寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

色々と・・・・・。再び投稿します読んでみてくださいね。

 

 

 

 

最近、夕方から眠くなる。4時ごろから眠くなり、寒いので布団に入って居ると何時間にか寝て居る。今、夜の11時を廻った頃だが、先程、目が覚めた。毎日このパターンだ。今、喉が渇いて居るのでコーヒーを飲んだ処です。だから夜に起きてしまい。酷い時には朝方まで眠れなくて起きて居る。今日もまたそうだ。私はそう言う時用の追加眠剤「デェビコ」と言う薬を処方されて居る。その薬を飲むと早い時に1時間後、遅くても2時間後には眠くなるのです。しかしこの薬を飲むと、朝方まで効き目が残る為に、朝なかなか起きられない。困ったものですよ・・・・・。さて今回は過去記事から、私の生い立ちを語って見ました。私が何故、統合失調症を発病したのか。会社での事。バカ親父との確執。そしてGACKTの為になる話だとか、色々と書いて居ます。それでは読んで見て下さいね。どうぞ・・・・・・。*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

 

 

「私が統合失調症に罹った訳」

私は大学時代に、ある宗教団体の信者に、毎日、講義中話されまして、、そいつが言うのには、私は「黙って本を読んで居る、寂しいに違いない。」と思って居て、その自分の宗教の事を毎日授業中に言うのですよ。そして自宅まで来て、私に自分の宗教団体が如何に彼を救ったか、と言うのです。そいつ元、暴走族で、「事故を起こして警察沙汰に成った時に自分をおぶってくれた恩義は忘れない。」とか、、私は「大学へは勉強をしに行ってるんだ!!」と言うと「私は友達を作りに来たんです」と言います。

まあ、頭がおかしい奴だったのでしょう。

そのうちに「我が宗教団体に入らないとあんたには3日後に必ず悪い事が起きる」。と脅迫をする様に成りました。そんな事が、半年余り続きました。私が喫茶店に入ると着いて来て、永遠と自分の宗教団体が如何に素晴らしいかと言いまくります。そのうちに、そいつは私の周りに何時も着いて廻る様になりました。

そいつは大学でも友達は一人も居ずに、勉強はまるで出来ませんでした。確か要約一つだけ優を取ると私に成績表を見せて、「私は凄い!!!!」と、、自慢をするのです。そしてあんたの成績表を見せろと言うので、見せたら絶句して黙って居る。何故なら私はほぼオール優だったからです。大学のテストは勉強さえしていれば優は取れます。そしてある日に授業中に、「今日、電話をアパートに引くから、電話番号を教える」と電話番号をメモした紙を渡して、「電話を掛けて来い、いいな」と言うのです。私は無視をしました。するとその日の夜9時頃に電話が掛かって来て、

「何故、電話を掛けないんだ!!あれほど掛けろと言っただろう!!」と言うのです。私はついに堪忍袋が切れて仕舞った、そして、そいつの電話に深夜3時に電話を掛けて、「ぶち殺すぞ、貴様!!てめえみたいな最低な男には、必要な宗教でもな、俺には関係がねえんだよ!!」「大体がお前の言って居ることは脅迫だ!!警察沙汰にするからな!!そして明日以降付き纏ったら、お前を刺殺してやる!!ぶち殺してやるからな!覚悟を決めて大学に来い!!」と言いました。するとそいつは「あの、その、いや、そう言うつもりでは・・・・。私は友人が・・・・欲しくて」と言うので。「貴様みたいな最低な人間に!!友人なんか誰もならねんだよ!!今から警察に電話を掛けるからな」

「ああ、許して下さい、、そんなつもりでは・・・」「明日、お前を殺しに大学にナイフを持っていく!!覚悟して来い!!」と電話を叩き切りました。そう言ったら、私の家のものが全員起きて来て、ついでにお隣さんやらも起きて来て「一体どうしたの?」と言いました。そして大学に行くと、そいつは寄っては来ませんでした。ですが、私は教授と学生課に話し、そいつの親が経営して居る会社に電話を掛けて、話しました。親は平誤りに謝りましたが、私は「もう遅い、教授にも話してある」と言って電話を切りました。

するとそれから3日程、経ってからそいつが謝りに来ましたが、私は「御免で済むなら警察要らねえんだよ!!」と言って教授の元にそいつを連れて行きました。そいつは泣き始めましたが、私は「許さない」と言い。そいつは学生課からも親元に電話が行きました。話をして居て、そいつは言いました。私が「大人しく見えた。何時も大学で本を読んで居た。気に喰わなかった。」と言いました。私は言いましたよ。「お前の下らない考えで、人を測るな!!今日以降、俺の前に顔を見せるな!!」そしてそいつは私の側には、要約やって来なく成りました。

しかしそれから、2日程して私は夜寝ようとして居たら。何か女の人の話し声が聞こえるのです。耳をそば立てて聞いて居るとその声は泣き声になり酷くなります。そしてその声は自分の頭の中から聞こえて来るのでした。精神科に両親に付き添って貰って行くと、「精神分裂です」と言われました。発病したのですよ。それから向精神薬を飲む様に成りました。当時はまだ「統合失調症」とは言って居ませんでした。

ちなみに、そいつは、大学を辞めて行きました。

私が大人しく見えて友達とは名ばかりな、、バカにして自分の手下に仕様としたのですよ。自分は最低のバカなのに。ちなみにそいつの親の会社は倒産しました。そいつは奨学金制度で大学に来て居たそうです。しかし、そいつはもう大学には来れ無く成りました。自業自得です。かわいそうだとは思いません。

自分が苦しいから、自分が寂しからと、その憂さを、大人しそうなやつにぶつけて晴らそうとする。人間として最低な行為です。

以前、自分の娘を虐待して殺した。いつもエヘラ、エヘラ笑って居るロクデナシの父親の裁判があって、そいつは涙ながらに謝ったと言いますが、そんな根性の人間は自分の命が惜しくて言って居るに過ぎないのですよ。現に判決で懲役18年と言われたら「それって、刑は軽いのか?」と聞いたそうです。こんなゲスの大バカ野郎は生かす必要はありません。死刑が当たり前です。殺されればいい。

