今日は松沢病院に行って来た。歯科に掛かったのです。午後2時からの診察だったけど、少し早めに出掛けた。雨が降って来そうだったからです☔️。それと、通りにある店屋を写真に収める為にです、だから写真を撮ったのです。その為にゆっくり歩いて行ったので、腰は痛くは成りませんでした。。。😕
■現地の解説板より「将軍池と加藤山の由来」
この池と築山は、都立松沢病院(大正8年に、東京府巣鴨病院が旧東京府小石川区巣鴨駕篭町からこの地に移転し、東京府立松澤病院となりました)の第五代院長呉秀三のもと、加藤普佐次郎医師、前田則三看護師及び多くの患者によって、屋外作業療法の一環として造られたものです。大正10年7月から造園作業に着手し、翌年には約8割の工事を終えましたが、完成間近の大正12年9月1日の関東大震災により、築山は、当初の富士山型が崩れ、現在のなだらかな形になりました。その後、造園作業は再開され、園芸家堀切三郎の指導により、あずまやを配置するなどして、大正15年に完成しました。
この将軍池と加藤山 は、原田治郎の英文の著書「日本の庭園 」JAPANESE GARDENSによって、精神障がい者の造ったすばらしい庭園として広く世界に紹介されました。
将軍池の名は、作業に参加した患者で自称「将軍」葦原金次郎にちなんだものです。また、加藤山の名は作業を指導した加藤普佐次郎医師に由来しています。
「注意」将軍池と加藤山の周囲は病院の敷地のため、立入りはできません。
東京都立松沢病院
そして、帰りに何時も、病院に来たときに寄る、東秀で食事をしました。回鍋肉定食を食べました。注文は呼び鈴を押すとウエイトレスが聞きに来ますが。最近、人件費の問題やら人手不足なのでしょうね。ロボットが食事を運んで来ました・・・・・・。最近は外食を余り仕無いものですから驚きです・・・・・・。(๑>◡<๑)
【衝撃】昭和40年代に青春してた美女200人 おばあちゃん達の若い頃。当時20歳の方は今は70代後半。(聴覚障害者の方でも見られます。字幕が出ますからね。)
以前にドキュメンタリー番組で「眠った服の活かし方」と言う番組を見ました。古着屋の話です。私は此処の処、洋服を、買い込んで居ますが。古着屋で購入した事はまだ2度しかありません。今後の課題ですね。大体が服は最近はネットで購入して居ます。私が贔屓にしているインターネット・ブティックの2店舗を紹介しますね。
https://www.rakuten.ne.jp/gold/sshk/ 「HK」
https://www.rakuten.co.jp/akuse-one/ 「アクセONE」
私は殆んど。この2店舗とあと、UNIQLO、GU、あとはAmazonで、間に合わせています。まあ、私の年齢で言ったら、若者向けの服ではあるのだけども。私の持論は「歳を取ってもジジ臭い服は着ない」と言うのがモットーですから..。
私の服の基盤は1970年代ファッションにあります。最近では1970年代ファッションが、また流行って居るそうですが。私はそうです。だから冬のコートのマキシも持って居ます。私は子供の頃の原体験があります。それは家が下宿屋をして居た為に、学生の服装を見て来た事です。私は1970年代に小学校の高学年から大学までを過ごしました。1970年代は長髪に、長いコート。そしてデニム・ジャケット。ミリタリー・ファッション。柄物のジャケット。柄物のシャツ。パンタロンなどが流行りましたよね。
今はどうですか?殆んどその服装はありますよね。パンタロンは流行って居ませんが、履いている人も稀に居ますよ。今は新しい服のデザインは、あまり突拍子の無い物は無く。過去のデザインを、今風に少しアレンジして出して居ますよね。なんでも最近の若者は、おばあちゃんたちが若い頃に流行った服などを、古着屋で見つけては。その服を過去のものとは見ずに、今の時代にも通用するものとして認識をして着て居る様です。私の処に来るへルパーのオバハンが、お年寄りが最近の若者は私らの若い頃の様な格好をして居ると驚いて居たと言って居ますが。UNIQLOなどの若い女の子の服を見て居ても、あのデザインは大正時代の服装からヒントを得て居るなと思われる服なりパンツがありますね。新しい服のデザインですら、大正浪漫の影響を受けて今風にアレンジした服なのですから。昔の服をそっくり今の時代に着ても可笑しく無い訳です。だから古着の需要がある訳ですし。古着はデザインがカッコイイ物でも定価の半額で買えますよね。古着は良いですよ。大いに関心があります。
【古着】げんじconverseの神ジャケットを購入!?安いのにかっこいい!!
