私はこんな話は、もうしたくは無いけど。ある若いと言っても30歳ぐらいの女性だが、私が土方歳三の話をしたら。「その人、誰ですか?」と聞くのですよ。私はもしかしてと思い近藤勇。沖田総司と言っても見たが。どの人も知ら無いと言う。要するに新選組を知ら無いのですよ。私は「知ら無いの?」と言うと、「忠臣蔵なら聞いた事があるけど新選組なんて知ら無い」と言い切る。だから私は「司馬遼太郎は知って居るよね?」と聞いたら「知ら無い」と言う。「新撰組血風録やら。燃えよ剣とか、知ら無いの?」と聞いたら、「知ら無い」と言う。私は此間、訪問看護師の同じ30代ぐらいの人に聞いて見た。「あの人知ら無いと言うのだけども?」と言うと「興味が無いからなんでは無いですか....。」と言う。私は「そんな事も知ら無いなんて程度問題だよ......。」と言った。そして、それからその人がまた来た時に日本のロックの話を仕始めたら、、「ちょっと!!いい加減な事、言わ無いでよ!!。1970年代なんて歌謡曲と演歌しか無くてロックなんてまだ無いわよ!!」と言うのだ。私は「君、何言ってるの?日本のロックは1970年代からあるんだよ。知ら無いの !?」そう言うと黙って居る。
だから言った「君さぁ1960年代の「グループ・サウンズ」やら、その前の「ロカビリー」があった事も知ら無いだろ?」と言うと。「世界的に言ってもそんな時代に今のロックなんか出て来て居無いでしょ!!」と言うのだ。私は「あのねぇ.....。ロックは1965年ぐらいからあるんだよ。その前はロックンロールだったんだよ。知ら無いんだろう?」と言ったら要約黙った。だから言った「ビートルズが出てきたのは1964年ぐらいなんだよ?それも知ら無いだろ?」と言った。今日その話をヘルパーのおばちゃんに言ったら、「それがゼネレーション・ギャップよ」と言うから、「いや、程度問題だよ」と言った。今日はヘルパーのおばちゃんが、昔の漫画の話をして来るので2人して盛り上がった。特に「手塚治虫作品の「ばるばら」の映画がいいらしいよね。」と言うので。あれはいいですよ。俺は手塚治虫の原作も持って居ますよと、今から46年ぐらい前に購入して居た漫画本を見せた。そのおばちゃんは私より一つ上なのですよ。ほぼ同時代を生きて来たから。話は大体分かり合える。しかし私は、こうも今時の30代が何も知ら無いとは思わなかった。いや、驚くと同時に呆れた。ロックやら土方歳三を知ら無いのはいいとして、
いやぁ、土方を知ら無いのは問題だが。私が高校の頃。17歳当時は、ロックが全盛だったけど。私の様に音楽をよく聴いて居る人間は過去の音楽。ラグタイムやらロックンロール。ブルース。R&B。サザンソウルなどは皆んなこぞって聴いたものだ。そして日本ならグループ・サウンズやら当時の日本のロックバンド。ブルースバンドを聴いて居た。その当時の流行のロックしか聴か無い人たちは。やはりその後すぐにダメになって行った。今はヒップホップが全盛だ。しかし、それだけしか聴か無い人たちは後が無いと思う。歴史は過去から学ぶものだからだ。今の侭で満足して居てはダメなのだ。此間、ラジオを聴いて居たら、今時の男性ミュージシャンらがトーク番組で「デビット・ボウイ」の事を仕切に話して居た。今から46年前に流行った彼の曲は古いけど凄いと称えて居たのだ。私は歳だからその言い方に「古い?」とツッコミを入れて言いたくなってしまったが。彼は確か1970年代に「地球に落ちて来た男」と言う。映画で主役も張って居るし。最近では坂本龍一やら北野武と共に大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」などにも主演で出て居た程だ。彼は中性的な魅力があったが実際は男らしい男で。当時グラム・ロックと呼ばれて居た彼とT・レックスのマーク・ボラン。そしてアリス・クーパーやらニューヨーク・ドールズなどがビジュアル系ロックの出始めだった。
David Bowie - Ziggy Stardust (From The Motion Picture)
gackt君らはそれらを参考にして日本のビジュアル系ロックを作った。まあ、日本にはその前にロックでは無いが美輪明宏が居たけども。まあ、私は地味なブルースとジャズを信望して居たから。はっきり言ってgackt君の人柄やら才能は好きだしリスペクトして居るが。彼のマルス・ミゼル時代の曲は少し聴いた事があったが。彼がソロになった頃からの曲は。殆んど知ら無いし興味は持て無い。彼の歌は上手いとも思うし。曲もいい曲があるのは解っては居るが。私は矢張りBluesmanなのですよ。それに歳だから。若者の音楽は正直言って聴いて居てキツイ。でもシンガーソング・ライターの曲などは好きな曲もあるにはあります。ただ若者と同次元には慣れ無いですよ。それは私が老いぼれなせいですね。ジェネーレーション・ギャップですね。私がAKB48などの追っ掛けをして、ライトペン振って「〇〇ちゃん、命!!」などと騒いで居たらそれこそ異常です。
-HQ- 月下の夜想曲 / MALICE MIZER / Gackt
