此間ある、おばはんと話して居て私が青木志貴ちゃんのブランドの服はユニセックスだからと言ったら、何故か「オカマ」の話を仕出した。要するにユニセックスの意味違いを起こして居るのだ。ユニセックスとは洋服で男女兼用と言う意味だ。こう言う事でその人の人となりが判って仕舞う物ですねぇ、、普通はユニセックスと聞いたら、どう思います?ユニセックス とは、特に衣服について使う。 また転じて、衣服以外でも性別を限定しない物品もこう呼ばれる事がある。また男女区別ないという意味。 uni(ユニ)は一つ、sex(セックス)は性別で1つの性別と言う処から。
以前、中高年が「セックス?」と海外の空港で聞かれて、「週2回....。」と答えた?と言うどうしようもない話があったが.....。セックスとは性別の事ですよね。 ファッションでは、衣服、男女どちらでも着る事が出来る衣服やスタイルの事を言う。志貴ちゃんは確かにパンセクシャルであると自分のことを公言して居るが。パンセクシャルとは、相手の生物学的な性やジェンダーに関わらず、その人そのものに惹かれる事。バイセクシャルと似て居る様に見えるけれど、バイセクシュアルは「2つ以上の性に関して魅力を感じる事」。
性が関わって来るのに対して、パンセクシャルは性やジェンダーという枠に囚われない。セレブ界にもパンセクシャルをカミングアウトして居る人たちが沢山居ます。そのコメントを聞けば、パンセクシャルや取り巻く状況について一層理解を深められるはず。レズやら、オカマでは無い。しかもそのオバハンは、私が彼女の事をそう言って。自分の事を「僕」と言う、僕娘だと言うと。何故か、「何で性転換手術しないのよぉ〜!!」と私にそう聞いて来た。だから「心は男性の部分はあるけども女性らしい部分も可成りある子ですよ。彼女は苦労人で。今はそう言う存在として芸能界で生きて居る。声優。タレント。舞台女優。としてね」と言った。
私は彼女を一眼見て気に入って仕舞った。彼女はYouTubeで告白したが。その収録の時も泣いて居た。彼女が言うのには、高校の時に学級委員長をして居て、彼女の事を好きな男の学生と連んで、話して居たら周りの女学生から「あなた、あの子と付き合ってるの?」とやっ噛みを散々言われたらしい。彼の方が話しは合うし志貴ちゃんの事を好きだった見たいだ。それで告白されて「俺と付き合ってくれ」と言われたが。彼女はその子の事では無くて男性から付き合ってくれと言われた事が腑に落ちなくて。とうとう高校を辞めて仕舞った。
その男子学生は顔もよくハンサムで、ジャニーズ事務所のオーデションにも行って居た子だったらしい。まあ、高校を辞めた経緯は色々その他にもあった見たいだが。彼女は田舎から15歳の時に単身出て来て、東京の芸能高校?に編入したらしいけど。私は初めて聞いたが。まあ、芸能高校は色々と東京にはあるが。堀越高校。東京都中野区にある共学の高校です。全日制課程への通学が困難な芸能人やスポーツ選手に対応した「トレイトコース(旧・芸能活動コース)」「体育コース」を設置しています。単位制で、芸能活動などで忙しく補講を受けられない場合は、
学校側の判断により全く出席しなくても進級・卒業できるケースもあるそうです。芸能人第一号は歌手の田辺靖雄さん、芸能人第二号は初代ジャニーズの中谷良さんだそう。また、日出高校は、プロダクション・劇団と綿密に連絡を取る事で、生徒の出席状況やスケジュールを管理し、校生活と芸能活動が両立しやすい環境を整えてくれて居るそうです。芸能活動により欠席が多くなってしまってもレポート補習で、不足授業時数を補ってもらえます。ちなみに芸能人生徒第1号は山口百恵さんです。現在活躍中の芸能人では、女優の松岡茉優さんや、ももいろクローバーZの百田夏菜子さんが卒業生です。