【アニ散歩|高円寺】取材NGの古着屋でモザイク越しに見つけたコート
先ほど挙げた2店舗のブティックから購入した上着。(ジャケット)2千円台から4千円台ですよ。安かったです。品物もいいですしね。。。
ーファッションの歴史ー
・1950年代
私はこの年代の最後の年に生まれました。
1945年に第二次世界大戦が終わったので、まだその影響も残っているような時代ですね。ではこの時代のメンズファッションの流行を追いましょう。
・ボールド・ルックスーツ
写真古っ!(笑)
アメリカでは1940年代〜50年代ぐらいに流行ったスーツで、戦後の物資不足の日本に当時のアメリカが衣料品を支給したことから、必然的に多くの人に着られるようになったそうです。
とにかく肩パッドを倍プッシュぐらいの勢いで詰めて、身幅は大きく、ズボンもかなりゆったりで、体を大きく見せるというのが当時のトレンドだったようです。
体がデカい=男らしい=モテると言う価値観の時代だったんでしょうね。
この辺りは時代の価値観の変化を感じさせられます。今の時代ではありえないデザインですが、逆にコレを現代っぽく着こなせる人が居れば、可成りの上級者ですね。
・ロカビリー族
1958年に開催された「日劇ウエスタン・カーニバル」と言うのが発祥のようですが、その前ぐらいにプレスリーが売れてたりするので、その影響が大きいと個人的には思ってます。
コーディネートとしては、とにかく革ジャン!ブーツ!黒のパンツ!と言う、現代でいうバイカースタイルですね。今では革ジャンはシャツやカットソーに合わせてキレイ目に着る感じですが、この頃はコテコテなスタイルがイケてたんでしょうね。
パンツはマンボズボンと言うもので、腰やお尻の部分がゆったりしていて、足先になるにつれてテーパードがかかるような今でいうサルエルパンツのようなシルエットのパンツがローラー族にはマストアイテムだったようです。
今でもスナップで見かけますが、ルーツはコレだったんですね!
・アロハシャツ
石原慎太郎の「太陽の季節」と言う小説から、太陽族と言う(今で言うギャル男?)が流行り、その太陽族のマストアイテムがアロハシャツだったようです。
当時は太陽族=ヤンチャしてる人と言う認識だったらしく、写真を探してたらこんな画像が出てきました。(笑)
もうね、キャッチコピーが反則。(〜〜;
時代ですね・・・。
この頃はファッションが中心となって文化が生まれたと言うより、文化が中心となり、その文化や思想を体現するかたちでファッションに落とし込まれると言う事が多いですね。戦後と言うこともあり、毎日を生きていくと言うことに皆必死だった時代なので、ファッションと言う部分に視点がいかなかったのかも知れません。
・1960年代
テレビがカラーになったり、オリコンが出来たりと、現代に繋がる文化がこの時代から結構登場して来る見たいですね。また、週刊少年ジャンプが創刊されたのもこの時代です。
・ヒッピー
このスタイルは今でもありますね。
芸能人であればSuper flyがよくこのスタイルをしています。
発祥は1960年代にアメリカの若者の間で生まれたムーブメントで、自然と愛と平和と自由とセックスを愛しているとの事。
ようするになんでもアリってことですよね。(笑)
ヒッピーのファッションはフォークロア・ファッションとも言われ、フォークロアと言うのは「民族・民間伝承」と言う意味で、ファッションの場合は民族っぽいスタイルの事を指します。
特徴としてはフリンジ付きのアイテムや、ベルボトムのデニム、民族柄のアイテムがフォークロアなアイテムと言う事になります。現代では、フォークロアな感じを出しつつもキレイ目なコーディネートにするのが主流のようです。
ヒッピー文化発祥の地!HAIGHT&ASHBURY(ヘイトアンドアシュブリー)
1970年代ファッションは2015春夏のトレンド
・モッズ
モッズと言うのは1960年代にイギリスで流行した音楽をベースとしたファッションで、個人的に日本ではBeatlesの流行と共に広まった感じがします。モッズファッションにはいくつかポイントとなるアイテムがあります。
1.モッズスーツ
三つボタンの細身のスーツです。
Vゾーンが狭くて細いので、全体がシャープに見えます。
最近ではバンドBOWDIES等のBeatlesリスペクトなバンドマンが着てる印象ですね。
私はDiorやJuliusなどのVゾーンが広いジャケットが余り好きなのでは無いので、こっちの方が着るのが好きですが、60年代の音楽好きの方はこのスーツで決まりですね!
