kiyasumeが吹くへたっぴな「ジューク」 SD 480p
「最近の状態」
体調が悪すぎて更新が出来ません。新しい記事が書けません、ですから当分過去記事を、集めた雑話を掲載します。人は色々とあります。私も色々な事を言われて居ますよ。生活保護受給者だと書くと。「働かざるもの喰うべからず」とか。統合失調症(精神病)だと言って居るので、「キチガイがblogを書くな!!」とか、特に、生活保護受給者だと言うと。「怠けて働かなくて、国から金貰って居るのか!?」とか、言いたい放題ですよね。日頃、blogで何回も言って居ますが。私は精神病です。毎日薬を飲んで生活して居ます。ですが坑精神薬は副作用があります。飲んで居ない方には解らないと思いますが。気持ちを落ち着かせたり。元気が出る様な薬を処方されて居るのではありません。統合失調症とは気の病ではありません。脳の疾患による精神の病です。幻覚や幻聴が出る事もあります。昔は精神分裂病と言って、罹ったら身の破滅で。生涯精神病院送りにさせられて仕舞う。不治の病でした。統合失調症は、およそ100人に1人がなる、とても身近な病気でもあります。しかし、「どんな病気なのか知らない」と言う方も多く、誤解が生じやすいとも言われます。まず強調しておきたいのは、統合失調症という病気は、実にさまざまな形をとって現れる病気だと言う事です。100人のこの病気の人が居れば、100様の病気のあらわれがあります。
幻覚や妄想の様な、周りの人から見ても解る様な激しい症状に日夜襲われて苦しんで居る人も居れば、一見するとまったく病気とはわからない様でも、日々の生活の何気ない事にうまくやれなさを感じて居る人まで、その苦しさは病気の人の数だけあると言っても良いでしょう。なので、専門家の間でも統合失調症と言う病気はひとつの病気ではなく、沢山の違う病気の集まりだと言う意見があり、最近ではその様な見方が強くなって居ます。それでも、この状態にはこの治療だと言う決定的な治療がなく、長い経過の中では一時的であっても殆んどの人が他の人と共通する何らかの症状を現して居る事から、今のところひとつの病気(障害)だと見なして居るのです。薬は統合失調症の苦しさを和らげるのにとても役に立ちます。幻覚や妄想の迫真性が薄れ、それに距離をとって現実的な事を考えやすくします。そして何よりも考えがまとまる様になり、周りの人に自分の考えや気持ちを伝えやすくなります。ところが、その薬の副作用は眠くなり。頭が痺れてだるくなり。手足が震え。異常に太ります。凄く太って居るので。食生活がだらしが無いのだろうと、良くバカにされますよ。「ぶくぶくと太って居て見っともない。お菓子だとか間食を沢山食べて居るのだろう?人間、1週間ぐらい食わなくても死にはしないよ!!」とよく言われます。食べて太って居るのではないのですよ。薬の副作用なのですよね。ですからこう言った障害を持って居るから、働けないのです。怠けて居る訳ではありません。働きたくとも働けないのですよ。だから、生活保護を申請して認められて生活保護者に成って居るのです。怠けて居る訳では有りません。解って貰いたいです。
「女性の時代???」
新宿の紀伊國屋書店の雑誌売り場で、ある映画関係の月刊誌を探して居ても見つからなかったので会計の所に居た店員に聞いた、アルバイトとおぼしき、女の子に「すみませんけど、〇〇の月刊誌どこにありますか?」と訊いた処、「その辺にあるよ!!自分で探しな!!」と言われた。そうしたら、隣で立って居た男の若いアルバイトが「おまえ〜それはねえんじゃね?」と言って居たが.....それで正社員の若い女の子の店員に「〇〇の月刊誌どこに置いてありますか?」と訊いたら、「少しお待ち下さい」と言って隣の50代ぐらいの男の店員に「上田!トットと探して来い!!」と言って、その50代の男の店員さんが、「お客様、此方で御座います。バックナンバーも棚の方にありますのでご覧に成って下さい。」と教えてくれた。思うに、今は女性が活躍する時代と言えども、この2人の女どもは同じ穴の狢だ。私は、昔、伊勢丹の裏方の仕事をやって居た事がある。次々にワゴン車で運ばれる、荷物を服とかだけども、ハンガーに掛けて、女性服売り場の倉庫まで持って行くのだが、持って行って、若い女性の店員に引き渡すと「あんた、ちゃんと値段の高いものからハンガーに掛けてないじゃない!ちゃんとしろよバカ!!」と言われた。私はただ売り場まで持っていけばいいと言われただけなので、「何怒って居るんだこの女・・・」と呆れて居た。でも、歳を取った年配の女性の店員が「気にしないでね。頑張って!」と声を掛けてくれた。また、或る時、仕事をして居たら、山住み書類の上に若い女の店員がウイスキーのボトルを置いて行ったら、案の定落ちて割れてしまった。そばで作業をしていた中年の男が気にして「俺のせいかなぁ・・・」と言って居たら、暫くして、私がマネージャー室に呼ばれた、「君はまだ若い、だから君がウイスキーのボトルを破ったのではないだろう。隣で作業して居た男が破ったのか?」と訊いて来たので、「一番悪いのは、書類の山の不安定な処の上に置いた女性の店員さんでは無いのですか?」と言ったら。「そうか・・・」と言って職場に戻れと言われた事があった。
また、中年の現場責任者(チーフ)が伊勢丹の社員食堂に、私を連れて食事に行った時の事、前の向かい合ったテーブルで若い女の子の店員が食事をして居たのだが、何とだらしが無くと言うか、ミニスカートの制服のスカートを履いて居るのに、足を広げて居る....下着が丸見えだ。
