【ロシア語】仕事の歌 (Дубинушка) (日本語字幕)
ー親父ー
親父は会社で専務だった。そして営業の先頭に立って得意先回りをして居た。親父が60代の終わり頃、勝手、珈琲店に勤めて居た50代の社員に車を運転させて、新規開拓でケーキ屋、パン屋、和菓子屋、料亭、レストラン、クレープ屋、飲食店、ありとあらゆる食の店に営業を仕掛けた。親父が取って来た仕事で最大のお得意先が「リスカ」醍醐工場だった。知って居る方もおられるかとも思うが「うまか棒」と言う、チョコレートでスナック菓子を包んだ物があるが。その原料を醍醐工場に卸して居た。そして、大きな儲けに成ったのは、そのチョコレートだった。スナック菓子を包むチョコレートは毎日、数百トンと工場に運ばれた。チョコレートは会社の親会社である不二製油の一枚30kgほどのビターチョコの板チョコだった。
それともう一つ、プチゼリーを工場の食品担当者と共同開発し「リスカ」に儲けを与えた。勿論、うちの会社もそのゼリーの材料で儲けた。月に3億は儲かった。会社には毎月億と言う金が舞い込んだ。社長は何時も税金に追われた。億を稼いでも税金で4千万ぐらいは持って行かれるのだ。中小企業は辛い。でも多額の利益は出た。親父は70代に成り、ある日、何時もの様に得意先に伺ったら、得意先から「じじいになってもおたくの会社はあんたを遣すのかい!来るなじじい!!」と言われた。親父はショックを受けた。倉庫番をして居る私のところに来て言った。「世間は冷たいな・・・」私は言った「何も気にする事はないじゃ無い。堂々として居ればいいんじゃ無い」と。親父は自分の後を「ゆきかず」に任せ様として「リスカ」の醍醐工場まで、常務であるゆきかずを連れて行った。しかしゆきかずと話した社長は怒って言った。「専務!こんなバカは2度と連れて来るな!!」そして社長の処にも電話が掛かって来た。社長は自分の息子だが不甲斐なさにゆきかずを怒鳴り付けた。ゆきかずはそのうさを全て私にぶつけた。
そうこうして居るうちに大変な事が起こった。不二製油の東京の工場が爆発したのだ、工場は稼働を止めた。チョコレートが醍醐の工場まで行かなくなる事はふせがなくては成らない。親父は不二製油と渡り合った。そして大阪工場から陸路チョコレートを千葉の「醍醐工場」までトラック輸送で届ける様に大阪まで出向いて話を付けた。しかし、その話はある意味会社の隙を親会社に与える事にも成った。親会社である不二製油は子会社であるうちの会社が稼いで居る利益を自分の物にする為、親父の会社を通すのを辞めて自分らが直に「リスカ」と取引をしたのだ。親父は「おりゃ、もうダメだ・・・」と崩れ落ちた。醍醐の工場には母が盆と暮れに贈り物をして居た。盆にはハムの大きいものを2本。伊勢丹から送って居た。また暮れに母は手作りの栗きんとんを重箱3つに作って届けて居たのだ。「リスカ」の社長はそれを大変喜んで居たのだが。チュコレートなどの材料がうちから行かなくなると社長の処にはもう母の手作りの栗きんとんは行かなくなる。それを惜しいと思った社長の奥さんから。母の「秘伝の詳しい作り方を教えろ」と電話が掛かって来た。母は作り方を教えた。
その次の日から「リスカ」は不二製油と直に取引を仕出した。会社は一気に億と言う儲けが無くなって仕舞った。会社はその他の儲けでやって行くしか無く成った。その頃、ゆきかずはスーパーの大手「いなげや」のパン売り場に材料を入れる仕事を取って来た。会社は毎日ピッキングでトレイにパンの材料やらスーパーで売る食品材料を入れて2トン車の保冷車で東京、千葉、埼玉、群馬と配送する事に成った。会社の社員たちには負担が重くのしかかった。社員たちは皆んな良くて高卒あるいは高校中退か中卒の人間たちだ。会社の為にと言う気概は無い。皆んな適当にピッキングをして適当に運んで行った。彼らにしてみればそれまで車に乗って配送だけをして居れば良かったものを今度は朝四時起きして地方の「いなげや」まで行かなければ成ら無い。不満も出た。その頃になると親父は自分の仕事が無くなって仕舞った。外回りはもう歳で行けない。
そうなると親父は脆かった。私を追い出し自分が今度は倉庫番をするのだと言い出した。私は昼から倉庫に行く様に成った。行っても親父は「てめえは来るな!!出ていけ!!」と喚く。ゆきかずはそんな状態をほくそ笑んで見て居た。ある日、私が倉庫に行くと親父が高橋と言う社員に喰って掛かって居た。「お釣りを返せ!!」何でも高橋に皆んなに缶コーヒーを買って来いと1千円を渡したら。人数が6人なのにお釣りを返さ無いと言う。高橋は「お釣り?そんなものあったっけ」と惚けて言って居る。そして常務であるゆきかずから電話が倉庫に、いなげやの明日の配送のピッキングの事で1分間に2回も電話が掛かって来ると「ねえ、専務。常務を怒鳴りつけて下さいよ〜」と言うのだ。親父は「ゆきかずの野郎、ふざけた電話なんか掛けて来やがって。よし俺が怒鳴り付けて来る!」と事務所まで行くのだった。見かねた私が「高橋!!」と怒鳴り付けても、そっぽを向いて薄ら笑いをして居る。
そのうちその高橋と言う男は、いい気になって私にこう言った。「〇〇さんは中卒?。どこの高校を中退したの」私はしつこく聞いて来るので「ああ、俺は拓殖大学に行ったよ」と呟いた。すると高橋の顔色が変わった。それから数日すると「〇〇さんの弟って何仕事して居るの?土方!?」笑いながら言った。私は「働いて居るよ」としか言わなかった。それから暫くして高橋は年配の社員に聞いたらしい。すると「外科医だけど・・・」と言われて初めて自分の愚かさを思い知った見たいだった。その後、高橋はビデオ・レンタル屋にビデオを返さずにアパートを引っ越したが、1年経ってレンタル屋はやくざ者を使って高橋のアパートに踏み込ませて丸1年分のレンタル料、滞納金も含めて現金100万円を請求した。高橋は困り果てて社長に泣き付き財形貯蓄から100万円を払った。こんなバカばかりが社員だった。大卒も前に来た事があるが、大体が相手はケーキ屋、パン屋の職人だ。大卒は職人の厄介な話に付いて行けなくて辞めていく。
何も私はケーキ職人やらパン屋をバカにして居るのでは無い。彼らは自由人なのだ。真面に大学で習った事を言っても職人には通用し無いだけだ。だからうちの会社には、昔、ケーキ職人だった男とかが営業に廻って居た。職人同士うまが合うのだ。一番ダメなのは高校中退、中卒だ、彼らは自分が無いのにすぐに僻む。そしてバカな事を言う。処置なしだった、そして専務である親父は倉庫に居て、電話で商売を続け。私にはもう来るなと言った。私は殆嫌に成って居た。その頃に成ると親父は競馬のノミ屋やダフ屋などを倉庫に呼んで競馬談議をする様になり。暇だと言い。ポケットテレビを母に買わせてそれを倉庫で大半見て居た。そして、夕方五時半に会社が終わるとすぐに隣町のパチンコ屋に行って店が閉店に成る十二時半までタバコの煙に塗れながらパチンコをして居た。
親父の仕事はもう無かったのだ。とち狂ったとしか言い様が無かった。そして肺癌になり、それから骨癌になり、最後は病院に入院した。私は生前、末期癌だと診断されてモルヒネを打たれ療養中の自宅でベットに横になりテレビのCSの時代劇専門チャンネルで「暴れん坊将軍」を見て居た親父に聞いた事がある「親父、自分の人生どうだった?」その時親父は「ああ、俺は満足な人生だったさぁ」と一言言った。私は何故か悲しく成った。そして呟いた「さようなら・・・親父・・・」その次の日、親父は癌の痛みが周り放心状態になり、弟夫婦が車で東京医大まで連れて行った、そして安楽死に成った。見舞いに来たゆきかずは、意識不明で絶対安静の親父の顔を殴ったそうだ。看護婦長が怒って言って居た。会社は今、ゆきかずの天下だ。それも良かろう。私は頼まれてもあの会社には居たく無かったし。親の跡を取ろうとも思わなかった。複雑な事情があった。親族経営はダメなのだ。それに私は自分はミュージシャンの端くれだと思って居る。会社へは自分が障害を持った為に止む無く入ったのだ。生きて行くには働かなければ成ら無い。今、私は障害があるので無職だ。しかし、会社で働いたお陰で蓄えも出来た。その金で8年間暮らして居る。後2年は暮らせるだろう。私はゆきかずとは違う。すべては終わったのだと思いたい。だが、ゆきかずへの恨みは消え無い。消えはしない...。