 


人が本を読んで居ると言うのはその人は勉強をして居るのですよ。それを見て。「本なんか真面目に読んで居る。気に喰わない。」良く、講義をまともに聞いて居る学生を嘲笑い、「けっ!!まともに勉強などして居る。おちょくってやる」と言う人間が居ます。それは自分の僻みです。自分は勉強が出来ない僻みです。自分がバカなのですよ。私の実家での最後の方で高千穂商科大学の学生が下宿して居ましたが。彼は田舎で、どうやら親父さんが役所勤めをして居たらしいのですが。金を使い込み発覚してしまい。刑務所に行き。お母さんは病死し。お姉さんと二人でお姉さんがOLで事務員になり、弟の学費を出して居た見たいで、そいつは何時も「姉さんがさぁ、姉さんが言うんよ」。と言うのが口癖だったけど。私がこの男はダメだなと思ったのは。講義を大学で受けて居て、最前列に陣取って講義を受けて居る連中に頭に来ると言って居まして。

矢張り「あんなに真面目に授業聞いてるんよ!!憎たらしか!!」と言って居ました。私はそいつの事は良くは思えませんでした。自分の身の上がそうであるならば。田舎で村八分にされて居るならば、出来たお姉さんに学費を出して貰って幾ら3流大学とは言え。大学まで来たのなら。何故、勉強をしないのか?そいつの気持ちも解りますよ。何時も一升瓶の焼酎を煽って飲み干して寝る毎日でしたから。でも何で、せっかく大学に入って何故勉強しないのだろうか?お姉さんはその弟に立ち直って貰いたいが為に。仕送りをして下宿代も出して居るのに。世の中。自分がバカなのに人の事をとやかく言う人間が居るのには、、ほとほと呆れます。


精神病院に入院して居た時期に出会った患者の人の中には、ユングやらラカンの心理学書などやプラトンの哲学書をレクリエーション室で読んで居る人が結構居ました。皆んな、自分は何者なのだろうと気に掛けて、精神病院内ですら勉強して居るのですよね。それなのに一般の人は哲学難しい。解らないから読まない。そして私も不思議な感覚を病気で体験しました。それは、今から10数年前の私が最後に起こした発作時の時ですが、、発作を起こす前にブルースハープを吹いて居たら、、何故か素晴らしい演奏が出来たのですよ。自分の実力以上の演奏です。

多分、頭が発作の覚醒で脳のエンドルフィンが多量に分泌されたのだと思います。此れには近所の人も舌を巻いて「うまいわねぇ!!」と言ってくれましたよ。ただ、その時だけでした。今、その時の様に吹こうとしても、全くその時の様には吹けません。そしてその発作が元で私は親族の縁を切られました。元はと言えばその宗教に凝り固まって居た学生の所為です。そして拓殖大学はやはり程度が低過ぎた。まあ、それも事情があって夜学だったから。文句も言えないし、人のせいには出来ません。しかしバカしか居ませんでした。

そこに行く羽目になったのですから、仕方が無いのですよ。私は武蔵美に行きたかったのですけどね。美大ですよ。親が絶対に許さなかった。私は芸大とかに行ける能力は無かったし、高校の担任の教師がブローカーで、私に日大の芸術学部に行かせてやると言う。私は断ったが、しつこく言われてまあ、最終的にはテストを受けた。まあ、行け無いだろうと踏んで居たしね。なんでも笑ってしまうが。その教師の言う事だと30点取れればあとは自分ともう一人の先生二人に、自分が300万もう一人には100万話渡せば入れられると言っては居たが(笑)。蓋を開けてみれば点は、それ以上の点を取っては居た。勿論合格点では無い。

 

そうしたら、私とあの大バカ野郎の父親の手前、言い訳をしようと私に「お前は、どうせ点数なんかは全然取れては居ないのだろう!!」と言って居て。私の手前、私を連れて大学側に出向き、「高校のこの生徒の担任ですが、この学生の点数は何点だったのでしょうか?」と聞いたら点数は大幅に取れて居た事が解ったら。親父が運転している車に戻り。「〇〇、、お前は此処で待って居てくれよな?。俺はお父さんと話があるからなぁ!!」と言って、喫茶店に入って小1時間ほど話して、その先生は電車で用事があると居なくなり、車に帰って来た、親父に「何話したの?」と聞いたら「お前が成績が取れて居ないから合格しなかった」と言うのだ。私は笑ってしまい。「親父よう?あいつの言う事を信用してたの?30点取れればいいと言って居たんだよ?」そう言うとあのバカ親父は「だって合格点では無かったんだからなぁ」と言うのだ。

それで、もしかしてと思い。「今日幾ら、あいつに金取られたの?」と聞くと「3万円だ」と言うので私は呆れて仕舞った。いいですか世の中なんてそんなものなんですよ。私はこのblogには書けない話もいろいろあるのですけど、皆さんは、私は何でもかんでも正直に此処に書いて居て。この文を読んでそれが私の全てだと思い込んで居ませんか?私は言えない事は基本書いては居ません、ああ、兄弟の事。嫌な連中の事。嫌な親戚の事。そして悪い教師の事ぐらいしか書いて居ませんよ。教師が聖職者でしょうかねぇ?この記事読んでも「先生はいい人たちです」と言えますか?教師は悪いんですよ。殆んどの教師が。高校に入った頃です。担任の教師が私をバカに仕出したので黙って何も言わなかったら「おい、お前!!2×2は幾つだ?言えるのかバカが!!」と侮辱されましたよ。だから私がやれやれと思って「4です」と言ったら「死か?お前は首でも括って死ぬのか?いいでは無いかそれでヨォ!!」と言われましたよ。

