寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

最近思う事。。。

私のblogを見に来て居て、反感を持つ人も居る様だ。そんな事とは知らず、見に来てくれたのだからとコメントをしたら、大皮肉が書かれて在った。私は万人に好かれる文は書いては居ないし、大した文才も無い。それが幼稚に見える、気に喰わないと言う事らしい。このgooblogは会員同士が皆で仲良く運営して行かなければ成らないと思う。人間だから気に喰わない事もあろう。しかし一々目くじらを立てて、あいつは気に喰わないと言うのはどんなものだろうか?最近、身の廻りの人たち、私の場合、訪問看護師とヘルパーなのだが、何時も来て居る、オバハンのヘルパーが来なくなったので、若い人が来るのだが、一人は、来て早々「ねえ、〇〇さん、幾らお金持って居て、それで何年暮らしたの?」と聞く。そして「10年ぐらい暮らしてるの?持ち金で、お金持ち〜〜」と言う。悪気は無いのだろうけど....

私はこう言った場合、相手に本当の事を言う。すると、もう2度と聞いては来ないからだ。私は言った。「10年前ぐらい前は、3千万持って居ましたよ。」「凄い〜〜。」「でも、そのうち8百万はお袋の入院費や病院通い、それと親父の病院の費用で無くなりました。」「だから残りのお金で暮らして来たのは約8年ぐらいかな・・・」そう言うと黙って居るのだ。全部本当の事だ、そして私はこうも言う、「30代と60代を比べなさんな。60歳ぐらいになれば、そのぐらいの金は持って居る。」それが知りたいのだろう、前に看護師でもそう言う事を聞いて来た子が居た。そして今の様な事を聞かされると、その子の場合は、今、私が贅沢な生活をして居ると言うのだ。私は考えて仕舞った。私は月にほぼ16万で暮らして居る。だからそれ掛ける8年分を計算して見ればいい。1,586万円ぐらいは掛かった勘定になる。今、手元に残って居る金は518万ぐらいだ。此れで2年暮らすつもりだ。月に16万なら充分暮らせる。

皆さんは働いてるじゃないか?月に30万貰えれば、20万生活費に掛かったとしても10万は生活費から貯蓄が出来るだろう・・・子供が居ても、30万あれば何とか成る筈だ。そしてその看護師は言った。「ケーブルTVは私は加入しない。贅沢だ!!」果たして贅沢だろうか?ケーブルTVの使用料金は最近は安い。機器のリース料は、例えば4kチューナ(勿論4kの他に地デジ。BS .CSが見られる)でリース台は900円です。ケーブルTVの4kチューナーは普通のハイビジョンのTVでも使える。その場合4k画像にはならないがハイビジョン画質で普通に見られる。あとテレビ受信料はWOWOWとスターチャンネルが単独で2千円するが、それに加入しなければ、100チャンネルのテレビが見放題で月8千円程だ。そう言ったらその子は、工事費が掛かると言う。工事費は8千円だ。そのぐらいの金の出費はやむ負えまい。8千円が高いと言うのは解るが、自分への投資なのだ、お金が無いなら貯めればいい。その子は月に掛かるお金は払えると言う。初期費用の8千円が高いと加入出来ないで居るのだ。月に30万は給料を貰って居るでは無いか、自分の投資には金はある程度掛かるものです。自分への投資が嫌で視野が広がりますか?確かに金は掛かる、しかし一度だけの事です。

その子はまだいい。問題はヘルパーの人だ。毎回、オバハンは布団を干してくれた。しかしそのヘルパーさんは「布団干すの?」と聞くのだ、此方がいいと言ったらやらない算段だ。そしてその人も聞いて来た。「月に幾らで暮らして居るの?」と。そして私の所有して居るカセットデッキを見て居るので、私が「購入したんだよ。消費税の値上げ前だし、今しか買えないからね」と言うと。「また、どうせ後で壊れるよ」と言うのだ。そして、台所を片付けながら怒り口調になる、私は黙って居ると、要約、普通の口調になった。だから、私は持ち金は確かにあるが、しかし、その金は貯められないのだ。お金は全て生活費で使い切らないと生活保護は受けられない。嫌な話ですよ。貯金は認められないのだから。何遍も言う様だが自分らは働いてお金を稼いで毎月給料が貰えるではないか?何故、金も稼げない障害者の生活にやっかみを入れるんだ。此間も訪問看護師から私が自分の事をやれて居るから凄いと感心されたが、、その人は余程の重症患者を見て居るらしい。確かに私は以前は体調が悪く駄目だったが。でもその看護師は私が太るのは薬のせいだと言って居る。解って居るのだ。