私はカレーライスを食べながら、「食事中に見たくも無い!」と思って居たら。どうやら、自分はそんな格好なのに私たちを睨み付けて居た。こう書いて居ると女性の店員、特に若い人たちは散々だな。と思われるかも知れないけど。最後に良い話を、それは紀伊国屋書店で昔、哲学書売場で労働者階級の哲学者セルジュ・モスコヴィッシ、トプリス・ラロンド。ルネ・デュモンの3人の対談集の「エコロジストの実験と夢」という本を探して居たら、メモを手に持って哲学書籍の書棚を見て居たのだけれども、若い女性の店員が急いで寄って来て、「お客様、そのメモ見せて下さい」と言い、売場で在庫を確認して、「在庫は御座いませんが、まだ、廃版には成って降りませんので、お取り寄せ出来ると思いますが....。」と言ってくれて、それで気持ちよく取寄せて貰った事がありました。でも、昔から、若い店員の方が威張って居て、歳を取った店員の方が親切ですね。そう言えば、紀伊国屋書店にあったDVD売り場で、若い、凄い美人の女優さんか、と思える店員に「アンドレイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」発売だと訊いて来たのだけども、ありませんか?」と訊いたら。「すみません。あれ入荷と同時に売れちゃったの。在庫ありません。」と言うので、他のDVD店に行っても無いものだから此処にあるかと思って来たんだけども・・・」と言ったら「ごめんね。メーカーが早々に打ち切っちゃったのよ。一応、オーダーは掛けてはありますから。来月か再来月には入荷出来るかと思います。ごめんなさい」と実に親身になって対応してくれた人も居ました。。。
そして、父親の会社に入って仕事をして居た時の話。或る日、パートの女の子が来て「あたし、バンドやってっから....。」と言うのが口癖で、訊けば渋谷のライブハウスで演奏していると言うので、「どんなバンドなの?」と聞いたら、「「ゲス・フー」見たいなバンド」と言うので、ゲス・フーか、女性のバンドにしてみれば妥当かな?と思って居たが、その子は仕事をちゃんとやらない。何故、パートのアルバイトを雇って居たのかと言うと、当時、スーパーのいなげやに、商品を納めて居たからだけども、商品を倉庫内でピッキングするのに人手が居るからです。毎日、東京、埼玉、千葉のいなげやに納品する為、社員とアルバイトで手分けをしてピッキングをして居た。何故かその子は、私の机の脇に、セサミ・ストリートの人形を置いて居て、「なんだかな・・・。」と思って居たが。或る日、ピッキングが終わった5時半に成ってからやって来て、仕事がしたいと言う。従兄弟のゆきかずは「いいよ....。」と言ったが、私が断った「安斎さん、明日の午後早くに来なよ。今日の仕事はもう終わったよ。」と言ったら不満そうだったが、帰って行った。見え見えなんだよ。仕事が終わった後に来るなんて・・・
ちなみに会社にはもう一人30代の音楽をやっている男がいた。ブルースが好きで、ライトニン・ホプキンスの曲をギターで弾いて歌って居ると言う。しかし、若いのだ、「永井さんやら、妹尾さんやら、吾妻さんやら知ってるだろう?」と訊いたら、「誰、それ、知らない」と言う。今挙げた人たちは日本のブルースを背負って立って居た人たちだ。私は、「ああ、今時だな、知らないんだ、、」と思い。黙って居たが、その男はCDは、タワーレコードで購入すると言う。しかしディスク・ユニオンに比べたら、タワーレコードはロックは結構ストックがあるが、ブルースは少ない。私がバンドをやって居たと言ったら。或る日、ブルースハープを持って来て、「ええと、此処から吹いて・・・」と言いながら吹き始めたので、「貸してみて」と言い私も吹いて見たら驚いて居て、「昔ね...バンドで吹いて居たからね」と言ったら、それ以上、挑戦的な事はして来なく成った。処が、私を見返したかったらしく、「〇〇さんの弟って何仕事しているの、トラックの運転手?それともドカタ?(笑)」と言うので。「とっくに仕事して居るよ・・・」と言ったら、後で親父に訊いたらしい、医者だと言われて黙って下を向いて居たそうだ。しかも、レンタル・ビデオテープを1年間返さなくて、取立てに会い、100万円請求されたと聞いた。親父が言って居たが会社に泣きついて財形貯蓄から出してもらって返済したそうだ。ちなみに会社を私が辞めた後、例のパートの女の子が「〇さんは最近なんで会社に来ないんですか?」と訊いて居たと親父が言って居た。なんだかねぇ、そんな思い出があります。
guess who- american woman
Lightnin' Hopkins - Woke Up This Morning
ジャズ喫茶、「サムライ」には1970年代から1980年代に掛けて通って居た。当時のマスターは黒澤明の「影武者」に武将の一人として出演して居て。壁に映画の写真が貼ってあった。当時はジャズとブルースの融合的なことを考えて居て、まあ、飽く迄もブルースバンドなれども、ジャズの匂いがすると言う様な感覚を持ったアレンジでブルースの曲を演奏して居たのだが。バンド名は「ボトム・ライン・バップ・ブルースバンド」と名付けて居た。まあ、手っ取り早く言えばジャズ・ブルースのバンドなのだけども。最近になって結成当時のオーディオ・テープが出てきたので、聴いて数曲、YouTubeに上げた。オーレックスのラジカセで訪問看護師の若い、ロック好きの看護婦さんに聴かせたら、案の定「これジャズ?」と言って居た。ビバップの形式で「Every day I Have the Blues](カウント・ベイシー楽団の専属歌手としても人気を博したご存知ジョー・ウィリアムスの代表作。BBkingバージョンで有名な曲)を演奏して居たからだ。元はメンフィス・スリムが作り1949年にローウェル・フルソンが大ヒットさせた。その後、いろんなブルースシンガーが歌って居ます。
BB King - 01 Every Day I Have The Blues [Live At Nick's 1983] HD
kiyasumeが弾く。「Every Day I Have The Blues」 。。。
Everyday, everyday I have the blues
Everyday, everyday I have the blues
