1970年代。皆んなの憧れだった岡田奈々さん。現在でもお若いですよ。。。。
岡田奈々 1975→現在(2018)
岡田奈々さん(水着)!
休養して降ります。身体は調子が戻って来て居ます。だいぶ良いです。そこでblogをまた挙げて置きます。しかし書くこともないもので(毎日寝て居るので)。殆んどが過去記事からですが、新しく書直した部分がある記事もあります。と言いますか少しの加筆ですが、、読んで見て下さいね。今回も長いかもとも思いますが、一区切りにして、何回かに分けて読んでもらえると嬉しいです。またこの記事は1年以上も前の記事なので、今から読むと少しおかしな処も有るかと思いますが宜しく御願い致します。また、次の記事を何時書くかは判りませんので、当分この記事が最後かなとも思います。宜しくお願い致します.......。
Person To Person_Weeping Harp Senoh
Weeping Harp Senoh plays Blues Harp_Please Send Me Someone To Love
Weeping Harp Senoh plays Blues Harp_01 Baby Won't You Please Come Home
Indiara Sfair - Improvisation in Cm (Find the TAB link in the description)
私の実家の側に酒屋がある。そこの息子さんは一等航海士だった。船乗りだ。実家は酒屋だ。その人の親は息子に酒屋の後を取ってくれと言ってその人を苦しめた。そしてとうとう船乗りを辞めさせて、酒屋の後を継がせた。しかし酒屋は経営が苦しく、なんでも売る雑貨屋見たいに成ってしまった。息子さんは、歳を取った今、店の経営が苦しく人柄も変わってしまい。貧乏生活をして居る。親がバカなのだ。何で酒屋の後を継がせたのだ。その人は船長だったのだ。海外に結構行って居たのだ。奥さんを貰い人生いい暮らし向きだったのだ。それをバカ親のせいで棒に振った。弟が医大を受けるので勉強して居た頃だ。毎晩、夜12時を廻ると親父が弟の処に行って言うのだそうだ。「頼むから高卒か、行きたいのなら大学は適当な処を出て、お父さんの仕事を継いでくれ」弟は、怒って居た。医大の受験勉強をして居るのに、普通なら喜ばれる処だ。何に親父はあんなチンケな商売を継いでくれと言う。私も親父に生前言った事がある、「親父、あんた自分と焼酎飲みながらスルメ齧って、テレビで巨人軍見て、騒ぐ様な息子を持ちたかったんだろう?」親父は言った「バカ言え、」しかし私は言った。「そうなんでしょ」すると言った。「おりゃ〜そう言う息子が欲しかったんだ」庶民的すぎるんだよ,あんたと言いたかった。弟は勉強が出来、クラシックが好きだった、私は芸術が好きだった。悪いが親父の好みは息子2人は持って居なかった。
私たちは母方の祖父に似た見たいだ。祖父は東大出の医者だった。福島の郡山で開業医として活躍して居た。そして大地主でもあった。知事選にも出馬したらしい、若い頃ドイツに留学して居た。しかし無神論者でもあった。子供の頃、母は神社の前を通る時に挨拶をして居たら、祖父から、「神社になんか頭を垂れなくていい!!」と言われたそうだ。母は食事の時も「いただきます」とは言わなかった。それは祖父の教えだったらしい。私はいつも食事の時に食事を並べた順から食べていく自分の家の食事の仕方が気に食わなかった。子供心に「何でいただきますを言わないんだ」と思って居た。母の口癖は「お父さんが言っていたから、」と言うのが口癖だった。そしてある時に私に母は「おまえは神様を信じる、確かに色々な人が居るけど?」と言った。私は母に「母さんの考え方は間違って居るよ」と言った事がある。母は毎日患者を診るので忙しい祖父を大した偉人だと信じて居た。母にとっては自分の父親の言う事は絶対だったのだ。祖父は政界にも知り合いが居た人だった。著名な文学者たちとも交流があった。祖父は若い頃、人力車引きをして居たそうだ。苦学をして東大を出たらしい。そして医者に成り、戦前、車を所有していた。ドイツ車だ。自転車もドイツ製だった。そして自分はお金持ちだったが、貧しい人たちの為に奔走した。車にはお抱え運転手が居たそうだ。いつもその乗用車に乗って遠くまで往診に出かけて居た。自分が癌にかかり腹水が溜まっても部下の医者に腹水を抜いて貰い。往診に出掛ける様な人だった。そして養子を貰って居て、結局は、自分が死んだ後、その養子と親戚に財産をすべて取られてしまった。母たち3姉妹は路頭に迷う羽目に成った。いくら政界に知人が居ても、文学者と親しくして居ても人は助けてはくれない。
私が思うに祖父は、丁度、ニーチェやらハイデッガーの思想、要するにセイレン・キルケゴールからサルトルに至る、実存主義を信望して居たと言える。現に母が言うのには祖父は哲学書のドイツ語で書かれた書籍を何時も読んで居たそうだ。おそらく時代的に見て、今あげた哲学者の原書だろう。私は祖父を誇りに思っては居る。しかし同時に、変わった人だったとも思って居る。それは哲学者は神を信じない人が多いが。祖父は近代的な考えを持ちすぎたと思うのだ。だから子供にも影響が出て居ると思う。私は食事の時は「いただきます」と手を合わせたいし、神を闇雲に信じては居ないが。神社の前を通る時は矢張りお辞儀をしたく思う。何故なら、万物の霊に敬意を示すのは人間としての務めだと思うからだ。私はヒエラルキーに置いてのヘゲモニー概念は無い。それを欲する人も居るだろうが、、政治家やら企業の社長などはそうだろう。だからと言って、あまりに庶民的すぎるのもどうだかと思う。確かに焼酎を煽りスルメを齧るのも時にはいいだろう。しかし毎回それでは進歩が無い。