私の中学の担任。私をイビって居た教師は私の「内申書をよく書いてやるから」と家に来て母にそう言って、寿司取って貰い。矢張りスーツを作って貰いましたが。私があんな野郎がそんな事する訳が無いと思い。内申書の入った封筒をホチキスで止めてあったけど、開けて見てみたら実際より悪く書かれて居ました。まあ、高校は私はちゃんとテストの点取って入りましたからね。だけどそうやって悪く書かれて居たから、高校の先生の私に対する風当たりは嫌なものでしたよ。教師になぞなるものは根性が腐って居るハイエナみたいな野郎しか居ませんよ。それはね、いい教師も稀に居るかも知れないけど。まぁ、稀ですねぇ。大体が最近の男性教諭は女子高生を性的対象にしか見て居ないから。そして女学生もネットの情報やらSNS、LINEなどで、自ら淫らな情報を発信していいカモにされて居る。そしていじめは昔からありますから。何遍も言ってるけど私の友人が少し知恵遅れ気味だったのかなぁ、、

そうしたら、女学生まで参加して袋叩きにして、女学生3人に腹蹴り上げられて。そいつは昼の給食で食べたもの、全部吐いて居ましたよ。私もそいつの友達と言う事で首絞められたり足蹴られたりしたから、まず学級委員には悪かったけど。彼をぶん殴りました。そしたら、やって居た連中は辞めましたけどね。それから小学生の頃は、余りにいじめられて居た子が、ナイフを学校で振り回し3人に切り付けてニュースになりました。今、いじめられて居る子は相手を殴れないでしょう。はっきり言ってそんな奴らはどうなったっていいのですよ。男でも女でも相手が悪い場合は殴ってやればいい。皆んな今の子は優し過ぎるよね。唯、女性は守れ!!男としての鉄則だよ.....。

 

armé des ombres

 

歌手で俳優のGACKTは、一見中性的だ。彼はその部分で損をして居る。でもあれはキャラクターなのだ。芸能界で生きる為の。彼は俳優の緒方拳を慕って居た。何故ならGACKTはそれまでたった一人で生きて来たからだ。若い頃。彼が23歳ぐらいにある女性を好きになり結婚して居たらしいが?ファンのヤキモチで奥さんは精神病になり。結婚生活は破状。そして大河ドラマでの「上杉謙信」役でのバッシングの嵐の時に。共演して居た緒方拳が彼を励ました。彼はそれ以来。緒方を父親の如く慕ったと言う。彼は涙を浮かべながらインタビューに答えて言って居た。緒方が死んだ時には1ヶ月間何も手に付かなかったそうだ。人と人の繋がりとはそう言った事が身に染みて有難いのだ。特に長年たった一人で生きて来た者には身に染みるのだ。私も最近まで、GACKTのことを胡散臭い若者だと思って居た。

しかしそれは誤りだった。彼の真剣な生き様をテレビで見て。彼の男らしい考え方を聞いて見て。私は彼を軽んじて見て居た自分が恥ずかしいと思った。大河ドラマの謙信役で彼をバカにした中年。老人たちは、目がないのだ。自分の思い込みで謙信とはこんな者だと言う。固定観念で見て居る。例えば、謙信の長髪が女みたいだと言うが、昔は長髪の武将は沢山居たはずだ。ただ一枚の現存する謙信の絵で持って。謙信は坊主だったりまげを結って居るから。長髪はおかしい。そして中性的な顔立ちのGACKTの謙信が女みたいだと罵る。この大河ドラマは私は見て居たから知って居るが。GACKTはこの武将をちゃんと男らしく演じて居た。顔がいいのはGACKTだからだ。それをそう言って貶すのだ。要するにジジイの僻みだ。

あの緒方拳にGACKTは「自分の演技が未熟なのは分かって居ます。いけない処は何でもはっきり言って下さい....。」と言ったそうだ。そうしたら緒方は「この緒形拳がガックンの演技は筋金入りだと言って居るんだ。躊躇う事は無いよ。自信を持て....。」と肩を叩いたそうだ。GACKTは緒方拳が亡くなった今も。墓前に手を合わせに行って居ると言う。そして彼は最近の自分が行って居る子供たちへの援助についてこう言って居ます。「人を救おうとか人を助けるとか烏滸がましいじゃないですか。」「これは例ですが、自分が車を運転して居たら自分の左方面から車線を変更して入りたいおばさんが運転して居る車があるとして、その車が中々入れないで居る。それはそのおばさんが腕が未熟だと言う事ですが、その場合どうしますか?」

「少しスピードを減速して入れてあげます」「そしたら、そのおばさんが急にブレーキを踏んだとしたら。あなたの車はそのおばさんの車の後ろに突っ込んでしまった。」「そしたらそのおばさんが車から降りて来て猛烈に怒り、「あんた何してくれたのよ。どうしてくれるのよ」と言われたら?」「・・・・」「ねっ。すなわちボランティアとはそう言う事なんですよ。この場合、相手が運転が未熟なのが全て悪いです。でも、それを知って居て前に入れてあげたのでしょう?

相手を助ける事で自分に火の粉が掛かって来る可能性もあるんですよ。」「僕は東北の震災後に大量の物資100トンと、ボランティアをして集めた2億円を東北の赤十字に送った、」「でもね、世の中の人はよく思わなかった」「人の汗の掻き方に文句を言う人が居るんだなぁと。そしてそう言う人は多いんですよ。」「僕の友達のボランティアをして居る仲間がこう言ったんです。」「俺は自分の好きでボランティアをやってるんだ。だから人から感謝される覚えも無いし、罵倒されてもそれがなんだ?」とね。

「そう言いながら彼は人をちゃんと助けて居るんですよ。だから僕もそう思ってやって居ます。」この言葉は流石に重い言葉です。覚悟を持ってやって居る事が解ります。私に取っては原田芳雄さんがそうだった。私は子供の頃から彼の男らしい演技に憧れて彼の映画やらテレビ番組を見て居た。ある切っ掛けで、ふとした事から彼の家に伺い話をして。その思いは彼の事を兄貴と慕うまでに成った。