・モッズコート
ご存知モッズコートです。
正式にはM51ですね。
モッズコートがモッズの間で流行となったのは諸説あり、大量のデッドストックものがアメリカからイギリスにわたって普及した説や、当時のモッズ達のメインの移動手段がスクーターだった事から、前述のモッズスーツが汚れるのを嫌い、全身を覆えるモッズコートが普及したなんて説もあります。
ただ、その時々のムーブメントなんて、正直「なんかカッコよかったから」見たいなのが理由じゃないの?と私は勝手に思ってるんですが、実際のところはどうなんでしょうね。
モッズファッションを極めるブティックFAB CHICがかっこよすぎる
street, sound and style (7):モッズと2TONE
・アイビールック
1950年代に今や超名門と知られるハーバード大学等の間で結成されたフットボールの連盟があり、そこに所属してた人たちが来ていたファッション、それがアイビー・ルックです。
流行の発端となった若者たちが超絶名門なことから、品の良いコーディネートが多く、アイビー・ルックにマストなアイテムはブレザー・シャツ・チノパンです。
キレイ目が主流な現代でもよく見る組み合わせですが、一つ一つのアイテムはきっちり決まってるようです。
・紺ブレ
紺のブレザー、略して紺ブレ。
学生時代に制服として着た人も多いと思います。
このアイテムひとつだけでも、全体がキレイ目になりますよね。
品良く見えるので、アイビー・ルックには欠かせないアイテムです。
IVY
紺ブレが女子ウケ抜群の理由「制服っぽ い」正統派からトレンドな着こなしまで | B.R. Fashion College Lesson.146 メタルボタンジャケット
・ボタンダウンシャツ
ボタンダウンシャツはアメリカのブランド、ブルックス・ブラザーズが発祥で、学生が競技を行う際に、襟が邪魔にならないよう、ボタンで止めていたものを量産して売ったことがボタンダウンシャツの始まりです。
僕もよくボタンダウンシャツを着ますが、襟元をボタンで止める仕様で、首元にさりげなくアクセントを付けられるんですよね。
ネクタイ+ジャケットのスタイルでも、襟が開かずにキッチリしたスタイルになるので重宝してます。
1960年代のファッションは、現代のコーディネートにも使われるアイテムが登場して来てますね。アイテムの組み合わせこそ違えど、この頃にはほぼ現代のコーディネートの基礎が固まってるとも言えます。
また、音楽や思想がファッションに影響すると言うのもこの時代からで、UKロックの有名所が中心となって発信されたファッション文化の影響は大きいと思います!
