているため、国民は心理的な一体感を共有し、幻想としての国家が成立するのである。逆に言えば、原始的な国家の成立は、兄妹・姉弟の近親相姦が自覚的に禁止されたときに求められる。中上健次の「国家は白昼に突発する幻想化された性なのだ」と言う言葉は、このことを指して居る。
また、吉本にとって、高度な経済力や科学力を持って居た近代国家である戦前の大日本帝国が、やすやすと天皇制と言う、宗教性の強い古代・中世的な政治体制やイデオロギーに支配されて仕舞った事は大きな難問だった。吉本は、宗教・法・国家はその本質の内部において、社会の生産様式の発展史とは関係がないと主張し、政治体制は経済体制に規定される(唯物史観)とするロシア・マルクス主義を批判する。その試みは、吉本にとってロシア・マルクス主義からの自立であって、少年期に骨の髄まで侵食された天皇制と言う共同幻想を意識化し、対象化し、相対化しようという試みでもあった。
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さて、映画です。今回は「ビックマグナム77」です。
「ビックマグナム77 / 原題・バージン・マグナム」、1976年、カナダ・イタリア制作映画。
監督 | マティーン・ハーバート |
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脚本 | ヴィンセント・マンフランク・クラーク |
撮影 | アントニー・フォード |
音楽 | アルマルド・トロヴァヨーリ |
出演 | スチュアート・ホイットマン キャロル・ロール ジョン・サクソン マーティン・ランドー 工事現場で発見された女の死体に端を発する連続殺人。事件を調べる刑事トニー・セイタは、捜査線上に浮かび上がって来た人物が死んだ自分の妹である事を知る……。カナダの都市を舞台にした珍しいポリス・アクション・ミステリーで、列車まで巻き込む壮絶なカー・チェイスが見もの。全編を彩るA・トロヴァヨーリのスコアも素晴らしい |
ストーリー
妹ルイーズ(キャロル・ロール)が死んだ。兄の刑事トニー(スチュアート・ホイットマン)がその訃報を受けたのは銀行強盗をマグナムでしとめた直後。早速彼はモントリオールへ飛ぶ。検死結果、ルイーズは毒殺されて居た。巡査部長マテウス(ジョン・サクソン)の協力を得、トニーの調査が始まった。第一の容疑者として、生前彼女と関係のあった医師(マーティン・ランドー)、だが彼の無実は明らかだ。そんなある日、工事現場でバラバラの変死体が発見される。所持品からルイーズの首にかかったネックレスの写真が出て来た。妹の事件と何かの関連が……。トニーの捜査が始まり、盗品売買者が浮び上がって来る。激烈なカー・チェイスの末、ネックレスは若い男女が自分の処へ持って来たが処理出来ないのでことわった一件を、男は自白した。一方、バラバラ死体は、マジー(ゲイル・ハニカット)と言う大学職員の弟だった。又、ネックレスは以前未解決の強盗事件で盗まれたもの。盲の教師ジュリー(ティサ・ファロー)を訪れたマジーは何者かに殺され、ジュリーは負傷する。早速、病院にかつぎこまれたジュリー。彼女がネックレスを一時持って居た為だ。病院に彼女を殺しにくる男。男はなんとルイーズの友人だった。彼とルイーズの2人で強盗に押し込み、彼女が殺人を犯したらしい。病室で待ちうけて居たトニーの目をかすめ、屋上よりヘリコプターで逃げる犯人めがけ、トニーのマグナムが火を吹いた。燃え落ちるヘリ、虚しい結末だった。
4/27リリース『ビッグマグナム77 HDマスター版』予告編
銀行強盗犯を追い詰めて、愛用のマグナムで撃ち殺す主人公トニー。さらに話の中では、オカマたちと乱闘と、劇中一番の盛り上がりである延々続くカーチェイスが見所だ。特にこのシーンは車体をぶつけあい、街中をおかまいなしに暴走させる傍迷惑さが、如何にも70年代刑事映画。2台の車が列車の上を続けざまにジャンプする危険なスタントも見どころで、延々と走って居る。カナダを舞台としながらも「ダーティハリー」を意識した映画制作。オカマとの乱闘も、意外な程に時間を割いて居る。ビルの屋上でのアクションには、ビルからぶらさがると言ったスタントもあったりして、この時代のB級映画に有り勝ちな演出だ。実際、見せ場になって居るのは間違いないのだが、手がかりを発見して、それを知る人間に話を聞きに行く、その人物が抵抗、追跡・乱闘・カーアクションに、ラストはなんと44マグナムで犯人の乗ったヘリコプターを撃ち落とす。。。