泉谷しげる ♪春夏秋冬♪
今回は私の持病。統合失調症について話します。統合失調症とは、昔は精神分裂病と言いました。なんかこの名前では精神が文字通り分裂して仕舞って居る気狂いだと感じるだろう。しかしそうでは無い。精神分裂病と言う名では周りの健常者に誤解を与え恐れを抱かせる為に、今はその病名は使われて居ません。統合失調症で統一されて居る。どんな症状かと言うと認知・行動・情動などの面に障害が起こりますが、症状は人によってさまざまです。たとえば、極めて個人的な考えや行動が他者に知られて居る様に感じたり、目に見える色彩や、耳から聞こえる音がやたら生々しく感じたりします。そして強迫観念や特段、おかしな事が無いのに笑ったり、逆に些細な事で不安になったり、怒ったりする事もあります。食べる事に興味を失い、食事を拒む事もあります。また、何かを考えて居ても途中で思考が途切れたり、其れたりして仕舞う人も居ます。自分の考えが誰かに奪い取られる様に感じる事もあります。若い男性や、過去に暴力歴のある人、物質乱用のある人などは、攻撃性を伴う事もあります。しかし、自発的・突発的な攻撃はまれで、むしろ高い頻度で暴力行為の犠牲者になって居ると言われます。なお、通常は意識がハッキリしており、知的能力も保たれて居ます。しかし、自分では病識が無い事が少なくありません。
私は青春の真っ盛り、21歳の時に発病しました。大学でのある宗教団体のストーカーに丸1年付き纏われて発病しました。物凄いストレスからです。そして大学以後、親父の会社で働きましたが、そこでも従兄弟の嫌がらせはヒートアップします。私が前後不覚に陥ったのは二回あります。一回目は、実家に住んで居た頃の1990年代、近所に神経を病んで居る人が居ました。その青年はスパナでマンションの自転車を叩いており。口癖は「ぶっ殺してやる!!」と言って居ました。ある日、私はその頃は会社を休んで自宅に居て母と暮らして居ましたが、自分の部屋で母と話して居ると家の周りで家を叩く「バキ!!バン!ドンドン!!」と言う大きな音がしました。その音は家の周り中からします。10分間は続きました。冷静に考えればその若者が庭に侵入して家の壁をスパナで叩いて廻ったのだけども。私は暴漢に襲われたと思いました。私はある組織が自分を狙って居ると言う妄想を抱いて仕舞いました。私は弟が危ないと思い弟の病院に電話を掛けました。弟は帰った後でした。私は110番通報をしました。しかし、要領が得ません。私は警察もグルだ、電話が本当の警察まで行かなくて、犯人たちに掛かって居ると思いました。そして母の静止も振り切って、ショルダーバックを引っ掛けると、裸足で隣の家の柵を飛び越えて隣に行き、「奥さん!!危ないから外に出無い様に!!」と言って。電話を貸してくれと言い。その家から電話を掛けて、110番を廻しました。すると何故か電話は地元の警察署に掛かり。警官が出て来て言いました「〇〇さん。あんた何処から電話掛けてるの」と。その時に私は完全に警察もグルだと思いました。だから、その家を出ると、裸足の侭道路を歩き、自分の身の潔白を測ら無いと殺されると思いました。
丁度、夏の猛暑の日でした。私はフラフラになり、家には母が居る。この侭、自分一人逃げる訳には行かない。私はとてつも無い恐怖を覚えました。私は其れ程までに追い詰められて居たのです。ゆきかずの会社での嫌がらせにもの凄いストレスを感じて居たのでした。その反動が近所の頭がおかしい若者の行為で触発され爆発したのでした。私は其の儘家には帰れず道に出て放心状態になり辺りを伺って居ましたが。周りの声やら人の視線は皆んな私を襲ってくる恐ろしいものと感じられて居ました。私はどう仕様も無い虚無感に襲われました。典型的な統合失調症の発作の症状です、暫く歩いて居ると、パトカーが3台通り過ぎました。そして私を発見するとパトカーは止まり、警官が3台のパトカーから6人ほど降りて来て私を囲み言いました「〇〇さんだね。あんた、こんな処で裸足で何して居るの?」そして持って居た小さなバックを「開けなさい」と言いました。私はバックを開けました。そして中を見せました。警官の一人が中を確かめ凶器は無いなと言い、無線機で「保護した。これから署に連れて行く」そう言うと、まず警官がパトカーに乗り込みその次に私を乗せ、その後にもう一人警官が乗り込みました。その様子を街の人は驚いて見て居ました。
パトカーに私が乗ると警官二人は私が暴れたり逃げ様としても逃げられない様にピタリと両方から身体を私に寄せて身動きが出来ない様に座りました。私は「何処に俺を連れて行く気だ」と言いました。警官は「警察署までだよ」私は言いました「道が違うぞ」警官は冷静に言いました。「ああ、警察署は移転したからね」警察署に着くと警官は私を取調室の一室に座らせて言いました「あんた、喉渇いて居るだろ」そして、「ジュースを飲ませてやるよ。何がいい」私はこの時になって初めて警官が悪意を持って居ない事を知りました。警官の身体に付いて居る無線機からは物騒な話声が聞こえて来ました。「新宿歌舞伎町だ。犯行現場に着いた。ガイシャは顔がめちゃくちゃだ。まるで顔の原型を留めて居ない」私が聞いて居ると警官は「これ?これだろ?気になるか、止めようか、止めてやるよ」そう言ってスイッチを切りました。そして言った「あんた無茶やるねぇ。隣の奥さん驚いて居たよ」そして私の取調室に刑事が一人入って来ました。「どうしたのですか。私に話して見なさい」私はようやく安堵し、状況を説明しました。刑事は真顔で話を聞いて居ました。隣では警官がその話を事情聴取と書かれたノートに書いて居た。そして粗方、話が終わると刑事が言った、「あなたはどうしたいんだ。」私は言った。「母の居る家に帰りたい。」その刑事は頷くと、何故か母が部屋に入って来ました。刑事は母に言いました。「もう冷静に成りましたよ、お母さん」私は母を見て安堵した。そして刑事は私と母を連れて警察署の玄関まで来るとタクシーを道で拾って言いました。「安心しなさい、もう大丈夫だから」私は言った。「私は前科がつくのですか?」刑事は言った「何も。安心して家に帰りなさい」私は家に帰って来た。
すると弟が待って居て「バカヤロー!!馬鹿な真似をしてくれたな。」と怒鳴りました。私はガッカリした、弟の病院に電話を掛けたのはもし弟が襲われたらと言う思いからだったのにと思った。弟は私を連れてその時に掛かって居た立川の病院まで連れて行って主治医に事の顛末を話しました。主治医は黙って聞いて居ると言った「〇〇くん。明日精神病院に行きなさい」弟と話して私は3ヶ月間精神病院に入院する事となった。これが最初の入院の経過です。話を聞いて居て解ったとも思いますが。統合失調症とは過度なストレスに拠って引き起されると言う事です。精神を病むと人間とんでもない行動に出るものです。私は発病してから親父の会社に入り、従兄弟のゆきかずから、此れでもかと言う様な嫌がらせを毎日された。そのストレスがこの時の発作を引き起こしたのです。