まあ。昨年73歳の老人がモーニング娘の追っかけをして居て、通は「モーニング娘」とは言わ無い「娘」と言うのだ!!と言って居た変態糞爺がいたが。まあ、あの老人は性犯罪を起こさ無い事を祈る。処でこのblogですが今だに書き換えられて居ます。「言う」と書いてあるのを「いう」と書き換えたり「居ます」を「います」に書き換えられて居る。私が自分でミスしたかの様に思い込ませ様として居るのですよね。全部解って居ますよ。goo事務局の方も誰がやって居るかもう判った様だしね。勝手にやってな捕まったらどう言い訳するのかな。此間、言ったけど。私はもう放って於ます。損するのはやって居る人だけだから。さて、今回は記事が長いので、もし読み切れない人が居たら、何回にも分けて読んで見て下さいね。それでは、また調子が悪い為に、今回を最後にまた暫く更新をしません。嫌、出来ません。だから皆さん過去の記事も読んで見て下さいね。お勧めは「バンド放浪記」「精神病院奮闘記」「生活保護の全て」「「ガロ」と「COM」」「日本の戦後から1970年代までの歴史」「こんな時代を生きて来た。」などです。宜しくお願い致しますね。それでは読んで見て下さい。コメント頂けたら返事は書きますから。宜しくね。それではどうぞ.......。
The Red Spectacles (MMV)
===『家電の思い出』===
私が小学生だった頃、近所の京王ストアーの2階には「ラオックス」が入って居て。オーディオ売り場があった。私はよくステレオを見にそこまで行った。ラオックスの店員はそんな小学生の子供に敬語を使って、親切丁寧に詳しくセパレーツ・ステレオやらモジュラー・ステレオの性能とか当時流行って居た。4チャンネル・ステレオの説明などをしてくれた。当時は家電大手のステレオ・メーカー、ビクター、ナショナル、コロンビアなどがステレオを作って居た。マイナーな処では、サンスイ、サンヨー、アイワ、アイコーなどが作って居たが、モジュラー・ステレオはサンヨーとかが名が知れていた。アイワ、アイコーも安いモジュラー型のステレオを作って居たが、この2つのメーカーはラジカセで頭角を現したメーカーだった。確かアイコーは光星電気とも言ったと思う?。このメーカーは通販でも安いステレオを売って居た。
店舗も持って居た。全国にチェーン店があり。ステレオも1万8千円ぐらいの物を売って居た。なにせ月賦で買えるのだ。店には子供たちがよく見に来て居た。私が中学くらいに成ると漫画雑誌の裏側などに広告を出しても居た。そしてその内、ステレオだけでは無くて、ラジカセやらラジオ、楽器なども扱い始めて1万8千円のエレキギターやらベースギターなどを売り出した。私と友人は、或日、月賦で購入しようとその店をおとずれた。私はステレオとエレキギターを、友人はステレオとベースギターを購入しようとしたのだ。私たちは店のおじさんに此れらを買いたいと言った。するとその店主は少し困った様な顔をした。そして「現金?月賦?どっち」と聞いた。私たちは二人して「月賦でお願いします。」と言った、すると店主は「保証人には誰が成ってくれるの?」と聞くのだ。私たちは保証人が必要なのかと聞いたら未成年だから必要だと言う。
私たちは買うのを諦めて帰って来た。その後、私はベニヤ板と厚めの合板の板を京王ストアーで買い込んで、そして秋葉原に行って16センチのスピーカーを一つ買って来て、フルレンジのスピーカーを作った、そしてそれにラジカセのイヤホン端子を繋げてスピーカーから音楽を聴く様に成った。間にトーン・コントロールの増幅のつもりで低音のつまみが独立してあるソニー製のラジオを入れて低音を出す様にして聴いて居た。そして音源はエアチャックしたものやら。近所のアパートに住んでいる大学生のステレオで購入したレコードを掛けて、それをステレオの外部出力からラジカセの外部入力に繋げて録音をして居た。或る日、中学の近所にあった町のレコード屋でレコードを見て居て。友人と二人して見ながら「マウンテン」と言うロックバンドの「ナンタッケット・スレイランド」と言う名のLPやら、「シカゴ」と言うロックバンドのLPを見て、「マウンテンのハードロックはいいよな」と話して居たら。店主が突然「マウンテンはへヴィ・ロックじゃない?」と話し掛けて来た。
MOUNTAIN - Nantucket Sleighride - Live 1970 at The Fillmore East
Chicago - 25 Or 6 To 4 (HD)
私が「そうですね・・・」と言うと。「君たちは近所の中学に通って居るのだろう?」と言う。そして「中学生の身分じゃあレコードはそんなに買えないだろ?」と言うので「そうですね」と言うと「あのさ、提案があるのだけども、特別に月賦にしてあげるよ。月3百円でどう?」と言って来た。此方は渡りに船なので、「いいんですか。よろしくお願いします」と言ってその案に友人と二人で乗る事にした。お陰でそれまで月に1枚しか買えなかったレコードが2枚買える様に成った。しかしそれは長くは続かなかった。私は毎月きちんと払って居たのだが。友人が払わなかったのだ、私は事もあろうか友人と間違われてお金を請求されたのだ、私は嫌に成り。「僕は毎月ちゃんと払って居ますよ!」と言って次からそのレコード屋には行なく成った。友人は優柔不断だった。きちんと毎月払わなかったのだ。怒った店主は親元まで取りに行ったのだった。
そして高校生になった。私は知り合いからエレキギターを買って貰い、バンドで弾く様に成って居た。ステレオは隣町の質屋で3万円のモジュラーステレオを買って持って居た。バイトをしたり。音楽関係のバイトもして居た。そして大学を出て障害を持ちながら働く様に成った。その頃はレコードは廃れてCDが登場して居た。巷ではCDを普及させる為に、レコードプレイヤーとレコード針はもう生産されなくなるとか。レコードは持って居てもゴミにしか成らないとか、カセットテープは捨てるしかないとかラジカセはもう作られないとか、音響メーカーがCDとCDプレイヤーを普及させる為に、嘘の情報を流してCDとCDプレイヤーの購買力を煽って居た。私が当時持って居たケンウッドのステレオはレコードプレイヤーとCDプレイヤーそしてWカセットデッキのセットのコンポステレオだったから。