親父はBS放送で松井が大リーグで活躍すると、よせばいいのに夜中の3時に起きてテレビを付けて、松井がバッターボックスに立つと「ゴッジラが吠えるぞ〜」と言って喜んで見て居た。そして朝まで起きているのだ。私は親父に言った。「ビデオに録画して居て。朝6時頃に起きて見ればいいじゃ無いか」と。すると親父は言った。「野球はその時見るものだ」と。私は野球は嫌いだ。親父は高校野球を見ると決まって言って居た。そしてスポーツ新聞にも書いてある「熱血の球児たち」。。。その持ち上げ方が嫌いだった。プロ野球の選手は1億円とかの契約をする。だから野球を好きな高校生は選手に成りたく思う。それはね、一番手っ取り早いだろうとは思う。私はロクなものでは無いと思って居る。確かにミュージシャンにも言える事だ。高校3年間ロックのエレキギターを猛練習して、ヘビメタのギタリストに成って人気が出てバンバン稼ぎたい。私はこんな考えも嫌いだ。音楽とは暮らしの中から湧いて出て来る物だ。シンセサイザー奏者の喜多郎は畑を持って居る。毎日畑を耕して生活して居た。そうする事に寄って、いいメロディーが生まれると言って居た。
私はブルースが好きだ、ブルース程生活に密着して居る音楽は無い。特に楽器、管楽器であるブルースハープは、体調が悪いと最低な演奏しか出来ないが。調子がいいと、いい気分で元気があると音色にそれが現れる。バイオリンなどは感情が高ぶって居るとそれが表に出る。神経質な音色に成る。本当にこの2つの楽器は感傷的な楽器だ。私は音楽は何でも聴く。最近はムード歌謡にはまって居る。ムード歌謡はブルージーなのだ。私はブルースは3コードで演奏される物だけとは思っては居ない。何にでもブルースはある。ブルースのソウルを感じれば私は何の音楽でも聴く。日本のブルースの名曲は、ムード歌謡だが「伊勢佐木町ブルース」だと思う、それと「横浜ホンキートンク・ブルース」だ。青江三奈は日本のベッシィー・スミスなのだ。原田芳雄は日本のオーティシュ・ラッシュなのだ。東京ロマンチカの「小樽の人よ」は、アルバート・キングの「スカイ・イズ・クライング」なのだ。そう思って聴いて居る。音楽に国境はない。
青江三奈 - 伊勢佐木町ブルース
横浜ホンキートンク.ブルース ザ.ゴールデンカップス LIVE
鶴岡雅義と東京ロマンチカ「小樽のひとよ」
それと私はエレキギターを弾いて居た頃。音楽理論を仕切りに勉強した時期がある。和音分解。ミクソドリアン・スケールなどの音階。しかし、私はそのうち、音楽が学に成ってはいけないと思うように成って行った。それは音楽喫茶のライブでブルースハープを吹いた時に、その一緒に演奏したバンドのギタリストと音楽論争に成ってしまったのだ。私はジャズのアルトサックス奏者チャリー・パーカーのバップ論をぶつけたら彼はジミヘンのサイケ音楽理論をぶつけて来たのだ。2時間論争して、その後、私たちはフィーリングがなければ何にもならないと言う結論に成った。ウエストロード・ブルースバンドのボーカリスト、永井隆が言って居たけど。ブルース歌手は演歌のフィーリングも表現出来なければいけない。私もそう思う。ブルースではないがヘヴィメタのギタリスト・マーティーは石川さゆりの「津軽海峡冬景色」をフェバリット・ソングだと挙げている。私はギターではジャズのナット・キング・コールのギタリスト、オスカー・ムーアとか、ブルースハープではチャリー・パーカーの「パーカーズ・ムード」などのフレーズをコピーした。要するにムードがある旋律が好きなのだ。
BigLegWomen/ウエスト・ロード・ブルース・バンド
Marty Friedman Produce (Rock天城越え with マーティーフリードマン)
Oscar Moore - The Fabulous Oscar Moore Guitar (1962) (Full Album)
Parker's Mood - Charlie Parker
師匠である妹尾隆一郎さんからはブルースハープの音階上で流れるようにフレーズを作る事を教わった。まあ、私は下手だけども.....でも妹尾さんから教わった事で私はフレーズの呪縛から離れられた。若手のハーピスト、例えばコテツとか千賀太郎くんとか才能溢れるハーピストたちは黒人のハーピストたちを徹底的に研究し、そこに若い感性を投じて自分独自のフレージングを考えて演奏しているが、私は彼ら見たいなパッションは持てない。私はまだまだ未熟だ、今はブルーノート・スケールとペンタトニック・スケールからいかに流動的にフレーズを絞り出せるか、其処に重点を置いて考えて居る。まあ、音楽について話して来たけど。結局、言いたいことは、世の中は時代に乗って理詰めで生きる人も居れば、時代に乗らずフィーリングで生きていく人も居ると言う事です。どちらがいいと言う訳でもない、両方ともありだと言う事だ。私は教養は余り無い。勉強が出来た訳では無いし論理だった生き方は苦手だ。だからと言って世俗的な安易な生き方は性に合わない。私は寺山修司、丸山圭三郎の思想に感化せれて居る。そして哲学書をよく読むが、全部が全部わかって居る訳でも無い。所詮、ちょっとしたスノッブなのだ。最後にこれを読んでいる人で子供が居る人に言いたいです。子供はあなたの身代わりでは無いのだ。子供のレールをある程度引いたら、あとは子供の自由にするべきだと思う。。。
1967 寺山修司
【言語学】チョムスキー、生成文法、認知言語学・・・あなたの知らない言語をめぐる研究がここにある!?