まあ、芸能コース専門では無いけど。芸能人を多く輩出して居る高校は慶應義塾高校。明治大学附属中野高等高校があります。此の高校は2002年までは定時制があったため、芸能人も通いやすい環境だったようです。【卒業生】宇崎竜童・宇梶剛士・保阪尚希・野々村真・近藤真彦・本木雅弘・麻丘めぐみ・小泉今日子など。青木志貴ちゃんがどの高校に通ったかは知りませんが、そこでも何時も1番の成績だったそうです。だから彼女はそこを通いながら。夜間の芸能専門訓練学校にも働きながら通って日舞。バレー。ボイス・トレーニング。そして何故か楽器も演奏しろと言われてベースギターを学んだそうです。
そしてバンドを組んで居たそうですが。そのバンドを見たプロダクションが、彼女にモデルをやらないかと言い。この時期から雑誌の読者モデルや舞台などにも出演。高校卒業後は声優学校に通うお金もなく、将来の事で悩んで居た時、偶然動画投稿サイトの動画を見て、面白そうと思い「魔王」の名前ゲーム実況を始めました。この縁でニコニコ生放送の公式放送にも呼ばれるようになったそうです。もっとゲームを通していろいろな仕事がしたいと思い、ゲーム実況のリスナーから教えられた『週刊ファミ通』(KADOKAWA)ゲーマーズエンジェルのオーディションに応募し、2013年1月に合格(応募時は蒼崎らむ名義)。
2013年2月25日に芸名を「青木志貴」に改名。
11月に三木プロダクションと契約し、『神様と運命錯覚のクロステーゼ』の十六夜フェレスのオーディションに合格し声優デビュー。その後も数作のオーディションを受けて来たがうまく如何ず、2015年で受からなかったら声優業は諦めようと考えて居たが、マネージャーが紹介した『アイドルマスター・シンデレラガールズ』の二宮飛鳥のオーディションを受けた処合格した。2019年末頃より以前から開設していたYouTubeチャンネルでの活動を再開し始め、2020年より本格的に活動。同年3月20日にチャンネル登録者数が10万人に到達した。ほか、Twitchでのゲーム配信も頻繁に行って居るそうです。2021年3月10日、自身初の著書である『わがままに生きろ。』がKADOKAWAより刊行。
いじめに遭っていた学生時代や、後述の性自認の苦悩などの困難にぶち当たりながらも、前を向く姿を綴ったエッセイを出しました。はっきり言って私が好きなのは。古い処では風吹ジュンさんだとかだが。此の青木志貴ちゃんは一眼見て気に入りました。それ以来ファンになって彼女(彼?)を応援して居ます。彼女はもちろんオカマでも無いし。見た目は可愛い美人の女性です。歳も、もう30歳を超えたしね。芸能界には綺麗な人。可憐な可愛い女の子は沢山居ますけど。私は志貴ちゃん(君?)が苦労人で誰にでも優しく思いやりを持って居て。異性からも同性からも好かれて居る処が好きですね。まぁ、此の記事をもし志貴ちゃんが読んだら「僕はこんなジジイは嫌いだよ、、」と言われそうですけども。彼女にはそれだけの魅力があります。他の女の子には無い何かが...。
![#アクティ部 ご視聴ありがとうございました! 代打でお邪魔させていただきましたが、楽しくてあっという間でした! 制服も着れてたのしい嬉しいだった こういう便所サンダルのまま教室戻ってくるヤンキーいるよね…いなかった…? 来週のハロウィン回も居ます!](https://pbs.twimg.com/media/EkxxqKxXgAEJI_R.jpg)
誕生日&書籍出版記念ざつだん!