私はレコードも殆んど売らなかった。そしてカセットテープも自分のバンド関係のものは大切に所有して居た。その時分、1978年頃になるとビデオデッキが発売し始めた。厳密に言えばカセットデッキは1973年ぐらいからある事はあった。ただし Uマチックと言う可也大きなモノで、60分テープ1本で1万円はして居た。当時はベータとVHSの2種類の別々のビデオデッキが登場して居たが。私は働いた金でモノラルのナショナルのVHSのビデオデッキを購入した。どこで買おうかと思ったが、母が「デパートのオーディオ売り場に知り合いが居るからそこで買ったら.....。」と小田急まで私を連れて行った。私は近所の電気屋よりは良さそうだなと思いそこで購入した。定価18万のビデオデッキだが16万7千円まで割り引いてくれた。昔はデパートにもオーディオ売り場はあったのですよ。
ビデオは応接間に置いた。私は録画はCMカットでして居た。何時も民放でやる映画はだから見て居た。タイマーは掛けなかった。どんなに夜遅くでも必ず起きて録画した。テレビの前に座ってビデオのリモコンを持ってCMの印が出ると身構えて一時停止して始まるとすぐに解除した。それでカット放送の映画だが、CMは綺麗にカットされた映画のビデオコレクションが出来た。私はライブラリーを増やして行ったのだった。テープはヨドバシカメラで安いものを購入して居た。何時もビクターのスタンダード・ビデオテープを買って居た。一本2千7百80円はした。高くてとてもハイ・グレード・テープは買えなかった。
そして1980年に成った。当時、ハイファイ・ビデオデッキが登場した。私はこのビデオデッキを2台購入した。ダビング出来る様にだ。お陰でヨドバシからダビングでテープの劣化が無い様に当時6千円したプロ・マスターテープを1本購入した。それを録画用のマスターテープにして、そのテープからハイグレード・テープへとダビングした。今見たいに、デジタルではなくアナログだからダビングすると画質が極端に劣化して悪く成るのだ。だから最上位クラスのプロ・テープに録画して、ハイグレード・テープにダビングするのだ。これで画質は少しは抑えられる。CMカットはダビング時にゆっくりと後から出来る様に成った。
もう夜中の名画劇場で録画のために起きて居なくて済む事に成ったのだった。当時、私はビデオ・ソフトも購入して居た。1980年代は好きな俳優のクリント・イーストウッドやらアラン・ドロンのビデオを購入して居た。1983年頃になると「TDKコア」と言うビデオメーカーからアラン・ドロン名作選と言う企画で、ドロンの主演作8本が一挙発売と成った。私はこのビデオを全巻購入した。ビデオソフトは当時1本、1万4千8百円して居た。私は月3万円の小遣いを殆どビデオテープ代に当てた。その頃に成ると、1978年に公開された「チェイサー」で人気に陰りが出て居た、アラン・ドロンは日本の映画界から、半ば干されて居る状態だったが。1986年の新作映画で自ら監督と主演をした映画が当時大手の有名な不動産屋だった地産グループがドロン人気よ再びと、日本公開までお膳立てをして公開されたのだった。私は新宿の歌舞伎町の映画館で当時見て居る。「チャイサー」がドロンお得意のフレンチ・ノワールだったのに対して、その「危険なささやき」はアメリカ・ナイズされた、乾いた感じのハードボイルド映画に撮れていた。非常に面白かった映画だった。私はビデオソフトの発売を心待ちにした。5ヶ月すると発売された。
Mort d'un pourri - Bande annonce 1977 HD
(France 1977) Philippe Sarde - Mort D`Un Pourri
Pour la peau d'un flic (film 1981) bande annonce
Oscar Benton - Bensonhurst Blues
そしてそれから数年して、何気なくテレビを観て居たら、突然「香港のフィルム・ノワール颯爽と登場」と言う声と共にある映画の予告編が映った。「男たちの挽歌」と言う香港ノワールだった。私はこの映画の予告編を観て吃驚した、それまで私は香港映画が嫌いだった。ブルース・リーに代表される中国産の映画は嫌いだったのだ。しかし「男たちの挽歌」はピンと来た。見る価値がある映画だと思ったのだ。私は映画館まで観に行きたかった。だが会社でのゆきかずの嫌がらせに寄って私は体調を崩してしまい。映画館には行けずビデオ・レンタルを待った。そうしたら劇場公開からなんと3ヶ月と言う異例の速さでビデオ・レンタルに成った。買っても良かったが、何せ初めての香港ノワールだ。まず観てからとレンタルショップを覗くが入荷して居ない。私は根気強く探した。すると隣町のレンタル・ビデオショップ「ケイオー」にある事が判った。私は早速借りて来て、観て見た。良かった。
暗黒街に生きる男たちの哀愁。そして悪党に寄って引き裂かれる友情、兄弟愛、そして世の中から見捨てられた男の悲哀。私は此れはサム・ペキンパーやメルヴィルと同じではないか?東洋からこんなフィルム・ノワールが登場したのかと監督を尊敬した。監督の名は、ジョン・ウーと言った。そうあのジョン・ウーだ。そして主役のカンフー映画で主演を長く務めて来たテイ・ロンと新進気鋭の演技派の名優、チョウ・ユンファの二人の男の友情と哀愁が堪らなく良かった。私は以後、香港ノワールは必ず観る様に成った。これ以後、私はジョン・ウーとチョウ・ユンファのコンビ最後の香港ノワールの傑作「狼・男たちの挽歌・最終章」で大感動をする事に成った。
The Killer - Trailer (HD) (1989)