それから最後に、私が障害者だと知った人の中には私を蔑む人も居る様だ。馬鹿にしたいならすればいい。差別したいならすればいい、私は何とも思わない。最近、これもどうかと思う話だが、ある頭がいい、女の人のblogにコメントを書き込んで居たのだが。ある日見に行くと過去記事の文が最新の文の下に表示されてあり。何かおかしいなと思いそれを読んだら。「人の愚痴や意見など聞けるか」と書いてあった。私はその女の人を哀れんだ。そして「もう書き込みはしないから安心する様に」とコメントした。その人は杓子定規なのだ。何でも本に書いてある事柄が全てだと思って居る。本の知識が全てだと思って居る。その人の書く文は確かに知的だ、私などは足元にも及ばない。しかし本当に自分が在って頭がいい人は、そんなに杓子定規な文も書かなければ、理詰めでずっと通そうとは思わないものだ。だからその人のblogには書き込みが殆ど無いし、登録者数も極端に少ない。私はもう書き込むのを辞めた。そしてその人のblogにも行くまいと思う。その人が意固地であればある程、幾らblogを更新しても人は見ないのです。自分で墓穴を掘って居る。。。

Meiko Kaji (梶芽衣子) - あゝブルース

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ーエッセイー

昭和36年頃、私の実家は、長屋だった。その長屋には2軒の家の間取りが繋がってあり、長屋の半分は人に貸して居た。当時は家の脇にどぶが流れ、そこにはどぶ板がしてあった。日本は高度成長期を向かえ、皆んなが一丸となって時代を開こうと暮らして居た。隣の貸した長屋には子連れの男が暮らして居た。庭の真ん中にロープが一本貼ってあって、隣の住居人とはそれで区切られて居た。私は当時3歳ぐらいだった。幾らロープで区切られて居るとはいえ、隣の様子はよく解る。私はいつの間にかロープ越しまで三輪車に乗って行ってしまって居た。するとその隣の住人の男は、「このロープの近くまで来るんじゃねえ、ガキが!!」と言って、私を三輪車ごとひっくり返した。私は毎回泣いて居た。その男の息子は小学校4年生ぐらいだった。しかしその割には幼く見えた。知恵遅れだったのだ。そして庭には池があったが、その子は池の中から金魚を手で捕まえると石で金魚の腹を裂いて殺して喜んで居た。ある日、若かった母は家賃を貰いに隣の男の部屋まで行ったのだが。家賃を払わずその男は「うるせーババア!!」と言って足で母の胸を蹴ってどついた、母は堪らず、すっ飛んで頭を柱にぶつけると頭から血が流れた。それを見て居た近所のおばさんが大変だと近所にある派出所まで息急き切って駆け込んだ。警官が見にきたのだが警官の一人はその男に手錠をかけると暴行傷害罪だと言い。もう一人の警官が倒れて居た母を起こし「大丈夫ですか、奥さん。」と言い。警官を呼びに行ったおばさんがタオルと絆創膏を持って来て、アルコールで傷口を拭くと絆創膏を貼り、そしてタオルで頭を巻いた。警官は無線でパトカーを呼び、男は警官に促されてパトカーに乗ったが、なぜか母の容態を見て居た警官が、「奥さんもどうぞ」と言ってパトカーに乗せて警察署まで連れて行った。私は其の模様を見て居たが不思議と怖くは無かった。まだ本当に幼い子供だったのだ、暫くして母は一人でタクシーで帰って来た。そして其の様子を見届けたおばさんが帰ると、私と姉に向かって母は怒って言い始めた。何でも警察で事情聴取を受けた際に警官に「足で鳩尾を蹴られた」と言ったら、警官は「奥さん。足で蹴られても大した事にはならんのですよ。これで殴られたなら殺人未遂になりますがねぇ」と言って拳を突き上げたそうだ。母は怒りながら食事の支度をし出した。冬だったのでその日の夕飯はおでんだった。父からは電話が掛かって来て、大丈夫か聞いて居た様だった。すると隣から子供の「お腹空いたよ〜」と言う泣き声が聞こえて来た。母は怒りながらもお皿におでんの竹輪部と蒟蒻、大根にツクネを装いお茶碗にご飯を装うとそれをお盆に乗せて隣の部屋まで行って置いて来たのだった。それから10日は経ったであろうか、その男がやつれた顔で帰って来た。どうやら留置所に入れられて居たらしい。帰って来ると、大人しくなり、母に謝りに来た。母はお金が払えないと言う男に「それでは出て行って下さい」と言って居た。男はそれから3日ぐらいしてから知恵遅れの子供を連れて背中に風呂敷を背負い出て行った。私はその中年男が侘しく子供の手を引いて長屋から出て行く様子をただ黙って見て居た。