ーー真面目ないやらしい話ーー。
今日、訪問看護婦さんが来た。私は何故かネットでいかに猥褻映像が垂れ流しになって居て、一般の女の人が危険なのかを話した。例えば盗撮画像やら、映像。この類はもう、酷い物だ。例えばパンチラとキーワードを入れて観よう。するとパンチラ・サイトの一覧が表示される。そこをクリックすると女性のパンティーを盗撮した画像がわんさと出て来るのだ。何故、この様な事がまかり通って居るのか?それはある意味、必要悪でもあるのだろう。男はみんな観たがるのだ。男のサガです。だから通報者が居ないのだ。こんな事を書くと。皆さんは 私の事をドスケベだと思うだろうけど。それが世の中だ。ポルノ産業は隆盛を何時の時代でも誇って居る。世界で一番古い職業は売春婦だと云う。そして、ポルノ・チックな考え方は一般生活にまで及ぶ。例えばカンカン踊りだ。あれは今や、フランスのお家芸とも言えるが。元は売春婦がスカートの下に何も履かないで、スカートをめくり上げて、足を大股開きで踊ったのが最初だ。18世紀当時、貴族がその娼婦にぞっこんになったそうだ。それが何故かフランス全土に広まりカンカン踊りとなって行ったらしい。政治に色は付き物だ。日本では終戦後に赤線制度を敷いた。
1946年1月、GHQは民主化改革の一環として、日本政府に公娼制度(貸し座敷・娼妓)の廃止を要求し、これに基づき戦前からの取締法令が廃止された。女性を前借金で拘束する人身売買を禁止しようとしたものである。東京では吉原、新宿二丁目などの貸座敷(遊郭)や、玉井(東京都墨田区東向島)、鳩の町(東京都墨田区東向島)などの銘酒屋の看板を変え、飲食店などとして風俗営業許可を取る事になり、娼妓・私娼は女給になった(東京はカフェ、大阪では料亭など、地域によって異なる)。
戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であると云う。終戦後のカストリ雑誌などでは「特飲街」(特殊飲食店街の略)と言う表現が用いられており、「赤線」という言葉が一般的になったのは、区域外への進出や人身売買事件などが大きな問題になった1950年代以降である。
1950年に大田区武蔵新田のカフェ業者が池上に進出しようとして反対運動となり(池上特飲街事件)、参議院厚生・文部・地方行政委員会で鳩の町(墨田区)の業者が「赤線区域内は一軒や二軒建つても大目に見る場合が沢山ある、併し赤線から外へ出ると言う事はいけない」と証言した。1951年は、参議院文部委員会委員が三鷹駅北口付近に形成し始めた八丁歓楽街の現地調査を行っている。また1952年の衆議院行政監察特別委員会で人身売買事件が問題になり、3月4日には厚生事務次官が「赤線区域と申しまするものは無いに越した事はないけれども、今日としてはやむを得ない」と証言し、黙認して居る事を認めた。
東京の場合、カフェらしくするため、1階にはダンスホールやカウンターなどが造られた。働く女性(女給)は2階の部屋に間借りをして居たが、ここが営業場所も兼ねて居た。女性たちは店頭に並び、道行く客に声を掛けて店に誘っており、風紀上も目に余る状態になって居た事は事実である。
赤線廃止
売春防止法(1956制定)の完全施行を控え、1958年3月までに赤線内のカフェなどは一斉に廃業した。店舗は、バーやスナック、ソープランドや料亭などの飲食店に転向するもの、旅館・ラブホテル・公衆浴場・アパート・下宿屋になるもの、密かに風俗営業を続けるものなどさまざまであった。
そして現在。風俗営業は可也の数が営業をして居る。私は1980年代の初頭。渋谷で露天商のおばあさんがエロ雑誌とエロ写真集を売って居て。そこに綺麗な女の子が立って雑誌を眺めて居るので。「あれ?」と思って見て居たら。その子は渋谷のガード下に行き、そこで立って居るのだ。見た目、お嬢さんだった。そして、暫くすると、普通の30歳ぐらいのサラリーマンが声を掛けて、財布から4万円ぐらいを渡すと、手を繋いでラブ・ホテルに消えて行ったのだ。私は当時まだ20歳そこそこ。あれが娼婦か・・・と思った。それから同じく渋谷で、バンドの女の子と初めて会う為に、ハチ公前で、待ち合わせをしたのだが。私は目印にブルース・ハープを持って行くと言って居て、相手は赤い服を着て来るとの事だったので、丁度赤い服とミニスカートを履いた女の子が居たので、その子だろうと思い。ハーモニカを見せた。すると、頷いて私の側まで来て、手を握り、「私が案内するから」と言うのだ。私はなんかおかしいと思い。その子に。待ち合わせの女の子の名で聞いたら。その子は突然冷淡になって「あんたど素人?」と言って居なくなって仕舞ったのだ。要するに娼婦だったのだ。
私は、女性については奥手だ。この年になってもそうだ。学生の頃、結構誘惑はあった、例えば私がバスに乗って居たら。23歳ぐらいの女性が、「ねえ、次で降りない?」と声を掛けて来た。私は咄嗟に言った。「降りないよ」女性は私を見ると「フン!!」と言って降りて行った。そして電車だ。つり革に掴まって揺られて居たら。少し背が高い女の子が私の手の上から握るのだ。そして微笑んで、「降りませんか...。」と言うのだ。私はまたも「降りないよ...。」と言った。するとその子は俯いて足早に次の駅で降りて行った。私は逆ナンパをされて居たのだった。当時私は20歳ぐらい。背はあまり高い方ではないが中肉中背で髪毛は可也な長髪。一度電車に乗って居たら。どこかの美女が私に微笑んで側に来たので、「誰だ?」と思ったら姉さんだった。何故か綺麗なのだ。姉さんのあんなに温和で美しい顔を見た事がなかった。自分で言うとムードぶち壊しだが。姉さんが母に語った事に寄ると、私は一見好青年に見えて、「あいつの嫁は心配要らないわよ。最近いい男になったから。」と言ったそうだ。実際、ライブ・ハウスでギターやら、ハープを演奏すると、結構、女性にモテた。しかしだ。私は浮ついた気持ちにはならなかった。恋人をそんな女の子たちの中から見つけ様とは思わなかった。