1990年代に成った、私はレーザーディスク・プレイヤーを購入しようと数年前から考えて居た。この当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで人気だったビデオデッキは解像度が高いS-VHS方式の高画質ビデオデッキが登場したが、同時に今までのビデオソフトをレンタルしてダビングするのではなく。当時はレンタルのレーザーディスクが登場して居た。しかし私はアナログとしては最も高画質なレーザーディスクで映画を集めたく思った。レーザーディスクは中古屋もある。輸入盤もある。私は購入を決めた。しかし買う段になって調子が悪くなり、人生初めての入院に成ってしまった。病院で入院中に病院内の公衆電話で自宅に電話を掛けてみたら母が出て、何と母がレーザーディスク・プレイヤーを購入してくれると言ってくれた。
母にして見れば、私への配慮だったのだ。私は機種名を言い、母と電話でやり取りして、ついにレーザーディスク・プレイヤーを購入したのだった。そして私はそれ以降、ビデオ・ソフトは購入するのは辞めて、レーザーディスクで映画をコレクションし出した。私のレーザーディスク・コレクションは、当時S-VHSビデオテープが1本1万6千7百円して居たのに対して。レーザーディスクの価格が1枚、4千8百円という価格帯もあリ。そしてS-VHSソフトのレンタルがなかなか進まない背景も手伝って、レーザーディスクがドンドン増え、2000年を越す頃には400枚近くの枚数が溜まったのだった。その後、私はDVDとLDコンパチ機のプレイヤーを最終的に購入した。その機種は強力なノイズリダクション搭載の物で劣化してしまったレーザーディスクも高画質に補正される物だった。私はコレクションで映画や音楽を楽しんだ。2000年も暫く経つとDVDレコーダーが発売となった。丁度、立川の病院通いをして居たので、私はDVDレコーダーが発売されると聞いて立川のビックカメラに行って観て見たが、余りの人気のせいで発売は予約で受け付けて居た。その頃には私が所有しているパソコンにもDVDプレイヤーが内蔵され出した。
私にはレーザーディスクをはるかに凌駕するデジタルのDVDは魅力だった、しかし当初はレーザーディスクとDVDの両方を購入して居た。DVD出始めの頃は、まだ、作品数ではレーザーディスクの方が分があったのだ。私は時代の急激な変化を感じて居た。その内にあれよあれよと言う間にレーザーディスクは廃れ、DVDの天下に成って行ったのだった。私はDVDレコーダーを購入して、そしてケーブルTVに加入した。私はある事に気が付いた。それはDVDレコーダーに毎月放送されるケーブルTVでの BS CS放送を録り溜めて行けば、DVDソフトを購入する事は無く成るのでは無いかと言う事だった、
私はケーブルTVに加入する前はパラボナアンテナでBS放送に加入し、ビデオデッキでBS放送をエアチェックして居たが。なかなかWOWOWとNHKそして民放のBS放送だけではコレクションは増えなかったのだ。私はケーブルテレビで放送される莫大な数のCS放送を目の当たりにして、この放送をDVDに焼けば高画質なDVDレコーダーでのDVDコレクションが出来ると踏み、DVDは購入するのを止めた。そう仕手居る内に今度はBlu-rayと言う規格のDVDよりさらに上を行く高画質なものが開発された。私は迷わずBlu-rayレコーダーを購入した。以来、私はBlu-rayディスクとDVDを使い分けて、ケーブルTVの放送からドキュメンタリー。アニメ、映画を焼いて居る(録画)。そして去年の暮れに4K放送が始まった。それを見る為に4K対応TVを購入し、ケーブルTVのチューナーとは別に4Kチューナをレンタルした。そして4Kは録画がまだ出来ない為に、外付けのHDDを購入した。4K放送はまだ始まったばかりだ。
私は今はDVDソフトもBlu-rayソフトも余程欲しいモノ以外は余り購入して居ない。ケーブルTVの放送を一旦Blu-rayレコーダーのHDDに録り溜め、そこから本当に手元に残して置きたいドキュメンタリーやら映画、アニメ、音楽番組をBlu-rayやらDVDソフトに焼いて居る。まあ、たまにBlu-rayソフトを購入するが、どうしても欲しい物だけです、私はそれまで貯めてきたビデオテープとかの映像やらレーザーディスクの映像は、貴重なものは全てDVDやらブルーレイに焼いて居ます。このアパートに引っ越して来る時にレーザーディスク386枚とビデオテープでまだ所有して居た100本近くを処分しました。そして今の録画状態が一番好ましくいい状態だと言えましょう。
此間、ある人から「〇〇さんはお金があるからケーブルTVが引けるのですよ」と言われたが、よくよく考えて見て下さい。ケーブルTVは100チャンネル見られて月に8千円しか掛かりません。半分の50チャンネルなら6千円ですし。30チャンネルならば3千円台ですよ。私はインターネット回線も同時に引いて居るので、月の受信料にレンタル・チューナー代を含めても1万7千5百円ですよ、私はBlu-ray・レコーダーはケーブルTV局が録画できるチューナー内蔵のものをレンタルして居ます。レンタル代は1千8百円です。そして4Kチューナーは264円のレンタル料金ですよ。工事費に8千円ぐらい掛かると言ったら、ある人がその金が高いとか言って居たけど。自分への投資なのですよ。一度に1回だけ8千円掛かるだけです。その金が出し切れないなら、金を貯めればいい。払えない金額では無いはずです。此れからの世の中は音楽もHDD携帯プレイヤーに撮り溜めて聴く時代ですし、映像もHDDに撮り溜めて見る時代です。私は先程も言いましたが、最近はなんでもありの時代です。私が最近ハマって居るのはレトロなカセットテープです。カセットテープで音楽を録音して聴いても居るし。スマホでストリーミングもBluetoothでステレオやらBoomBoxに飛ばして聴いて居ますよ。何遍も言いましたが。今は何でもある時代なのです。。。