A day in Tokyo, Japan, in 1963 東京

ニッポン高度成長物語

それから、数年経った。私の実家は最初の2階建ての家になって居た。私はその頃には小学校2年生になろうとして居た。この家は会社で建てた家だった。昭和40年ぐらいはまだ近所の飲み屋街が残って居た。私の家の前には旧環七の青バス通りという道路が通って居た。隣は飲み屋だった。飲み屋と言っても居酒屋ではなく、小さいながらもホステスが数名いるキャバレーだった。私は姉と一緒の部屋に居た。よく朝方早く起きる事があった。なぜなら清掃婦のおばちゃんたちが大勢大きな声で、話しながら歩いて前の青バス通りを通るからだ。その声で目が覚めえるのだ。隣のキャバレーではよく飲んだ客が私の家の玄関に立ちションをして行った。母は毎回怒って居た、何故なら酔った客は、玄関先に置いてある牛乳に向けて小便をするからだ、母が客が立ちションをするのは店にトイレが無いからだと隣のキャバレーのママさんに苦情を言って居た。私は部屋の窓から下を覗き込んで通りを見るのが好きだった。学校に行く前の3時間ぐらい前に目が覚めてしまい外を見る事がよくあったのだ。その頃の私のあだ名は”裕次郎”だった。そうあの国民的大スター、石原裕次郎に子供の頃はそっくりだったのだ。カメラが好きで、父から買って貰った3千円のカメラを持って街中を写して廻って居たのだった。よく歩いて居る人から、「坊主、裕次郎に似てるな〜」と言われる事がよく在った。隣の若いホステスはそんな私をからかった「裕さん、大人になったら私と結婚する〜〜。」「裕ちゃんはまだお母さんがいいんだものねぇ〜〜。」その日は学校が旗日で休みだった。私は何時もの様に通りを眺めて居たのだが、その日午後遅く夕方になってガチャンと言う大きな音が外から聞こえて来た。私は窓を開けると外を見てみた。すると隣のキャバレーのステンドガラスが割れて其の前に包丁を持った男が突っ立って居た。ドアが開いて、キャバレーのママさんがその男に注意しながら走って交番に駆け込んだ。すると警官が4人程、警棒を持って出て来て、男を取り囲んだ。男は何か怒声で叫ぶと一人の警官に切りつけた。警官は腕を切られて言った。「おい、お前、これで警官致傷罪だからな!!」そう言うと他の3人の警官が其の男を一斉に取り囲み、棍棒で物凄い勢いで殴りつけた。男はなおも暴れて居たが腕を切られた警官が男が手に持って居た包丁を叩き落とし、そして男は4人の警官にめちゃくちゃに棍棒で殴られ。其の男も額から少し血を流して居た様だった。警官はなおも殴り続け、棍棒で殴るのをやめてゲンコツで其の男をぶん殴って居た。暫くすると男はぐったりして大人しくなった。そうこう仕手居ると、パトカーがサイレンを鳴らして現場に到着して男を引っ立てて乗せて居なくなった。残った交番の警官がキャバレーのママさんに事情を聞いて居た。聞く処によると隣のキャバレーのホステスに一方的に惚れた男が、袖にされたと因縁を付けたらしかった。私は何故か警察と縁があるみたいだ。私はその事件のあった後も窓から外を見るのが好きだった・・・そしてその実家にはその後30数年間住んで居た。

【懐かしい】オールカラー写真で見る昭和20~30年代の風景と人々の生活【戦後の日本人】

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〜ドキュメンタリー〜

ホームレス青年

富山遺品整理本舗 NHKナビゲーション「現代の“死”を見つめて~遺品整理士が向き合う家族の断絶~」/2017年3月17日放送

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〜懐かし映画劇場〜

ー「駅・ステーション」ー

      
駅 STATION

 

 