新型コロナウィルスに相変わらず振り回されながら、あっという間に今年も半分が過ぎ去ってしまった。世界中でワクチンの接種が進み、パンデミックを抑え込む希望の光は見え始めて居るが、まだまだ遠い場所での、手に届かぬ輝きである。そんな状況での、ありえないオリンピック開催に憤りながら、二度目・三度目の緊急事態宣言にもめげず、個人が出来る感染対策を十分に施しながら、素敵な古本を求めて、愛しい古本屋さんを工夫して巡る日々は、何とか継続して居る。ただし三回目の緊急事態宣言発出時は、さすがに苦しめられた。何故か古本屋にも東京都から休業要請が出されたため、東京では多くのお店が制限が緩和されるまでの一ヶ月ほど、休業に入ってしまったのだ。
馴染みのお店のシャッターが閉じられ、そこに貼られた『臨時休業のお知らせ』の紙を、どのくらい目にしたことか……。それはまるで“禁古本屋法時代”に迷い込んでしまったような、切なく乏しい一ヶ月……。だが、砂漠の中のオアシスのように、それでも開けてくれている貴重なお店をトボトボ伝い、古本と言う名の命の露を必死に啜り、どうにか乗り切ることが出来たのであった。こんなことがいつまで続くのだろうか。またもや七月に入ってから緊急事態宣言が出されてしまった。そして愚挙と声を大にして言えるパンデミック下での東京オリンピック開催…。これらが一介の古本屋ツーリストにどんな影響を及ぼすのか、その月日を乗り越えなければ、行く末はわからない。だが、これまで暮らして来た生活の中に、この継続する過酷な事態を乗り越えるヒントが、もしかしたら潜んで居るかもしれない。2回目のワクチン接種は8月になる予定だ。。。。
元実家の近所に出来た書店「バックパップボックス」
小さな本屋の身軽な挑戦。 本当に大事なものだけを、バックパックに詰め込んで。
![宮里 祐人さん/バックパックブックス 店主](https://img.an-life.jp/article/20210628103925_n_YutoMiyasato_thumb.jpg)
東京・代田橋に、わずか三畳半の本屋を構える宮里さん。店内には、旅や登山に関するものを中心に、店主のこだわりを感じられる本や雑誌が並びます。店を大きくすることは考えていないと語る宮里さんですが、背景にはどんな想いがあるのでしょうか。
宮里 祐人
みやさと ゆうと|バックパックブックス 店主
1989年生まれ。大学院でメディア社会学を学んだ後、新卒で出版社へ。映画系出版社、語学系出版社にて、6年間書店営業の経験を積む。2021年、東京・代田橋に三畳半の書店・バックパックブックスを開業。趣味は登山。
アイデアを出し合った文化祭の催し
地元は神奈川県横浜市の緑区です。小学校では、勉強もスポーツもできる子でした。学校のサッカークラブに入っていて、ポジションはフォワード。左利きだったので、左サイドハーフもやりました。
小学校4年生だったある日、5、6年生のチームの人数が足りなくて、入れてもらったことがあって。雨が降っていてドロドロの中、2点決めたんです。足の速さもテクニックもそこまでなかったのですが、体力だけはあったので、がむしゃらにやっていましたね。
中学校からは、私立の進学校へ。周りが優秀な人ばかりで、自分は逆に劣等生になってしまいました。一方でサッカー部のほうでは、レギュラーで活躍できたんです。ただ高校では、サッカーでも推薦で入ってきた人たちに押しやられたり体格の差が出てきたりで、試合に出たり出なかったり。男子校で彼女もいないし、劣等感を抱いていました。
そんな中、高校2年生の文化祭で、友だちと「イベントハウス」という催しをやりました。この「イベントハウス」とは、ひとつの教室を借り切って、映像を流したり寸劇を演じたりするものです。
学校紹介ビデオとして受験生向けに作った映像もありました。先生へのインタビューを撮って流すんです。映像では、まずはふざけた質問ばかりして、最後にちょっと真面目な話をしてもらうのですが、真面目なことを喋っている部分は使わずに、フェイドアウトして(笑)。そういう自分たちで面白いと思うアイデアを形にしていきました。
いつもは勉強をしている教室が、内装で変わっていく様子も面白かったですね。こんなに違う場所になるのか、と。最終日に設営したものを全部撤去して、普段の教室に戻した時には、「もうあの場所はないんだ」と思って泣いちゃいました。担当の先生も誇りに思ってくれてたのか、文化祭が終わった後に自宅に招いてくれて、みんなでおつかれ会をやったんです。