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===『レーザーディスクとは?」===
国内でもパイオニアが製品化
映像ディスクはビデオデッキと違い再生専用で録画が出来ない事から、当初はビデオデッキよりも高画質を求めるマニア向けの規格となった。そのため、水平解像度が240本程度だったVHDに対し、レーザーディスクは400本以上と画質面のアドバンテージがあった事に加え、ピックアップがレーザーによる非接触式のため、プレーヤーで再生した事が原因のディスクの劣化が無いことから、レーザーディスクの方が圧倒的に優勢だった。
さらに、コンパクトディスク(CD)とのコンパチブル再生機の発売、レーザーカラオケのヒットによって、一般層にも普及した事から、結果的に規格争いに勝利した。
VHD陣営のメーカーも参加して開発した音楽CDの量産技術が、同じ光ディスク方式であるLDの技術とコストの問題を解決させ、LDを勝利に導いたと言われる。
レーザーディスクの普及
「LD-BOX」発売
===「おばさん根性」===
昔親父の会社で働いて居た時に、スーパーのいなげやのパン工房の仕事を従兄弟のゆきかずが請け負って来て、その材料の仕分け作業をして居たのだが。ある時に、歳を行ったと言っても当時60歳ぐらいの、おばちゃんだがパートで雇って居たのだが、、私が休憩時間に当時、1980年代初頭にビデオデッキが発売されて、私は映画、アニメ、音楽番組、ドキュメンタリーなどを録画をする為に、当時、流行って居た、と言うかエアチェック派の御用達であったテレパルと言う番組情報誌を、隣のコンビニから購入して倉庫で缶コーヒーを飲んで。タバコを吸居ながら番組の放送予定表にボールペンで点じるしを付けて見て居たのだが。突然そのおばちゃんがこう言い放った。「こんなものを見て居るから。新聞読まないんだ!!」私は言った、「確かにうちは読売新聞だけども、一度見たらもう見ませんねえ。それから、俺は経済ジャーナル読んで居るし、、」そしたら「大体が行けないんだ!!男は刈り上げないと行けないだ。そんな女みたいな頭は行けないんだ!!」私は笑いながら言った。「人の勝手でしょ。」それでもまだ言う。「男は刈り上げないと行けないんだ!!」「新聞読まないと行けないんだ〜〜!!」丁度、その前の日に憲法について読んで居た事があったので。そこに書かれて居た憲法の条例を言った。「おばちゃん。こう言う事知って居る?......。
日本における基本的人権は「自由権」「社会権」「平等権」「参政権」「請求権」に大きく分類でき、どれも国による理不尽な侵害は許されません。なかでも重要なのが「自由権」と「社会権」ですよ。精神的自由権って知って居ますか?」と聞きました。
精神的自由権
自由に物事を考えたり表現したり、活動にしたり出来る権利の事を「精神的自由権」と呼びます。日本では、他人に害を与えないのであれば、基本的にどの様な考え方をして居ても国が介入して罰する事は出来ません。
自由が認められるものは、以下の様に大きく5つに分類されます。
- 思想・良心の自由
- 信教の自由
- 学問の自由
- 表現の自由
- 集会・結社の自由
此処からは憲法の条例からの引用ですが。。。
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(出典 日本国憲法)
19条には、心の中でいかなる思想や人生観をもって居ても法律では処罰されないとあります。物事の善悪は自分で判断する事が出来、その心の中に国家は介入してはならないのです。
たとえば、「何時か世界を俺のモノにしてやる!」など自分勝手な事でも、心の中で考えて居るだけなら警察に捕まりません。
また、思想の違う政治団体が別の政治団体の思想を批判しても捕まりません。この様に、不謹慎な事を考えたり相手を批判したりしても処罰されないのは、19条の存在のおかげなのです。
(2)信教の自由
「信教の自由」は、憲法第20条で守られて居ます。
第二十条
第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加する事を強制されない。
第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
(出典 日本国憲法)
第1項では、特定の宗教を信じる、信じないは自分で好きにして良いと言う内容です。
そして、どの宗教団体も国から特権の享受および政治権力の行使は禁じられて居ます。
つまり、日本では政府と宗教は密接に関わっては行けないのです。この事を「政教分離の原則」と言います。
第2項ではお祈りや儀式など宗教以上の行為に対する強制を、第3項では国の宗教教育や宗教的な活動を禁止して居ます。
たとえば、公立中学校で祈りの儀式の時間を設けて強制的に参加させた場合は違反行為になります。
これも「政教分離の原則」に則って居ると言えるでしょう。
この様に、国と宗教は密な関係性を持たない事が原則ですが、関わりを断つのが難しい場面も少なくありません。
そのため実際に裁判例も多く、なかでも有名な判例は「津地鎮祭事件」や「愛媛玉串料訴訟」です。
ちなみに、首相が靖国神社など特定の宗教施設に参拝する行為は、個人的な立場からの参拝と言う事になって居ます。
まあ、こう言う様な事を話たんですよ。それでもその人は、、
「個人の自由だなんてアンタッ!!、、自分の勝手だなんて、そんなの行けないんだ!!」