駅 STATIONのあらすじ【起】

「1968年1月 直子」

雪の降りしきる銭函駅のホーム。直子と、幼い息子の義高がじゃんけんをして居る。それを英二は、少し離れた場所から見守って居た。

英次と直子は離婚し、別れの日を迎えて居た。列車が動き出し、直子は英次におどけて敬礼をする。しかし、すぐにその目には涙が溢れた。

直子と別れた英次を、札幌署の上司である相馬が迎えに来て居た。相馬は、射撃の五輪代表となった英次のコーチも兼任して居た。署内の食堂で飯を食う英次と相馬。家庭を失った英次に相馬は「お前は馬鹿だ」と言う。

英次の離婚の原因は、警察官と言う苛酷な仕事に加え、五輪の合宿生活が続いて家庭を顧みなかった事もある様だ。ただ、相馬の言葉からは、直子の行動にも非があった事が伺われる。しかし英次は、その相馬の言葉を、「自分は馬鹿ですから」と言う言葉で遮った。

ある日、英次たちの署の管内で警察官が銃撃され、死亡した。車で逃走する犯人を捕らえるため、英次は相馬と共に検問を行う。ところが運悪く、相馬が検問をした車の運転手がその犯人で、相馬は英次の目の前で撃たれ、死亡した。

英次は、警視に対して、相馬の仇を討ちたいので、犯人の捜査に加えてほしいと申し出る。しかし警視は、「日本人全てが、お前の腕に期待して居る」と言って英次の申し出を却下し、五輪に集中するよう諭す。

英次が食堂で仲間と飯を食って居ると、テレビのニュースがマラソン選手・円谷幸吉の自殺を報じた。円谷は、東京五輪のマラソンで銅メダルを獲得し、メキシコ五輪でも期待されて居たが、アキレス腱を痛めて入院して居た。

幸吉の遺書には、家族や関係者に滔々とお礼を述べた後、「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません。何卒、お許しください」と書かれてあった。英次は別れた直子と義高の顔を思い出しながら、家族への思いと、五輪の重圧を同時に背負った幸吉の気持ちを、自分のそれと重ね合わせて居た。

駅 STATIONのあらすじ【承】

「1976年6月 すず子」

この年の夏、英次は妹の冬子の婚礼に出席するため、久しぶりに雄冬に里帰りして居た。メキシコ、ミュンヘンの五輪に参加した後、選手を引退した英次は、コーチとして後進の指導に当たって居た。兄の一郎は、そんな英次の近況を、集まった親類縁者に自慢げに報告する。

別の部屋では、冬子が嫁入りの準備をして居た。冬子は、英次の幼馴染でもある義二と付き合って居たが、結婚する相手は、他人に勧められた見合い相手だった。冬子は、その相手のことを英次に、「北見枝幸に住む男」とだけ説明した。

冬子の婚礼は雄冬の神社で行われ、人の好い義二も、その式にも参加した。式の帰り道、本心では傷心の義二を、英次は慰めて元気づける。景気づけに、昔の仲間たちと母校に行き、校長室に向かって全員で立ち小便をしたところをかつての恩師に見つかり、慌てて逃げ出すのだった。

英次はその頃、赤いミニスカートを穿いた若い女性だけを狙う暴行殺人犯を追って居た。犯行に使われたバイクなどから、増毛駅近くの「風侍食堂」で働く吉松すず子の兄・五郎が、有力な容疑者として浮上した

捜査官は、犯行当日の五郎のアリバイなどを調べるため、すず子に尋問するが、すず子の答えは一向に的を射ない。周囲の話では、すず子は実は精神遅滞ではないかとの事だった。

英次がすず子の張り込みで札幌の本署を離れて居る間、札幌の本署では、英次のコーチ解任の動きが進んで居た。上からの命令ではなく、選手たちが英次の指導に不満を持って居るとの事であった。その後、英次は上司から正式に、オリンピック強化チームのコーチを外れ、新設する狙撃専門班の責任者になってほしいという依頼を受ける。

英次は、増毛のバーでチンピラの雪夫とその仲間から絡まれ、逆に彼らをまとめて殴り倒す。後日、英次が刑事だと知った雪夫は、吉松五郎の逮捕に協力すると申し出る。雪夫はすず子と付き合っており、すず子は妊娠して居たが、結局お腹の子は堕してしまう。

雪夫は、すず子の兄である五郎に挨拶をしたいと鈴子に持ちかけ、すず子はそれを承諾する。すず子と雪夫は、電車で五郎との待ち合わせ場所の上砂川駅に向かい、英次たち捜査班は、それを尾行した。