When you see me worried baby
Because it's you I hate to lose
毎日、俺はブルーになっちまう。
毎日、俺はブルーになっちまう。
俺が慌ててるのをみたら、
それは君を失いたく無いからさ。
Oh nobody loves me, nobody seems to care
Yes nobody loves me, nobody seems to care
Speaking of bad luck and trouble
Well you know I had my share
誰も俺を愛さないし、心配してくれない。
誰も俺を愛さないし、心配してくれない。
悪運と苦しみを話してる、
嫌な事がありすぎるよ。
I'm gonna pack my suitcase, move on down the line
Yes I'm gonna pack my suitcase,move on down the line
Where there ain't nobody worried
And there ain't nobody crying
俺は荷物をまとめて、この道を行くんだ。
俺は荷物をまとめて、この道を行くんだ。
誰も慌てたりしないし、
誰も泣いたりしないよ。
また「Stormy Manday 」などをジャズ風なアレンジで演奏して居た。もともと、T Bone Walkerのバージョンはジャズの香りがする。T Bone Walkerは、1910年生まれのブルースのギタリストで、ブルース・シンガーだ。オールマン・ブラザーズ・バンドが、フィルモアのライブでやっていた「ストーミー・マンデー Call It Stormy Monday」は有名だ。「ストーミー・マンデー」は、1947年に発表された曲だ。ジミ・ヘンドリックスがギターを背中で弾いたりしていたのは全て、T Bone Walkerのモノマネです。
B.B. King, "Stormy Monday Blues," ACL 1996.
T Bone Walker stormy monday
kiyasumeの弾く「ストーミーマンディー 」
They called it stormy Monday,
but Tuesday is as just as bad
They called it stormy Monday,
but Tuesday is as just as bad
Wednesday is worst, and Thursday's so sad
月曜日は荒れ模様
火曜がまた悪い
月曜は荒れ模様
火曜日がまた悪い
水曜日は最悪
木曜はとても哀しい
The eagle flies on Friday,
Saturday I'll go out to play
The eagle flies on Friday,
Saturday I'll go out to play
Sunday I'll go to church,and I'll kneel down to pray
金曜日に鷲が飛び
土曜に遊びに行く
金曜に鷲が飛び
土曜には遊びに行く
日曜には教会に行って
祈りにひざまづく
Lord have mercy, Lord have mercy on me
Lord have mercy, My life is in misery
You know I'm crazy 'bout my baby
Lord, please send my baby back on to me
ああ神よお慈悲を
俺にお慈悲を賜え
神よお慈悲を
俺の人生は惨めだ
あの娘のために気が狂いそうさ
神よ どうぞあの娘を俺に返して
Sun rise in the east, it set up in the west
Sun rise in the east, it set up in the west
It's hard to tell, it's hard to tell, it's hard to tell,
which one,which one a little bad
陽は東に上がり
西に沈む
陽は東に上がり
西に沈んでいく
どちらが少しはましなのか
俺にはわからない
まあ、2曲ともブルースの定番の曲です。
Milt Jackson & Benny Golson & Art Farmer & NHØP - Whisper Not
MAL WALDRON & JACKIE McLEAN/Cat Walk
UNT Jazz Faculty: Sonny Red - Bluesville (1960)
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「kiyasumeが歩んで来た道」
最近、思う事があります。それは私は此処35年ぐらいに渡って勉強をして来なかったと言う事です。私は知識が丸で無い大馬鹿野郎ですよ。はっきり言えば1980年代から2020年ぐらいまで殆んど、勉強をして来なかった。まあ、しかし、言い訳ではありませんが。物事を学ぶ機会が無かったのですよね。時間も無かったし精神的な余裕も無かったです。毎日抗精神薬を飲んで、そんな状態なのに働かなければ成ら無かったですから。毎日、薬のせいで体が不調を来たして居て。働くのもはっきり言って真面どころではありませんでしたから。無理だったんですよね。それなのに親は働けと言いました。毎日朝の8時から夜の11時半まで働きました。そして働いた給料とボーナスは全額親元に入れて居ました。まあ、本当に何遍も言いますが。私は小遣い3万円しか毎月貰っては居ませんでした。ああ、その他に弟に、小遣いを2万円毎月上げて居ましたっけ。だから親から貰えたお金は合わせて5万円でした。でもね、私はその3万円で何とかやりくりをして居ましたよ。その甲斐が生きて、今生活保護で生活に直に使えるお金は毎月4万ですが。何とかやれて居ますよ。