私は彼の色紙を宝物にして一緒に写した写真を大切に持って居た。しかしそれは私が体調を崩しておかしく成った時に全て無くして仕舞った。もう一人、私には兄貴と呼ぶ人が居た。ブルース・ハーピストの妹尾さんだ。彼は私を励ましてくれた。「妹尾のブルースは病気に効くぞ」と言って,自作のCDとDVDを送ってくれた。またメールで励ましてもくれた。私はもう一人、クロマチック・ハーモニカの徳川さんと言う人を知って居る。彼からもサイン入りのCDを貰った。人は一人では生きられない。それに男は男らしい男に憧れ惚れるものだ。私は女性は優しく頭がいい人に惚れる。顔は二の次だ。私は若者がダメだとは思わない。そんな事を思ったら。これから先の世の中は、誰が時代を担ってくれるのだ。

若いうちは未完成なのは仕方がない。我々歳を取ったものは。その未完成でも新しい可能性を持った若者を正しく導かねば成らないでしょう?本当の男とは人間とは、生きて行くのが困難な人やら、困って居る人たちを助けて行かなければ成らないと思う。私はグリム・スパンキーが好きだ。まだ若いと言っても、もう28歳ぐらいにはなるのか?彼らのロックはちゃんとブルースの影響を受けて居るし、昔の良かった頃のロックをちゃんと吸収して今風の音にして居るからだ。人に寄っては若いと言うだけでダメだと屁理屈を言う老人が多い。しかしそれは老人の僻み以外の何物でも無い。私は前に来た、訪問看護師の女の子に。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」と言うアニメを見てご覧と言った。今のアニメだが言って居る事は人生哲学だと思ったからだ。私は見て居て、久々に良いアニメを見たと思った。

それは、もっと本格的な映画とか思想とか教えたいのだが・・・。人は自分の知らない事には無頓着なものなのだ。あまり難しい事を訊いても、自分が少しでも理解出来ないと納得して訊こうとはしない。私は自分が良いと思った物は必ず人に勧める。言う事を訊いて見てくれた人は、必ず礼を言ってくれるのですよ。「良いものを教えて貰った」と。彼女は結構私の話を訊いて居た。私は彼女がそのアニメを見てくれる事を願う。そして一昨日来た中年の看護師さんには服飾研究家のMBさんの事を教えた。

その人は早速帰ったら、自宅のパソコンでYouTubeを見てみると言って居た。そして彼女には私が崇拝する出崎統監督の「ブラック・ジャック」から6話のOVAと。劇場版のアニメを焼いたBlu-ray1枚を挙げて見た。観てくれると嬉しいが。最後にレイモンド・チャンドラーが作り上げた小説の主人公の探偵フリップ・マーロウのセリフを言う事に仕様。「男は強くなければ生きられない。しかし優しくなければ生きて居る価値がない」その通りなのです。

 

17.愛の出奔

 

 

 

 
 『親父』
 
 親父については良い思い出は余り無い。私が小学校1年生ぐらいの時に、今日は一日、良い処に連れて行ってやると言い。競馬場。競輪場。ボートレース場に連れて行かれた。競馬場では「〇〇、あの馬に乗っている騎手の筋肉を見てみろ、凄いだろう、お前もああ成れ、」競輪場では矢張り、「あの選手たちの足を見て見ろ、あんな筋肉をお前も付けろ。」ボートレース場では「お船がチャプチャプ凄いだろう、お前は大人になったらボートレーサーになれ、そして俺に3億円をおくれ」と言う。私が48歳ぐらいの頃だ、バカ親父が、私が休日に体が大分楽なので。部屋で映画を見て居ると入って来て、「〇〇、お前は腹筋をして腹を割れ、そしてな、腕はこんなに筋肉をつけてな、足も競輪の選手見たいに馴れ。」と突然言いだした。私は怒って「バカも休み休み言え、中年になった障害者の息子に向かって幼稚なことばかり言いやがってバカヤロー!!」と言ったら。
 
「おりゃ〜おめえにそう言う筋肉質の体になって貰いてえんだ」「ランボー見たいにか?」「そうだ、そうだ!!」「て、め、え、で、な、れ、ば!!」と言ったら自分の部屋に帰って行った。多分痴呆が始まって居たのだろう。話を戻すが。子供心に、一番傑作だったのは競馬場の予想屋だ。「ほらほらほら、次のレースは1−6だよ。段ボールのボードに1万円札が貼ってある。、皆んな、これが欲しいだろう。俺の予想が書いてある予想券を買えばピタリと当たるよ。3レース分まで予想して居るからな。」こう言うと、皆んな我先にとその紙切れを買って行った。私は子供心に「もし当たらなかったら、あのおじさん酷い目に遭わされるんじゃないの?」と聞くと「売ったら、もうどこかに行ってこの辺には彷徨いては居ない」との事。
 
私はレースなどそっちのけで売店で売って居る焼きそばやら、フランクフルトを買って貰いタダで飲めるタンクに入った紅茶を飲んでは喜んで居るのだった。しかし、普通小学校低学年の息子をこう行った場所に連れて来るか?私はつくづく親父を軽蔑した。私が高校生の頃、学校の遠足か何かで府中競馬場の外を歩いて居たら、ハンチング帽を被った兄ちゃんが「よう、お前さぁ、悪いけど電車賃かしてくれねえか?今日はヨォ、帰りの電車賃まで掛けちゃったんでぇ、必ず返すからよう、なあ、兄ちゃんよぉ〜〜。」と手を肩に回してきたので「ふ、ざ、け、る、な!!てめえに貸す金なぞないわ!バカヤロー!!」と怒鳴ったら。そいつは一瞬、立ち止まって黙って居たが、私がそれ以上、相手にしなかったら、もう拠っては来ず、今度は他の生徒に集ろうと仕手居た.....。
 
親父は「おりゃ、ギャンブラーだ!!」と言うのが口癖だった。会社以外の人間で付き合って居るのは最低の人間たちで、しかも私が病弱になり昼から会社の倉庫に行くと、親父が競馬のダフ屋やら、最低の人間のクズと話していて、私が椅子に座るとその男たちが、「あんた、今日は、何レースに幾らつぎ込むんだい」と聞いてくる。私がムッとすると、親父は必ず、「おめえは出てけ!!」と私を倉庫の外に放り出す。初め、親父は、病気で働けない私をどうにか会社に入れて働かせようとして居たはずだった。
 
