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「あ丶ブルース」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド from album "あゝブルース Vol.2" 1976年
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大学在学中に一度会社でバイトをした事があるが、私は嫌だったが、「従兄弟らも学生時代バイトに来た、お前が来ない手はねえんだ!!」とバカ親父がうるさいので、こっちはギターやらbluesharp(ハーモニカの一種)。の練習で時間が足りないぐらいなのに無理をしてバイトに行った。勿論、従兄弟らは私の事は無視をしたが、一人、駄菓子屋から会社に入って来た人間が煩かった。車に乗ってラジオを付け様とすると、「ラジオを聴くより、おらさの話の方が面白いぞ」と言い。くだらないバカ話とエロ話ばかり聞かされた。私が「今日は5時までに帰らないとライブがあるので。」と言うと「ライブってなんだ?」と言う。「あのですね、ライブハウスと言う音楽を聴かせながら飲み物やら食事をする店があって、そこで今日は夕方から演奏する事になって居るんですよ...。」と言ったら。「嘘も休み休み言え!、そんな店がある訳無いだろう!!。おらさは聞いた事もないぞ、丸嘘つきやがって!!」と言うので「あんたが知らないだけだろ!!あるんだよ!そう言う店が!!」と怒鳴ったら。「いや、おらさにも解るぞ。きっとロカビリー聴いてゴーゴー踊るんだろ...。」と言うので、もうウンザリだと思い「ブルースとジャズですよ!!」と言ったら「おらさが思うに、そう言う店に来るのは芸術家だぞきっと、〇〇ちゃんはそう言う人たちと付き合ってるのか?」と聞いて来たので「ええ!💢😤」と言ったら要約、黙った。
本当に嫌だった。だから親父の会社ではバイトはしなかったのだ。それなのに。病気を発症した後にその会社で働かされた。こんなに嫌な事は無かった。私は大学時代は生活費を稼ぐ為にバイトをしたが、親父の会社ではしなかった。あんな会社!!何が会社だ!!馬鹿しかいなかった。一度、仕事中に歳が行った社員と車に乗って居て、あまりにも訳が解ら無い話をするので、「それはこう言う事でしょう!!解ら無いんですか!!!」と怒って言ったら、「俺、解ら無いんだよ、、」とポツリと言うので呆れて黙ってしまった事がある。そう言う人たちと生活して居たので、私はもともと利口では無いけど、学ぶ時に何も学べなかった。学生時代は中古ビデオやら中古レコードやCD、書籍を買い込んで帰って来ると。昔の実家は、会社と一緒だった為に玄関先に車が停めてあり、そこに社員が車の中に乗って寝て居て、、私がその前を通るとガバッと起き上がって車のドアを開けて「〇〇ちゃん、何買って来たの!!」と言うが早いか、勝手に、私から買った物が入って居る紙袋を、取り上げて封を切って中を見てしまうと言う事が度々あった。私はその都度、激怒して怒った。「人のものでしょう!!」と怒鳴って取り返すと言う事が続いてあった。本当に嫌だった。程度の低い学の無い人間ほど厄介なものは無い。私は学歴差別をしたくは無いが。会社で働いて居る人間たちはどいつも駄目人間だった。今、親父の会社の社長はゆきかずだ。あいつには良い会社なのだろうよ。私は2度と会社のかの字も見たくは無い。以上愚痴にまた成ってしまいました。すみませんでした・・・・・・・。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾
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「ベース・キャンプ・ブルース」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド from album "続 脱・どん底" 1975年