・1970年代
1970年代はさらにアメリカ等、欧米諸国の影響を受けていきます。その中で「イッセイミヤケ」等のファッションデザイナーが誕生して来ました。
また、ananやnon-noが生まれたのもこの年代ですね。意外と創刊が古い事に驚きでした。
日本では主にカジュアル路線のファッションが流行します。これも海外からの影響なのでしょうね。
ではどう言ったアイテムが流行ったか見ていきましょう。
・フィッシャーマンズ・セーター
別名アランセーターとも言い、縄編みの柄が見えるように編まれたセーターで、一般的には白が多いですよね。
その発祥はアイルランドのアラン諸島なので、アランセーターと呼ばれています。
今でもこの島ではアランセーターが製造されてるようで、いつか行って本物を着て見たいですよね。
日本で流行した切っ掛けは諸説あり、某ブランドが売りだしたとか、雑誌が切っ掛けとか色々言われてますが、ほんとのほんとのところは不明なようです。
・トンボめがね
男女5人兄弟のグループ、フィンガー5が歌謡界に一台ムーブメントを起こしていた際に、メンバーのアキラが好んで着けていた事から、一気に流行しました。トンボの目のように、顔の半分が隠れるぐらい大きなレンズが特徴で、小顔効果のあるサングラスですね。
当時の映像を見ると、一般の方もトンボめがねを掛けている事が多く、私の友達もフィンガー5に絵真似してトンボめがねを掛けて居ました、学生時代にクラス全員がトンボめがねをつけて遠足に行った事もありました。
今で言う所のEXILE系のように、当時は相当流行ってたんですね。
・ベルボトム
膝から裾にいくにつれて広がりをみせるシルエットのパンツの事を言います。
ベルボトムは足を長く見せる効果があり、2000年台は殆んど見かけませんでしたが、2015年から70sリバイバルがキテるようです。(笑)
ただ現代的な着こなしでいくと、海外セレブを見ている感じ、70年代よりも裾先の広がりを抑えたミニなベルボトムが流行ってるようですね。(このあたりは主に女性の話です。)
70年代までブームを作るのは、殆ど日本の若者文化だったり、海外文化が流れてきてブームになると言う流れでしたが、この頃から「芸能人」を中心とした流行、メディア主導のファッションのブームが生まれて来ましたね。この流れはこの後の時代も続く感じです。
・1980年代
当時の日本はバブルで何かとお金を掛けた感じのファッションが多かった印象です。
バブリーと言う言葉が後に生まれたぐらいですしね。
・スタジャン
現代の秋冬では定番のアイテムとなっているスタジャン。
当時流行って居たおニャン子クラブ(今で言うAKB48)の衣装にセーラーズと言うブランドのスタジャンが起用されたことが切っ掛けで全国で爆発的なブームを起きます。
今でも青文字系の女子中心にセーターズのアイテムを着ていたりと言う事はあるようですが、メンズはほぼ無いようですね・・・。
現代のスタジャンは昔に比べて袖が少し細く、アウターで着てもそれほどゴツく見えないシルエットになっています。ナンバーナインのスタジャン等が良い例ですね!
・デッキシューズ
春夏でよく見かけるデッキシューズです。
これも80年代に流行ったようで、色々流行の切っ掛けを調べて見たんですが、無い・・・。
私の個人的な想像ですが、80年代のトレンディドラマに石田純一とかが出てて、あの人たちが履いてたから流行したんじゃないの?と言う、なんとも浅い想像です。(実際、石田純一は今でも裸足でデッキシューズ履いてますしね)
デッキシューズはロールアップしたパンツに合わせるだけで結構こなれ感が出るのでオススメです。
歩きやすくて、機能性もあるので、個人的に今夏も密かに注目してるアイテムです。
最近は素材が変わったものから、カラーも色んなものが出てるので、是非探して見て下さい。
・MA-1
「トップガン」と言う空軍モノの映画でトム・クルーズが着ていた事で流行したMA-1。
春秋では着ている人も多いですよね。
グリーンが軍用で、黒が民間用とカラーによって用途が違うらしいです。私は黒のMA-1を持ってますが、全身黒のコーディネートの時にキメキメになったり、のっぺりした感じに見えてしまうので、そう言う時にMA-1をオンすると、イイ感じにハズせてオシャレに見えますよ。