「新聞読まないで、そんな雑誌読むのなんて行けないんだ!!」
kiyasume「(~_~;)・・・・・・・・・・・・・・」
此の事を書き始めて思い出したが、、高校の頃に渋谷の道玄坂にあったヤマハ楽器に。ギターアンプを買いに行った時だ。私は予算3万8千円のアンプを考えて居たのだが。一緒に行った友人が何か言いたそうに見て居た。私は3万数千円代のアンプにギターつっ込んで音の感触を掴もうとして居たら、そいつがこう言う。「そんな高いギターアンプなんか買うの辞めなよ。この一万円のアンプの方がいいよ。残りの2万8千円でギターの弦とか教則本が買えるじゃない。そうしろよ、なぁ!!」と言って店員にその一万円のアンプを指差して「これ下さい」と言って居るのだ。私は呆れて「おまえ!人の買い物について来て。何勝手に買うなんて言ってるんだよ!!」そう言うと「だってさ買い物はさ。俺は丸井で洋服をリボ払いで買って居るんだからさ。レコードだって丸井で買えば月賦にできるんだからさ。お前もそうしろよな、節約出来るんだからさ」私は呆れて言った「自分の事情と人の事情を一緒にして考えるんじゃないよ!!相当なバカだなお前は!!」
その様子を聞いて居た店員がまたやって来て「ギターアンプ。あれでは無いのですね?」と言うので。私が「違いますよ。その端にあるフェンダーのギターアンプ下さい。」と言ったらそいつは不貞腐れて居る。私は言ってやった。「悪いが!!お前見たいな奴とは2度と買い物には来無いよ!!」と言った。すると「安いもの買えばお金が浮いて他のものも買えるのに・・・。」と言うので言ってやった。「俺はな、ブルースに適したアンプを買いたいんだよ。お前みたいな奴を安物買いの銭失いだと言うんだよ!!」そしてサッサっとそいつと別れて帰って来た。それ以来そいつとは絶交した。そして月日が経ち会社で働いて居たら何とその男と外でばったりあった。「俺。ウッドベース購入したぜ!!」開口一番そう言った。「ああ、そう....。」「処で名刺渡しますね。私。今は広告会社で働いて居るのですが、オタクの会社の宣伝にうちの会社を使ってくれませんか?」だからうんざりして私はこう言った。「お前に、前俺なんと言ったっけ?」と言うと「にゃはははは.....。」と言うので「ところでさあ、お前ウッドベース持ってるなら今度持って来いよセッション出来るだろ」そう言うと、真顔になって「いや、持っては来れない・・・」と言うのだ結局はまる嘘なのですよ、、、
そして、「此れからシグマ・スポーツに行くから、此れで....。」と言うので、、「勝手に言けば〜〜。」と言ってやった。なんか思い出したので書いて見たけど。今はもう人気は余り無いが。1970年代は丸井は月賦で買える店として有名だった。私は昔からものを購入するときは一括払いでしか買わない。特にカードのリボ払い。あれは金利が尽くし、なかなか終わらないし買えば買うほど金額が膨らむ。辞めた方がいいのだ。私は金が無くて買えない時には金を貯めて買える金額になるまでひたすら待つ。今もそうだ、持ち金でその月は幾ら使うと考えて居る。だからその中からお金を別に貯める。そして、それを何ヵ月か続けて満額になったらその欲しいものを購入する事にして居る。ただ、此処の処。此間購入したばかりのビンテージ・ラジカセのカセット部分が、おかしな動作をしだしたのでその修理と。やはりパソコンが動作がもの凄くおかしいので、新しいパソコンを購入しようかと考えても居るのですよ。パソコンが13万幾らでビンテージ・カセットデッキの修理には5万円は掛かるんですよね。まあ、合わせて20万は掛かるだろうと踏んで居ます。でも、どうするか考え中ですよ。。。折角、ヤフーオークションで購入出来た。BoomBox(大型ラジカセ)だから、直そうかなと思って居ますけど。まあ1970年代後半のものだから修理代は5万円は掛かるのです。そんなものですよ。いや、修理して呉れる処がまだ有るのが嬉しいですね。いや、最近の新発売になったCDラジカセをもう購入してもいいかなとも思って居るけど。あまりに粗勢乱造すぎるのですよ。作りが悪くて音も良く無いしね。しかし、この後、ビンテージラジカセはもう直せない事が解り。CDラジカセで一番音がいいものを購入しました。今はそれが音が良くて重低音も出るので購入して良かったと思ってます。値段はそこそこしましたが。まあ妥当な値ですよこの音質だったら...。
それから、今までCDレシーバーの音質。特に低音域と左右のバランスの調整が上手く出来なかったのですが、此間ネットで調べて要約、調節出来た。前は左のスピーカからの音がよく聞こえずに低音が重低音すぎたのだが。重低音のレベルを可成り下げて、バランスをスタンダードにした。すると左右ともバランス良くなったし、低音が出過ぎる事も無くなった。これで解消した。よかった。音はもともといいレシーバーのステレオなのだから。しかし昨日レコード針を購入して、また、はたと困って仕舞った(−_−;)。なんとレコードプレーヤーから音が出ないのだ。セレクターが悪いのかと思って見たが、カセットデッキは、繋がって音が出て居るのだ。問題はレコードプレーヤーだけ繋げてもステレオから音が出ないのだ。相当に悩んだが横から見て観たら小さなカートリッジのジャックがトーンアームのコンデンサーの入り口に入ってなかった事が判明。それで差し直して観たら音は綺麗に鳴った。そして3カ月前に新宿で購入して来た「ジミ・ヘンドリックス」の生前最後のコンサートになった。ワイト島でのライブを聴いた。生きて居ればもう80幾つだろうに、暗殺されたとは・・・・・。そう言う時代だったな。皆んな、暗殺されて行った。ジョン・F・ケネディーも。弟のロバート・ケネディも由緒ある白人から見たら血筋が良く無いと言うだけでね。キング牧師も。日本では三島由紀夫の自決クーデターがあって。浅間山荘事件。よど号ハイジャックやらシージャックがあったっけ。今思うと。随分と危険な時代を生きて来たんだよね、街を歩いて居るとキャバレーの呼び込みは必ずあったしね。電話ボックスには売春婦の電話番号が書いたチラシが貼ってあったしね。どこにでもね。まあ、これ以上話して行くと下世話な話になるから辞めときますが。今でも、エロは全開ですけどね。特にネットでは。。。。