精神病院での3ヶ月間の入院生活が始まった。私は長谷川病院に入院した、5階建ての病院で、階に拠って病状の種類が別れて居る。私はまず、3階の一般病棟に入院した。此処は病状の程度が軽い患者の病棟だ。そして男女混合の病棟でもあった。私は60代の会社の社長の男の患者と相部屋になった。その患者は水を良く飲んで居た。500mlのペットボトルを1日に10本は開けるのだ。飲まされて居る精神薬の副作用なのです。ある晩寝て居ると隣のべットで寝て居たその男は突然「ぎゃ〜」と叫ぶと。掃除婦が置いて居たバケツの前に立ち上がりおしっこを仕出した。そんな事が何遍も続いた。私はその都度被害を受ける。それから暫く経つとその人用に安易トイレが設置された。しかしその男はクソをすると何と私のロッカーに仕舞ってある下着を取り出し尻を拭くのだ。私は怒って何遍も辞めさした。そしてある日、その男は小便を垂れ流して私のベットの下まで小便だらけになった。私は主治医に文句を言った。その都度、看護師が来て笑って言うのだ「〇〇さんは薬の後遺症のせいで分別がつかないねぇ〜」と。そしてモップで始末をした。
私は暫くすると隣の部屋の女部屋の患者と親しくなったのだが、何とその男は私に言った。「おめえは女と上手くやってるんじゃないか」と。そして或る夜。そのバカな男は女部屋に夜這いを掛けた。それを知ったのは知り合った女の子の患者が私に話したからだ。「昨日の夜、私の隣の〇〇さんの処にあの男が来て、その子が「何をするんですか。辞めてください。人を呼ぶわよ」と言いながらゴサゴサして居た」と言うのだ。私は「それって襲われて居るんじゃないか!!」と言って、看護室に行ってその事を看護師に話した。看護師は「なんで襲われた本人が言って来ないのよ!!」と慌てて居た。それから暫くしてその60歳の男は隔離室に入れられた。私は次に来たロックバンドのボーカリストと相部屋になった。その人は有名なロックバンドのボーカルだった。
私たちは意気投合した。その人が言うのにはコカインをやっておかしくなったと言う事だった。その男は言った。麻薬汚染は若者の間で深刻な広がりを見せて居る。自分はライブハウスで知り合ったバイヤーから薬を手に入れた。興味本位だった。コカインを吸ったら幻覚と幻聴が止まら無くなり。隔離室に入って居た。拘束衣を着せられ。オムツを履かされ、食事は縛られた侭食べさせられたと言って居た。私の病棟に来たのは症状が良く成ったからだと言う。私は芸能界がどれだけ汚染されて居るのか。殆んど皆んな麻薬をやって居るかと言う事をその人から聞かされた。中には此処では言えないが著名なアナウンサーとか演歌歌手とかの名も出て来た。そしてその人は言った。立川以降のライブハウスは麻薬汚染で全滅だと・・・・。
私は入院の時に持って行ったCDラジカセでジョニー・マーズなどのブルース・ハーピストのCDをその人に聴かせた。その人は喜んで聴いて居た「知らなかったけど、いいねぇ」と言って居た。ある日私たちは病室で私が持ち込んだCDを聴いて居たら、隣の病室の女の子が突然部屋の扉を開けて言った。「ねえ〜口がでかい人。何だっけ〜」私は言った。「スティーブン・タイラーだろ。「エアロスミス」だよ」そのボーカリストは親指を上に立てた。女の子は「ありがとう」と言って部屋に戻って行った。私は「良かったのかな」と言った。その人が「なぜ?」と聞くので「口が大きと言ったらローリング・ストーンズのミック・ジャガーも居るけど」と言ったらその人は「スティーブン・タイラーでいいんだよ」と言った。それから暫くして、私たちの部屋は音楽部屋だとあだ名が付いて居る事を知った。
その人は趣味がボクシングだった。身長は180センチはあった。ミドル級のボクサーの資格を持って居ると言って居た。よく私の前でシャドーボクシングをして居た。あの動きは流石だった。病院のカラオケタイムになるとその人は自分のバンドのカラオケでバンドのヒット曲を歌った。看護師たちは皆んなして聞いて居た。その病院にはもう一人5階の病棟に巨人軍の清原が入院して居た。彼は試合でヒートアップして精神状態がおかしくなり一時的に入院して居るとの事だった。或る時は小説家も入院して居た。その男は私の病室によく通って来た。私の部屋に来て自分は今、病室で小説を書いて居ると言って居た。その小説家は入院の時に私が持って来た押井守の作品を紹介した本を見て言った。「あんたロボットなんかの幼稚な漫画を見て居るのか」私は苦笑いをしながら「何でですか」と聞いたら押井守監督作品の大ヒット作である「機動警察パトレイバー」を見て言って居るのだった。私はこの人は小説家のくせに何も分かって居ないなと思った。その人は病院の電話で自宅に電話を掛けて、出て来た娘から大学に行きたいと聞かされて「ああ、そうか、お父さんはお前をいい大学に行かせてやるからな、勉強しろよ」と言って居た。しかし毎回、私の持って居た日本フォーク大全集というCDBOXを聴かせろと夜遅くなっても来るので。嫌になった私はその小説家にフォークのCDBOXは挙げて仕舞ったのだった。
Johnny Mars ~ ''Desert Island'' 1980
Aerosmith - Dream On
The Rolling Stones - Angie - OFFICIAL PROMO (Version 1)
雪に染まる東京 運河の密会 - 機動警察パトレイバー the Movie 2
そして退院してから暫く経って私は会社を辞めた。しかしその後、また調子が悪くなり。長谷川病院に2度目の入院をした。この時も3ヶ月間入院したのだった。この時にはヤクザ者が入院して居た。その男は刺青を腕に入れて居て。その刺青が他の患者に迷惑になると男の看護師の夫長から言われて腕を長袖で隠して居た。またその男は病室でヒンズー・スクワットをやって居て。それに感化を受けた女の子たちが一緒にやって居た。看護師は「〇〇さん、あんた、女の子に何やらして居るの」と言ったら。その子らは「いえ。私たちが自発的にやって居るんです」と言って居た。私は病院の「自習ルーム」にギターが置いてあったので10数年振りに弾いて見た。もうギターは弾いて居ないので感が鈍って居た、殆んど弾け無かった。
その様子を若い女の子の患者が見て居た。彼女は近づいて来て。何でも病院の解らない事があると私に聞いて来た。私はこの2回目の入院の時には女難の相があるのかと言うくらい女性に振り回された。私はレクリエーションで料理を選んだ。作業室にお勝手が付いて居て、そのレクリエーション室に来る人は大半が女性だった。男は私ともう一人だけだった。後4人は女性だった。包丁なども置いてはあるが刃は余り切れないように引いてあった。私はある日、料理で肉丼を作る事になった。材料は豚肉と豆腐と玉ねぎと出汁の素、それにさとうのご飯だ。豆腐は、綿と絹豆腐が用意されて居た。私が絹豆腐を刻もうとしたら、20歳くらいの女の子が、私に「ねえ、私の言う通りにやったほうが簡単だよ。絹じゃなくて綿豆腐を手に持って手でぐちゃっと潰して、それをお肉と絡ませて千切りに切った玉ネギを入れて、だしの素で煮込むんだよ。そうすると見栄えは悪いと思うけど出来上がったものはそう悪くはないんだ、やって見なよ」と言う。私は「そう?ならやって見るよ」と言って綿豆腐を手でグチャと潰した。それを見て居たケースワーカーの人が「〇〇さん普通は絹だよ」と注意したが、私はかまわずにその女の子の言う通りに料理した、そして出来た肉丼は確かに絹豆腐を刻んだものと大して変わらなかった。ケースワーカも驚いたぐらいだ。その子は喜んで「ねっ!私の言った通りでしよ。」と言った。