私は大学のインドネシア語の授業で一緒になって知り合った。榊原るみに似て居る女の子しか眼中になかった。実際よく出来た子だった。料理は作ってくれるし。バンドのライブなどにも欠かさず見に来てくれて居た。私はその子を愛した。女の人は魅力が色々あるだろうけど。私に取っての女性の魅力は、頭がいい事。そして顔立ちではなく誠実な事だった。それにやさしさだ。私は彼女にその全てを見出して居た。私は結婚を考えて居た。しかし、結婚は出来なかった。理由は皆さんもう知って居ると思う。私は彼女との最後の日に、会う事が出来なかった。彼女は当時深夜ラジオの「男たちの夜かな」に伝言を入れて、日本から居なくなったのだ。その伝言はこうだった。「私はあなたが好きでした。最後に会えなかった事は残念です。どうかお体大切に」私はラジオを聞いて男泣きに泣いた。それ以来。女性には声を掛けた事も無い。今年で私は61歳になる。最早、ジジイだ。今更女の人では無い年です。私は一生独身で死んで行くでしょう。でも私は女性に優しい男だとは思う。男は、「強くなければ生きられないが、優しくなければ意味がない」とフイリップ・マーロウは言う。その通りだと私もそう思う。
話は脱線したが、ネットでの猥褻映像の氾濫だ。今から10数年前にプリクラに集まる女子高生たちのスカートの真下からパンティーを盗撮して居る業者が居た。その業者は可也悪質だった。何しろ床の下にカメラを仕掛けて大掛かりに盗撮をして居るのだ。勿論、女学生たちはそんな事とは夢にも思って居ない。無邪気にプリクラで写真を撮って喜んでいる。そしてそのサイトでは盗撮映像を集めたDVDを売っており。サイトにはサンプル画像が載って居た。
これは犯罪だ。しかし大抵の男どもはこれを黙認して居た。通報者が居ないのだ、誰も、、そしてこんな奇妙な商売もあった。それは17歳から18歳ぐらいの女の子にパンティー写真のモデルに成って貰って、用意した下着を履かせて、ローアングルやら色んなアングルから写真を撮ったものをDVDに収めて売って居るのだ。要するに下着フェチ用だ。これもそのモデルの女の子の顔出しの下着を写した画像がサイトに貼ってあった。モデルの女の子は30万という高級のアルバイト料が貰えるから出演したのだ。皆さんどう思いますか?今時、そのぐらいで驚くなんてと思いますか。それか、なんて猥褻だと声をからげて怒りますか。女性の方は私のこの書いてきた文を読んで眉を潜める方は多いと思います。しかし黙認して仕舞う人も居るでしょう。私は最近の歌手たちのダンスの踊りやら、振り付けを見て居て思います。これって一昔前のストリップだよねと。大体が女の子がガーターを履くことが流行って居るけど。あれは昔は娼婦の格好でした。確かに今は自由だし。流行もあるし、時代も変わりました。若い女の子がミニスカートを履きたくなる気持ちは分かります。勝手1960年代の中頃にツイッギーというイギリスのモデルさんが来日しました。このツイッギーこそ。女の子たちにミニスカートを履かせた女性なのです。
彼女は足がまず綺麗だった。そして体はきゃしゃだった。そんな彼女の来日を機にして、世の女の子たちは皆、ミニスカートを履いたのです。この1968年当時、海外では、ヒッピー・ムーブメント。フラワー・ムーブメント。そしてロックが全盛でした。この時期がまさに文化と音楽が一体化した流行の時代だったのです。勿論、そんな、風潮を嫌う人たちが居ました。ある1970年に製作された日本映画ですが、確か尼さんの映画だったでしょうか。ロックバンドのマネージャーをやって居る女の子が長髪の男どもに囲まれレイプされそうになります。そこを間一髪で尼さんが助け、その女の子に言うのです。泣いて居るその子にこう言いました、。「だから言ったでしょう!!ロックやら、長髪の男なんか汚らしくて最低な無頼漢だって!!」するとその女の子は「私が間違ってました。ロックなんてもう嫌!!長髪の男なぞ、いやらしくて、サイテーだわ。」と言うのです。まあ、当時はそんな認識でしたよ。いまだに長髪は頭の硬い年配の人から嫌われて居ます。しかし今の70代の人たちが若かった頃は、ロックが全盛で、殆んどの人が長髪だったのです。私の家は下宿をやって居たから、大学生が居ましたが、みんな長髪でした。そして皆んなロックを聴いて居ました。私は当時の大学生から影響を受けました。私は小学生なりに自分が大学生になったら長髪にして、マキシを纏うんだと思って居ました・・・。(笑)自分が大学生になったら、長髪はまだブームだったけど。マキシは無くなりました。でも私はマキシでは無いけど、ロング・コートを1着持って居ますよ。マキシ見たいな奴です。そして最近、ヨウジヤマモト のコートだとかを購入しました。夏だから、値が半値だったのですよ。だから私はいまだに長髪にして居ます。いいでは無いですか。個人の勝手ですよ。