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毎日眠くて仕方がない。1日眠たい。大体が訪問看護師が来る日でも。来る直前まで寝て居る。さっきも12時頃に、昼食べてから、眠くなり寝て居たが3時まで寝て居てまだ眠たかったが、いい加減に起きないとと思い起きたら。頭はフラつくは 、足がもつれて転びそうになるわ、この間は近くのコンビニまで歩いて行ったら。横を走って居た車と接触しそうに成り、クラクションを鳴らされて、要約、踏み止まったぐらいだ。今もだるくて眠い、すべて薬が強すぎるせいだ、診察日は一昨日だった。薬は以前に比べたら、半分の量に減っては居るが。薬剤師が以前に睡眠薬が処方された時に、「物凄く眠くなるので気を付けて下さい」とは言っては居たが、そして「最近嫌に太ったと言う事が無いですか?」と聞かれた。そして「今回、処方された抗精神薬は物凄く太るから気をつけて下さい」と言われた。しかし、そう言った薬剤師の若い女の子は辞めたらしい。恐らくは辞めさせられたのであろう。本当の事を言うから.....。だから、一日中眠くなるとは思わなかった。医者は患者が飲む薬を医大時代に飲まされては居るが、症状があって飲むのと、何も症状がなくて飲むのとは。薬の効用の聞き方が違うのだと思う。それにしても体の調子が悪すぎる。皆、薬のせいですよね。それなのに主治医に眠くて堪らないし、頭が痺れると言うと、「おかしいなあ、そんな事は無いのになぁ....。」と惚ける。私が「薬の副作用でしょ?」と言うと「薬では無いよ〜。」と嘘を吐くのですよね。私は大学受験の時に地理を塾から派遣された先生に教えて貰った事が有ったのだが、その人曰く、アメリカでマリファナとコカインを吸ったそうだが、マリファナはいい気持ちになったが。コカインは凄い効き目で自分には何でも出来ると思ったし、現に途方も無い事が出来たそうだ。
また病院に入院中にコカインをやって入院して来た人が居て、その男はバンドをやって居るボーカルで、またライブハウスで働いて居た事があったそうだが。ある有名バンド(可也有名)がライブ打ち上げでケーキの中にコカインを大量に入れて食べて居たそうだ。そいつが言って居たが、今はライブハウスでは立川から向こう方面は麻薬で全滅だと言って居た。以前にあるミュージシャンが保釈されて頭を下げて居たが、一度麻薬をやるとその効果を持続したく成り、辞められなく成る様だ。しかし、これも、だらしがない話だ。薬でしか作曲やら楽器演奏が出来ないとはね。あのGACKTくんもそう言って非難して居る。そう言えば私の同級生だった友人でヘビメタのバンドでリードギターを弾いていた男は麻薬をやっておかしくなり数年間も精神病院の独房室に入って居たらしい。歳が私と同じなのだから、もう今は60歳を超えて居るのでバンド活動はして居ないだろうが。その男はライバル心が強く、私がバンドでビパップ調のブルースを演奏したのを聴いて。自分は負けたと家出をしたらしい。当時のベーシストから聞いた。私は私だ、誰に胡散がられようが、邪険にされようが、バカにされようが私は私なのだ。私は自分の心情に誠実に忠実に生きて行くだけだ。バカにしたかったらバカにして居ればいい。私は何ももう言わない。勝手に言いたいだけ言えばいい......。
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『御先祖様万々歳』
Gosenzosama Banbanzai! - "Detectives Do Not Believe In Love"
The Guard Dog of Time
「ご先祖様万々歳」は特殊系アニメです
うる星やつらの時も思いましたが押井守監督にはこういった膨大なセリフの応酬で笑わせてくれるタイプのアニメをもっともっと作ってほしいです。監督の手法だと脚本の領域が平均的なアニメよりも重点が置かれている感じがうするので視聴者の脳も耳もフル回転モードで観賞すると良いでしょう。というのもあまりボーっとしながら見ていると置いていかることもあるかもしれないと思いますので。でもちょっと集中力を高めて見ているだけでOK.それだけで密度の濃さを堪能できます。
舞台喜劇風のアニメです
5章仕立てで舞台が章ごとに登場しますがキャラクター達は基本その舞台内でストーリーを進行させていくので舞台劇を見ている感じでしょうかね。かなり変わったアニメで最初は何だこりゃと思いましたが大成功です。声優さんもすべてベテランで演技が恐ろしく達者なレベルの方々ばかりなのでその点はこのアニメに置いてとてつもなく重要なポイントだったのではないでしょうか。確かにステージ内でうまくカメラアングルを切り替えたりして絵としても飽きさせない工夫はされていますが朗読劇的な要素もわずかながら入っていますので並の演技力の声優さんではこの作品を成立させるのは難しかったとつくづく思います。あえてうる星やつらキャストにしたんでしょうがイメージもダブらず見ることができましたよ。あと鷲尾真知子さんの演技ってちょっと変わっててこの作品のキャスト全体的にもそうですが演技に遊びの様な部分があるせいなのか妙なリアルさがあります。