料理教室では他に肉じゃが。カレーライスなどの作り方を習った。もう一人の自習室で知り合った女の子も私に何かと話をして来た。私が「哀しみのベラドンナ」と言うアニメ映画があると言ったら。その子はアニメ映画を見て居て「知って居る、自分も好きだ」と言って、ちょっと待っててと自習室から出て自分の病室に戻るとスケッチブックを一冊持って来て私に見せた。イラストが描いてあって上手かった。見せながら自分はイラストを描いて居ると言った。美術学校に通って居たのだ。私はなんかその子とうまがあった。ただその子は突然怒り出したりするので、矢張り病気だなと思った。ある日、その子が私が料理教室で一緒になった女の子と親しく話して居たら、突然病室に篭り切りに成って仕舞った。私は何か変だなと思って居た。私はその子をただ入院患者としてとしか見て居なかったが、その子は、私に好意を寄せて居たらしい事が後で分かった。私は正直困った。「なんか、病院で好かれてもなぁ」と思って居た。男の看護師が私の所に来て「余り女性の患者と親しくしない方がいいよ」と忠告した。ある日、自習部屋で手を握って居るカップルが居た。私はあの二人は夫婦なのかと他の患者に聞いたら。「いや、あの二人はこの病院で知り合ったんだよ」と言って居た、仲がいいのだ。私はこの病院は女性の病室と男性の病室が一緒になって居るから、そんな事もあるのかと思って居た。それにしても女の子たちは皆んな綺麗だった。男の患者の中には喜んでいる不埒者も居たが・・・。こんなに美人な子たちが何故、病気になどなるのかなと私は思った。本当にあの病院は美人の女の子の患者が多かった。
ピンキーとキラーズ 「恋の季節」
グッド・ナイト・ベイビー ザ・キングトーンズ UPC‐0103
【間に合った】八代亜紀 - 残酷な天使のテーゼ【FulI】
エメラルドの伝説
The Mops - Asamade Matenai
オックス 真夏のフラメンコ
Rosanna & Hide - ヒデとロザンナ - L'amore è fragile - 愛は傷つきやすく
由紀さおり 『夜明けのスキャット』 (2009)
それから暫くして3度目の入院をした。丁度、レクリエーション室に床屋が来た時だった。私は髪はその当時は短くして居たので髪を切りにレクリエーション室にあるピンポン台まで行った。そこの前に椅子と鏡を置いて髪を切るのだ。床屋はそこまで出張で来てくれた。散髪では待って居る間に若い男にだけど声を掛けられた。「散髪いいね!」と言うのだ。そしてその人はバリカンで丸坊主にして貰って居た。彼は或る時にしつこく言い寄って来る患者に回し蹴りを浴びせた。私は何故か咄嗟に「凄いね、空手やって居るの?」と言った。すると「何、子供の時にね・・・」と言って居た。また外国人の女性がその時は入院患者で居た。彼女は勿論日本語が話せる。旦那さんはすらりとした大柄のノルウェー人と日本人の混血だった。彼女はレクリエーション室で何時もCDラジカセで弘田三枝子のCDと尾崎豊のCDを聴いて居た。何故か初め私に英語で話し掛けるので私は困って居た。意味が解らない。だから「日本語で話してよ」と言うと、笑って居た。
食堂で食事をして居た時だ。私の隣の席にトレイに乗った食事を置いて、或る年配の男の人が突っ立って居た。私が何で座らないんだと聞くと「座り方が解らない。どうすれば座れるんだ」と聞いて来る。私はこの人はこう言う事が可笑しい人なのかと思い椅子を引いて挙げても座れない。その様子を見て居た看護師がやって来て「近藤さん、昨日先生から言われたよね、座りましょ」と言うと納得して初めて座るのだ。要するに精神疾患の患者は頭が全部おかしいと言う人はまず居ない、部分的におかしい人が圧倒的に多いのです。或る患者は私が病院で「押井守全仕事」と言う本と「マック・ファン」と言う雑誌を読んで居たら、突然私の病室までやって来て、貸してくれと言う。そして食堂で私の席の隣に座りその前の人と女を買いに行った時の話を始出した、「俺は家に連れ込んで、バックからやった」「おい、あそこのソープランドの女は梅毒だぞ」と食事中なのに猥褻この上もない話を大声でして居る。私は食事が不味くなった。また或る時は麻布高校の頭がいい高校生が相部屋になった。彼は腕に剃刀の傷が幾つもあり。自傷行為が止まらず入院して来たのだった。親は脳学者と言って居た。その御蔭で、彼に薬は処方されなかった。自然に治すよう指示があったからだった。彼は普段は勝気だったが、夜寝て居て明け方近くに成ると、何時もシクシク泣いて居た。その子は東大に入って、インドに渡り農業を広めると言って居た。ガンダムが好きだったっけ。入院中は男女問わずよく皆んな連絡先を書いたメモを遣した。まあ、私は渡さなかったし。連絡もしなかったが、、、ある人は強引に私から住所と電話番号を聞き出した。皆んな人恋しいのだと思う。此処まで入院中の様子を書いて来ましたが、此処で一旦話を辞めます。
【私が死んだら】弘田三枝子
人形の家
あべ静江 - コーヒーショップで
みずいろの手紙 - あべ静江
ブルー・ライト・ヨコハマ いしだあゆみ
「美しい別れ」 いしだあゆみ(当時26歳)
木綿のハンカチーフ★ 大田裕美/1975年(S50) ★
砂の十字架 やしきたかじん
---kiyasume---
私は精神疾患を患って居ます。医者はあなたには全て本物の原因がありますと言う。姉弟からお前とは縁を切ると言われました。訪問看護師たちやら主治医は「あなたが悪いのでは無い。病気が悪いんだ」と言ってくれますが。私の発病は青年期に遡ります。ある宗教団体の馬鹿信者に半年、毎日ストーカーをされました。私は学生課や、教授に助けを求めましたが、誰も助けてはくれませんでした。結果発病しました。親は精神病などとは恥ずかしいし、母などは認めたくないから認めない。お前は正常だと言い。本来ならば貰えるはずの障害者年金の手続きもして来れませんでした。だからもう障害者年金は貰えません。そのうち、精神的な事と共に身体的な病状も出て来ました。弟が私のただ一人の理解者でしたが。その弟も結婚をすると嫁の言う事を聞く様になり、私を否定し拒否し始めました。障害を持って居るのは罪なのです。誰も助けてはくれません。姉などは「電話を掛けて来るな」と言います。もう7年間も音沙汰がないし、私がもし死んでも他人事の様に扱うでしょうね。姉弟などはそう言った者です。障害者とかそれも精神障害者は人間扱いはされません。死にたいと言えば「死ねばぁ、勝手に」と言う事です。
以前、京アニに放火した精神異常者が居ましたが。京アニの犯人は病気に負けたのです。そして彼の被害妄想は彼の好きなアニメを作っていた京アニに向けられたのです。病気だから仕方がないのか?いえ、そんな事は無いです。彼は自分に負けたのです。私は障害者になってから親の勧めで、親父の会社に入りましたが、そこでは従兄弟のゆきかずに、徹底的に嫌がらせをされました。そのせいで病気が悪化しました。私の心の休まる処は何処にも無かった。しかし人間生きるには働かなくては成りません。私は割り切って働きました。しかし親父は歳を取ると横暴な男に成り。なんと私にその矛先を向けました。私を従兄弟と同様に嘲笑い冒瀆したのです。自分の子供ですよ?私は親父が死んでもゆきかず同様に許せません。許せはしません。あの世であったなら私の手で殴ってやりたいと思う程です。京アニの犯人は病気に負けたのです。彼は自分が不幸なのは尽く他人のせいだとしました。そして最後に行き着いたのが自分が好きだったアニメを作って居た会社だったのです。彼は何とか京アニで働きたく思いアニメの原作として募集していた小説を応募し、そして夢破れると、怒りの矛先をそれまで好きだった京アニに向けたのです。