本当に楽しくて、いい時間でした。仲間とフラットな関係の中で、アイデアや意見を出し合ってモノづくりする喜びを感じていましたね。
大学院で社会学の面白さを知る
高校のときから好きな科目は、数学と物理でした。なぜなら、暗記しなくていいからです。歴史や地理などは、暗記して覚えることがたくさんでしたが、数学や物理は、物事の本質となる核さえ分かっていれば、公式でさえ応用して作れます。そこに惹かれました。何かを記憶したり、暗記したりするのが本当に苦手だったんです。
それで、大学は理系の情報学やプログラミングが勉強できるところへ進みました。ただ、入学してみて気づいたことがあって。自分は数学や物理は好きだけど、プログラミングがやりたいわけではないんだと思ったんです。幸い大学では、情報学とメディア系の学問の両方が学べたので、どちらかというと、美術や映画といったメディア領域の授業を受けていました。
大学院への進学を前にして、ある先生との出会いによって、段々と社会学へ興味が移っていきました。その先生の講義は、戦争やメディアの社会学について教えてもらうもの。たとえば冷戦のときは、米ソがロケットの打ち上げを通して国の技術力を発信することで、メディア上でメッセージの戦争をしていたそうです。メディアを通した社会の読み解き方を学んだことで、元々暗記ばかりで苦手だった歴史の面白さに気づきました。
社会学では、二人以上の人間が集まったときに、どのような相互作用が生まれるかなど、人と環境の関係を見つめるところが楽しかったですね。ひとつの出来事を、いろいろな角度から説明しようとする学問に出会えたことで、自分の可能性が広がった気がしました。
書店営業の仕事にやりがいを見出す
大学院修了後は、映画系の出版社に入りました。その会社の映画雑誌には、社会学の視点から映画や芸術を読み解くような評論も載っていて、元々興味を持っていたんです。
ここでは、先輩にも恵まれて、仕事の楽しさを知りましたね。販売営業部に配属になったのですが、最初に指導してくれたベテランの先輩が、面白い仕事ばかりさせてくれたんです。細々としたデスクワークだけでなく、早くから書店や取次の人と実際に会わせてもらったり、販促のアイデア出しに参加させてもらったり、本当にありがたかったです。この先輩のおかげで、出版社の仕事を面白いと感じることができました。
本が出る前の段階でも、価格や部数、広告の出し方を、それぞれの顔が見える範囲の5、6人で話し合いながら、考えていくんです。そのプロセスの中に入れたことも、とても勉強になりました。
映画系の雑誌や書籍は、生活に必要不可欠なものではありません。そういうものに対して、情熱を持って売ってくれる書店の人がありがたかったですね。好きな映画の話で盛り上がることもしばしば。出版社の営業と本屋さんが、チームを組んで一緒に売っている感覚が好きでした。販売営業の仕事に誇りを持っていましたね。
入社したばかりでうまくできないことも多かったし、会社ではつらい気持ちになることもあったのですが、書店に行って店員さんと話すことが、自分にとって大切な時間でした。
その後、書籍を主に売りたいという気持ちから、語学系の出版社に転職しました。映画系の出版社では雑誌がメインだったので、もう少し息の長い書籍を扱いたいと思っていたんです。引き続き書店営業の仕事に取り組みながら、書店さんと共にお客さんへ本を届けることのやりがいを感じていました。
山登りで感じた3つの魅力
一方で、社会人になってから、山登りをするように。有給休暇を使いながら、標高6,962メートルの南米最高峰・アコンカグアや、日本の剣岳など、多くの山に登りました。自分が山に惹かれた理由は、大きく3つ。
ひとつ目は、山の人間関係。山で出会う人とのつながり方が、素晴らしいなと感じたんです。まずは、ちゃんと挨拶するところ。街やその辺ですれ違っても、「こんちには」って挨拶しないじゃないですか。
ただ山の中では、仲良くなって、なおかつ同じ方向に進んでいたとしても、その場で出会った人とは、よほどのことがない限り一緒には登らないんですよね。自分の命が一番大事だし、命を懸けてやっているから、それぞれのペース、計画に沿って登っていくんです。たとえば、別の人に合わせて歩いていて、日が暮れてしまったり、何か崖から落ちてきたりしたら、とても危険です。自分の身は自分で守るために、それぞれが責任を持っているんです。