働いてた頃。パートで雇ったおばさんが居たのですが。その人がある時に言うのです「行けないんだ!!男は刈り上げなくては行けないんだ!!」私はあまりのバカさ加減に苦笑をして仕舞って言いました。「個人の勝手だろ」すると、そのおばさんは「個人の勝手って、あんた、男は刈り上げないと行けないんだよ」と言い続けました。程度問題です。無知ほど恐ろしい物は無い。世の中にこうしなければいけない何て事は無いのです。日本は民主主義の国です。しかし私はこうも言いたい。戦後アメリカ統治された日本は徹底的な弱体化をされました。日本憲法はアメリカ人が日本が2度と戦争が出来ない様な憲法をたったの3日で作り。日本の憲法としたのです。厳密に言うと実は、アメリカの言いなりにはし無いと言う日本人が一人いて。素案には彼の最小限の抵抗もあるのですが。アメリカの日本弱体化政策に拠って、日本人は勝手の軍国主義から一見民主的な国になりました。私は戦争中の日本軍の行いを美化するつもりは毛頭ありません。日本軍は悪かったのです。中国に侵攻し「満洲国」を作り日本人が実権を握り、支配しようとしたとしか思えません。戦後GHOは徹底してアメリカの負の場面は日本国民に知らせずに。アメリカ・ナイズさせたのです。この呪縛から日本人は逃れられません。憲法を改正しようと言うと左翼がかった人たちは「日本の軍国化だ!!」「安倍は飛んでも無い奴だ!!」と言います。しかしこの憲法を改正しないと、緊張が高まる地域の安全面で二進も三進も行かないのです。現行では平和憲法の条文を残しつつ改正しないとやって行けないと言う事が言われてます。
皆さんは知って居ますか?日本から日本語も漢字も無くなる処だったんですよ。文部省は戦後、言葉を英語に文字をアルファべットに統一しようとさえしたのです。そんな日本文化の危機的状態があったのです。日本人がアメリカ・ナイズされたのは良かったのかも知れません。近代化されたのだから。しかし日本古来の武士道精神。道徳と言う物まで無くして仕舞った。今ネットで女の子のセックス・シーンやらパンティー写真を喜んで見て居る男たち中学生やら高校生、大学生らがまともですか?それは必要悪という事は解ります。正直言って私だって男だから見る時もあります。ただ、酷いのが中にあるのですよ。大体がその女の子の顔写真とパンティー写真とを比べて置いてあるんですよ。その子が変な噂やら言い掛かりを付けられたらどうなるのですか。人権問題だと思いますよ。その殆んどを国が黙認して居るのですから。素人が撮った盗撮写真とアダルト業者がやらせで撮った盗撮写真と区別が付きにくいからだそうです。一時は男が女子高生のパンティーを購入することが流行。法律で女性の下着を取引する事は禁じられました。なんかおかしくありませんか。最近では女の子が自撮りと称して自分のオナニーシーンをカメラに納め金を取って男に配信するなどと言う。最低なことが流行って居ます。最近の若い女の子たちは貞操観念が薄いです。それはそうでしょう。親がポルノを見まくって居るの出すから。そしてなんと女子高生のスカートの丈はまるで小さな布切れの如く短くなって。日本に来日した外国人はパンティー丸見えで歩いて居る女子高生を見て呆れて居ますよ。この間、私は調子が悪いながらもスーパーに買い出しに行きました。そしたら若い男が二人してニヤニヤ道端を見て居るのですよ。私もなんだろと思って観て観たら女子高生がミニスカートなのにお尻を突き出して靴を何か観て居るんですよ。短いミニスカートだから下着がモロ見えでした。それを観て歳を取ったおばあさんが、一言言いましたよ「まあ、まあ、男どもに見られてねぇ。」そして学校の先生の質も落ちて、女生徒と援助交際をします。何もかもが崩壊して居ます。この間私のところに来る訪問看護師の女の子たち2人に言いました。食べ物屋でトイレに入るときは注意をした方が良いと。何故なら、カメラが仕掛けてある場合があるからです。最近は学校で道徳の時間が無い見たいですが。私は道徳観念を学校で教えた方がいいと思いますよ。まあ、最も男子教師がスカートの丈を短いと怒ると「アンタラ男の先生へのサービスよ」と言うらしいです。始末に負えません。。。
それは何も今の流行を今の時代のおしゃれを否定する物ではありません。人間としてどうあるべきかと言う事です。私は今の女の子がミニ・スカートを履きたい気持ちは解ります。ただ、限度と言う物があるのです。外国ではミニ・スカートはもう流行っては居ません。皆んなパンツ・スタイルです(ズボン)。海外では派手なミニ・スカートなどを履いて居たら、襲われますよ。私は長髪にして居ますが。これも、限度があります。私はもう少し伸ばしたらそれでキープしようと思って居ます。私は今風の髪型も否定はしません。若者が横を一部バリカンで刈り上げてその他の部分を長髪にする今の流行もカッコいいではないですか、今風の若者風で。そして一時期のモッズスタイルの様なショートの長髪も若い男性には似合って居ますよね。今風で私はいいと思います。でも、私は反対に封建的すぎる考えの人の思想は排除します。今は自由な時代です。なんかこの間、美容室に行ったら40代の男の美容師さんが、長髪は似合う人と似合わ無い人がいる。と言って居ました。そしてこう言いました「醤油顔は似合わないから長髪は辞めた方が良い。でもkiyasumeさんは良く似合って居ますよ」そして自由とめちゃくちゃを一緒にしないで貰いたい。日本人の女の子は外国では場所と人にも依ると思うけど。「芸者ガール」の認識がいまだに高いのですよ。彼らの言う処の「芸者ガール」とは娼婦です。それは、新しい事は魅力です。しかし新しい事は古い事からしか生まれないのです。思想なり。音楽なり。文学。経済学。ジャズとかブルースやらクラシックなどをきちんと学びましょう。まあ。言いたい事は此処迄です。此処までおかしな奴の言う事を聞いてくれて有難う御座いました。