今も危険地帯はある。例えば新宿歌舞伎町。納めて居るのは日本の暴力団では無いらしい。中国系マフィアだ。戦後すぐには尾津喜之介と言う親分が居た尾津組が終戦直後の混乱に乗じて新宿駅東口を不法占拠し、1945年8月20日には新宿マーケット(「尾津マーケット」とも)を開店した。「光は新宿より」というキャッチフレーズとともに新宿マーケットは約7万人の商店主および商店関係者を傘下に収め隆盛を極めた。なお、新宿駅西口線路沿いには安田組の安田マーケット(民衆市場)が、南東口近辺には和田組の和田マーケットが同様に不法占拠によって闇市を開いて居る。しかし昭和30年代なかばに始まった新宿駅付近の大規模復興計画と軌を一にして関東尾津組は急速に勢力を落とした。1957年(昭和32年)には傘下組織との抗争事件を起こした事も凋落の一因になったらしい。この話は前にも書いたがその頃。伊勢丹で働いて居た母が宝石商に出向いて仕事をしろと言われてそこに行くと、なんとその宝石商は尾津組の経営する店で。社員は全員普通の素人の店員で、秘書として働いてた母は尾津組長と共に伊勢丹の応接室に通されて、伊勢丹の事務員がフルーツパフェとコーヒーを持って来たら。彼が何を思ったか「お嬢さん。この辺一帯は皆んな死人の山だったんだよ。我々が若い集とで燃やしてこの辺一帯に埋葬したんだよなぁ。」と言ったそうです。母はこんなに穏やかな人がヤクザの組長なのかと驚いたそうです。それから暫くして母はその宝石商を辞めて、伊勢丹に戻り働いて居たが、それからのちに神保町の三省堂書店の書店員をして居た処をまだ大学生だった親父が来て付き合ってくれと言われたらしいです。
今はGACKT君も言って居るけど。新宿の路地と言うか裏道歩いて居て、「結構人が居るなぁ」と思って居たら、全身血だらけの男が人にぶつかりながら歩いて来て、「なんだ!!」と思ったらチャイニーズ・マフィアが青龍刀持って追い掛けて居たそうで・・・・。私も若い頃サングラス掛けて新宿の地下道を歩いて居たら。鬼瓦見たいな顔をしたヤクザものが恐らくあれではチンピラだったのかもなと思いますが。向こうから歩いて来て人目掛けて来るのですよ。そして如何にもと言うか肩をぶつけようとしたのですが、私が肩をずらして避けてその侭歩いて行ったら後ろから「ぶち殺すぞ!!このバカガキがぁ!!」ともの凄い怒声罵声がしたのですが。追い掛けては来なかったですね。あと高校の頃、下校時間になったら皆んなすぐに居なくなったんですよ。私は「ナンダァ?」とか思って駅まで歩いて行ったのですが人が居ない。そして改札口を出て駅の構内に入ったらヤクザものが30名は居るんですよね。私はそんなに不安にもならずにヤクザが座って居る席の側に座って降りる駅が来たので一応振り返って会釈をして降りて来たのですが。どこかのヤクザの組長が松方弘樹主演のやくざ映画を観に行ったらしいんですよね。そんな事もありましたよ。。。。
まあ、話が物騒になり始めたので此処までにしときます・・・・・・。
1980年代のテレビ雑誌とステレオ雑誌の「テレパル」と「レコパル」と言う雑誌を当時は皆んなは良く読んで居た。何故なら1週間先のテレビ番組の情報が分かるのと。同じアニメ仲間やら映画仲間やらが、集う場所として可成りな部数を誇って居たと思う。私も毎週見て居ました。そして今日は銀行に行って通帳記入を確かめるも家賃を払った記入は無い。先月には払った記入がある。私はすぐ銀行から今月分を送り。大家に電話を掛けて「病弱だったので入れられませんでした、すみませんでした。今日入れたので確認よろしく」と言って於いた。こう言うケジメはきちんとしなければね......。下は当時のテレパルの記事です。読んで観て下さいね。懐かしいかと思いますよ。
この前は病院に行ったが、その前に笹塚の銀行まで通帳記入とお金を下ろしに行って来たのですよ。病院が11時半から診察なのでして。先程言ったけど。しかし「あれっ!!」と思い当たった。家賃を大家にまた入れて居ないでは無いかと。此処の処。先月から今月に掛けて調子が酷く表に行けなかったのですよね。しかし神様が行けと言ったのであろう。なんと購入したばかりのメガネを踏みつけて壊して仕舞って居たのです。それで笹塚にはビジョンメガネがある。ちょうど可愛い女の子の声で「定期診断の時期で〜す。来て下さいね〜〜!!」と電話が掛かって来ても居たから。病院に行く前にメガネ屋に寄ったのです。踏みつけて居たから結構修理代が取られるかと思って居たが1,100円だった。掛けて行ったもう一丁も直してもらったのです。レンズが外れるのでね。