上砂川駅で五郎を待つ、すず子と雪夫。しかし、午後になり、夕方になっても五郎は現れない。ついに夜になった。線路の上を歩いてくる人影。それを見たすず子が、「兄ちゃん!」と叫んで駆け寄る。男は五郎だった。すず子は五郎にしがみつき、泣きながら「兄ちゃん!」と叫び続ける。五郎は周囲を警戒する。刑事たちが一斉に現れて五郎を包囲し、ついに彼を逮捕した。

すず子は、精神遅滞を装って、張り込みの警察官たちを欺いて来たのだった。

 

駅 STATIONのあらすじ【転】

「1979年12月 桐子」

札幌市内のオフィスに、銃を持った犯人が立てこもった。警察は犯人の母親を呼び、母親は拡声器で息子に犯行をやめるよう呼びかける。しかし犯人は、人質を射殺して窓から落とし、包囲する警官隊への銃撃もやめなかった。

食料を要求する犯人に対し、英次はラーメン屋に扮して出前を届ける。犯人に接触した英次は、出前箱の蓋の裏に隠した拳銃で、犯人2人を射殺する。かつて犯人に撃たれて死んだ英次の上司・相馬は、競技で的を撃つ事と人を撃つことは違うと言って居たが、英次は確実に犯人を撃ち殺した。

事件は解決したが、「警察の人殺し!」と叫ぶ犯人の母親を見て、英次の心は重くなる。ちょうど英次の母・昌代と同じくらいの年恰好だった。クリスマスを祝うネオンが華やかな札幌の街を歩く英次の胸に、「警察の人殺し!」と言う言葉が何度も去来する。

宿舎に戻った英次のもとに、旭川刑務所にいる吉松五郎から手紙が届いて居た。手紙には、ていねいな文面で、英次の差し入れに対するお礼や、死刑が確定したことの報告が綴られて居た。この手紙を英次が読む頃には、五郎の刑は執行されて、五郎はすでにこの世にいない、とも書かれて居た。

手紙の最後には、五郎の辞世の句が残されていた。「暗闇の彼方に残る一点を 今 駅舎の灯と信じつつ行く」。日付は昭和54年12月20日となって居た。

英次は年末年始を故郷の雄冬で過ごすため、帰省の列車の中にいた。まだ国道231号線が開通する前で、札幌から「陸の孤島」と言われた雄冬へ行くには、留萌を経由して増毛へ行き、そこから連絡船に乗らなければならない。

増毛は、すず子の働く食堂「風待食堂」のある町だ。英次は列車の中で、五郎の手紙と、4年前、五郎が逮捕された時の情景を心に思い浮かべて居た。

列車の中で、英次は隣の乗客にもたれて眠りこけてしまう。そして、夢の中で「警察の人殺し!」と叫ぶ犯人の母親の叫びを聞き、驚いて目を覚ます。

増毛駅に降りた英次だったが、悪天候のため、連絡船は欠航して居た。仕方なく英次は、風待食堂の向かいにあるホテルに宿泊する。帰省が遅れることを伝える英次を、電話の向こうで母の昌代はなじる。

英次は風待食堂に立ち寄った。すず子はまだそこで働いて居た。4年前に見たときよりも大人びており、話し方もしっかりして居た。五郎を逮捕するまで英次はずっと陰で張り込みをして居た為、すず子は英次の顔を知らない。

ホテルに戻り、窓から外を見ると、すず子が店の前で雪かきをして居た。通り過ぎる町の人と会話するすず子は、一見、明るく生きて居る様に見えるが、どことなく暗い影をひきずって居る。

英次は雪の降りしきる中、五郎の墓参りに行く。そして、立てられたばかりの真新しい墓に花を供え、静かに手を合わせる。

その夜、手持ち無沙汰の英次は、増毛の町の中を歩いているうちに「桐子」という小料理屋を見つけ、そこに入る。年の瀬で、客は1人も居なかった。明るく話しかける桐子と、英次はすぐに打ち解けた。

英次は増毛駅に降り立った時、桐子が誰かを待っている姿を見かけて居た。一度見た人物の特徴を記憶して居るのは職業柄だが、「一遍見たら、いい女は忘れない」と冗談を言い、桐子を喜ばせる。

テレビから八代亜紀の「舟歌」が流れていた。桐子はこの歌が大好きだといって口ずさむ。無口な英次に対し、桐子はさまざまな話をする。例えば、暮れから正月にかけて、自殺する水商売の女が多い。なぜなら、男が国に帰るからだと言う。どんな遊び人の男でも、この時期必ず国に帰る。それが水商売の女の心を寂しくさせる。