私は10年ほど前に心身症を併発しました、そして2度目の発作を起こしました。床に倒れていて、気が付くと部屋は無茶苦茶に破壊されて居ました。部屋を見てみるとプラズマ・テレビに穴が空き。パソコンは液晶は割れ。レコード・プレイヤーは壊され、お守りだった。原田芳雄さんの色紙と一緒に撮った写真は粉々に破かれて居ました。自分が思い出にして居た。バンドでのデモ・テープやらライブの模様を録音したオーディオ・テープ、大切にして居た彼女との思い出の写真、全部が粉々に壊されて居ました。私は自分の大切なものを自分が知らない間に全て失ったのです。CDもDVDもケースが破られて居ました。私は気絶から覚めると、一体何がどうなったかは解らない程でした。どうやら私は認知症の母の面倒を見て居たら自分がおかしく成ったのでした。この事は母が行き付けの内科の主治医から散々警告されて居た事でした。「あなたも精神疾患者なのだから、お母さんを早く施設に入れなさい。そうしないと取返しが付かない事に成りますよ」しかし私の訴えに姉も弟も考えては呉れませんでした。姉に言うと「私は他家に嫁いだ見よ、言って来ないでよ!」弟は「何でもかんでも俺に言って来るな!」私は、一体、どうして仕舞ったのか解らなかったのです。
怒った弟と姉は、認知症で訳が分からなくなった母を施設に入れ、私を精神病院へ連れて行きました。そして、弟は「もう兄貴の面倒など見たくもないから、先生、兄貴を何年でも入院させて下さい。兄貴の荷物をトランク・ルームに入れて、帰って来れない様にしたい」と慈雲堂内科病院の女医に頼んだのです。彼女は私が弟に連れられて行った時。冬場だったので、黒いトレンチコートと帽子を被り、ブーツを履いて外来に行くと。私を診察して統合失調症と言い。入院だと言い。「精神疾患者がトレンチ・コートだとかブーツ、帽子はないだろう(笑)」と言い、脱がせて弟に持って帰らせました。私は病院では、靴も無く。着るものも泣く。Tシャツ一枚に木綿のズボン、そして、サンダルを支給されてそれを着て過ごしました。私はメガネのフレームのネジが取れたのでそれと歯の前歯が取れたのでメガネ屋と歯医者に掛かりたいと言いましたが。すべて却下させれました。そして私がする事が無くて、病室で寝て居ると様子を見に来て。こう言ったのです。
「あんたなんか何よ!身内であんたを救おうとする者など誰も居ないじゃない!!あんたが病院に来た時さ!カッコ付けてさ!帽子にコート、ブーツなんて履いてさ!笑っちゃったわよ!あんた高校どこ出たのよ。あんた浮浪児みたいに汚くて最低な人間なのよ!!」私は黙っていた。当時私は48歳ぐらいでその女医は30歳ぐらいだった、続けて言った。「私はさあ、由緒正しくて、礼儀正しい名家の生まれで、きちんとした家に生まれたのよ!あんたなんかとは違うのよ!あんた髪長いけど、何様のつもりよ!ロック・ミュージシャンなんて皆んなバカよ最低の人種よ!!」私はそう言われても黙って居た。「私はクラシック聴いて育ったから、生まれがいいから!あんたとは違うのよ!!」「あんたさ、実家は弟のものだと言うじゃ無い。あんたに財産何か無いわよ」よくもこれだけ人を罵倒すると思ったが、話を聞いて居て所詮子供だなと思って聞いても居た。そして私はその女医に「入院期限の3ヶ月が過ぎたので退院したいのだけども」と言うと。その女医はニヤリと笑い。「あんた退院出来るとでも思っているの?」「あんたの弟や、姉さんが何と言うのかねぇ」私が「どう言う意味だ」と言うと「あんた見捨てられたのよ」そして「明日、久留米ヶ丘病院に転送します。」そう言うと部屋から出て行った。
その夜、若い20歳ぐらいの可愛い小柄な看護婦が様子を見に来てくれた。そしてこう言った。「私、〇〇さんが来た日に当直だったんだけども。〇〇さんカッコ良かったんだから。新井のヤブ医者!!」と私に同情するのだ。私はその子に「映画でいいのがあるから題名教えるよ。」と言うとその子は手帳をおもむろに広げて映画の題名を書き込み出した」そして、「ありがとう。皆んな看護師たちは〇〇さんから、いい映画を教えて貰ったと言って喜んでいますよ」と言って「気をつけて」と言って出て行った。私は転院の時に弟が向かいに来てくれるのかと淡い期待をして居たが、弟は来なかった。そして担当の女医の新井もその場には姿を見せなかった。私は一人で病院が手配した向かいの車に乗ると久留米ヶ丘にある。久留米ヶ丘病院まで輸送された。久留米ヶ丘病院に着くと、担当の精神科医の小林先生が迎えて「〇〇さん、あんたはマトモだけども。此処に居る連中は皆んな、キチガイだから(笑)」と言うのだ。そして、「あんた自分の後頭部見た事ある?」と言う。私が手を後頭部に当てると「その突起して居る処があるでしょ。そこ脳腫瘍だから、此処で徹底的に治療します」とおかしな事を口走る。私は「まただ...。」と訝しがらなも仕方が無いと思い黙って居た。
そして3ヶ月を過久留米ヶ丘病院で過ごし退院が近くなったと思い、「先生、退院はまだですか?」と聞いたら。「退院は出来ません。姉弟の許可が出ません」と言う。「どう言う事ですか」と聞くと「退院は身内の許可が無いと取れません」と話を突っぱねる。私は「先生、腫瘍がどうのこうのと言って居ましたが、私は検査も何も受けて居ないですよ」と言うと黙って居る。そしてもう3ヶ月が経ち、私は担当医にまた聞いた。「先生退院は何時ですか?」すると担当医の小林先生は「解りません」と言う。私は万事休すだと思った。これは弟と姉さんが画策している。私は精神病院から出さない算段をして居ると改めて思居ました。しかしどうする事も出来ない。そして遂に1年が過ぎた。要約弟が向かいに来た。すると担当医の小林先生は「いや〜〜。今日退院の運びと成りました。脳腫瘍は私の誤診でした〜」と弟に言うのだ。弟は苦笑いを浮かべたが二人でニヤニヤ笑って居る。そして、先生が「それでは、退院です...。」と言うと、弟は「兄貴さぁ、俺は用事があるから一人でタクシー拾って帰ってよ」とそれだけ言うと背を向けて自分の家に帰って行った。私は病院にタクシーを手配して貰い。まるで罪を犯した罪人が刑務所から出て来るが如く身の回りの物の詰まった段ボール箱を詰むと車に乗り込んで実家に帰って来た。後から知ったのだが久留米ヶ丘病院という精神病院は一度入院すると最低でも5年、長い人で10年から20年は出られない病院で有名な処だと聞いた。私はまだ1年で出られたのだった。慈運堂内科病院の新井医師は最低な病院に私を転移させたのだった。
実家に帰って3日程経つと弟がやって来て。一言言ったら帰るからと言うので、何かと思って聞いて居ると。「兄貴さぁ、俺、離婚して独り身に成ったから。実家も今住んでいる田園調布の家も処分して。その金で狭い一人用の家を建てるから。悪いけど兄貴とは一緒に暮らせないから、実家を出てってよ。そして一人だけで生きて行ってくれる。それから連絡はしないで。それだけ」と言うと帰って行った。私は久留米ヶ丘病院で知り合ったMPO法人の人に退院するまでえらく世話に成って居たが、その人に付き添って貰ってミニミニ城南に行き10畳間の部屋と5畳半の部屋のマンションを探して、そこに決めて借りた。家賃は11万。私が「払えない...。」と言うと。嫌々ながらも弟が全額持ってくれるとの事だった。弟はその後学会でフランスによく行く様に成った。そこで医療事業者の若いフランス人の女の子と知り合ったそうだ。ある日メールが来てその子と結婚すると書いてあった。私は第二の人生が始まった。しかし姉弟は母を施設に入れたとは言うが、何処に、何と言う施設に入居して居るのかは、今持って教えてはくれない。そしてマンションで暮らすに当たってケア・マネージャーと訪問看護ステーションのお世話になる事になった。MPO法人の人が手続きをしてくれた。
そして暫く経ったある日、姉から怒りの怒鳴り込みの電話が掛かって来た。「お前な!!弟がどんな生活を送っていると思う!!あいつはな、別れた嫁さんに毎月70万の送金をしているんだ、お前なんかがな!!なんであいつにマンションの家賃持って貰って居るんだ!!ふざけるな!!バカヤロー!!」と罵詈雑言を言われた。私は絶望した。私はもう姉だとは思っては居ない。姉らしい事をしてくれた事が今まで一度だってあるか?