それが自分が歳に成り、働けなくなるとこの私が邪魔に成った。私はもう会社に行くのが嫌に成り、行かないで居ると母が階段をドン、ドン、ドン、と音を出して上がって来て。ドアをバタンと開けて「〇〇、会社に行きなさい!!」と怒鳴るのだった。私は激怒し、母に「行けと言ってもね!調子が悪いんだ!!」「自分の息子が会社でどう言う扱われ方をされているのか一度見に来い!!バカヤロー!!」と怒鳴った。毋は驚くとその場に立ち尽くして居た。
 
私は自分の部屋を持てたのは高校生になってからだった。それまで部屋はなかった。だから部屋と部屋の出っ張って居る廊下に椅子とテーブルを置いて勉強して居たが、すぐに学生がドアを開けて、「〇〇ちゃん、コーラとファンタとポテトチップ買って来てくれないか」とか言いだす始末だ。そんな風なので高校まではテストは赤点だらけだった。その上に親戚一同がやいのやいのやって来るのだ。
 
ある日、私は中学校の技術の時間に本立てを作った。ニスを塗って、少し歪んで居たが家に持って帰って置いて居たら、親戚のババアどもが「あらヤダ、こんな高価なものを何時買ったのよ!!」と言って居るので「おばさん。それは学校の技術の時間に俺が作ったんですよ」と言っても「嘘だ、ニスまで塗ってあるじゃない!!買ったんだ!!」と言うので「欲しいのですか?ならば、あげますよ・・・」と皮肉を言ったらそのうち一人が「まあ、くれるんだって、こんな高価な本立て!!」「私が貰うわ」と持って行った。親父の親戚には反吐が出る。
 
中学の美術の課題に花瓶に生けてある花の写生をして、我ながら上手く描けたなと思って居て、何しろクレヨンに色鉛筆そしてサインペンと使い分けてごちゃ混ぜにして描いて見たら、これが思わぬいい効果を生んで素晴らしい絵に仕上がった。それにもう一つの課題だったペーパーナイフも我ながらいい出来栄えで、母が「ペーパーナイフは私に頂戴ね」と言って居たのに学校に持って行ったら。美大を出たばかりの若い女の教師が、両方とも持って行って返さない。そして言う事は「あの花の絵は誰の画家の絵を模写したのよ!」と難癖を付けて来る。
 
「模写って・・・自分で書いたのですが?」と言うと「ふざけるんじゃないわよ、美術教師の美大を出た私にだってあんなに上手くは描けないわよ!!」と言う。そして「ペーパーナイフは良く出来て居るから、特別に私が貰ってあげるわ!!」と言うのだ。そして教員会議に掛けて見たら「花の絵は、紛れもなく本人が描いたもので模写では無い」と解ったが。成績は5段階で普通の3しか寄越さなかった。ペーパーナイフは返して貰えなかった。その教師が僻んだのだ。そんな事は日常茶飯事だった。
 
私は原則的に学校も先生も大嫌いだ。いい思いをした事が無いからだ。でも例外も居る。それは小学校の図工の先生だった。私に絵の素養があると分かると、私にコンクール用の絵とポスターを毎回描かせて出展させた。おかげで小学校6年間は毎年賞状を貰って居た。こう言う話もある。此の話は姉も弟も知らないはずだが。私がアメリカからある賞を貰った事がある。私は今までに海外から賞は2回ほど受賞して居る。高校の時には賞金も貰った勿論外貨のUSドルでだ。しかし母が銀行で全て換金して生活費に当てた。母が言って居たが。銀行側からは「普通こう言った賞金は記念に持って居ますけどねぇ...。」と言われたそうだ。
 
弟は自分が私立の小学校に上がる時に。親同士の会話を聞いて自分が私立に行けるのかと、心配になり母に「うちは貧乏なの?」と聞いたそうだ。母は「違うわよ。あなたはちゃんと受かる様に学習塾に行きなさいね」と言ったそうだ。母が鴨居に私の賞状を掛けて飾って居ると、必ず親戚のバカが来て「あら、何見せびらかしてるの?」と言って居た。面白い話がある。父親の妹の、歳が同じな、従姉妹が居た。その従姉妹は小学校から私立に行って大学も良い大学を出た。処が私が会社でピッキングを皆んなでして居たら、やって来て。従兄弟たちにすり寄って行って、「私、○よ。ねえ、今、保険の外交やって居るんだけど一口乗ってくれない?」二人が呆れて居たら、私を見て、「あら、やだ!!何であんたが此処に居るのよ!!」と叫んで居た。結局相手にされずに帰って行ったが、
 
バカ親父の葬式の時に来て、そんな事は忘れて「あら、〇〇ちゃん!一目で解った!」と言うので私は相手の目を見て黙って居たら。叔母さんが来て「この子はねぇ、子宮を取っちゃってねぇ・・・」と言う。「お母さん!こんな時にそんな話言わないでよ・・・!!」そう言って帰りしなに仕切りに私を振り返って見て居た。私は親父が死ぬ少し前に会社は辞めて居た。丁度、いなげやのピッキングがあった日。従兄弟のけんじが私に「此れからは兄貴と俺と〇〇ちゃんの3人体制で行くんだからな」と言ったが。ゆきかずからのお詫びの言葉は無かった。
 
そしてけんじはピッキングした商品を入れるトレイを30枚ぐらい持ち上げた。それを私がいきなり、真下から思いっきり蹴り飛ばした。そして「ケツからダラダラ、くそを垂れ流して生きてるんじゃねえよ!!」と怒鳴った。けんじは吃驚して突っ立って居た。私は我慢の限界が来て居た。「ゆきかずに言っとけ!!今度、顔を合わせたらツラがグチャグチャになるまでぶん殴ってやるからな!!ぶち殺してやる!!」そう言ったら、けんじは居た堪れ無く成って仕事が残って居るのに倉庫から出て行って仕舞った。
 