スタジャンの項でも少し触れましたが、当時のおニャン子クラブの勢いはマジで凄かったと思います。親戚の(いい年した)従兄弟が、「おニャン子の誰々が・・・」と話していたのを覚えているぐらいなので、 当時のスタジャンブームは凄かったでしょうね。
日本のファッションカルチャーの幕開けとも言える80年代。若者たちの台頭により新たな流行を生み出した80年代。90年代に入るとドメスティックブランドや裏原スタイルといった、独自の感性を表現したブランドが登場し、より日本のファッションは高度なものへと変貌を遂げていった。一方で、回顧的なファッションの逆行する姿も見られたのも90年代です。
【考察】ドメスティックブランドを考える。寿司で例える。
90年代裏原系最強四天王ブランド‼︎ supreme APE hysteric stussy 当時のTシャツのレビュー‼︎
ファッション団塊世代が迎える2000年代
若者がファッションとカルチャーを牽引していった90年代を経て、2000年以降のストリートファッションは、世代を越えて支持されたものが目立ちます。
ファッションを”かじった”世代が社会人となり、”良いもの”に目覚め、手にする事で消費が90年代後半から始まっていた。「上質」や「上流」といったワードがファッションのキーワードとなっていた。
この頃には”セレクトショップ”と言われる、自社に持ち得ない感性の商品を海外から輸入販売を行なったり、国内の新鋭ブランドをキャッチアップしフューチャーした商品の販売を行なったりするショップが全国規模で広がりを見せました。
プチプラ海外通販で洋服たくさんGet(*´▽`*)
【個人輸入】海外から取り寄せる時の注意点教えて!!【洋服】
ファッションに対する基準が変化していった。さらに、2000年頃の若年層の若者が新たなファッションのムーブメントを構築しつつあった。GAPやユニクロといったお手軽なプライスラインのブランドショップが都心部だけでなく、地方へと相次いで進出した。”安くて良いもの”と言う基準をクリアする事で、若年層のファッションに対する価値観のボトムラインも変化しました。
【夏コーディネートのお手本はコレだ!】ポロシャツってデニムってビッグサイズってどう着るとオシャレなの?全部徹底解説します!
30代男性が全身ユニクロ?使えそうなアイテムをファッションに取り入れてみる
海外からハイセンスな情報の流入に合わせて、モードなトレンドを享受する「ファッションセレブ系」も台頭した。00年代後半には海外のファスト・ファッション系ブランドの日本進出も相次いだ。低価格にも関わらず、デザイン性にとんだものが多く、瞬く間に日本人を魅了していった。
この頃から。ファッションに対する価格感や求めるクオリティなどの意識が変化していったのです。それはファッション業界の「混沌」の始まりだったのかも知れない。2000年前後に原宿を中心にセレクトショップが相次いでオープンした。ビルの小さなスペースを利用した古着+セレクトアイテムと言ったショップも数多く産まれました。
時代の進歩とともに、ジャンルや世代の垣根がなくなっていった。ファッションも今まで以上にグローバル化が進み、モードとストリートの垣根や、若者と大人の間のトレンド時差が殆んどなくなり、ファッションにもグローバリゼーションの波が到来した。外資系ファストファッションが本格的に上陸した事で、トレンド感あるファッションを誰もが手軽に出来るようになり、一見おしゃれな”ファッション感”のある人が街に増えていった。これは後に日本のファッション産業に大きな変化をもたらした。
ファストファッションに対する僕の思い【ユニクロ、ZARA、H&M、GU】
カルチャーの融合と情報化社会が生み出す2010年代のファッション
2010年代に入り、国内外のファストファッションが浸透していった。住み分けされていたと思っていた「ストリート系」と「ギャル系」、「コンサバ系」と特徴が違う3つのジャンルのファッションにおいて、ストリートファッションが混ざり合い、「可愛い系」というミックスされたファッションが台頭した。