桐子は、明日も連絡船が欠航だったら、映画を見に行かないかと英次を誘う。翌日、船は出ず、英次と桐子は2人で留萌へ行き、映画を見た。すっかり親密になった2人は、連れ込み宿に入る。宿を出るとき、自分は大きな声を出さなかったかと尋ねる桐子に、英次は気を遣って「いや」と答えるが、桐子が先に部屋を出た後で、「樺太まで聞こえるかと思ったぜ」と呟いた。

増毛に戻った英次と桐子の前を、小さな子供を抱いた雪夫が、仲間と賑やかに話をしながら通り過ぎて行く。ちょうど出前帰りのすず子がやって来て、雪夫と遭遇する。「久しぶりだな。まだこの店で働いているのか」と声をかける雪夫だったが、すず子は返事もせずに雪夫に背を向ける。英次は、やるせない思いでその光景を見て居た。

桐子と別れ、ホテルの部屋に戻った英次は、桐子から仕事を聞かれた時の事を思い出して居た。桐子は、英次の仕事は山関係で、営林署に務めて居ると言った。英次はそれに合わせ、自分は営林署の役人だと言う事にしておいた。

さらに回想は続き、英次は材木の採集現場で犯人を逮捕した時の事を思い出して居た。英次は後輩警官の三竹と車の中で、林業業者を装う犯人が戻って来るのを待って居た。三竹は、かつて英次と共にオリンピックを目指して練習していた仲間で、あの頃が懐かしいと言った。

その一方で三竹は、「あの練習は、こうして人撃ちマシンになる為だったんでしょうかね」という、辛い質問を英次にぶつけた。そして、本気で刑事を辞めようと考えて居る事を、英次に打ち明けた。

犯人が材木を乗せた馬ぞりを引いて戻って来た。英次を制して、三竹は犯人の元に向かう。そして、逮捕状を見せる三竹に、犯人は、この仕事を終えるまで逮捕を少し待ってほしいと頼む。三竹が犯人の要求を聞き、気を許した隙をついて、犯人は三竹の肩に斧を振り下ろす。

肩から大量の血を噴き出して倒れる三竹。その三竹の腰から拳銃を奪い取り、とどめを刺そうとする犯人に向かって、英次は発砲する。英次の銃弾は、離れた距離から正確に犯人の胸を撃ち抜いた。

突然電話が鳴り、英次はふと現実に立ち返る。電話の主は桐子だった。店を開けているので、一緒に紅白歌合戦を見ないかと言う誘いだった。英次は店に行き、桐子と2人だけの大晦日を過ごす。紅白歌合戦も終盤を迎え、八代亜紀が桐子の好きな「舟歌」を歌い始めた。

桐子は、英次を初詣に誘う。新年の早朝、地元の人たちで賑わう近所の神社に行き、2人は手を合わせる。その帰り道、桐子はすれ違った1人の男に目を止める。英次は気をきかせて桐子をそこに残し、先にホテルへ戻った。

年が明けてようやく連絡船が運航し、英次は雄冬の実家に戻った。母の昌代は認知症気味で、直近のことをすぐ忘れてしまうが、昔のことは覚えて居て、英次に10年以上前のオリンピックの話などをした。

妹の冬子は子供を連れて来て居た。昌代から貰ったお年玉を見せる息子に、冬子は「隠しておきなさい、またくれるかもよ」と言って笑った。昌代が直近の出来事をすぐに忘れて仕舞うからだ。

英次は昔の仲間たちと酒を酌み交わし、警察官を辞めようと考えて居る事を、始めて他人に打ち明ける。その夜は、色々なな事が英次の胸を去来し、なかなか寝付けなかった。そんな英次に、弟の道夫が声をかける。道夫は英次に内緒で、直子に会ったと言う。

道夫の話では、直子は池袋のバーでホステスとして働いて居る。義高は成長して、身長が170㎝以上にもなり、バスケットの選手をして居ると言う。英次の胸に、別れた時の2人の表情が蘇る。

翌日、道夫が教えてくれた電話番号に英次は電話を掛けた。直子が電話に出た。10数年ぶりの直子との会話だったが、口下手な英次は、いまだに警察官を続けて居る事など、たわいもない話をするのだった。

短い休暇が終わり、英次は帰りの連絡船に乗った。昌代が1人で英次を見送りに来た。船が出航し、昌代に家に戻るよう叫ぶ英次だったが、昌代は海風に飛ばされそうになりながら、いつまでも英次に手を振って居た。