こんな独創的なアニメはあまり類を見ない
流行とかファンを作りやすい主流を行くとかそういった流れを一切無視して作りたいものを作ったという感じがします。日常ドラマでありながら非日常空間でありアットホームな場所にいながらも家族のメンバーが突如敵の様な立場に変化、結局一家は離散したりとかいう何か全てが相反したものと常に重なり合っているというか皮肉がとにかくもの凄く多いですね。ただ物語的には結末は割と不可解です。ヒロインの麿子の目的は?何故、どうしてこういう方向に向かってしまった?みたいな意味不明なことが盛りだくさんです。そのわけの分からなさもシリア風とギャグ風の両方の路線が同時進行して笑えるわ、でも悲しいわでなんだかもう見ていると自分の心情さえも説明できなくなってしまうほどなんです。最終的に行きつく感想は「やっぱり至極面白かった」という結論にはなるんですがね。
演出では、極端な長回しが多用されているのが特徴。というか完全に演劇ですね。キャラクターがカメラに向かって(つまり誰もいない真正面を向いて)話しかけたりしていますし、「作り話」という感覚が強調されている。『天使のたまご』もそうですが、都合のよい設定に対して何らかのエキィスキューズをつけずにはいられないのが押井監督の気質なのでしょう。長回しという点では、以前公開された『スカイ・クロラ』も800~900カット程度だという話なので、原点は案外この辺にあるのかもしれません。
『御先祖様』を語る上で、全話の作画監督を務めている、うつのみやさとる(全部平仮名だと読み辛い)の話は避けて通れないかと思われます。例えば第1話、黒い背景と緑のドアの前で主人公の四方田犬丸(某評論家のもじり)が長広舌をふるうシーン。ここ、動きのリアリティもさることながら、影の付け方が非常に面白い。光源の位置が特定できるような付け方がされている。前者はみんな真似しているのでそれほど新しく感じないのですが(『ef』の第7話でも、影絵の蓮治がじたばた動くシーンがありましたね)、後者は今見ても結構独自の表現かもしれません。関節を異常に強調するマリオネットのようなキャラクタデザインも「舞台的」という印象を強めています。
Gosenzo-sama Banbanzai EP 2
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立花隆事務所(猫ビル)訪問
ON THE WAY ジャーナル 瀬尾傑 本のソムリエ 立花隆
立花隆は本名を橘隆志と書き、1940年5月28日長崎県の長崎市に生まれました。父親は教師でしたが、彼が2歳の時、文部省の職員として北京で働くことになり、家族で中国へと移住しました。1945年に日本が戦争に負けると家族は命からがら日本へと引き上げ、茨城県の水戸に落ち着きます。この時の喰うや喰わずのギリギリの逃避行は、その後彼が世界各地で放浪の旅をする原点になったようです。どうやら彼の一族は家系的に天才の血筋だったようで、彼もまた子供の頃から頭の良さは抜きん出ていたようです。小学生から中学生にかけて、彼は図書館にびっちり通いつめ、世界中の有名文学を読み漁りました。例えば、中二から中三にかけて、彼が呼んだ本の中には、「カンタベリー物語」(チョーサー)、「ボヴァリー夫人」(フローベル)、「若きウェルテルのなやみ」「ファウスト」(ゲーテ)、「嵐が丘」(ブロンテ)、「罪と罰」(ドストエフスキー)などがあったといいます。まさに、「恐るべき子供」です。
しかし、文学大好き少年だった彼ですが「科学」への興味はそれ以上だったようで、高校一年生までは科学者になることを目指していたそうです。ところが、高校の先生が「色盲」では科学者になれないと言われ、仕方なく文系の道へ、小説家になる道へと進むことにしました。分野によっては、色盲では困難な分野はあるかもしれませんが、・・・日本の科学界は大きな逸材をこの時逃したかもしれません。
ただし、後に彼は自分は科学者には向いていなかったと語っています。
「・・・僕は浮気性だから、大体わかったというところまでいくと、次は違うことがやりたくなる。もともと研究者は合わなかったんだなっと。・・・」
<混乱する大学で>