Paul Butterfield & Mike Bloomfield - Walking by Myself
PAUL BUTTERFIELD'S BETTER DAYS - TOO MANY DRIVERS - (LIVE) 1973
Paul Butterfield Blues Band - Live at Winterland Ballroom - Countryside
〜〜懐かし映画館〜〜
今回は以前に掲載したものの再録です。
「冬の華」です。
さてと、映画です。今回は「冬の華」です。
横浜に本拠を置き関東に勢力を張る暴力団・東竜会幹部の加納秀次は、兄弟分の松岡幸太郎をあの世に送らざるを得なかった。松岡は組を関西連合に吸収させようと画策していたからだ。加納は、松岡殺しの罪により北海道の旭川刑務所で長期の服役を強いられる。
15年後、出所して横浜に帰ってきた加納は、舎弟の南幸吉が用意してくれていた山手の高級マンションに落ち着いた。東竜会に挨拶へ出向いた加納は幹部たちから温かく歓迎されるが、金満振りを誇る彼らの変貌に困惑する。親分の坂田良吉はヤクザ稼業に疲れて絵画の収集と制作に夢中になっており、加納にもシャガールの絵画の良さを説く。幹部たちは高級外車を乗り回してナイトクラブで豪遊するなど、贅沢な暮らしを満喫している。加納に尽くしてくれる南も自動車販売会社を経営し、普段は組と距離を置いていた。加納が世間から隔絶されている間に、彼らから渡世人の面影は消えていた。
一方で、加納は、15年前に殺した松岡の一人娘である洋子のことが気がかりであった。この15年間、加納は南を介して洋子の援助を行っており、自らは、「ブラジルにいるオジさま」として文通をしていた。洋子は全寮制の女子校で学ぶ17歳の高校生になっていた。加納は手紙に出てきた馬車馬の喫茶店「コンチェルト」でチャイコフスキーの『ピアノ・コンチェルト』を聴き、洋子をそっと見守る。
加納は実兄・一郎の忠告もあり、ヤクザの世界から足を洗って木工職人になるつもりでいた。親分の坂田も加納に傘下の組を任せたいとの思いを封印し、堅気になることを黙認していた。
その矢先、坂田はシャガールの絵画の出物があると連れ出され、だまし討ちの形で関西連合に殺されてしまう。坂田の息子で陸上自衛隊幹部の自衛官の坂田道郎は復讐心を燃やす。しかし、生前坂田は息子が堅気の自衛艦であることを慮り、加納に「息子を組の抗争に巻き込ませるな」と遺言していた。
東竜会の構成員たちが坂田の死の真相を調べるうちに、東竜会幹部の山辺による裏切りが判明する。加納は坂田の遺言を守るため、自らが鉄砲玉となって山辺を殺す決心をする。ただ、洋子のことだけが心残りになっていた。加納は、洋子へ「当分日本には帰れない」とだけ電話で伝え、洋子と恋仲になっていた竹田に堅気となって添い遂げるよう約束させる。
加納は、親の仇を取るつもりであった道郎を自宅に留めさせ、山辺を自ら刺し殺す。加納は、再び会うことはかなわない洋子の幸福を願いつつ、15年前の浜辺での出会いを思い出すのであった。
冬の華(プレビュー)
Fuyu no Hana 冬の華
〝冬の華〟高倉健 『昭和ブルース』天知茂
Winter's Flower (1978) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p]
宇宙戦艦ヤマトのイスカンダルへの航海が終わってから3年が経過した、西暦2202年。巨大な白色彗星によって宇宙を進撃する帝星ガトランティスは、女神テレサの力を求めてテレザート星を侵略する。その際、テレサの放ったコスモウェーブが地球へ向かったことを知った大帝ズォーダーは、地球への本格的な侵攻を開始する。
一方、かつての青い姿を取り戻した地球は、ガミラス帝国と和平条約を締結して復興を進めていたが、地球連邦政府は「波動砲艦隊計画」に基づいて建造した新鋭艦アンドロメダをその象徴として軍拡に進みつつあり、その姿勢に古代進をはじめ元ヤマト乗組員たちは疑念を抱いていく。
そして、宇宙の彼方から元ヤマト乗組員たちのもとへテレサのメッセージが届く。また、コスモリバースシステムが地球にもたらした「時間断層」という負の遺産の存在を知って地球連邦政府の方針に憤った古代は、テレザートへ向かうべく反逆覚悟で元ヤマト乗組員たちと共にヤマトを無断発進させる。防衛軍による妨害に遭うもガミラスの交渉によって反逆の汚名をそそがれたヤマトは、ガミラスの地球駐在武官クラウス・キーマンを乗組員に加え、テレザートへの航海に再出発する。
第十一番惑星でのガトランティスとの戦闘や、惑星シュトラバーゼでの古代とズォーダーの邂逅、生きていたデスラーとの再戦、白色彗星との接触などを経ちつつもヤマトはテレザート星に到達し、そこでテレサとの対面を果たす。テレサは、古代アケーリアス文明の遺産たる白色彗星を手に入れたガトランティスが、宇宙のすべての生命を絶とうとしていることを告げる。