まあ、純然たるB級映画なれども、主演のスチュアート・ホイットマンが体を張って演じて居る。「スパイ大作戦」で御馴染みのマーチィン・ランドーが精神科医の役で好演して居る。何と犯人の片割れは警部の実の妹。精神を病んで居て、精神科医のマーチィン・ランドーに治療をされて居たのだった。この映画は犯人探しと、警部の妹の意外な事実を追って行くストーリーが良く出来て居る。如何にも1970年代刑事アクションと言った映画です。丁度、同時期に作られた。フランス映画の「刑事キャレラ・10対1の追撃」やイタリア映画の「死神の骨をしゃぶれ」など、あの時代は、こう言った刑事アクションが盛んでした。元はアメリカ映画の「ダーティハリー」の大ヒットが発端なのだけどもマカロニ・ウエスタンでニヒルな賞金稼ぎを演じてアメリカに凱旋帰国したクリント・イーストウッドがクールにしかし何処か屈折した主人公の刑事を演じてから、後に続けとばかりに世界中で刑事アクションが流行りました。 日本とかイタリアでは刑事アクション映画として公開されたが、アメリカではジャッロ映画として公開された、(ジャッロ(イタリア: Giallo、発音 ['ʤallo])は、イタリアの20世紀の文学ジャンル、映画のジャンルである。フランスの幻想文学、犯罪小説、ホラー小説、エロティック文学に密接に関わりがある。日本では、ジャーロと表記されることも多い)。この映画は、私はビデオで見ました。確かその前は「日曜映画劇場」で見た記憶があるのですが、あまり覚えては居ません。その後レーザーディスクで購入し、最近DVDで購入しました。今はBlu-rayが出て居ます。破天荒デカの混沌とした手掛かり捜査とタチの悪い街の遊撃手みたいなカーチェイスを経て最後意外な結末に辿り着くのが良い。ラスト、44マグナムでヘリコプターを撃ち落とすのは圧巻。まあ、B級映画の傑作だと言えましょう。
Markus Gabriel in Japan
マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, )は、ドイツの哲学者。現在、ボン大学教授。専門書だけでなく、哲学に関する一般書も執筆して居る。
哲学、古典文献学、近代ドイツ文学、ドイツ学をハーゲン大学、ボン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。2005年、イェンス・ハルフヴァッセンの指導のもと、後期シェリングの研究によりハイデルベルク大学から博士号を取得した。2005年にリスボン大学の客員研究員、2006年から2008年にかけてドイツ研究振興協会の研究員としてハイデルベルクに滞在した。2008年には古代哲学における懐疑主義と観念論についての研究によりハイデルベルクにてハビリタチオン(大学教授資格試験)に合格する。2008年から2009年にかけて、ニューヨークのニュースクール大学哲学部で助教を務めた。2009年7月にボン大学に着任し、認識論・近現代哲学講座を担当すると同時に、同大学国際哲学センターのディレクターも務めて居る。過去にはカルフォルニア大学バークレー校の客員教授も務めた。
複数の言語(ドイツ語、英語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語、中国語)を自在に操り、また古典語(古代ギリシャ語、ラテン語、聖書ヘブライ語)にも習熟して居る。
『世界は存在しない』
本書は2013年に刊行されるやいなや哲学書としては異例のベストセラーを記録し全世界を驚愕させた、哲学界の新星マルクス・ガブリエル(当時33歳)の出世作である。