その後、彼は東大の文学部に合格。大学の先輩、大江健三郎のような文学者になることを目指して小説を書き始めました。しかし、彼が東大に入学した1959年という年は、60年安保闘争真っただ中、「文学」よりも「政治」の時代でした。そんな中、彼は学生運動に参加するのではなく、彼らしくまったく異なる道を選びます。原爆関連のドキュメンタリー映画や資料をもって世界各地を旅する「反原子爆弾世界キャンペーン・ツアー」を自ら企画、実行に向けて動き出したのです。
当時、海外ではバートランド・ラッセルやアインシュタインらの呼びかけにより、反核運動が市民運動として盛り上がりつつありました。そのおかげもあり、彼らの計画に対し、海外の受け入れ先は見つかりましたが、問題は高額な渡航費用でした。そうでなくても、日本人が自由に海外旅行をする時代は、まだ先のことで、友人との二人旅に必要な費用は当時のお金で100万円にのぼりました。(現在のお金なら1000万円にはなるでしょう)募金活動だけでは、到底足りず、各新聞に記事を載せてもらい寄付を集めることと、直接新聞社から資金を提供してもらうことでなんとか旅に出ることが可能になりました。
翌1960年の4月、ついに彼らはヨーロッパへ飛行機で出発。ロンドンをスタートしてフランス、イタリア、オランダなどで映画の上映会を開催し、各地の市民運動グループとの交流を行い、彼らは船で日本へと帰国します。この時、政治運動ではない市民運動としての活動を体験した彼は、日本で繰り広げられていた中核派や革マル派による勢力争いの展望の無さ、ナンセンスさに気づかされました。こうして、彼は学生運動から離れ、ジャーナリズムの道へと進むことになります。
<ジャーナリストとして>
大学を卒業した彼は文藝春秋社に就職。そこで「週刊文春」に配属され、その編集部で「この人と一週間」などの企画を担当します。話題の人物に一週間密着して、その人物の人間像を浮かび上がらせるというそのルポルタージュで彼が書いた人々は、ハナ肇、山本富士子、ザ・ピーナッツ、倍賞千恵子、今村昌平、三国連太郎など様々な分野の人々でした。改めて当時の文章を読んでみると、彼がごく自然に主人公の内面までも引き出してみせていることに感心させられます。著者の存在を消すことで、読者は著者とともに一週間の取材に参加している気になります。こうした、彼の客観性にこだわる文章スタイルは、この頃からすでに出来つつありました。それともうひとつ、彼がどんな人物を描く時も、けっして単一の視点で描くことはなく、常に対象に対する敬意や優しさをもって望んでいることにも感心させられます。そうした彼の姿勢が伝わるからこそ、彼の取材対象は裏表なく心の内を明かしてくれたのでしょう。
<フリーライターへ>
作家を目指していた彼は、金銭的にも時間的にも不満を感じ、二年で文藝春秋社を退社。1967年に東大の哲学科に再入学します。そこで学びながら彼はアルバイトで講談社に通い、女性週刊誌「ヤングレディ」のアンカーマンを勤めました。アンカーマンとは、記者が取材して集めてきた情報ををもとに紙面に載せる最終的な記事に仕上げる仕事。他誌との争いもあるので、時間との闘いの場合も多いようです。この仕事により、彼は様々な取材結果を文章にまとめる技術を身につけることになりました。こうした経験を生かして、彼はフリーのライターとして、古巣の「文藝春秋」や「諸君!」、「潮」などの雑誌に次々とルポを発表してゆきます。この頃、彼が書いたルポをいくつかあげると・・・。「60年安保栄光と悲惨」、「実像・山本義隆と秋田明大」、「この果てしなき断絶 - 三派全学連・父と子の記録」など、当時の政治闘争についての作品群。これらのルポには、60年安保と70年安保、二つの時代の運動の違いや英雄たちの生い立ちと挫折が描かれ、その後訪れることになる悲惨な運動の行く末とその延長線上に登場することになるオウム真理教の影を感じることができます。
「最近の学生のデモにはプラカードもビラもない。シュプレヒコールは呼びかけのためではなく、もっぱら自分たちの決意の確認のためである。60年のデモ隊の顔には見物人と機動隊に半々に向けられていたが、今は機動隊にだけ向けられている。周囲の人間から、マスコミからいかなる非難をあびせかけられようと、彼らは少しも動じない。」僕が高校生の時、教室にアジりにきた学生も今思うと教室でアジるだけアジって、生徒たちに協力を呼びかけることをしないまま、あっさりと教室を出ていったような気がします。「安保問題」自体が過去の出来事として忘れられつつあるだけに、こうした記憶はもっと語れるべきだと思います。
「『少年マガジン』は現代最高の総合雑誌か」