この事も何遍も言いますが、私は働いて居た時に、従兄弟らから物凄い嫌がらせをされて居ました。余りに酷いので、私は包丁を持って会社に行った程です。従兄弟を殺して自分も死のうと思って。そして会社の社員たちの中には、従兄弟寄りの人達も居たので。私はいい様にされて仕舞いました。そんな私でも恋人は居ました。此の間、書いたけど、大学時代に出来た恋人と、街で偶然知り合ったガールフレンドと、、今まで付き合ったのは、その2人でした。一人は従兄弟の嫌がらせで、彼女が海外に旅立つ時に逢えなくされて仕舞い。もう一人は私の方から身を引きました。私は障害者です。まともな恋愛は出来ませんからね。抗精神薬とは、考え様に寄っては恐ろしい薬であるとも言えます。何故なら後遺症が酷いからです。まず頭が常時痺れて来ます。そして、眠くなります。それから体に後遺症である付随運動が出て来ます。そして、それが毎日続くのです。従って何も手に就きません。テレビなども落ち落ち観て要られません。しかしこの薬による副作用は患者による個人差があるかと思われます。
私と同じ薬を飲んで居ても。然程害が弱く少ないかなと思う様な方もいらっしゃれば。私以上に害が出て来てしまう人も居ます。私などは最近ゆだれが出て来て仕舞いました。また暇さえあれば寝て仕舞います。処置無しです。そんな状態が20歳の頃から続いて今まであったのです。そして私の親は私が統合失調症であるから障害者年金で暮らそうとして、詳しく病状とそう言った、年金の手続きの書いてある本を購入して渡しましたが。母などは「あたしは、お前を精神病だなんて思っては居無いよ!」と言って、本をゴミ箱に捨てて仕舞いました。そして、私を親父の会社で働かせました。私は病状に薬の副作用。そして従兄弟らの嫌がらせ、彼ら寄りの社員たちの嫌がらせ。と言う四重苦の中、働きました。そう言った訳で本すら満足に読め無い日々が続きました。私は此の儘では駄目だと思い。放送大学を受けました。昔は民放で放映して居ました。
それを週に2回程。毎週楽しみに見て居ましたが、父親が来るとチャンネルを変えてしまい。見られなくされました。そして言うのです「お前は40歳廻って勉強か、勉強はな、学生のうちだけすれば良いんだ!!あとは遊んで暮らすんだ!!お前はバカだ!!」と。親父は初めは私を自分の会社に入れて働かせましたが、そのうちに私が邪魔に成り。私を蔑む様に成りました......。そうこうして居たら、親父は癌に罹って死んで行き。母は認知症に成って仕舞いました。私はそんな状態で認知症の母の面倒を見て居ましたが色々あって、私は統合失調症の発作が起きて仕舞いました。無理が祟ったのでしょう。それで、部屋中を無茶苦茶に壊して仕舞いました。そして、その事を怒った姉と弟から兄弟の縁を切られて仕舞いました。
そして実家から出て行けと言われました。「気が狂った兄弟など要らない」と・・・・・。そして会社を辞めて持ち金でデザイナーズ・マンションで暮らして居ましたが。金も底をつき、要約、月5万円の、家賃のこのアパートを見つけて引っ越して来ました。そして持ち金が全て無くなって仕舞い、生活保護受給者に成りました。正直、生活保護受給者に成るには厳しい条件が有りました。しかしそれをクリアして、今は保護費を貰い生活して居ます。私は障害者なので保護費13万円の他に1万4千円程の障害者加算が付きます。だから14万4千円の保護費を貰って暮らして居ます。ただ、「遊んで居て、金を貰って嫌がるのか?」とか言われる事もありますが、、働けないんですよね。それに、もう歳です64歳に成りましたから、、
本は中々読め無いですけれど、購入しては居ました。そして少しずつですが辛うじて読んで居ました。一昨日も「現代思想・大森荘蔵。誕生100年」と言う本を購入しました。でも毎日、体がだるくて、頭が痺れて来て。眠くて風呂にも入る気にもなれずに居て、何も出来ません。私は趣味でハーモニカを吹きます。俗に言うブルースハープです。ロックやらブルース。またはジャズを専門に吹くハーモニカです。しかしゆだれが出て来て仕舞って。上手くは吹けなく成って仕舞いました。私が統合失調症を発病したのは、凄まじいストレスからです。私は事情があって、大学は夜学でした。そこでは学生は真面な奴は余り居ず。良い加減な学生が居ました。私は大学では友人は殆んど作らずに勉強をして居ました。私は在学中にバンド活動もして居ました。しかし私は勉強はしました。オール優を取った程でした。と言っても、真面に授業に出て教授の講義を聞いて居れば優は誰でも取れます。
しかし私は背が余り高くは有りません。そのせいか変な学生に講義を書いたノートを持って行かれて仕舞ったり。ある宗教団体の学生にしつこく付き纏われて、その結果、そのストレスからか統合失調症を発病して仕舞いました。大学2年の時でした。私はそれでもなんとか大学だけは卒業しましたが。ついに力尽きて仕舞いました。しかし先程に行った様に。大学を出た後。私の親はそんな私を働かせました.....。何故なら弟の学費の為に、私の手も借りたかった為です。母は認知症になる直前ぐらいに私に纏まったお金をくれました。しかし、弟はそんな私に「貴様が、なんで親から大金貰えたんだ!!ふざけるな。ぶん殴ってやろうか!!」と言いました。「私はお前には小遣いも渡して居たよ」と言いました。しかし、弟は「貴様なんかから金なんか、一銭たりとも貰った事なんざないね!!」と言いました。そして私に成り済まして、銀行に行き200万円を、私に無断で私の通帳から引き出して仕舞いました。その後、弟は心不全で死にました。私は絶望しました。。。