 

駅 STATIONの結末・ラスト(ネタバレ)

雄冬から増毛に戻ると、桐子が迎えに来ていた。桐子は札幌に向かう列車を待つ英次を見送る。一緒に来てもいいんだぜ、と言う英次の誘いを、桐子は「私、しつこくないから」と言って断る。しかし、英次が仕事を辞めて雄冬に戻ると話すと、嬉しそうな表情を見せた。

留萌駅に着いた英次は、警官から職務質問を受け、増毛でパトロール中の警官が何者かに襲われ、拳銃を奪われた事を知る。さらに警官たちは、かつて上司の相馬を射殺した指名手配犯「指名22号」こと森岡茂についてのタレコミがあったと話していた。タレコミの主は女だった。

英次は、桐子が増毛駅の壁に貼ってある指名手配犯の似顔絵に目を止めたことが気になって居た。そして、初詣の時に見かけた、桐子の知り合いと思われる人物。胸騒ぎを感じ、増毛に引き返そうとする英次だが、思い留まって札幌に向かった。

その後、増毛に集まってくるパトカーの中の1台に、英次は居た。英次は他の警察官と離れ、1人桐子の店に向かう。店は留守で、英次は近所の人に聞いて桐子のアパートにたどり着く。

桐子のアパートを訪れると、そこには英次の予想通り、森岡がいた。拳銃を取り出し、銃口を英次に向ける森岡だったが、英次の放った銃弾が一瞬早く、森岡の胸を貫いた。森岡は絶命、桐子は冷ややかな目で英次を見て、「そう言う事か」と呟く。

札幌に戻る前、英次は桐子の店を訪ねた。テレビからは八代亜紀の「舟歌」が流れており、桐子は英次に背を向けてテレビに見入って居た。その頬には涙が伝わり、永遠に英次に話し掛ける事はなかった。

英次は増毛駅の待合室で、胸にしまっていた辞職願を破り、駅のストーブに放り込む。そして、札幌方面に向かう列車に乗った。同じ列車に、すず子も乗り込んだ。これから札幌に出て働くのだと、駅員に話していた。駅員は、「寂しくなるなあ」と何度も繰り返して、すず子を見送った。

 
[TRAILER] Station (Eki) (1981)
 
 
『駅 STATION』
 
メキシコ五輪強化選手に選ばれた刑事が、検問中にコーチでもある先輩を射殺されるというショッキングな事件を幕開けに、10数年の人生を描くドラマ

任侠路線からの脱却を果たした高倉健が、その人気を確固たるものにした代表作
「幸福の黄色いハンカチ」「遥かなる山の呼び声」に次いで共演となった倍賞千恵子との息もピタリとはまって、すがるように幸せを求め合う男と女の薄幸な佇まいは胸を打つ。

久方ぶりに見ると、高倉・倍賞・いしだあゆみばかりか、池部良や平田昭彦、藤木悠だの北林谷栄だの、まあ贅沢なキャスティングに驚きました。根津甚八の若々しい姿にも、胸が熱くなります

声高にせずカメラは暴れず、見る側を物語の舞台へ寄り添わせる力のある映画でした

幸せになりたい、幸せになろう
そうもがく大人の男と女の、切ない物語です
 
 

余韻のないものは映画とは言えない。
そんなものを始めに教えてくれたのは、降旗康男という監督だった。

「100点ではなく、70点の映画を目指して来た」

と言う彼の作家性の原点は、何処にあったのだろうか?

 

ヒトラーが総統になり、ボニー&クライドが射殺された年に長野の松本市で生まれた彼は、昭和の日本人の心を見つめ続けてきた、知る人ぞ知る、まさに天才。映画に携わる者すべての憧れの存在であり、ものの伝え方の教科書を提示して下さった彼の撮影現場を見学する夢は遂に敵わなかったが、令和という新時代を迎えた2019年5月20日にひっそりと逝去された彼を偲び、改めてその数々の名作を見漁ってみたが、正直、まったくお手上げだ。。

 

孤独な男の哀愁?情緒的な質感の間合い?