時代の変化と、情報化社会を見せる世の中において、それぞれが自分自身の生き方やライフスタイル、価値観などをなどを見直す動きが見られた。世代を越えた「良いものは良い」「僕は、私はこれが良い」と言った小さなグループが、いくつも産まれた。それぞれが独自の完成を持ち合わせて街々で繁栄と浸透を遂げていた。それらはサブカルチャーとして、現在の日本におけるファッションカルチャーの重要な要素となっている。
30代男性がGUを大人っぽく着ることはできるのか?ジャケットがいいかも!【2019春夏】
当時、”携帯電話”と呼ばれる最新機器も、今では旧式の「電話機」にしかすぎず、「スマートフォン」が電話以上の様々な機能をもたらした。
今では年齢層を問わず、インターネットを使いこなし、SNSを活用する。情報の全てが一つに凝縮されたと言っても良いのではないでしょうか。
簡単に情報を収集出来る、この時代においては「日本のファッション」と言った、国で区別をするような言葉が、不自然にさえ思える。ファッション・カルチャーはよりボーダレスなものとなり、高度な成長を見せています。
そんな時代だからこそ、思う存分ファッションを楽しんで見ては如何だろうか。
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【新サクラ大戦】 新旧 檄・帝国華撃団 MIX 【新章】
炎のたからもの Vocal:今井美樹
Cowboy Bebop - The Real Folk Blues ending theme
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また、自撮りです。今回は5年前の写真です・・・。痩せて居ましたね・・・。
ー「劇画」とは?ー
「劇画」と言う名称は辰巳ヨシヒロの考案によるものであり、劇画工房の誕生以降の劇画ブームによって世間一般に名称が定着した。
劇画とは、それまでの漫画から一線を画した漫画表現の手法であり、青年向け漫画を子供向けの漫画と異化・区別させるために作られたジャンルでもある。従来の漫画はあくまで子供向けであり、辰巳らは自分たちの作品がそのような評価を受ける事を極端に嫌っていた。貸本劇画の読者層は労働者階級の若者であり、また劇画工房のメンバーも同じような階層の若者であった。作風としてはハリウッド映画やハードボイルド小説の影響が大きい。
劇画と言う名称は1957(昭和32年)末に名古屋の貸本出版社「セントラル文庫」から出版された漫画短編集『街 12号』に掲載された辰巳ヨシヒロの「幽霊タクシー」で初めてその扉ページに使用されたとされる。以降、辰巳は新しい漫画のジャンルとして「劇画」と言う名称を積極的に使い始める。
その頃、大阪の「日の丸文庫」で貸本漫画を描いていた漫画家らは原稿料の不払いに悩んでいた。そこで漫画家同士で団結して出版社との交渉に当たる目的で石川フミヤス、K・元美津、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあき、岩井しげお、鈴木洸史らの7人で漫画制作集団「関西漫画家同人」が結成された。
1959年(昭和34年)1月5日、辰巳ヨシヒロと「関西漫画家同人」所属のうち石川、元美津、桜井、山森、佐藤の5人が大阪の辰巳の実家で会合を持った(連絡が取れなかった岩井、鈴木は不参加)。その際、山森の「自分たちにも『劇画』という名称を使わせてほしい」との要望を受け、辰巳が個人的に使用していた「劇画」を日の丸文庫の漫画家仲間の間で共用する事になった。
1959年、辰巳ヨシヒロが中心となり「関西漫画家同人」の所属の石川フミヤス、k・元美津、桜井昌一、山森すすむ、佐藤まさあき、そしてさいとう・たかおら7人で劇画制作集団「劇画工房」が結成される。さいとう・たかをは当初「説画」と言う名称にこだわっていたが、辰巳の説得に折れて参加する事になった。結成時の話し合いに同席していた松本雅彦もまた、自らの付けた名称「駒画」にこだわり参加を渋っていたが、4月になってようやくに加入、後に8人体制となる。
活動に先んじて「劇画工房ご案内」と言う7名の連名による挨拶状(はがき)150枚が、新聞社、出版社や漫画家に向けて送付された。劇画宣言と呼ばれる。この宣言文の宣伝効果は絶大で、漫画業界に「劇画」と言う言葉が定着する。手塚治虫の元にも届けられ、手塚は後に自伝「ぼくはマンガ家」でこの挨拶状を取り上げている。