そして、先ほどのおばさんの話の続きですが。もう一人。ケーキ屋の職人からうちの会社に入って来た男が居た。ある時に、自動車会社の営業マンと整備関係のエンジニアが来たのです。二人して長髪でドレッドヘアだった。するとそいつは何故か私の顔を見て促す様に顔を振りその二人に言った。「まあ、まあ、変んな頭しちゃってさあ、なにその頭。そうするのに時間床屋で随分と掛かるんじゃないの?」すると相手二人はその事は流してこう言った。「トレッドヘアって言うのですよ。知りません?」だから私が言った。「ボブ・マーリーなんかで有名だよね。」「君たちレゲエ・バンドかなんかやって居るの?」そう聞くと。すると「まあ、バンドやら.....。」すると片方が「俺はダンサーなんですよ」と言った。私は、「会社は君らが作った会社もしかして?」と聴いたら「そうです」と言うのだ。そして私の髪型を見て、「バンドマンですか?」と聴いて来たから「いや、今は休養中だよ。」と言ったら。「ハードロック?」と聴いて来たので「違う。ブルースとジャズ」と言ったら。「「ブルース」と「ジャズ」いいですねぇ〜〜!!。」と二人して笑顔で会釈して私に「社長か専務に会いたいのですが?」と言うので、「アポ取ってある?」「ええ」と言うので社員が事務所に連れて行った。
その元ケーキ職人の社員は「ねえ、〇〇さん。ああ言うのどう思う?変でしょ?」私は一言「君もさあ、ボブ・マーリーとか聞いて見な。」そしたらそいつはこう言った。「あんな頭。床屋で幾らでやって貰うんだろう?」だから私は呆れて言った。「床屋であんな髪型はやれ無いだろ美容院だろ....。」そう言ったら。「へっ〜〜美容院なんて男で行くのかねぇ〜。」私はこんなバカと本当に呆れた。そしてそいつは黙って私を訝しく見て居た。そして掛けて居たメガネを置くと椅子に座ったのだが。その様子を見て居て、私は「あれ?」と思い。そのメガネにはレンズが入って居ない事に気付いて彼に聞いて見た。「メガネにレンズ入って居ないじゃない?」すると彼は得意そうに言った。「これ伊達眼鏡だから」私が「伊達眼鏡?」と聞き返したら。彼はこう言った「メガネに俺は憧れて居るんですよね。眼鏡かけると頭賢く見えるじゃないですかぁ、、」「〇〇さんだってメガネ掛けてるじゃないですか。だから頭よく見えるんだ....。」その男が暫くして、会社の先で乗用車を止めた黒ずくめの男たち4人が突然車から降りて、機関銃と拳銃やらライフルを取り出して確かめてから車に乗って発車したら「なんだか、おかしい連中がこの辺に居る〜!!」と怖がって居る。もしそれが本当だったなら抗争事件があったとテレビのニュースで言うし。私も見て居たが彼らは俳優たちだった。ちょうど当時は東映などのVシネマが流行って居てその撮影だったのだろう。隠し撮りでしょうね。
青バス通りは地味な通りだからよく撮影に使われるのですよ。その後は、テレビドラマで使われて居た。大体が街中で機関銃なんか持って居たら警官がほっとかないでしょうにね。私はこの男はどんだけバカかと呆れて見て居た。大体が私がアンドレイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」を観てご覧と渡すと。「へっ、惑星ソラリス、、ぷっ〜〜!!」と笑うのだ。うちに来て居る訪問看護師と同じだ。題名で幼稚な映画だと思って居る。この映画はソビエト映画で1972年当時、黒澤明がタルコフスキーのこの映画の撮影スタジオを訪れて、二人して抱き合った経緯がある。黒澤は当時ソビエトに招かれて「デルス・ウザーラ」と言う名作をロシア資本で取って居るのだ。此の映画の俳優はロシア人と少数民族の俳優が使われて少数民族(なんて言う種族か忘れた)の役者が主人公のデルス・ウザーラを演じた。黒澤はタルコフスキーのこの「惑星ソラリス」の初号フィルム試写を観て、大変感動をして。タルコフスキーとコニャックを明け方まで飲んでお互いに健闘しあったそうだ。馬鹿は何も知らないくせにすぐに人をおちょくる。何も知りはしないくせにね。殆、こう言う手合いと話して居ると嫌になる。自分が知らないのなら、なぜ知らないものを知ろうとしないのか?すぐに人を愚弄し、そしてやっ噛む。ああ、また話が逸れましたねドレッドヘアの事です
ちなみにドレッドヘアは、「ドレッドロックス」が正式名称。“dread”は“恐ろしい”、“locks”は“ふさ状の髪”と言う意味を持って居ます。もともとアフリカ人種の髪の毛は、ちりちりと縮れて居るもの。“くし”でとかさないでおくと、自然に絡まりあって、ふさ状になるのだそう。
ドレッドヘアを語るのに欠かせないのが、カリブ海の小島ジャマイカで生まれ育ち、レゲエミュージックの神様と呼ばれる、ボブ・マーリーです。ジャマイカとボブ、そしてドレッドには切っても切り離せないつながりがあります。
その昔、ジャマイカがスペインの植民地時代だった頃、先住民は伝染病や戦争が原因で絶滅して仕舞いました。そこで連れて来られたのが、アフリカ人奴隷。現在のジャマイカ国民のほとんどは黒人奴隷の子孫なのです。しかも、儲け重視のサトウキビばかりを、奴隷に作らせたため、国全体が貧困に陥ります。そこで生まれたのが、「抗議する」という意味の「レゲレゲ」と言う言葉から生まれたる「レゲエ」と呼ばれる音楽です。
1945年、ボブ・マーリーは産まれます。彼は白人の父と黒人の間に生まれたハーフであったため、白人からも黒人からも冷たくされ、孤独な少年期を過ごしたと言います。そこで出会ったのが、レゲエと「ラスタファリ運動」です。
これは「人類発祥の地はアフリカである」と言う考え方で、ジャマイカの労働者や農民が起こしたもの。神様や特定の偉い人が居る訳ではないので、宗教ではなく「思想」と言った方が近いかも知れません。ラスタファリズムの信者はみんなドレッドヘア・スタイルなのですが、それは「髪は自然のままが良い、刃を当ててはならない」と言う決まりがあるため。ボブ・マーリーのドレッドヘアも、ファッションではなく信者の証しだったんですね。
アイショットザシェリフ四日市ジャズフェスティバル4ジャックス
今回は過去文に一部修正しての記事でした。今回は此れで.....。また更新出来たら逢いましょう。それまでまた。。。。。。