本書の内容を一言で言えば、それは現代に巣喰う「無意味」の底をぶちぬいて「意味」へと突破しようとする哲学的思索の努力と要約しうるであろう。ガブリエルによると、私たちは二重の無意味に取り支えて居る。第一に、自然科学的世界像が唯一正しいとされるものの、そこには人間の居場所がどこにも無い。この様な状況に面してポストモダンは、科学的世界像も含め「あらゆるものは幻想である」と主張した。しかし第二に、この様に言う事によってこの立場そのものも一個の幻想と化して仕舞う。こうした二重の無意味に囲まれながら、私たちは意気消沈し、なす術を知らず相変わらず自然主義の抑圧に屈して居る。この二重の無意味からの脱却の切り札をガブリエルは「世界は存在しない」と言う洞察に求める。これは「あらゆるものは幻想である」と言うポストモダンの主張を「世界は存在する」と言う「唯一の幻想」へと縮減する事である。しかし「世界は存在しない」ならば、世界に関する像もありえない。それゆえ、自然科学的な世界像もなく、自然科学は世界についての理論である事を止めて、端なる科学的探求へと引き戻される。
もっとも自然科学は世界像である限りは間違って居るが、事実そのものを捉えて居ないのではない。それどころかあらゆる場面に於いて私たちは事実そのものに触れて居る。自然科学のみならず、あらゆる人間の営みは実在への通路なのである。これがガブリエルの「新しい実在論」である。それは「存在する」と言う事を「意味の場に現象する」事と捉える一方で、これら無限の意味の場を包摂する最後の意味の場(世界)はないとするのである。「あらゆるものが存在する、ただし世界を除いて」。
究極の審級をもたない、多次元的で重層的な意味の場から意味の場への不断の移行が、私たちの生きて居る現実であり、しかもその一つ一つが実在そのものとの接触である。この観点からすると自然科学はたった一つの意味の場でしかない。これによってそれ以外の意味の場が、自然科学と平等の権利をもって息を吹きかえして来る。ガブリエルが言う様に、私たちの日常の些細な感情や他愛ない空想までもが、実在との関係に於いては自然科学の営みと同等のものである。それ処かそうした意味の場こそが圧倒的な数的優位を占めて居るのである。ガブリエルに拠れば、私たちの人生は、あらゆるものを唯一の観点から一元的に判定する為の拠り所がそもそも無い中で、無数の意味の場を潜り抜けながら自己自身を探求しつづける事である。
ガブリエルはこの様な人間のあり方を「精神」と呼び、その概念把握を試みて居るが、少なくとも本書においては十分にそれに成功して居るとは言いがたい。それにも関わらず本書の主旨は明白である。決定的とも見える単独支配と絶望に抗して、それからの脱出口を思考によって切り開き、多数の抑圧されたものどもにその内部にひそむ本来の力への自覚を促しながら、ゆるやかな連帯を呼び掛けると言うのが、本書全体をつらぬく思考の運動の主旋律である。しかもそこに哲学的思考そのものの新生と言うもう一つの旋律が重ねあわされる。実際これは他に類を見ない哲学と現実の架橋の試みである。本書は平易な語り口のゆえに非専門家向きの哲学書と言われて居る。しかし要点はそこには無い。「新しい実在論」は思想そのものも、あらゆる事物と同じ様に現実に存在すると主張するのである。
ガブリエルの「新しい実在論」とは、如何なるものなのか。ひとまず、「世界は存在しない」と言うキャッチーな主張は脇に置く事にする。それは実は、二次的な事だからだ。ガブリエルの言わんとする事の本体は、「本質主義vs.相対主義」と言う対立から抜け出す第三の道を開く事である。本質主義vs.相対主義と言うのは、極端に単純化すれば、次の様な対立だ。
富士山を、別の場所からAさんとBさんが見て居るとする。本質主義によれば、富士山「自体」が唯一の実在であり、AとBはそれを異なる見方で見て居るが、「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」は、たんなる見方にすぎず、実在的ではない。自然科学によれば、富士山の実在は物質的・数理的に説明されるべきものであり、そしてその説明だけが真である。
相対主義によれば、我々は常に何らかのパースペクティヴから見た富士山の見方しか知る事が出来ない。「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」がそれぞれにあるだけだ。そしてそれはどちらも「主観的な構築」であり、我々に問題に出来るのはそれだけである―実在的な富士山にはアクセス出来ない。