この新しいジャンル「劇画」は貸本漫画読者の間でたちまち人気となり、『影』(日の丸文庫)、『街』(セントラル文庫)、『摩天楼』(兎月書房)等、劇画短編集が多数出版され貸本漫画の黄金期が始まる。ところが、1959年8月「劇画工房」メンバーは東京の辰巳ヨシヒロ宅に急遽招集され、そこで辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを、松本正彦の3人が「劇画工房」からの脱退を表明、後に解散となる。
1965年(昭和40年)、当時のトップ漫画家であった手塚治虫がいわゆる「W3事件」で「週刊少年マガジン」の連載を降板すると言う事件が起こった。編集長の内田勝は手塚の抜けた穴を埋めるべく、貸本劇画で活躍していた劇画家に執筆を依頼。これらの劇画は読者の高い支持を得て、以降、マガジンは劇画路線を推進していく事になる。
劇画の人気を見て取った他の出版社からも次々と劇画雑誌が創刊される。1966年(昭和41年)創刊の「コミックmagazine」(芳文社)を皮切りに、1967年(昭和42年)創刊の「週刊漫画アクション」(双葉社)と「ヤングコミック」(少年画報社)、1968年(昭和43年)創刊の「ビックコミック」(小学館)、「プレイコミック」(秋田書店)などが挙げられる。それらの雑誌には、貸本から商業雑誌に移行後もヒットを飛ばした、さいとう・たかをや佐藤まさあき、彼らのスタッフだった川崎のぼるや、池上遼一、南波健二、小池一夫、劇画調に作風を変化させた永嶋慎二や白土三平、つげ義春、新世代の梶原一騎や宮谷一彦、バロン吉元、池上遼一、村上一夫らが執筆し人気を博した。
労働者階級の若者がメインターゲットの読者であった劇画は、当時盛んであった学生運動の熱狂と同期し、社会的なブームを巻き起こすことになる。貸本劇画誌を前身として1964年に創刊された「ガロ」(青林堂)は全共闘世代の大学生の愛読誌であった。1970年(昭和45年)3月31日によど号ハイジャック事件を起こした赤軍派グループの宣言「われわれは明日のジョーである」は当時の劇画の若者に対する影響力を物語っている。
だが、1972年(昭和47年)のあさま山荘事件などの左翼の過激化で学生運動が退潮したと同時に、革命をテーマに若者らに支持されていた劇画業界も冷え込んでいった。劇画は「重く」「暑苦しい」ものとして若者らから敬遠されるようになり、それまで人気を誇っていた劇画雑誌は1970年代中頃より急激に部数を落としていった。ヤングコミックの編集者であった岡崎英生によると劇画雑誌の衰退は、三流劇画誌(エロ劇画誌)の流行や、1979年(昭和54年)6月に創刊された「週刊ヤングジャンプ」(小学館)や1980年7月に創刊の「週刊ヤングマガジン」(講談社)といった新しい青年漫画雑誌の影響が大きいとしている。
ニューウエーブ漫画を含む、劇画の手法を取り入れた新しい漫画の登場で、従来型の劇画は淘汰されていった。
劇画ブーム後も生き残ったベテランや、その後デビューした劇画家によって今も作品は描かれているが、「ジャンルとしての劇画」は低迷している。1995年(平成7年)には辰巳ヨシヒロが自伝漫画である『劇画漂流』を発表。自らの経歴を振り返ると共に、ブーム以降に誤解された劇画のイメージを回復させるべく活動した。現在の漫画の多くは少なからず劇画の影響下にあるが、漫画と劇画を分離して呼称すると言う提唱は未だに実現しておらず、包括的な呼称としてなお漫画が用いつづられている。
劇画の技術的な手法としては、カメラワークを使ったコマ割りが挙げられる。俯瞰や煽りで三人称視点を取り入れたダイナミックな視点からの描写(それまでの漫画の視点はほぼ正面固定だった)、人物のアップによる内面心理描写(それまでの漫画の世界では人物のアップは手抜きと見なされていた)などがある。また、太字で強調された擬音や、効果線、集中線を使った演出、同じシーンを連続的にコマに描く事によって時間経過を圧縮する演出なども劇画工房の開発によるものである。
劇画工房はハリウッド映画を参考にこれらを漫画技法として開発したのであり、このような革新的な表現が許されたのは、彼らが主に執筆していた日の丸文庫の「表紙以外は自由に描かせる」と言う放任主義の成果、日の丸文庫の専務で漫画編集をしていた山田喜一が映画に対して理解が深かったおかげとされる。