私がその様子を見て居ると、2、3人の社員が「〇〇さん、残りは俺らでやるから帰って良いですよ」と言ってくれた。私が「ごめんな......。」と言ってその場を離れようとしたら倉庫番をして居た親父が慌てて出て来て、「どうしたんだ」と言うので「うるせ〜〜バカヤロ〜〜!!」と言って家に帰り次の日から会社には行かなかった....。大体が以前からバカ親父は私に「会社から出て失せろ」と言って居た。何なのだ統合失調症で劇薬を飲まされてフラフラで働きに来て居る私に向かって、どいつもこいつも母でさえそうだった。何故、私が障害者年金を貰いたいから手続きをしてくれと言って居るのに「あたしはお前が統合失調症の精神病だなんて信じて居ないよ」と言って手続きも何もしてくれなかったのだ。
 
おかげで、もう障害者年金は貰えない。国の制度は一見よく言って居るが。期間が少しでも過ぎると貰えない様になって居て受付無いのですよ。この間、私のケアマネージャーにそう言ったら、「だって障害者年金はたかだか7万ぐらいですよ?」と言われたが、それでも貰えるのと貰えないのでは偉い違いだ。私はそんな母が認知症になってから母を施設のデイケアに通わせた。費用は全額私持ちだった。ただ、何故、そう言う事が出来たかと言うと。此の事は何遍も言って居るが、母が自分が認知症になる少し前に私にお金をくれたからだ。姉弟は無視をした。しかし母の認知症は全然ダメになって行った。もう手遅れだったのだ。姉さんの旦那は私を恨んで居るらしい。何故なら自分が今は相当に酷くなった母の施設代を出して居るからだ。私には何も連絡しては来ない。あの人と弟からは縁切りをされて居る。まぁ、弟は亡くなったが・・・・・。
 

 

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「あ丶ブルース」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド from album "あゝブルース Vol.2" 1976年

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 『下宿人』

私が大学生になる頃には下宿人と私の年が同じぐらいの年頃に成って居た。ある時に早稲田の大学生と東大の大学生が下宿人となった。その頃はもう、私も自分の部屋を貰い、貰ったと言っても1階のうなぎの寝床のような部屋だったが。バンド活動も真っ盛りで、スタジオで録音して来たテープやら。ライブハウスでの録音のテープを掛けて居ると。昔は自宅兼倉庫だった物だから、従兄弟が必ず、今の曲は解らないだの、下手だの、今回のは増しだだの。部屋の隣の倉庫で聞いて居てイチャモンを付けて来る。従兄弟のけんじが良く、「あれだったら俺にも弾けるぜ」と、ギターも弾けないのに言いだす始末だ。

私は完全に無視をして居た。処が何しろ、うなぎの寝床の様な部屋だったもので、レコードを片付けるのに、部屋が1階だったもので、2階に行く階段の脇にレコードを一時並べたら、東大の大学生が「ケッ!見せびらかしやがって低脳やろうが!!」と言って上がって行った。その二人の下宿人は門限が11時半なのに時間を過ぎて帰って来て、人が何をして居ようが私の部屋の窓をガラッと開けて、「鍵!開けてくれる?」と毎回言う。

いい加減に頭に来るが、まあ、此方は下宿代を貰って居る身なので我慢して黙って居た。まあ、早稲田の学生はともかく、その東大生は東大に入るには入っても田舎の農家の息子と言う事で、東大では差別されて居た。東大を甘く見ない方がいい。あそこは階級制度が未だに生きて居る。酷い差別がある。学者やら教授の子息などは普通に相手にされるが、ただ頭が良くて入学出来た様な学生は排除される処だ。現に何年か前に東大総長の蓮實重彦が「貴様らのうち東大生と言われるのは100人中たった1人だけだ、良く覚えておけ!!」と言って居た。その東大生は長髪にしたり五分刈りにしたり、アフロにしたりして、仕舞いには道の真ん中も歩けなくなった上、物影をコソコソ歩く様に成った、明らかにノイローゼだった。

そして夜になると早稲田の学生が帰って来るのを見計らって部屋の中に押し入り、朝まで自分が如何に利口かを語って居た。その度に隣のアパートの学生から「貴様ら毎日うるさいぞ!いい加減にしろ!!」と怒鳴られる始末だった。結局、早稲田の学生は下宿を辞め。母ももう下宿は辞めて、学生は置くのは辞めようと言い。その東大生にも出て行ってくれと言ったら、自分だけ特別に置いてくれと言う。そう言う訳には行かないと言ったら、此処を出たら千葉からバイク通学で東大まで通うんだと言って居た。

その東大生が出て行く時に郷里から親御さんが来て、「今までお世話に成りました。私どもは息子を育て間違えました。すみませんでした。」と言って居た。丁度、1977年ぐらいの事だ。大学中に一度会社でバイトをした事があるが、私は嫌だったが、「ゆきかずらも学生時代バイトに来た、お前が来ない手はねえんだ!!」とバカ親父がうるさいので、こっちはギターやらBluesharp(ハーモニカの一種)。の練習で時間が足りないぐらいなのに無理をしてバイトに行った。

勿論、従兄弟らは私の事は無視をしたが、一人、駄菓子屋から会社に入って来た人間が煩かった。車に乗ってラジオを付け様とすると、「ラジオを聴くより、おらさの話の方が面白いぞ」と言い。くだらないバカ話とエロ話ばかり聞かされた。私が「今日は5時までに帰らないとライブがあるので。」と言うとライブってなんだと言う。「あのですね、ライブハウスと言う音楽を聴かせながら飲み物やら食事をする店があって、そこで今日は夕方から演奏する事になって居るんです」と言ったら。

「嘘も休み休み言え、そんな店がある訳無いだろう。おらさは聞いた事もないぞ、丸嘘つきやがって!!」と言うので「あんたが知らないだけだろ!!あるんだよ!そういう店が!!」と言ったら「ロカビリー聴いてゴーゴー踊るんだろ」と言うので、もうウンザリだと思い「ブルースとジャズだ!!」と言ったら「おらさが思うに、そう言う店に来るのは芸術家だぞきっと、〇〇ちゃんはそう言う人たちと付き合ってるのか?」と聞いて来たので「ええ!」と言ったら要約、黙った。バイト代は1ヶ月半で10万程に成った。半分貯めて、半分はギターの弦代やらBluesharp代に消えていった。。。