1969年「諸君!」に発表された「『少年マガジン』は現代最高の総合雑誌か?」では、大人まで読むようになったマンガ雑誌が今後社会を変えていくだろうという予測が書かれています。彼はマンガという絵と文書による総合メディアは、情報量が急激に増えつつある世界において、より早くより直感的に情報吸収を行うために不可欠なツールになるだろうと指摘。しかし、そうしたメディアの変革は、その予測をはるかに越えることになりました。マンガからアニメへ、そしてインターネットの登場によって、「ユーチューブ」のような映像メディアも生まれ、世界中の情報が瞬時に見られる状況が生まれつつあります。そして、その傾向はますます加速しています。そう思って読むと当時のマンガ黄金時代はなんとものどかだった気がします。
「十七世紀にはじまる西欧文明=科学は、幾何学の精神に導かれてきた。しかし、ここにきて、幾何学の精神がもたらした過剰情報に幾何学の精神は首をしめられつつある。論理を追って受容できる限度以上の情報量に対して反応していくことが要求されている。頼るべきは直観しかない。」
「『少年マガジン』は現代最高の総合雑誌か?」
さらに情報化が進む日本社会について、こんな記述もあります。
「・・・歴史的に近代をとびこして発展してしまったので、否定すべき個もなく、はじめから情報社会的なejectの段階にあるんですよ。良くも悪くも日本ははじめから連帯してしまっているようなところがある。この意味じゃ、今の日本は世界で一番情報社会的になっているんじゅないですか。これからも個が失われる方向に進んでいくでしょう。」
川添登(建築評論家)
「毛沢東の徹底的解明 - 革命家・毛沢東とは」
21世紀にまでつながる中国独自の共産主義政治体制の原点となった毛沢東の生い立ちから、中国統一までの歴史が客観的な視点から描かれています。未だに民主的な政治とは程遠い中国の管理された政治体制や「大衆重視・人命軽視」の考え方がたった一人の男の思想からもたらされたことに驚かされます。21世紀の世界にとっては、もしかするとキリスト教よりもイスラム教よりも、「毛沢東」教こそが最大の影響力をもっているといえるでしょう。
これらのルポを次々と発表するかたわら彼は新宿ゴールデン街でバー「ガルガンチュア」をオープンさせ、半年間その店のマスターを勤め業界人の間で有名に店にしてしまいます。この頃から彼のグルメとワイン通は有名で、後に彼はフランスにワイン製造施設付の別荘を購入することになります。しかし、彼の性格上、そうした店をいつまでも続けることは無理な話で、1972年、店の経営権を売却。彼はイスラエル、ヨーロッパ、中東への旅に出発しました。その途中、彼はあの有名なテルアビブ空港の乱射事件に遭遇。唯一生き残った犯人、岡本公三との対話を「週刊文春」に発表。大きな話題となりました。その後、1974年にも彼は中近東の旅をしながらパレスチナ問題に関するルポを次々に発表してゆきます。そして、この年、彼が取りかかった仕事として特筆すべきなのが「文藝春秋」に発表された「田中角栄研究 - その金脈と人脈」です。
「田中角栄研究 - その金脈と人脈」
戦後日本の政治を象徴する存在ともいえる総理大臣田中角栄についての取材はその後も、様々な形で続けられ、その集大成ともなる分厚い作品「田中角栄研究全記録(上・下)」(講談社)が1976年10月に発表されます。彼の名前を海外にまで広めることになるこれらのルポ作品は当初マスコミの間では、それほど重要視されてはいなかったといいます。大方の見解は二つに分かれていました。ひとつは「そんなことはどの記者でも知っていることだ」というもので、もうひとつは「確かに事実化もしれないが、もしそうならすぐに握りつぶされるはずだ」というものでした。ところが、彼のその記事について、意外なところから大きな反響が起きることになります。
海外の記者たちによって行われる外国人記者クラブ主宰の記者会見に現職の総理大臣田中角栄が登場した日、彼らの中の一人が立花氏の記事についての真偽を問いただしました。すると田中角栄は相手が日本人記者ではないことに油断したことと通訳の行き違いから、記事の内容を認めてしまいます。ところが、それがあっという間に「総理大臣による犯罪」として世界に向けて発信されてしまうことになったのでした。こうして、あの有名な「ロッキード事件」が始まることになるわけです。