その上で、挨拶をしたり、天気など必要な情報を教えあったり、食事を交換したりはします。その“ゆるやかな連帯”が、心地よかったんです。それぞれ別に出発しても、「もしかしたら途中で会えるかもね」くらいの距離感ですね。その関係性が、都会のドライさとも、田舎の親密さとも違う、理想的な距離に感じました。
ふたつ目は、自然の雄大さ。あまりにも大きくて深い山を前にすると「登らせてもらっている。入らせてもらっている」という謙虚な感覚になりました。
本来人間は、飲みものや食事も含めて、植物や動物などの自然に生かしてもらっています。山に入ったとき、素直にそのことに想いを馳せました。もしも地球上に人間しか生命体がいなかったら、生きていけません。みんなが生きていくために、何らかの命をいただいているんだな、と。そして、「生かされている」と思うことで、同時に「自分も生きていてもいいんだな」と感じられたんです。
そして3つ目は、衣食住を自分で賄えるところ。自分の場合は、山小屋を使わず、テントで寝泊りしながら登っていきます。食事も全部運んでいるので、衣食住が自分の背負っているもので、完結しているんです。
元々、東京は住むにも食事をするにも、すべてにお金がかかるな、と感じていました。その中で、お金をかければかけるほど、気持ちが豊かになるわけではない、とも思っていたんです。そんなときに出会ったのが、山登り。バックパックひとつで、楽しく生きていけるんだという気持ちになりました。バックパックに全部入っているし、これだけでやっていける。自分は、この持ち物だけで充分だなと思いました。
一畳あれば寝られるし、食事もできます。それに山ではうれしい出会いもあるし、ほかに何もいらないんじゃないかと思えました。もしも家がなくなったとしても、楽しく生きていける。山登りを通して学んだことでした。
偶然見つけた超狭小物件
出版社に勤めている頃から、縁あって東京・代田橋に住むようになりました。都心に近い場所にもかかわらず、チェーン店がほとんどなく、個人店ばかりで親しみを感じられて。過ごしやすい街だなと思っていました。
でも、一点気になることが…。近くに本屋さんがなかったんですよね。本が好きな自分は、「この街にひとつはほしいな。誰かやればいいのに」と思っていました。
そんなとき、駅前に面白い物件を見つけたんです。元は八百屋さんだったところで、あまりに狭くて、逆に目立っていました。後で聞いたら、なんと三畳半。この大きさなら、もしかしたら自分でも本屋ができるかも、と思い立ちました。
八百屋さんの連絡先を調べてメールしてみると、不動産屋さんにつないでくれました。それで電話してみたら、偶然にも自分が今の部屋を借りたときの不動産屋さんと同じで、担当者まで一緒だったんです。何かの縁だと感じましたね。
ただいくら狭いといっても、場所は駅前の一等地。家賃も結構高いだろうな、と想定していたんです。けれど、確認してみたら思った以上に安くて。これはもう、自分で本屋をやるしかないと決断。会社も辞めて、開業準備をすることにしました。
店内の棚や椅子などは、基本的にすべてDIY。市販のものでは、この狭さに合う棚がなかったのもありますが、“買える”ことより“作れる”と思えることの方がいい状態だと考えているのが大きな理由です。そして店の名前は、「バックパックブックス」としました。山に登るとき、本当に生きるために大切なものだけを入れるバックパックのように、「数は少なくても、自分にとって大切な本を届けていきたい」という想いから名付けたんです。
フットワーク軽く、生きていく
現在は、バックパックブックスの店主として、日々店頭に立っています。古本を中心に扱っていますが、出版社から直接仕入れなどもして、新刊本も並べています。取り寄せにも対応しているので、気軽に寄れる“街の本屋”として使ってほしいです。
置いている本のジャンルは、結構幅広いですね。映画などの芸術系から、教育、料理に関するもの、絵本や漫画まで、特に基準は設けず、自分の趣味で選んでいます。なかでも一番充実しているのは、山登りや旅関係の本。加えて、小さな出版社が少部数で作った、他の店ではあまり見られないようなものも置いていますよ。
本は、さまざまな出会いを連れてきてくれるものです。人、映画、考え方。本の中に書いてあることを通して、自分は多くを知りました。だから、お客さんにもさまざまな出会いが訪れるように、本を届けたいと思っています。逆にこちら側が、お客さんから教えてもらうことも多いですしね。