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今日はGACKTくんの話でいい話を聞いた、彼は19歳まで、まるでダメな人間だったと自分の事を言って居たが、20歳頃にある人から帝王学を学んだそうだ。勿論、彼だけでは無く、その人から話を聞いた人達は沢山居たが。自分以外の人で成功した人は誰も居ないと言って居た。彼は自分が特別では無くて、ただ行動力があったから成功出来たと思って居ると言って居た。世の中には本を沢山読んで居る人や、いわゆる啓発セミナーに通って話を沢山聞いて居る人達が沢山居るけども、殆んどの人たちが自分の血肉にして居ない。ただ知識として聞いて居るだけだと言う。それは単に情報として知って居るに過ぎない。そしてその知った上辺だけの知識だけで物事を論じ合い空論を言う。

この点は私が日頃言って批難して居る事と合致します。今の世の中は情報が溢れて居て、皆んな色々情報を聞くが。例えばネットなどで調べて覚えた事は85%の事を忘れると言う。此処では簡単にGACKTの話をまとめると。帝王学を聞いた後にすぐに彼は自分はどう動かなければ行けないかと、それだけを考えて居てどうやって動こうかと思って居たが。帰りにその話を聞いて居た皆んなが帰りしなに「今日は、いい話が聞けた面白かった」「今日の話は為になった。お疲れさん」と言って居る会話を聞いてびっくりしたそうだ。「ただ話を聞いて面白がって居るだけだ。血肉にはしようとして居ない」と思ったそうだ。

昔ある人から言われたそうだが「天才」と「普通」と「バカ」と「大バカ」が居るとして成功するものは誰だと聞かれたそうだ。彼はその時に「「天才」ですか?」と聞いたら。その人は「大バカ」だと言ったそうだ。何故なら「大バカ」は物事を深くは考えずに取り敢えず行動に移し実行するそうだからだ。次が「天才」だそうだ。この場合は頭がいいからこそ、すぐに動く。一番ダメなのが「普通」と「バカ」だそうだ。やる気が何も無いからだそうだ。この事は下らない事だけども、ナンパと同じだとも言って居た。最近若者にナンパの仕方をよく教えるそうだが。頭で考える男は「相手からこう言われたらどうするのですか?」

「または女性から嫌われたら嫌な思いをする」と言うのだそうです。でも、単純に考える男は取り敢えず街に出て片っ端から女の子に声を掛けて居るのだそうです。そしてダメな場合もあるけども、そのうちに何時かは成功して彼女が出来て連れて来ると言って居て。ナンパとも関係した考え方が出来ると言って居ますよ。この話を聞いて居て私が今まで生きて来て、自分がとことんダメだった点は物事深読みして考えてしまい。行動に移さなかった事です。石畳を叩いて渡らないと言うのでは無くて。石畳を叩いて壊してしまって、渡らないと言う事だったのだと改めて思いました。はは、この事は私が好きな青木志貴ちゃんも、此間、私と同じ様な事を言って居て驚いて仕舞ったけど・・・・・。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾

 

 

 

例えば、私は楽器演奏をするが、キーボードと言うかオルガンとかも少しだけなら弾けるし、昔は、ギターとベースも弾きました。しかし、もうほぼ40数年弾いて居ないので、もうギター関係は弾け無いですね。私は周りの意見を聞きすぎたのですよ。先程のGACKT君の話では無いけど。親やら他人からどう思われようとギターは弾き続けるべきだった。だって、ギターを弾いて居た時から40数年経って居るのですよ、その間弾けて居たら、どれだけ上手く成って居ただろうかと思いますよ。ハーモニカも私の母はそんなものはもう辞めろと言いました。あの人は何でもマイナス思考で、考え方が本当に封建的すぎて私は言われた当時はもう辞めようかと思いましたが・・・。

それから20年近く経って1990年代の中頃に楽器屋に行ってブルースハープを12本また購入しました。だからほぼ25年近くのブランクがあるんですよね。私の母は私が大切に持って居た、大学の教授が執筆したインドネシア語の辞典と教科書だった本とノートを、実家が建て替えの時に捨てなさいと言って全て捨てさせました。おかげで私が、今幾ら昔、インドネシア語を勉強して居た時期があると言っても誰も信じないでしょうね。もう大学時代から40数年勉強して居ないし、忘れて居て殆んどもうインドネシア語は解らない。私の母は私が幼い頃から集めて居た大切な映画のパンフレッドとポスターを全て捨ててくれた。こんなものがあると勉強をしないと言う事からだ。その趣味と勉強と何の関係があったのだ?

母は成蹊女学校を卒業して居る。戦後すぐの学歴としては十分だろうとは思う。しかし大学には行けなかった。それは東大出身の医師だった父親の事を思えば、戦後財産の全てを失ってしまった母に取っては屈辱的な事だっただろう。恐らくは大学まで行きたかっただろうとは思う。だからなんだ、どうして私が学業の道で生きなければ成らない事があるのか?医者には弟が成った。私は親父の会社の後を取れと言われたが、会社は親父と親父の兄貴の共同経営で、社長であった親父の兄の息子が会社には入って居たのだろう?母はそれが不服だと長い事言って居たが、私はそれでいいと思って居たし、従兄弟のゆきかずが社長で良いのではないかと思って居た。

まあ、当のゆきかずは私が社長の座を狙って居ると思い込んで、嫌がらせ三昧をしたが。私はそれでもゆきかずが社長でいいだろうと思って居た。母は親父が立ち上げた会社に。結核で一家心中するしかないと手紙を九州から寄越した親父の兄の一家を親父が背負ってやって来たと言う自負があったのだ。しかし私に言わせれば、封建的だった親父の兄貴と、仕事は得意先を見つけては来たが。それしか、余り能がなかった親父とで要約1人前だと思って居た。何遍も言う事だが、私は会社の後を継ぐ気は更々無かった。ただ大学2年の時に宗教団体の、大バカ野郎の学生にやられたストーカー行為で統合失調症を発病し、私は障害者年金まあ、金額にして7万ぐらいだがそれとアルバイトをして暮らそうと思って居たのだ。