私はハンデを背良いながら、従兄弟らが嫌がらせをしてくる無法地帯の会社で働いたのです....。何で、従兄弟が嫌がらせをして来たかと言うと。従兄弟は自分が会社の社長になると言い張って居て、私が邪魔だったからです。私は会社の社長などに興味は更々ありませんでした。しかし従兄弟は信じ様とはしませんでした。私は親に言われて働いてただけなのですけどね。ですから私は、勉強は21歳からこの方しては居ません。途中放送大学の聴講生に成りましたが、それぐらいでした。だから私の知識は21歳までに培った知識で粗止まって居るのですよね。
最近に成って私も考えました。朝。昼。夕方。寝る前と薬が出て居るけども。昼間の薬を時間通り飲まなくて、夕方に纏めて飲んだらどうかと思いました。そうすれば少しは薬の副作用が薄れるかもしれ無いと。そう思い、今は朝と昼の薬は夕方に纏めて飲んで居ます、そうしたら少しは良い様です。それでも相変わらずの調子ですが。今回、このblogを新しく読み始めた人向けに、自分の事を解って貰おうと、簡単に纏めて書いて見ました。此れで私の近況に付いては解って貰えたかと思います。そして私の良かった頃のバンド時代の時の事を詳しく書いてある記事のアドレスを此処に上げて置きます。私の事をもし詳しくお知りになりたい方がいらっしゃいましたら。その記事をお読み下さい、、クリックで読めます。ちなみに恋人ですが、、ガールフレンドと言うか恋人は、今、付き合って居る女性が居ます。優しく可愛い頭の良い女性です。だから私は寂しくはありません。それでは、今回は此れにて。此処迄、読んで下さって有難う御座いました.....。 m(_ _)m
エッセイ記事「kiyasumeのバンド放浪記」
https://blog.goo.ne.jp/kiyasume/e/06993a8abed87cc91a48ca635c7801b5
ちなみに古書店で購入した本です。ユリイカはちょくちょく購入しています。
「ニヒリズム」
ニヒリズム(虚無主義)とは、あらゆる存在に客観的な価値を認めず、あらゆる宗教的・道徳的・政治的権威を否定する立場を表す。ニヒリズムを奉じる人間をニヒリストという。
哲学的な意味での虚無主義を確立したのはフリードリヒ・ニーチェであると言える。ニーチェは、自分自身の存在を含めたすべてが無価値であり、偽りであるということを前向きに捉えた上で、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きることで逆説的に生を肯定しようとした(能動的ニヒリズム)。
ニヒリズムは、世の中を嫌なもの、悲惨に満ちたものだと捉えるペシミズム(厭世主義、悲観主義)とはしばしば混同されるが、全くの別物の思想であることがおわかりいただけるだろう。
ニヒリストはあらゆる権威や秩序を否定する。表面上、権威や規範を尊重しているように見えても、それは便宜上に行う身振りにすぎない。能動的ニヒリズムのこのような態度は、あらゆる権威を破壊しようとするアナキズムや、逆に極端な権威主義であるナチズムのような過激思想と結びついた。
【音声日記】#74 ニーチェの「能動的ニヒリズム」と「空観、仮観、中観」について。既成の価値観ではなく、自分主体の価値を見出し、その道を突き進めばいいと思います【海外転売講師の動画講座】
ニヒリズムとどう抗うか 宮台真司
「実存主義」
「主体性が真理である」として神から与えられた可能性を実現することに生の意義を見出したキルケゴールの主体志向に加えて、さらに、第一次世界大戦において、そのような個人を置き去りにした近代思想の惨禍を目の当たりにして、個人を哲学的考察の対象にしようという機運が盛り上がり、神の死(「神は死んだ」)を宣言し、能動的なニヒリズム(運命愛) の思想を展開したニーチェを、神を否定する実存主義の系譜の先駆者としつつ、1930年代、ドイツのマルティン・ハイデッガーやカールヤスパースらによって「実存」の導入が図られた。
人間の実存を哲学の中心におく思想的立場である実存主義と、中国明朝末期の東林党の経世買致用の学(学問は現実の社会問題を改革するために用いられなければならないとする主張)は別の思想であるが、それらは日本においては関連づけられる場合もあり、現在の現実をもってそれをどう解決していくべきなのかを考える現実主義に結実する。例えば経世実用を学風とする日本の神奈川大学の哲学者草薙正夫、信太正三、武藤光朗らは実存主義哲学からマルクス主義、インド主義などにアプローチして、現実の社会問題を解決しようとし、無限革命論(トロツキーの永久革命論とは異なる)に発展する。
ツァラトゥストラはかく語りき ~ SNAKE BOOTS(Live) - THEATRE BROOK
「ニヒリズムとしての形而上学」
ハイデガーによれば、「ニヒリズムの本質は無への問いが真剣に問われていないことに存する」。そして、西洋形而上学の歴史は、まさにこの点でニヒリズムであるとされる。ハイデガーの主張を簡単にまとめるならば、以下のようになるであろう。
形而上学は、存在者そのものとは何かを問うことによって、存在者の〈本質〉や、〈根拠〉あるいは〈原理〉を問題にしてきた。ハイデガーによれば、これらは結局、 存在者の〈存在〉の規定である。例えば、プラトンのイデア、アリストテレスのエネルゲイアに始まり、ヘーゲルの絶対概念、ニーチェの力への意志に到るまで、それぞれの哲学者の根本概念は、全て存在者の存在を規定するものなのである。しかし、これらの根本概念は、必ずしも存在者の存在として明確な仕方で問題にされている訳ではない。むしろ、中世哲学における〈最高原因〉としての神の概念に端的に現れているように、存在者の本質、根拠、原理と言ったものは、それ自身やはり存在者であると言わざるを得ない。つまり、世界全体の根拠が、神、主体、価値と言った仕方で捉えられることによって、存在者の現れとそもそも可能にしているはずの〈存在〉の平けがそれと共に隠れてしまう、つまり、無となって仕舞うのである。この事態をまたハイデガーはニヒリズムと呼ぶ。西洋の形而上学自体が存在を問わないがために、 ニヒリズムに陥ることになるのである。