こうした対立が、大ざっぱではあるが、「ポストモダン」思想以後、解決出来ない問題としてくすぶり続けて来た。とくに人文学においては、「ポストモダン」以後に相対主義的傾向が強まり、それへの批判がたびたびなされて来た。
ガブリエルはこう論じる。「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」があるのは確かなのだが、それはたんに主観的な構築なのではない、それぞれに実在的なのだ。と言うのは、物事の実在はそもそも、特定の「意味の場」と切り離せない。
以上の場合では、「Aから見る」、「Bから見る」と言うのが「意味の場」の形成であり、富士山の実在性はそれに依存して居る。では、富士山「自体」はどうかと言うと、富士山「自体」とは、諸々の実在的なパースペクティヴの交差の事なのである―「意味の場」から完全に孤立して居る様な富士山「自体」は考え様もない。
非常に民主的な哲学ではないだろうか。これは、複数の「意味の場」を共存させるオントロジー(存在論)だ。此処で、「世界は存在しない」というテーゼの意味が明らかになる。「世界」とは、実在のすべてを包括する最大の集合であるが、そのような包括はいまや出来ないのだ。実在的パースペクティヴは際限なく増加するからである。
ガブリエルは、自然科学こそが唯一実在にアクセス可能だと言う(広く支持されて居る)立場に否を突きつける。そうした科学主義は、特定の「意味の場」を特権化して居るからだ。非科学的な実在性もあるし、ファンタジー的な実在性もある……。しかしこの主張には少なからぬ人々が反発するのではなかろうか。
見方はいろいろだと言う相対主義ならばまだ「認識論的」だった訳だが、ガブリエルはさらに「存在論的」に相対主義を徹底して居る、
ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護すると言う意味に於いて。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示して居るとも言えるかも知れない。
ーーショート・エッセイーー(過去記事から抜粋)。
昭和30年代、私の家は長屋だった。長屋と言っても借りて居たのでは無く、2件の平屋が同じ敷地内にあり、片方は家が人に貸して居たのだが、庭は続いている庭で、庭の真ん中にロープが張ってあって、それで区切ってあった。私が4歳くらいの頃、私は3輪車に乗ってよくそのロープの下まで行った。すると隣の親父が私に「あっちに行ってろ!!クソ坊主!!」とよく怒鳴りつけた。私は事情がよく飲み込めなくて度々寄って行ったら、3輪車をひっくり返された。そしてその親父は唾を吐くと「今度また境界線に近ずくとぶん殴るぞ!!」と言って私は脅された。この親父には精神薄弱気味の子供が居た。その子はいつも庭にある池の金魚を手に取ると、石で叩いて殺して居た。
或る日、家賃が払われて居ないので、母が家賃を取りに行ったら、「うるせ〜ババア!!」と言って母の胸を思いっきり足で蹴った。母はすごい勢いで弾き飛ばされるとあまりの勢いの為、柱に頭をぶつけ頭から血が流れた。この模様を見て居た。当時私の家に出入りして居た通称”おばちゃん”と呼んでいた知り合いが近くの交番まで走って行って警官を連れて来た。警官は頭から血を流している母に大丈夫かと聞いて、もう一人の警官が、その男を傷害の現行犯でその場で逮捕して手錠を掛けた。私はずっと見て居たのだが、不思議と怖いと言う気持ちには成らなかった。幸い、頭の傷は軽傷だったので母も警察署まで連れて行かれた。その時に母が怒って、警官に胸を足で蹴られたと言ったら、取り調べの警官が「奥さん,こう言っちゃあ、なんだけど、足で蹴られたぐらいはまだ軽い罪にしか成らないんですよ。これで突かれたら殺人未遂ですがねぇ。」とゲンコツを突き出した。警官によると人をゲンコツで殴ったと言うと成ると、殺人未遂になると言う事だった。しかしその男は2週間留置場に入れられた。母が帰って来て、怒りながら夕食の準備を仕手居たら。隣の知恵遅れの子供が「お腹すいたよぉ〜〜」と泣いて居る。こちらのサンマを焼いた匂いが隣の家まで届いたらしい。母は怒りつつも、その子の様子を見に行って、食事を一人分用意して置いてきた。それから数週間後、その親父は猫をかぶったように大人しくなって帰って来て折菓子を持って謝りに来た。しかし家賃が払えないと言うので、その親子には出て行って貰う事に成った。出て行くときに、知恵遅れの子供の手を引いて、僅かばかりの荷物を風呂敷に入れて背負って出て行く中年男の後ろ姿を私は今でも覚えている。4歳の時の記憶だ。そして我が家は取り壊して2階建ての家に成ったのだった。