歳が来れば7万ぐらい年金が貰える。障害者年金7万に年金7万。アルバイト10万ぐらい貰えれば、何とか全部で24万ぐらいには成ったはずだった。それを私の病気を認めずに障害者年金も手続きしてくれず。会社で働けと調子が悪い私を馬車馬の如く働かせた。親父などは多少は気にしたのだろうか、「今日は〇〇が凄く仕事をしたから食事を多く取らせろ」とか言って居たが、私ははっきり言って親の奴隷だった。夏の2ヶ月間に、一斗缶30kgを毎日400缶以上トラックに両手で持って積み上げて居たら体重が2ヶ月で32kgも減った。その時は体重が90kgは薬の投薬のせいであったので。体重が60kgを切ったのですよ。

慌てた母は、私がその後体調を壊して寝て居たら、毎日大量のご飯を、食べ物を部屋まで運んで来た。私はその時に言った。「母さん、せっかく痩せたんだから食べ物は普通の量にしてよ!!」そう言うとこう言うのだ「何言ってるの沢山食べなさい!!。体力つけないと働けないわよ!!」まるで物事を解って居ない。そして私は半年でまた体重が80kg代に戻って行った。親父はこう言うのだ「今日は〇〇は体を沢山使ってな、良い働きをしたんだぞ母さん....。」何遍も言うが親父は体育系の働きを肉体労働を私にさせたかったのだ。そして家に帰って来て、夜の11時半から始まる放送大学の「藝術論講義」をテレビで観て聞いて居ると、

親父はその観て居る私の前にせせり出して、わざと新聞を広げて見させない様に邪魔をした。私が怒るとこう言うのだ。「なんだ、お前は40歳にもなって学生気取りか?勉強なんてなぁ〜〜。学校出たらしないもんだ。普通は遊んで暮らすもんだ!!」私はその都度呆れて、そして怒りながら自分の部屋に帰って行ったものだ。人生は、一生勉強だろう。そんな風だから親父はバカになり切って、パチンコ依存症になり、癌に成って安楽死になったんだ。どう考えても大バカ野郎だろう、、私は今回も愚痴しか言って居ないけど、しかし私は幼稚園児の時に私立の小学校に行きたいから。勉強するし行かせてくれと言って居たのですけどね。

 

Eric Clapton - Double Trouble (Live Bootleg) 1978 AMAZING!!!

 

 

私は見た通り、長髪です。しかし、私の髪型は1970年代の髪型だ。長くしてパーマを掛けて居る。それもウエーブを軽く付けて居るのでは無く細かく掛けて居る。だから一般の人たちからすれば、外国の髪型に見えるらしい。前に、紀伊国屋書店に行って雑誌売り場で、服装の雑誌を立ち読みして居たら、本屋の若い書店員が私を見て隣の書店員と話して居る声が聞こえた。「あれ、あの人、外人かと思った。」私を見ながら言って居るのだ。するともう一人の男の若い店員が私を見て「俺もそう思った....。」と言って居る。

私はどう言う事だろうと反対に吃驚した。要するにパーマを掛けた長髪の男は外国人だと言う固定観念が彼らには在るのだ。何故か、私のような髪型は日本人はして居ないらしいのだ。若者たちの長髪とは違うのだ。彼等の長髪は何て言えばいいのだろうか、綺麗にきちんとカットされて居るウルフ・カットなのだろう。私の頭は諸に1970年代の古い型の長髪なのです。私はまず、髪を長く伸ばした、そしてカットしたりはせずに其の儘、パーマを掛けて居る。この髪型は確かに外国人のロック・ミュージシャンが1960年代の後半から1970年代に掛けて良くして居た髪型だ。

特にイギリス人が好んでやって居た。例を挙げると。レッド・ツェペリンのロバート・プラント。ジミー・ペイジやら、T・レックスのマーク・ボラン等だ。私はこの髪型は遥か20年前からして居る。前の美容院の美容師の女の子に長髪にして居るが、カットせずにパーマを掛けてくれと言ったのだ、彼女は美容院に置いて在った、iMac を見習いの美容師に操作させて言った。「芸能人の誰を手本にしますか?」私は咄嗟に言った「ロバート・プラントかな....。」すると彼女は見習いの子に言って、データーベースから多数のロバート・プラントの写真をiMacに映し出して表示させた。そして言った。「彼の様にですね」私は「そうして下さい」と頼んだ。

当時私は47歳ぐらいだった。長髪でパーマを掛けるのには歳が逝って居た。1970年代から1980年代に掛けては日本人のロッカーでもこう言う髪型をして居るミュージシャンは結構居た。私は20歳当時。今よりも痩せて居た。52kgしか無かった。それに歳が、まだ若かった。私はこう言うと、「しょてらあ。」と思うかも知れ無いが、歳より大分若く見える。何時も実年齢よりも10歳は若く見られるのです。今現在、歳は今年でもう、64歳に成るが、私を見て居る人は50歳に見えると言う。私は20代の頃、髪は長くして居た時期がある。しかしその時分の写真は無い。写真は撮って居て在ったが、実家を処分した時に全部捨てられて仕舞った。私は、過去の思い出の残って居た物でも、自分がおかしくなった時に全て無くしても居る。だから。昔の写真が無いのです。

 

 

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どうだろうか。勿論。私はロバート・プラントの様なハンサムな男では無いです。しかし、髪型の雰囲気は似て居るかと思う。下はジミーペイジの30年前の写真です。そして15年前の私です。
a man with long hair wearing a blue t - shirt and looking at the camera

今回は以上です。過去記事から再編集して大幅に加筆しました。。。。それでは更新出来たらまたお逢いしましょうね。。。

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