その後、太陽系では地球とガトランティスの本格戦闘が開始されるが、白色彗星およびその内部に潜んでいた都市帝国によって地球艦隊は壊走する。太陽系に帰還して都市帝国と相対したヤマトもガトランティスの策略に遭い、都市帝国内部のとある惑星に墜落する。しかし、その惑星はガトランティス発祥の地「ゼムリア」であり、そこでガトランティスとズォーダーの出自、そしてガトランティスを殲滅する安全装置「ゴレム」の存在が明かされる。地球・ガミラス連合艦隊の活動によって都市帝国から脱出したヤマトは修理・応急改装を受け、改めて都市帝国との最終決戦に臨む。
ヤマトは地球圏にて都市帝国を半壊させ、ズォーダーがゴレムを起動してガトランティス人は全滅し、「滅びの箱舟」は地球の破壊に動く。月をも削るその猛威に対し、多大な犠牲を払ったヤマトにもはや抗える手段はなく、敗北を悟った古代は地球人の逃げ延びる時間を稼ごうという自分の考えを悟った雪と2人だけでヤマトを特攻させるが、暴走した波動エンジンを通じてテレサが宿ったことにより、ヤマトは半年後に時間断層から浮上する。時の流れが停滞した高次元世界に生きたまま取り残されていた古代と雪は、やがて時間断層を代価として現れたヤマトと仲間たちに救出され、共に地球へ帰還する。
用語説明
- 波動砲艦隊計画
- 地球連邦が進める軍備拡大路線の中核を成す計画。「波動砲艦隊構想」とも呼ばれる。その名の通り、多数の波動砲搭載艦によって、強大な火力を有する艦隊を編成するというものである。かつてイスカンダルにて沖田とスターシャの間で交わされ、波動砲を封印することとなった「地球イスカンダル和親条約」を、「一艦長の独断による口約束」という理屈で反故にして推し進められている。また、これに伴ってヤマトも戦列復帰が決定し、波動砲の封印が解かれることとなる。旧ヤマト乗組員や土方など、沖田と親交のあった者たちはこの計画に反発・疑問視しているうえ、第17話での芹沢の発言から地球内外でも批判の声は多いことが判明している。
- 時間断層
- コスモリバースシステムによる再生の副作用として、地球に生じた空間。「リバースシンドローム」とも呼ばれる。時間の流れが外の10倍(外部の1日が内部の10日に相当)になっている。普通の人間には身体が耐えられず、生身なら長くても10分、防護服を着用しても1時間程度しか留まれない。
- 「波動砲艦隊計画」の要であり、地球政府はこの空間に大規模な無人軍事工場を建設して迅速に技術を進歩させ、アンドロメダをはじめとする波動砲艦隊を量産している。軍事工場内部では、AIによる分割シミュレーションが行われており、最新データが「銀河」の指揮AI(ブラックアナライザー)に更新されている。さらに、施設の一部使用権をガミラスへ売り、見返りとしてガミラスの一部植民星の権利を譲渡されている。
- 防衛軍はガトランティスとの絶望的な戦力差に、時間断層の生産力で対抗しようとするが、その存在を知ったズォーダーは地球を滅ぼす考えを止め、都市帝国の一部として地球諸共取り込もうと画策する。
- 遊星爆弾症候群
- かつて沖田の身を蝕み、彼の命を奪った病。かつて遊星爆弾がもたらした汚染物質は、コスモリバースシステムによって回復した地球環境に残留していたため、それによって加藤翼を含む新生児たちが二次感染を経て発症し、治療を要している。なお、地球側は月面に医療施設を用意しているが、抜本的な治療法は未だ確立されていない。
- しかし、第18話・第19話において加藤三郎が桂木透子を介してガトランティスと取引を行い、治療薬の製造データがガトランティスから地球へ提供される。
- 古代アケーリアス文明
- 太古に存在した星間文明。知的生物の種を宇宙に蒔き、地球人やガミラス人をはじめとする人類の基礎を築き上げた創造主であると云われている。文明の存在は現在でも遺跡などの形で多く知られており、白色彗星も元々は文明に端を発した破壊装置であるとされている。
- 反波動格子
- 波動エンジンに干渉し、出力を制御する光球状の機構。出力を高めれば、波動エンジンの停止や破壊も可能となる。第8話においてキーマンがカーゼットから受け取り、反ガミラス統治破壊解放軍との戦闘の隙を突いてヤマトの波動エンジンに仕掛けた後、起動される。除去はほぼ不可能であったが、後に真田はこのシステムを利用した「トランジット波動砲」を考案する。
- ゴレム
- ガトランティスに対する安全装置。遥かな昔にゼムリア人によって作られた装置で、ゼムリアの語り部は「滅びの調べを奏でる物」と呼んでいる。起動ないし破壊しようとすれば、ガトランティス人を構成する人造細胞を破壊する歌を奏で、全宇宙のガトランティス人を死滅させることができる。1000年前、ズォーダーも反乱時にこれを押さえたが、破壊することはできなかった。現在は都市帝国の天守閣「大帝玉座の間」に存在しており、最上部にズォーダーが座る玉座が設置されている。