これらの技法はすぐに模倣されて漫画の一般的な技法として定着し、劇画の独自手法として見なされなくなってしまったため、世間一般には後の劇画雑誌ブームの際に流行した「描線の多いリアルタッチな画風の漫画が劇画である」と言うステレオタイプなイメージが残った。
さいとう・たかお曰く、「本来、絵は劇画の条件には含まれていない、デフォルメされた絵、少年・少女向けの絵でも構わないもの」であった。ところが「劇画黎明期を支えた面々が第一線から消え、さいとうのみが残ってしまったため、さいとう調の絵が「劇画」だと世間が誤解し、定着してしまった」と言う。事実、劇画黎明期を支えた代表的作家辰巳ヨシヒロや松本正彦の絵は一般的な「劇画調」のイメージとは異なるし、一般的には劇画家の範疇に含まれない、つげ義春や水木しげるも若い頃には貸本劇画を手がけている。
<劇画の生みの親> 辰巳ヨシヒロトークショー
劇画原作者・・・梶原一騎
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ー「ハーモニカ」ー
ハーモニカの名称
何時頃から、どうしてハーモニカと呼ぶようになったのか、はっきりとした由来がなく、商品名ではないか、と言う説もあるそうです。ドイツで発明され、当時はマウス・オルガンと呼ばれていました。日本には、明治24年に初めて輸入され、初めは口琴と呼ばれていました。マウス・オルガンをそのまま邦語訳にしたものと思われます。ハーモニー(和音)が吹きやすい楽器でもあり、その意味ではハーモニカと言う名称は楽器の特性をよく表していると言えるでしょう。実はハーモニカと呼ばれた楽器が、この他にも存在しています。その代表的なものが、濡れたコップの縁を指でこするグラス・ハーモニカです。18世紀後半から19世紀初めにヨーロッパにおいて、大いにもてはやされたそうですが、もちろん此処で言うハーモニカとは全く違う楽器の一つです。
ドイツで発明
ハーモニカの原型は1821年、ドイツのオルガン製作家クリスチャン・ブッシュマンが発明したものとされています。そして、近代ハーモニカの原型を完成させたのがクリスチャン・メスネルで、1827年に製作を開始したことからハーモニカ元年とされています。それから現在まで世界中で作られたハーモニカの数は約5億本と言われており、あらゆる楽器の中で最も数多く作られ、広く親しまれているのがハーモニカと言えるでしょう。
日本のハーモニカ
前述の通り、日本に初めてハーモニカが輸入されたのが明治24年とされています。そして国産ハーモニカの第一号は、明治43年に東京で完成しました。昭和3年には、浜松市でもハーモニカが作られるようになり、日本の一大生産拠点となりました。日本でハーモニカと言えば複音ハーモニカの事で、欧米ではシングル・ハーモニカ(スライド式クロマチック、テンホール・ダイアトニックハーモニカ等)を意味しています。このように、世界各国でハーモニカの趣向にも違いが見られます。日本のハーモニカは、三期のブームが到来する中、発展して来ました。
大正・昭和初期のハーモニカの楽譜 ● バクダットの酋長 昭和9年7月発行 ● ラブインアイドルネス 大正12年9月発行 ● 小さな支那人 大正15年11月発行 |
第一期は、大正から昭和初期にかけて複音ハーモニカの名手が多く輩出し、学生を中心としたハーモニカバンドが隆盛した時期です。
第二期は戦後、器楽教育の振興に伴って教育用のシングルハーモニカが工夫されて大量生産された時期です。この頃がハーモニカの生産数がもっとも多かった時期と言えるでしょう。やがて、音楽教育の中心が、鍵盤ハーモニカ(メロディオン等)などの鍵盤楽器へと移行していきます。
第三期は、昭和52年から現在に至るものです。昭和52年は、ハーモニカ生誕150年にあたり、日本で《ハーモニカ150年祭》が盛大に開催されました。この時期に脚光を浴びたのは、クロマチックハーモニカとテンホールハーモニカ(テンホール・ダイアトニックハーモニカ)でした。
そして現在、これら三期のブームを体験して来た、シニア層の複音ハーモニカ愛好者をはじめ、ジャズ、ブルース、ロック、フォークなどに触れた世代、そして若年層まで、テンホールハーモニカやクロマチックハーモニカの愛好家が増えています。