それを『北の国から』の倉本聰の脚本が支え、『劒岳』の木村大作のダイナミックな画とダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童のインストが彩って居たとしても、、

そんなチープな寸評は、彼の作品の前ではどれも無意味だろう。降旗康男という監督が創り上げてきた映画は、言わば、一つの時代だ。芸術的な黒澤作品でも哲学的な小津映画でもなく、彼が追い求めて来たのはひっそりと時代の裂け目に取り残されてきた人間達の悲哀。

 つまり演歌の世界そのものだ。

 名優高倉健さんが任侠路線から脱皮で来たのも、木村大作氏、佐々部清氏らが各々に監督としてその才能を開花させて行ったのも、その緻密で繊細でありながら、あまりにも大きな度量で不器用な映画人の魂を受け止め続けてくれたからだった様な気がしてくる。そんな彼が残してくれた日本人の情緒を少しでも次世代に語り継ぐ為にも、僭越ながらその代表作を少しだけ紹介させて頂きたい

 

―――1968年1月。
雪が降りしきる銭函駅のホームで、栄次は妻の直子と4歳になる息子義高と別れる。
時代は、東京オリンピックで活躍した円谷幸吉の自殺のニュースが報じられ、札幌市内では警察官の連続射殺事件が起きていた。
英次は上司の相馬から次のオリンピックの射撃選手になる要請を受け、その過酷な仕事と合宿生活の日々に追われていくが、円谷が自殺の前に呟いた「これ以上走れない・・・」と言う言葉は、彼の心の奥に深く突き刺さっていた・・

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 昭和の人間賛歌

とは言え、彼の手掛けてきた名作はどれも唸ってしまう。

『夜叉』にはやくざ者の男の寂しさが十二分に伺えるし、『鉄道員(ぽっぽや)』には定年を間近に控えた男の垣間見る夢が溢れているし、『居酒屋長治』じゃ報われない悲恋の恋の激しさが痛い程伝わって来る。

 

彼の作品の秀逸さは、現代のそれとどれも大きく違う。

 

反戦主義、非暴力の根っこをしっかり据えながらも、命の愛おしさ、引いては他人を思いやる意識が主人公の内に必ず滲んで居る。その作風が、一番伝わりやすいのがこの映画だろう。“駅”という場所の存在定義は今も昔も変わらない。

 

つまり、人々がすれ違うこの場所を軸に添えたその人間模様は、孤独だがしっかり寄り添い合って居た頃の日本人の心の機微を深く抉り取っている。射撃の腕は一流だが、その自分の存在意義に疑問を感じ続ける警察官と、彼の束の間の時を通り過ぎていく3人の女。一人は別れゆく妻、一人は通り魔の兄を持つ妹、一人は「舟唄」の好きな居酒屋の女。


誰を取手見ても、日本海の荒波と寂し気な演歌の音色が聴こえて来そうだが、そのそれぞれが潜める純情が、戦後の荒波の中で忍ばせてきた日本人の心だ。情報が増えすぎた現代で、思いは募らない。


きっと便利さの名の元に、我慢をする文化そのものが無くなって行ったからだろう。

 そしてメディアから流布される曖昧な正義の定義づけのおかげで、拠り所もないままの自分達は、相手を思う想像力を確実に失いつつある。降旗組の作品を見ると、自分達が映画に求める事がだいぶ変容してきた事にきっと気付くだろう。彼の創り上げた悲劇や喜劇の中に、説明は要らない。それは登場する人物のすべてに、しっかりと人間賛歌が忍ばせてあるからだ。

 律儀で照れ屋、それでいて社会の歪みに違和感を覚え集まってくる者達を懐深く迎え入れ続けてくれた稀代の名匠監督は、欧米諸国の個人主義に飲み込まれていく令和世代の若者たちを、今、天国からどのような気持ちで見守ってくれて居るのだろうか?

 

「駅 STATION

コメント一覧

kiyasume
みゃー大工さん。有難う御座います。
此処の処、引越し業者に、貴重なミュージシャンの映像を焼いた、
DVDとか盗まれて居て、がっかりして居るのですよ・・・・・

確かにネットでは色んな人が色んな事を言って居ます。
ただ一部には意固地になって居る人も居る様で・・・・・

人の話が聞けないと言う人も居る様ですね
それと訪看さんとヘルパーさんには人の暮らしは余り気にするな
と言いたいですよ.....

そうですね、元気を出して行こうかな、、

書き込み有難う御座いました。。。
miyakuraiyumi
今現在リアルで話している人、その事業所だけが全ての世界ではないし、
ネットのその方が全ての意見でもない。価値観はそれぞれ違う。
私はついていけないけど、kiyasume様の知識は羨ましいですよ。さぁ、元気を出して!!
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