形而上学は確かに存在者の存在を問題にしながらも、それを「一つの存在者に置き換えて仕舞う」。それ故、形而上学が存在者全体を超越して、存在が問われるべき次元へと到るのは、「ただ、存在者そのものを表-象する(vor-stellen) ため、即ち存在者に帰還するためにである。そして、このような超越においては「存在は表象的にいわば軽く触れられているに過ぎない」。つまり、存在は存在者そのものについて問うことの内でのみ問題にされ、しかもその実、本当には問題にされないままなのである。
だが、このような存在忘却は、やはり思惟の怠慢に由来するのではない。ハイデガ ーにとって、形而上学の歴史において、存在忘却がそれと気づかれないままでいることは、決して仮初めのことではなく、ある必然性を持っている。形而上学の欠陥の故に、存在を把握することが出来ないのではなく、むしろ、その逆に、「存在は、自らを存在者の内へと顕すことによって、逃れ去っている」のである。しかし、存在など初めから無いと言うことではない。それは存在の隠れであり、そのようにして隠れることが可能になるためには、存在は何らかの仕方で現れているのでなければならない。こうして、存在は存在者そのものの規定の内で、本質、根拠などという、いわば〈仮の姿〉に身を隠しながら現れている。換言すれば、存在の迷わしが、 上に述べたような形而上学の根本概念の変遷を可能にする歴史的な〈場〉ないしは「在処」(Ort)を開くのである。ハイデガーは、即ち、形而上学の存在者の規定は、各々の時代に生きる人間の存在者との関わりを、全体として規制する枠組みとなっているのであり、人間はその下でそれとは知らずして「執-存」(In-sistenz)の内に入り込 んで仕舞っているのである。
しかも、この迷わしの場、つまり「迷域」(Irrtum)の 内で形而上学は、自らの存在忘却と言う〈本質〉に気づくことなく変遷する。このことは存在の現れの側から言えば「存在の歴史のエポック(Epoche)」ないしは「留まり」(Bleibe)である。しかし、そのようなエポックにおいて、存在は「姿を現さない」(ausbleiben)、つまり形而上学の歴史の外側に留まっている。だが、それは形而上学の歴史の外側に、存在の歴史が並立しているにも関わらず、形而上学はそれに気がつかないと言うことではない。むしろ形而上学の歴史は、存在が自らを顕にしないという仕方で自らを「贈る」(schicken)存在の歴史であり、それをハイデガーは、歴史的運命、即ち「歴運」(Geschick)と呼ぶ。そしてあるエポックから次のエポックへと「世界歴史」は、急激な仕方で移り行くのである。それ故「形而上学の 本質は、それが存在者そのものの真理の歴史として、存在自身の歴運から起こっていることとなろう。形而上学はその本質において、存在自身の、留保されているが故に考えられていない秘密となるだろう」。
さて、このような上空俯瞰的な議論は、すでにニーチェ解釈において確認したよう に、個々の哲学者の学説に対する忠実な態度とは相容れないものがあるが、存在が姿を現さないことと、ニーチェにおいてニヒリズムが大きな課題になったこととには注目すべき連関が認められるであろう。すでにニーチェが看破したように、プラトニズム自体がニヒリズムなのであるが、ニヒリズムの教説としての主張(とハイデガーが理解する)が今度は形而上学の完成となる、そう言う時代にまで存在の歴史は進んだと言うことである。ハイデガーが形而上学の全体を見渡すような立場に立つことがで出来るのも、ニヒリズムの進行ないしは深刻化によって、自らの時代の危機が極まっているために他ならない。
〜ニヒリズムと言うとこの人のことが頭に浮かぶ。〜
坂口 安吾(1906年(明治39年)- 1955年(昭和30年))は、小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。新潟県新潟市出身。東洋大学インド哲学倫理科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。純文学のみならず、歴史小説や推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。
戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田左之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれ地歩を築いた。歴史小説では黒田如水を主人公とした『二流の人』、推理小説では『不連続殺人事件』が注目された。
坂口安吾の文学作品には、途中で放棄された未完の長編や失敗作も多く、小説家としての技量や芸術性・完璧性の観点からは器用な作家とは言えないが、その作風には独特の不思議な魅力があり、狂気じみた爆発的性格と風が吹き通っている「がらんどう」のような風格の稀有な作家だと言われている。
晩年に生まれた一人息子の坂口綱男は写真家です。またアンコウを共食いと言い好んで食べたそうです。
〜宮崎駿、ニヒリズムについて語る。〜
伝導の書(旧約聖書の一書)に書かれている突き抜けたニヒリズムって言うのは読んでいてちょっと元気が出ました。 汝の尽くせる限りのことを尽くせと、黄泉(よみ)の国にいったら何にも無いよって(笑)。
権謀(その場に応じた策略)も術策(はかりごと)もないけど知恵も知識もない、だからお前の空なる人生のあいだは自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで、額に汗流して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様もよしとしてるんだって言う。