私は初代「宇宙戦艦ヤマト」を1974年からTVシリーズから劇場版まで観てきた人間だ。私が高校生の頃の43年前の話だ。当時はあれが最良の話で面白かった。ところが時代が経ち、勝手のヤマトは古くチンケな話となって仕舞った。同時期にTV放映されてのちに劇場版3部作となった「機動戦士ガンダム」がその後も新作を撮り続け、40年掛かって、「ガンダム・サーガ」と言う歴史物に変貌して行ったのに比べ、「ヤマトはなぁ〜」と言った具合だった。しかしそのヤマトが新作としてリメークされた。そうしたら話が、もの凄く洗練されて哲学的な、現代劇となったのだ。私は「ヤマトか、まあ、ダメだろ・・・」と始め馬鹿にして居たが、最近になって新作のこの「宇宙戦艦ヤマト2202/愛の戦士たち」を見る機会があった。見た感想は、物凄く良かった。感動的なストーリー。緻密な未来設定。迫力ある戦闘シーン。そして人間愛。脚本が1話につき2,3人を擁し、哲学的で文学的なシナリオと、そして補佐の助監督を含める2人の監督での演出と、製作者たちのヤマトへの想いが伝わるものだった。
初代のヤマトでは始め好戦的だったガミラスの総帥「デスラー総統。」しかし新作では「ガミラス」の復興を幼い時から背負い、そして苦悶する指導者として描かれて居る。また、デスラーに離婚されて去って行った妻の忘形見。クラウス・キーマンがガミラス人としてヤマトに乗船して居るのだ。デスラーは苦悩しながら自問する「なぜ戦ったのか、なぜ愛し合えなかったのか・・・。」ヤマトの戦闘隊長には、妻がいる。最後の時にこの男が突入して行く時に、妻が言う「古代さん、あの人の言うことを聞いてやって下さい...。」するとその通信を聞いて居たその男が古代に言うのだ。「古代さんよぉ、俺の女房の言う事は聞かなくちゃダメだぞ、おっかねえからなぁ・・・」そして戦死する。クラウス・キーマンの恋人が彼に言う「あなたは何時もそうだった、自分を殺して人のために尽くして....。あまりにも悲しすぎる。」そしてキーマンは波動エネルギーを積んだ機体を「滅びの方舟」に侵入させて自爆する。それから敵の「大帝ズォーダー」彼は過去に人間に妻子を殺されて、「愛とは何だ」と自問する。彼はそれを確かめるためにクローン技術で妻子を複製させて奥さんをヤマトに民間人として搭乗させる。彼女はヤマトをスパイするが見つかり拘束される。
息子のミルはズォーダーの後継として戦線で指揮官として活躍し、追い詰めたデスラーとキーマンに銃口を向けて、キーマンに言う。「私は人間の愚かさを散々見て来た。人間は何時でも引き金を引いて来た。これは救済なのだ。デスラーを殺せ。そうすれば地球もガミラスも救ってやる」と、デスラーは息子のキーマンに言う「ガミラスの男なら私を殺して全てを掴め。ミルの言う事は真実だ」そこに現れた古代はこれを防ぎ言う。「人間は何時も銃口を引いて来た、しかしそのツケは払わなければならない。何時かは引き金を引かないと言う選択を・・・和平を申し込む」しかしミルは言う。「私は何時の時代もお前の様な事を言う人間を見て来た。しかしダメだ。お前がデスラーを殺せ。」デスラーに銃口を引かない古代を見て、ミルは言う。「何故、引き金を引かない。ならば私がお前たちを救済してやろう」と銃口を向けて引き金を引くが。古代を庇って記憶喪失だった森雪が飛び出して撃たれる。ミルは言う「何故だ、記憶が無いのに、まるで彼を愛して居るが如く・・・」
それに絆されたミルは「どうやら人間には我々が知らない魂と言う物があるのだな」拳銃を古代に渡し、和平を受け入れようとするが、デスラーたちを救いに来た、何も知らないガミラス兵がミルをあっと言う間に撃ち殺して仕舞う。デスラーは一言寂しげに言う。「なんと、愚かな事を...。」ヤマトの土方艦長はズォーダーの奥さんに謝ってエレベーターの中で言う「神が与えたもうたチャンスを我々は失ってしまった。もうどちらかが滅ぶまで戦わないとならない」最後追い詰められたズォーダーが古代に言う「私の息子は2度も人間によって殺された」そして自分を庇って死んだ自分のコピーを抱いて言う「認めよう私も人間だと...。」そして「滅びの方舟」に身を投じ作動させて仕舞う。もはや「滅びの方舟」はありとあらゆるものをエネルギーとして喰い漁り。最後、古代は負傷した雪と共にズタボロに破壊されて波動エンジンが、臨界点に達したヤマトを道連れに滅びの方舟に突っ込んで行く。まあ、ざっと言ってこんなストーリーです、どうですか、旧作より遥かに良いでしょう。まだ見て居ない方は見る事をお勧めします。DVDが第7章まで出て居ます。レンタルででも見て下さいね。下はダイジェストです。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第四章までのダイジェスト
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第六章までのダイジェスト
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第七章上映記念「ヤマトより愛をこめて」真実のラストPV
今回は此処までです。今回は少しまたスケベな文を書いて居ますが、最初に書いた文でしたのでそのまま加筆して掲載しました。笑ってしかし真面に読んでやって下さいね。さてまた更新は遅れますので宜しく。なるべく書く様にはしますがネタがありませんので.......。(この文は今から1年半ほど前に書いた記事に加筆したもので過去記事です。よって、今読むと、少しおかしな処も有るかとは思いますが少しは手直しして居ます。)コメントなど頂けると嬉しいです。宜しくね...。