それから1週間が経った。私は悪夢に魘された。弟が棺桶に入って焼かれて居るのだ、弟は私に「助けてくれ...。」と夢の中で言っていた。私は弟の名を呼んで起きた。パジャマはぐっしょり濡れてい居た。それから3日程して姉がケア・マネージャーに電話を掛けて来て弟が死んだと私に言ってくれと言った。私は「そんな大切な事は何故直に行って来ないのか!」と怒った。そして「信じられるか。どう言った経緯で死んだんだ」とケア・マネージャーを通して喰って掛かった。すると姉は「まあね、そりゃそうだ。」と言って死亡診断書と遺霊の写真と額縁を送って来た。死亡診断書には心不全と書いてあった。死んだ原因が解らないのだ。
私は定期預金を崩し3年間暮らし。そしてそれも尽きかけたので、生命保険と年金保険を解約して何百万かのお金を手元に置いた。そしてその金で暫く暮らして来た。弟が死んだ後11万の家賃は自分で3年間払って来た。ケア・マネージャーが「もうそろそろ家賃が半分ぐらいな処に引っ越さないと生活保護が受けられませんよ」と言って来たので、此の6畳間のアパートに引っ越して来たと言う訳です。持ち金は少なく成って居る。後、2年ぐらいしか持ちそうに無い。何遍も言うが私は障害の為に働けない。だから生活保護を頼るしか無いのです。
私は精神疾患者だが、医者に言わせると、大抵の患者は嫌がらせと言っても妄想だとが幻覚、幻聴だが、私の場合は本当の嫌がらせをされて居たと言う明確な事実があると先生は言って居る。そして、その場に居たのではどうしようもないから、あなたはその場から離れて居る。これは現実逃避とは違う防衛本能ですと言って居た。精神病の人を見て皆さんはどう思われますか?気狂いだと思いますか?側に居たくないと思いますか。精神病院の恐ろしさを知っていますか?精神病院では精神科医が絶対的な権威を誇って居ます。逆らうと、病気を返って重くさせられます。そして退院はさせません。精神病患者になると親も兄弟も見捨てます。特に地方ではその傾向が強いですね。学生の頃に発病すると、家から気狂いが出たと騒がれて病院へ隔離されます。そして関係を断ちます。親や兄弟ですらそうなのですから、他人は「精神疾患患者=気狂い」と見做して、煙たがり、バカにすればこそ人間扱いはしません。
何故なら田舎では噂が広まるのが早いからです。そして都会でもそうなのですから、田舎では精神障害者が居ると家族ごと抹消されます。村八分に成ります。都会はまだ近所付き合いが希薄だから、その分助かっている部分もあります。私が18年前に入院して居た頃。横下という男と同室に成りました、彼は歳は30歳ぐらいでしたが。いつも簡易ベットの上で高校1年の参考書を見て居ました。そしてその参考書の紙面は黄色と赤のマーカーで幾層にも線が引いてありました。口癖は「私は教会の牧師にテレパシーで頭を乗っ取られて居るんです。牧師は悪い人です。」と一日数回言いました。彼は「妹が可愛くて仕方が無いと言い」私に「ねえ、あんた妹可愛くないですか?」と聞いて来るのです。私は「妹は居ないよ」と言うと「妹居ないんですか、誰なら居ますか」と聞いて来たので「女兄弟なら姉さんが居るよ」と言うと「姉さん可愛くないですか?」と聞いて来る。そしてテレホンカードを私に握らせて、「500円!!」と言うのです。私は困りましたが。500円玉をやると、「テレホンカード返せよな!!」と言うのです。
私はやってられなくなり、看護師に言うと「あの患者は、薬も飲まなくて往生している患者だから」と言うので、私は何故と聞きました。すると「あの横下さんは治りません。此処で一生飼い殺しよ」と言いました。そして「あなたも精神病院に入院したからには覚悟が必要よ」と言って、簡易ベットの上に所持品の荷物を置くとそのベットごと他の病室に移動させられました。私は1年間入院している間6回ほど移動しました。私は精神疾患者では軽い方です。だから重症患者とは一緒に暮らせません。私は入院中、看護師には随分と助けて貰いました。薬の作用で酷い便秘に陥った時です。若いと言っても年の頃30歳ぐらいの看護婦さんだったけど。私に直腸注射をし、「頑張れ、」と言ってお腹を揉んでくれました。大量の弁がおむつに出ましたがその弁を文句一つ言わないで全て処理し「頑張ったわね、薬を変えて貰う様に先生に言っとくね」と言いました。その子は日本美人だった。私は良くその子に付き添って貰って、病院の他の科に行く為に歩いて居たら。突然気持ちが悪くなり吐いて仕舞った事もあります。すると、なんとその子は自分の手で汚物を受け止めたのです。すぐに私を連れて医者の処まで連れて行き、そして自分は汚物を処理し。私に「大丈夫?」と笑みを湛えて言うのです。私は参りました。ナイチンゲールの精神です。
或る日、73歳の男の患者が私に寄って来ました。「おめえ、カッコイイなぁ」と言うのです。気色が悪いと思いましたが、その老人はそれ以来私に着いて廻りました。なんでも話を聞くと昔はIBMのパソコン開発に携わったとかで、ハワイアンのバンドでスティールギターを弾いて居たと言うのです。ソニー の携帯HDDプレイヤーを何時も聴いて居て、私に聴けと「ビートルズ」と「ドアーズ」などの60年代ロックを聴かせました。しかし飽くまでも精神疾患者なのです。私が病院の廻りの小川を巡る、近くの水車小屋で入院の時に持ち込んだブルースハープ。本当は行け無いのだけども、帽子の中に隠して持ち込んだのです。それを吹いて居ると、どこからかやって来て、「カッコイイなぁ〜」と言うのです。そして自分は売店でアイスクリームを食べながら私を呼び横に座れと言うのですが、すぐに「何であんたは自分の側に来るんだ」と言うのです。めちゃくちゃです。そして病院内でも私を見つけると側に寄って来ては「おめえ、好きだ」と言うのです。私は嫌なので極力その爺様の姿を見つけると迂回をして居たのですが。ある日、その爺様がサングラスを掛けて院内を歩いて居ると、男の看護師が「内山さん!!サングラスは禁止だよ!!」と言ったのですが。その時に私の方を向いて、「あの若いのの長髪と顎髭はどうなんだ!!」と叫んで居ました。看護師は「あの人は関係ないよ。個人の自由だよ!私はあんたのサングラスを行け無いと言ってるんだ」と言って居た。私は此れで付き纏われないなと思って居たら。案の定それ以来寄って来ませんでした。
まあ、精神病院は重症患者は殆どが拘束されて居るので、院内を彷徨いて居るのは、病気の程度が軽い人たちです。よく精神疾患者は目の淵が黒くなり目が虚ろになって落窪むと思われる人も居るだろうけど。それは向精神薬の副作用なんですよ。薬のせいで、おかしな顔つきをして居るのです。明らかにおかしな形相をして居る人は障害が酷い人です。そんな人でも話せば真面な事も言うのです。精神障害者=気狂いではありません。それは偏見です。世の中には精神病院に入って居る人より、精神病でも無いのに明らかにおかしい人が事件を起こします。中には精神疾患患者も居るでしょうが。今は心療内科、精神科と見て貰える処はあります。家族が異常に気が付いたら、速やかに連れて行く事です。大抵は薬を処方されます。それさえ飲んで居れば健常人と何ら変わりが無い生活が出来ます。今回、私は初めて自分の精神障害の事を詳しく書きましたが。この記事によって私を何だ気狂いか?と思う人も居るでしょう。私は覚悟を決めて書いて見ました。人間は強い衝動をあてがわれると精神はすぐに病んで仕舞います。他人事だと思わないで自分をしっかり守って生きて行きましょうね。。。どんなに自分は世の中に必要の無い人間だと思っても。あなたの存在そのものが奇跡なのですから.....