すごいですねぇ、旧約聖書って言うのはすごいものなんだなぁっているのを初めてその時知ったんですけど(笑)
「お前の空なる人生」とここまでアッサリ言われてしまうと、人生の意義や目的を求めて苦しんでいたのがバカらしくなってしまいます。その上で、食って飲んで楽しんでやれるだけのことをやれと言ってくれています。突き抜けちゃうとそんなものかもしれません。
さらに、突き抜けたニヒリズムを動機づけるものは?と聞かれて次のように答えています。
「ええ、難しいですね、ものすごく難しいと思います。でも安直なイデオロギーは手に入れたくないですね。だからやっぱり、どうもねぇ、ある種の歴史観で見ちゃうと「どうしてこの時代に人が生きていたんだろう、生きていられたんだろう」って、理解できなくなる瞬間があるんですよ。どうも人が生きるっているのは、そう言うのとはなんか根源的にちょっと違うものなんだなって言う。「人がなぜ生きていくのか」とかさ。それをこのごろ思いますね。子供をいっぱい作れっていうようになっちゃいましたから(笑)。
とにかくいっぱい作っていっぱい苦しんでね。アトピーに悩み、環境問題に悩み経済に悩みながら生きているくことがどうやら生きてくと言うことらしいと。そうやって当面、あと10年ぐらい生きていこうって言う風に僕は決めたんです(笑)」
突き抜けたニヒリズムを動機づけるものは、やっぱり人間らしい暮らしの中にある、と言うことだと思います。
「いやぁ、だから人って言うのは愚かなものなんだよって言うね。実は僕は母親とその問題をめぐって、ずーっと思春期の頃に論争してたんです。「人間って言うのは仕方がないものなんだ」っているのがオフクロの持論で、僕は「そんなことはない」って言い合ってたんですけどね。どうもこのままいくと、オフクロに無条件降伏になるから嫌だなと思って(笑)」
「COBRA」
左腕に特殊な高性能銃「サイコガン」を付けた、一匹狼の宇宙海賊・コブラの活躍を、アメコミ風タッチで描く痛快SFアクション(スペース・オペラ)。原型となる作品に『シグマ45』がある。
『週刊少年ジャンプ』で1978年から1984年にかけて断続的に連載され、その後も『スーパージャンプ』、『コミックフラッパー』と掲載誌を変えながら、断続的にではあるが作品を継続している(現時点での最新エピソードは2006年に完結しているが、作品自体の完結は宣言されていない)。
寺沢が癖の強い人物で、さらに作画に極めてこだわることから週刊連載が不可能になるが、当時の編集長であった西村繁男のお気に入りの作品であったことから優遇され、第2部「黒竜王」編(1981年)以降、ジャンプでは珍しい描き溜めシステムがとられ、ある程度執筆が進んだ段階で連載再開→エピソード終了による連載休止が繰り返された。西村によると、せっかく人気が上昇してもすぐに中断になることから、なかなかスムーズにいかなかったらしい。西村がジャンプの編集長を退任し、新たに『スーパージャンプ』を創刊し編集長に就任すると、寺沢も共に移籍した。
既刊作品がたびたび版を変えて再発売されるロングセラーになっている。ジャンプ系雑誌の発刊社である集英社で連載をしていた当時には同社から単行本が刊行されていた(現在集英社によるコミックは全て絶版)。コミックフラッパーに移籍後は発売元であるメディアファクトリー(MF社。現・KADOKAWA)からジャンプ時代のコミックスより「黒竜王」「ラグボール」「神の瞳」編などが完全版コミックスおよびフルカラー版と成り発売。2014~2015年には廉価版(いわゆるコンビニ・コミック版)が刊行されている(なおMF/KADOKAWA社に移行後、英語表記が SPACE ADVENTURE COBRA から COBRA THE SPACE PIRATE となった)。また、eBookでほとんどのエピソードの購読が可能。
super agente cobra capitulo 8 parte 1
super agente cobra capitulo 8 parte 2
「止められるか、俺たちを」DVD発売中。。。
映画を武器に社会を変えたい-。青春映画「止められるか、俺たちを」(白石和彌監督)は鬼才、若松孝二監督(1936~2012年)の若き日と弟子たちの奮闘を実話に基づいて映画化した作品だ。主演、井浦新(44)が「師匠」と慕う若松監督を熱演した。「恩師を演じるのは恐れ多くて…」。出演の打診に井浦は1カ月ほど回答を留保した。だが少しずつ「自分以外にいない」との自負がこみ上げてきた。「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(平成20年)など若松作品に5作出演。24年に不慮の死を遂げた若松監督の葬儀では弔辞を読むなど、「若松組の顔」との思いが強かったからだ。
脚本に目を通した井浦は驚いた。ダブル主演の門脇麦(26)が演じた若松組の助監督、吉積めぐみの存在など初耳だった。「若松監督の口から一度も聞いたことがない。50年も前に若い女性がピンク作品を懸命に撮っていたなんて…」ピンク作品の監督を任せるなど、めぐみを一人前に育てようとかわいがる若松監督の姿は井浦にとって新鮮。また、「内輪話に陥らず、将来や生き方に迷う若者たちを丁寧に描いている」と好感を持った。
作中、徐々に頭角を現すめぐみは「自分が撮りたいものが分からない…」と焦燥感に駆られる。そんな彼女を行きつけのバーに連れ出した若松監督が、「お前は腹立つことはないのか。何をぶち壊したいんだ。俺はぶち壊したいよ。この腐った世の中を」と東北弁で熱く語る場面は迫力と温かさに満ちている。「若松監督は、まずは何かにやみくもに打ち込むことで感動が生まれてくる-と教えたかったはず。僕も彼と出会い、エネルギッシュな仕事ぶりから仕事の面白さを学んだ」と井浦。