現職の総理大臣が罪に問われ、なおかつ裁判によって有罪判決を受けるという歴史上類をみない大事件は、決して大掛かりな調査チームによる壮大なプロジェクトではなく、立花隆という一人のライターとその助手数人によって実現されました。しかし、その調査の根本にあったのは、時の総理大臣を引きずり下ろそうという野望などではなく、素朴な疑問「なぜ田中角栄はあんなに金を集められるんだろう?」を解決したいという好奇心だったようです。あとは、その疑問を解決するために総理大臣へのお金の出入りを丹念に調べることで結果は自ずと明らかになってきました。
当時、検事として田中角栄の追及を行い一躍有名になった判事、堀田力氏は、「田中角栄研究全記録」について、こう書いています。
「・・・立花さんの田中研究は、単なる日本型政治のすぐれた分析書にとどまるものではない。この研究は、ほかの研究や分析とは、決定的に異なる特徴を持っている。それは、この研究自体が政治腐敗との闘争の武器であったという点である。・・・市民は、この研究により事実を知り、腐敗の実像に怒り、変革を求めた。そのエネルギーの源となったのであり、その根源には、立花さんの憤りがあった。・・・」
<立花隆の取材、分析手法>
優秀なスタッフやブレインを多数抱えているわけでもない彼は、どうやって取材相手を追い込み、事実を語らせるのか?その秘密はについて、かつて立花氏と仕事をした人物はこう語っています。
「情報源や取材チームの力が関係ないといわないが、重要なのは、立花隆の仮説の組み立て方だ。優れた仮説を組み立てるためには、精緻な情報の分析が必要である。この点で立花隆は天才だ。膨大な資料を読みこなし、情報を見事に整理する。強くて広い好奇心が、分析の馬力になっている。・・・」
「・・・凡人は違うのは、膨大な情報がまるでコンピューターで呼び出すように立花隆の頭の中では整理されているという点だ」
蜷川真夫
小説家、池澤夏樹は、立花隆のルポの特徴についてこう書いています。
(1) 日本人全体あるいは人間全体に関係する大きなテーマを取り上げ、
(2) それについて正確なデータを幅広く集め、
(3) それをダイナミックに分析して、
(4) 結果を簡単明瞭な文章につづる。
こう書くとジャーナリストや評論家なら誰もが考えそうなことばかりです。しかし、(1)のように広いテーマを扱うためには、科学も文学も政治も、すべてのジャンルの知識をおさえる必要があります。それぞれのスペシャリストではなく、すべてを知り、総合できる能力をもつ人材は日本という国の教育制度からは、非常に貴重な存在です。(2)(3)は、応用数学的、統計学的、科学的な分析力を必要とされる分野。(4)は、文学的才能を必要とされる分野といえます。統合的な能力をもつ彼だからこそ、四つの特徴をすべて合わせもつことができるのです。
さらに池澤は、もうひとつ重要な点についても言及しています。
「立花についてもう一つ大事なことがある。それは彼が決してアジテーターではないということだ。データを集め、それを分析して、一つの結論を出す。彼がやるのはそこまでで、その結果をもって大衆を脅かし、生活の変革を迫り、それを運動化することで自分の力を強めるという回路に彼は決して近づかない。権力の欠如といってもいい。・・・」
彼にとってのルポは、元々彼が大好きな放浪の旅と共通しているともいえます。旅の中で新しい何かを発見する喜びが、机に向かって頭の中で新しい物語を作る喜びを上回ったということなのでしょう。
「・・・だからある意味では、ずっと探検ばかりやってきた。暗黒大陸というか、未知の領域、世界を見つけたとき、それがいちばん面白いんじゃないかって気がするね。・・・」
湯川豊(文藝春秋社)との対話より
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アメリカの白人の天才的なブルースハープ奏者です。騙されたと思って聴いて見て下さいね。
Harmonica Master, Jason Ricci, Live!
Kim Wilson and his Blues All Stars . You're The One . December 2016.
The Kim Wilson Blues All-Stars Live at KNKX Public Radio
Jason Ricci & the bad Kind - Hip Shake - Live for bluesmoose radio
此処まで読んでくれて有難う。また来て下さいね。それではまた。更新出来たら会いましょう...。