1960年代(昭和30年代)の東京
家が2階屋になると隣が小さな飲み屋だったもので2階から見て看板のネオンサインがやたら目に入った。隣に住んでいた女の人は飲み屋(Bar)のマダムだった。朝方になって牛乳を取りに玄関先に行くと大抵おしっこが掛けてあって、母は何時も苦情を言いに行った。隣でウイスキーを飲んだ酔っ払いが、朝方早く家の玄関先で立ち小便をするのだ。汚くてしょうがなかったが、その店も或る日、その飲み屋のホステスに袖にされたと怒った客が包丁を持って飲み屋まで来て、ホステスを殺すと言って窓を石で叩き割る事件が起きた。慌てたマダムが近くの交番に駆け込んだら警官が6人ぐらい出て来た。そして、警棒を持ってその男を取り囲んだ、私はまたもやその事の顛末を2階から見る事に成った。長く鋭い包丁を持った男は警官に切りつけて、一人の警官が手を切られて鮮血が迸った。その警官は「お前、これ見てみろ。刑務所行きだぞ!!」と怒鳴ると。一斉に残りの5人の警官が警棒でその男の包丁を叩き落とし。警棒で殴りつけ最後は拳でぶん殴っていた。そうしたら、応援のパトカーがやって来て。男はすぐに取り押さえられて手錠を掛けられてパトカーに乗せられて警察署まで連れて行かれた。私は6歳でその捕り物を見て居た事になる。私は子供心に「何故拳銃を発砲しないのかなぁ」とか思って見て居たのだが。これはTVの刑事ドラマの見過ぎだった。日本の警官は最近になって発砲する様に成ったが、当時は、めったに発砲しなかった。。。
処で先程母が頭から出血したと言ったが。私も小学生の頃、頭から出血した覚えがある。サッカーのゴールを片付けるので同級生3人ぐらいと先生で担いで居たのだが。何かの拍子に力が抜け、持ち上げて抱えていたゴールが頭に当たり。ふと力が抜けたら、同級生が「〇〇何してるんだちゃんと・・・」と言って私を見る成り、青ざめて、「〇〇すぐに保健室に行け!!」と叫んだ。それを聞いた残りの同級生と先生が私を見て驚いて「〇〇大丈夫か!!保健室に行け!!」と言う?私は何言ってんだと思い。まあ言われてゴールを持つのを止めて、なんだか汗がひどいなと顔を手で拭ったら血塗れだ。びっくりして医務室に行くと、女の保険医が「〇〇くん。鏡があるでしょう。自分の顔を見て御覧なさいと言うので、見てみると頭から出血していて顔面血塗れだった。保険医は「人間はね、頭に血が登って居るから、頭を切るとこんな風に出血するのよ。」と言ってアルコールで頭を吹くと濡れたタオルで顔を拭いて「あらあら、血の気が多いのねぇ」と言って血が付いたシャツを脱がして替え用のシャツを着せて、「今日はもういいから、学校を早退しなさい」と言って絆創膏を貼ってくれた。血は少しの間、滲んではいたが家に帰ると止まっていた。だからプロレスを見て居て出血するのを見ても納得出来たし。新日本プロレスの藤波辰爾が言って居たけど、瞬間接着剤と言うものはもともと医薬品で、傷口を塞ぐ為に開発されたと後年聞いた事がある。そう言えば藤波があるテレビのトークショーで若手の頃、よく怒った猪木に頭を破られて、出血した侭、リングに上がったら客が驚いて観て居たと言っていたっけな、、、プロレスは最近に成ると八百長説がまた湧いて出て居るが、本当の殺し合いが見たいならヤクザかマフィアに見せて貰えと言いたい。さもなければ中東の紛争地域に行けと言いたい。プロレスはショーではあるが。あくまでスポーツなのだから。プロレス・オタクはそこの処はちゃんと解って観て居るから問題は無いが。一部の丸バカが殺し合いだと勘違いして居るのだ。だからあれは嘘だと言う事に成る。そして本気でやって居ないのだから八百長だと言うのです。聞いてられない。
今回は以上です。またお逢いしましょうね。。。