【檻がある?】精神科の入院病棟ってどんな所?
精神科救急24時part1
精神科救急24時part2
精神科救急24時part3
精神科救急24時part4
精神科救急24時part5
今から18年前になるが、私が東京医大から長谷川病院に入院した時だ。その精神科病棟には訳気くんと言う青年が居た。彼は高校在学中に統合失調症を発病し。高校を止む無く中退した男だ。この当時24歳だった。初め私は彼と同じ部屋に入居した。その病室は3人部屋だった。私は入院早々、訳気くんと親しくなり、アニメおたくな彼から色々とアニソンなどを聴かせて貰って居た。私は、「カウボーイ・ビパップ」はいいよと話して居たが。彼は入院してもう長いので、知ら無いと言う。私は外泊の許可が取れたので、自宅まで戻り、カウボーイ・ビパップの全話が収録してあるDVD-Rが要ら無く成った為に(DVDのカウボーイ・ビパップのTVBOXを購入した為・バーゲンセールで安かったので)それを病院に持って来て。彼に挙げたのだけども。彼は吃驚して。「前にも、医者の息子から高級なものをポンと貰って、狼狽えた事があったけど、〇〇さんもそうなの?」と言って自動販売機でコカコーラを5本ほど買って持って来てくれた。
足元の向こうに他の人のベットがあって、そのベットに寝ていた中年の男はその様子を胡散臭く見ていた。その男のベットの脇には池田大作の写真が貼ってあり。その男は創価学会員だった。その男は良く、病室の人にテッシュに裂きスルメとピーナッツを置いて食べろと振る舞って居た。そしてその人は漢字が何も書け無かった。私は確かにこう言った宗教団体員にストーカーをされたが。私は皆んなが皆んな悪いとは思ってはいない。ただ宗教をやみくもに心酔て居る人はそれを心の支えとして居る人が多く。一概に宗教にのめり込んで居るからと言って差別はしたく無い。私は哲学が好きなので宗教は余り良くは知ら無いが.....。でも親鸞やブッタの書物も持って居るし。宗教差別もしたくは無い。個人の自由だからだ。ただ、それを押し付けられるのは嫌いなだけだ。その夜、私が寝ていると突然「バカヤロー!」と言う声が聞こえて目を覚ました。するとその中年男性が「〇〇さん、あんたそんな風だと病院生活は送れないよ」と言うのだ。私が「何故?」と言ったら、「いびきがうるさい」と言う。だから「解りました。出て行きますよ」と言って看護室に行き。「看護室のべットで寝かして下さい」と言ったら。夜勤で居た婦長が「何で?」と言うので。「いびきがうるさいと起こされた」と言うと「そんな事、誰に言われたの?」と言うので話して居たら。その言った本人がやって来て。「俺がうるさいと言ったら、居なくなった」と言う。婦長は「あんたねぇ、いびきがうるさいの怒っても止まらないでしょう?」と言ったら「だって初め言ったらいびきが止まったんだ」と言うのです。婦長は呆れて「あんたは馬鹿か!」とその男に言って居た。
そして私に「〇〇さん。明日、病室を変えるから、今は睡眠薬二人に渡すからそれ飲んで寝て頂戴」と言って睡眠薬を貰って飲んだ。時計を見ると夜中の3時だった。「その男は「俺が悪く成るのかよ....。」と言って居た。次の朝早く午前7時頃。私は別の病室に移る事に成った。ベットに所持品を乗せて移動した。病室を移って他の病室に行くとそこには角刈り頭の小柄な若者と50歳ぐらいの中年の男が居た。もう一人の男が居たが。その人はどこも悪くは無さそうな雰囲気だった。不思議に思った私は聞いて見た。「あなたどこが悪いの?」すると言った。「俺は大分良く成って今日退院なんだよ」と。「凄いですね。どのぐらい入院して居たのですか?」と聞いたら、「ああ、10年間入院して居たからね」と言う。私は吃驚して聞いて居たが。その人が退院時間に成り。迎えの人も来なく侘しそうに一人で部屋を出て行ってから。私はCDラジカセを掛けて。マカロニ・ウエスタンの「ジャンゴ」のルイス・エンゲリフ・バカロフのサントラ盤を掛けて聴いて居たら。その角刈りの若いのが聞いて来た。「君、今聞いてるのアメリカの曲でしょ」私は「これはマカロニ・ウエスタンの曲だから」と言うと「だって英語で歌っている」と言うので「そうだけども違うよ」と言ったら。三白眼で私を睨んで。「ゴスペルとかあるけど」と言うので。音楽知らない人だなと思い。「カンツオーネだよ。」と言ったら。また三白眼で睨んで来る。
だから聴くのを辞めて。散歩に中庭に出ようとしたら。その若いのが、俺も行くと着いて来た。しかし私の跡しか歩かないので不審に思い「ねえ、君。なんで俺の跡付いて来るの....」と聞いたら。「目標!!俺はあんたを目指して歩く!」と言うのです。おかしいなと思い。すぐ部屋に戻るとその男も部屋に戻る。そしてベットの周りを何遍も廻って歩く。明らかにおかしいのです。まあ、色々あって夜に成った。そしたら50代の男の人が「〇〇さん。クレジットカードって必要?なんで必要なの?」と聞いて来たので。「買い物をする時に使いませんか、ネットで買い物する時になど必需品ですよ?」と言うと「俺はパソコンやらないし、買い物は近所でしか買わないから必要ないな...。」と言って寝て仕舞った。そしてその男も退院し。代わりに銀行マンが入って来た。そして程なくするとまた一人大工が入って来た。銀行マンは少し生意気な嫌な奴で、大工は温和な人だった。
私はラジカセで青江三奈の伊勢佐木町ブルースとそれを黒人のブルース調に憂歌団の木村充揮が歌って居るものをヘッドフォンで聴いて居た、それから3ヶ月程して私も退院に成ったら、隣の大工が、「あんたが伊勢佐木町ブルース聴いて居たらさ、あの銀行員がさ、「ブルースマンだなんて言って居て、聞いてるの伊勢佐木町ブルースじゃねえか?バカじゃねえか。ブルース知らねえでやんの!!」って言って居たよ」と言うので。私は「ああ、ヘッドフォンから漏れて聞こえて居たのか...。」と言い。そしてその銀行員に面と向かって言った「あんた、ブルース何聞いて居るんだい。黒人のブルースなんざ聞いた事も無いんだろう」すると何も言えない。「青江三奈の伊勢佐木町ブルースも黒人のブルースも同じなんだよ。音楽の意味も解ら無いバカが人を批判するんじゃ無いよ!!」とその銀行員に面と向かって言った。そして言ってやった。「あんた妻子に逃げられた割には人生をブルースを何も解って居ないねぇ...。」銀行員は「なんだと!」と怒ったから「喧嘩なら買ってやる表に出るか!!」と言ったら、私は気がつかなかったのだがその銀行員の主治医が廊下で聞いて居て「磯崎さん!!何で診察に来ないの!!」と怒鳴り気味に言った。彼は不貞腐れたが黙って主治医に連れられて診察室に入って行った。そして私は退院して来た。そんな事がありましたね。音楽が好きでも本当の音楽の意味を知らない人が多過ぎると思いますよ。まあ、精神病院ネタは今回はこのぐらいで。でも皆さんどうでしたか。結構、健常者と余り変わらない人も居るでしょう。確かにおかしいのだけども一部だけです。全てがおかしい人は中々居ませんよ。。。
伊勢佐木町ブルース/青江三奈 (字幕/歌詞付き)
伊勢佐木町ブルース/JOHNLOS(ジョンロス)
伊勢佐木町ブルース(ちょっとJazz風味) Guitar Solo Cover
伊勢佐木町ブルース by zukabe
伊勢佐木町ブルース
伊勢佐木町ブルース ジャズ風 MOANIN〜伊勢佐木町ブルースcoverのcover
Deep Purple - Burn (Live 1975)
Deep Purple - Mistreated (Live 1975)
Janis Joplin - Kozmic Blues.