井浦も物語のめぐみも現状とは違う何かを求め、一層仕事に身が入るようになった。井浦はどんな役者人生を目指すのか答えを出せていないが、「一つ一つ丁寧に仕事をこなしたその先に、おのずと答えは出てくる」と信じている。
門脇麦、井浦新 『止められるか、俺たちを』 【2018】 映画予告編
本作は、実在した吉積めぐみという女性助監督の話でもありますが白石監督自身の話でもあります。
白石監督は実際に若手時代、若松プロで見習いからはじめ助監督業務をしていて、劇中のめぐみと同じように何度も若松監督に怒鳴られたそうです。若松孝二のような異常なまでの情熱や型破りさがないと監督にはなれないと考えていた点もめぐみと重なり、自身の初監督作の試写で若松の意見が気になったと言うのも同じです。
めぐみは夢半ばで儚い運命をたどりましたが、めぐみの死後に生まれ、同じく若松に育てられた白石監督が彼女をスクリーンに蘇らせました。そして晩年の若松作品に多数出演し若松孝二に育てられた井浦新が若松監督本人を演じ、若松プロのスタッフ役も実際に若松孝二とゆかりの深い役者が演じています。
少しだけ登場する寺島しのぶや奥田瑛二、渋川清彦も若松組の俳優です。
劇中に登場する足立正生、荒井晴彦、高間賢治もアドバイザーとして本作に関わっています。そんな現場ゆえに、若松プロも当時の荒れた日本の空気感も完璧に再現されています。
一方で、めぐみを演じた門脇麦は、生前の若松監督を知らないからこそ、男社会の若松プロの中で戦う女性助監督を見事に体現しています。なにもわからないまま若松プロにやってきて、徐々に映画の世界そして若松孝二や足立正生に惹かれていくめぐみの姿とリアルにシンクロしていました。
若松プロの事も当時の空気感も知らない方が観ても、嘘くさく見えず実在感のあるキャラ造形になっています。そして若松プロの映画を撮影風景も含めしっかり再現しているのも見所です。本作で登場する若松プロの映画は全てピンク要素がありますが、それは映画を作るための手段に過ぎません。
逆に「男女の絡みさえあれば後は何しても自由」という制作体制だったのです。おかげで政治的にも倫理的にも尖った作品がたくさん生まれました。もちろん大儲けできるような映画作りではありませんでしたが、みんなやりたいことを熱意を持ってやれていた、まるで映画界全体が青春と呼べるような時代でした。
井浦新、白石和彌監督、井上淳一(脚本)『止められるか、俺たちを』名古屋舞台挨拶REPORT
めぐみの成長と挫折
本作は、昔の若松プロを再現した映画でもありますが、何よりもめぐみと言う1人の女性の話です。
彼女は映画が好きで若松プロに入ってきますが、当初は「こんな映画を撮りたい」というビジョンは持ち合わせていませんでした。
しかし、途中で自分の初監督作で失敗してから彼女にも沸々とこみ上げるものが出てきます。それを表すのが劇中に2度ある男たちの放尿のシーン。最初の若松と赤塚が放尿するシーンではめぐみはそれを面白がって見てるだけですが、後半でガイラやオバケが放尿する時は「あたしも~」と一緒に放尿したがります。このエピソードは事実かわかりませんが、ここにおける放尿とは「自分の作品や思想を世に放つこと」を表します。
新人の時は若松・赤塚の天才2人の放尿は遠い世界の出来事のように見ていましたが、同じ助監督だったガイラとオバケが自分たちの映画を撮りだした時期の放尿には過剰に反応します。自分はまだ自分が世間に伝えたいことが見つかっておらず、まだ満足いく監督作もない。めぐみにはそんな焦りの意識が芽生えていたのです。
しかし彼女は新聞記者の取材とは裏腹に、女性であることのプレッシャーに負けたかのような最期を遂げます。本作の前半ではバックボーンも何も分からずに映画作りにのめりこんでいくめぐみの姿が描かれていますが、妊娠や才能の壁にぶつかる後半では、彼女の家族や昔のことが段々とわかるようになっています。
前半では彼女を鼓舞する役割だったウィスキーが、最後の最後で彼女を殺す事になると言う小道具の使い方も上手いです。しかし本作は、悲劇で終わる映画ではありません。
ラストでも描かれているように若松孝二は2012年に交通事故で亡くなるまで、愛弟子の死という理不尽な現実への怒りも創作のパワーに変えて挑戦的な映画を撮り続けました。
それは同時代の仲間たちや、後の世代の白石監督や井浦新にも伝わり伝播するほどの熱意です。そして結果としてめぐみは死後40数年を経てスクリーンに蘇ります。歩みを止めなかった若松プロだからこそ出来た奇跡のような作品です。
『止められるか、俺たちを』の「俺たち」の部分には途方もない人数の関わりが入っているのではないでしょうか。本作は、映画制作が熱かった時代を見事に再現した映画です。
「映画を武器に世界と闘う」「映画で世界をぶち壊す」と言う若松の言葉のような映画作りは、熱意さえあれば時代関係なく可能なのです。白石監督もキャストたちもスタッフも若松プロも今後止まることなくどんどん突っ走ってくれることでしょう。
本作のパンフレットには劇中の業界用語や時代背景、若松プロの作品の説明に濃いインタビューなどが載っているので必見です。
下はレッド・ツッペリンのLive映像です。
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Led Zeppelin - Whole Lotta Love (Official Music Video)
Led Zeppelin - The Ocean (Live at Madison Square Garden 1973)
Led Zeppelin In My Time Of Dying Mhotership
Led Zeppelin - Achilles Last Stand (Live Knebworth 1979)
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