此処で統合失調症に付いて説明すると統合失調症は、本来ならばあるはずのない症状が認められる病気です。幻聴や妄想といった症状が代表的で、陽性症状と呼ばれます。病気の始まりは不安や緊張が目立つ事もあり、なかなか診断されない事もあります。ときには幻覚や妄想に左右されて仕舞って、自分自身が病気である事も自覚でき無く成って仕舞う事もあります。統合失調症は、脳に起こった機能的な変化によって「考えや感情を上手くまとめる力」が少しずつ落ち、幻聴や妄想などの奇異な症状があらわれます。そして少しずつ本来あるべき機能が失われて行き、陰性症状が生じます。そして社会生活や日常生活をスムーズに送る事が困難になって行く病気です。以前は難治の病気で「精神分裂病」と言われ、発症すると入院生活が続いて仕舞う様な難病でした。ですが現在では統合失調症の治療薬が非常に進歩し、早期に発見して適切な薬物療法を行う事で、病気をコントロールしながら社会生活を続けられる患者さんが多く成って居ます。統合失調症は、およそ1%の方が発症する病気と言われて居ます。早期に発見して病気を正しく理解し、継続的な薬の治療が重要な病気です。統合失調症の代表的な症状として、幻覚や妄想があげられます。幻覚や妄想が認められたら統合失調症と言う訳ではなく、実は様々な病気で幻覚や妄想が認められる事があります。しかしながら統合失調症の幻覚や妄想の特徴としては、大きく2つの特徴があります。
- 本人にとっては真実で、気分や行動に影響して仕舞う事
- 他人が自分に対して悪い事をする事
本人に取っては疑いもない事実と感じて居るので、周りが幾ら言っても納得が出来ません。ですから本人の気分や行動にまで影響して仕舞います。そしてその内容も、人間関係が中心である事が多いです。他人が自分に対して悪い事をする様な内容です。そしてこう言った幻覚や妄想が続くと、自分自身と他人の思考の違いが判らなく成って行きます。これを自我障害といいます。
具体的に幻覚・妄想・自我障害に訳て、症状を見てみると
【幻覚】
- 自分を批判するような声が聞こえる
- 自分の行動を外から実況中継して居る声が聞こえる
- 幻聴同士が会話し合って居る声が聞こえる
統合失調症の幻覚では、聴覚に対する幻覚が多いです。いわゆる幻聴ですが、自分を批判するような幻聴や命令するような幻聴、他の人が対話して居る様なな幻聴が見られます。
幻聴に対して本人が反応するため、突拍子もない行動をしたり、独り言を言ったり、ニヤニヤ笑いだしたりするので、周囲からは奇妙に見られる事が少なくありません。
【妄想】
- 誰かに付け狙われている(追跡妄想)
- 咳ばらいをしたのは自分が嫌いだからだ(関係妄想)
- 街を歩いていると通行人が自分を見て居る(注察妄想)
- 黒ずくめの服をきた組織に追われて居る(迫害妄想)
- 自分の悪口を周りが言って居る(被害妄想)
- 自分には特別な力がある(誇大妄想)
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妄想は事実とは異なる思い込みで、思考内容の異常と言えます。本人はそれを真実と捉えて居る為、まわりから訂正する事は出来ません。
誇大妄想は本人がツライ現実に向き合わなくてすむ為、なかなか薬の治療に反応しない事もあります。
【自我障害】
- 自分の考えて居る事が声になって聞こえる(考想化声)
- 自分の考えが周囲に知れ渡って居る(考想伝播)
- 考えが他人に吸い取られて仕舞う(思考奪取)
- 他人の考えが自分に吹き込まれる(思考吹入)
- 自分が他人にあやつられて居る(作為体験)
- 自分の思考がすべて筒抜けになって居る(筒抜け体験)
- 霊が取り憑いで居る(憑依体験)
- こう言った、自分と他人の境界がハッキリしなくなって仕舞い、思考や行動が他人のモノか自分のモノかが解らなく成って仕舞います。
私の場合は幻覚妄想はありません。しかし薬を飲まないとそれが起こる確率は高く成ります。だから薬を飲んで居ます。すると、後遺症で頭痛が起きて眠くなり、働く事が出来ません。だからこう言った精神患者は生活保護で暮らす事に成ります。。。。
日本の生活保護の受給者はその殆んどが精神疾患者だと思われます。精神疾患者は可也、強い薬を飲まされます。大抵の向精神薬にはその福作用として、身体が太る作用があります。だから精神疾患者はブクブクと醜く太って居ます。そして理由が解らない一般の人は精神疾患者はバカだから太って居るのだと蔑みます。私は勝手、体重が90kgまで行った事がありました。周りの人はあからさまに私をバカにし。「人間1週間ぐらい食わなくても平気だ。痩せたらどうだブクブクと太って見っとも無い」と言いました。食べて太って居るのでは無いのですよ。人は何も知らないくせに自分の主観で言いたい放題の攻撃をして来ます。その後、薬の種類と飲む量が変わり、自然と体重は落ちましたが。最近はまた太り始めました。私はほぼ10年周期で太ったり痩せたりを繰り返して居ます。最近、私は病院で精密検査を受けて脂肪肝になって居ると警告されたので薬を変えて食事療法の先生に着きました。今はまた、減量中です。おかげで野菜しか食べられません。目標は15kg減量です。
今回は、過去記事から精神病院に付いて、書いて来た物を纏めて少し加筆しました。まあ、統合失調症は皆さん他人事だと思って居るでしょうけど。10人に1人の割合で成る精神疾患です。要するに脳の疾患です。差別は誰にでも出来ます。物事を知らない人なら。しかしちゃんと知って貰いたく思い、此処にこの様に書きました。人生如何なる時に如何なる帰路に立たされるかも知れませんよ、そう成らない様に充分に気を付けましょう。その為にこのblog記事が少しでも参考に成れば幸いです....。此処まで読んで呉れてどうも有難う御座いました。
---kiyasume---