自分が好きなのは、上下や強い弱いの関係がない“フラットなチーム”。お客さんや出版社の人、地域の方をはじめ、この本屋を通してつながる人たちと、それぞれに面白いことを持ち寄れるような関係性がいいですね。バックパックブックスを、みんながゆるやかに集まれる場所にしたいと思っています。
今後は、小さなサイズの今の店を長く続けていきたいですね。よく人から、「頑張って成功して、もっと大きくできたらいいね」と言ってもらえるのですが、店を大きくする気持ちはありません。自分にとっていいサイズ感を保つからこそ、フットワーク軽くいられます。最低限必要なものさえ持っていれば、それでやっていけると思っているんです。本屋を続けながら、旅や山登りにも行きたいですしね。
小さな拠点を持ちつつも、行きたいときに、行きたい場所へ行ける。そんな状態でいたいなというのが、正直なところです。自分が「バックパック」に込めた思想は、本当に大事なものだけを詰め込んで、できるだけ身軽でいるということ。そうやって生きていきたいと思います。
宮里 祐人 談。
『過去記事からの編集文』
一昨日病院の帰りに東秀ラーメンに寄った。そこで、冷やし中華と餃子を頼んだが。何故かウエイトレスは冷やし中華しか持って来なかった。私は変だなと思って食べて居たら。「こんな時に食べに来て、すぐに帰るだろ」と言う声が聞こえて来た。私は私がもうこの辺で精神障害者として知れ渡って仕舞ったので。また、差別かと思って居た。そして呼び鈴を押して「餃子もだよ」と言ったら。「大変失礼しました」と言う。なんか言葉が少しおかしい。よく見たら中国人だった。そうしたらゴツい感じの。如何にも刑事だと言う男が隣のまた隣に座った。宙を見てスマホを弄る振りをして居るが。明らかに刑事なのだ。私は首を捻った。おそらくは私を監視して居るらしかった。暫くすると、今時、アロハシャツを着た若い男と女の子が遠くの席に座った。そして少し大きめな声で、「殺すか・・・。」と言った。私はとっさに思った。これは刑事の犯罪者に対する威嚇だと。私が動揺するか見て居るのだ。そして、その如何にも刑事と言う成りの男の隣に、また今度は暴力団か飯場で働く様な身なりの男が二人して座った。そして何故か「あの野郎ぶちのめしてやろうか」と言うのだ。
なんだこれはと私は食事を済ますとレジのそばの二人の恋人連れの顔を見て、そして、その刑事まる出しの警官を横目で見て帰って来た。私だって刑事ぐらいは分かるんですよ。これまで刑事映画。特にフィルム・ノワールや、警官の犯人逮捕の瞬間やら、尾行のテレビでの番組は見て居る。それぐらいは見当が付く。だから訪問看護婦とヘルパーは当分お休みにしてくれと主治医に言ったのだ。それなのに看護師が来てくれた。そして調子はどうだ悪いのかと訊いて呉れた。此処で言って於くが何で私が、犯人扱いされて居るかは知らないし如何かかも分からない。前にもあった。今から10年前だ。赤羽署の刑事だった。私の実家に来て。当時は私は認知症になり掛かって居た母と二人暮らしで暮らして居た。そこに来て。私に色々と聞き出した。何でも実家の駅の側にあったミスタードーナツに顔をナイフを待った男に滅多斬りにされた女の子が助けを求めて入って来たそうだ。
私はその刑事に言った。それはその子にはかわいそうだけどなと思ったが「痴情のもつれでは無いのですか?」と言うと「それがね。害者は何も言わんのですよ。」そう言ったらもう一人の若い警官が、「なんか不審な事がありましたか?」と言うので「別に無いですよ」と言って居たら。老練な歳を取った刑事が、「奥さん、本当の事を言って下さい!!。本当の事を言って下さい!!」と言うので私は怒って、「私を疑って居るのか!!」と言ったら、それでも母に詰め寄る。母親は認知症で何も分からずに居る。そうしたらその二人は玄関から外に出かけて身長は167センチぐらいから170センチ。とメモして居るので。私が「犯人は何センチなんだ!!」と怒って怒鳴ったら。要約「186センチだ」と言うのですよ。だから「背丈が全然違うだろ!!」と怒鳴ったら、二人してすみませんとも言わずに玄関から走る様に外に出て行った。
だから、今度もそうなのだと思う。私は主治医に言ったすると主治医は「何もやましい事がなければそのうち居なくなるだろう」と言って居た。私は幻覚も現れた、男の姿が半分チラリと見えたのです。そんな事が2回続いた。それも主治医に行った。今は安静にして居ないとまた。病院に入院になる。それは嫌だ。どんな事があっても嫌だ。それからパソコンがハッカーにやられて居ることは主治医に行った。主治医はそれは本当の事だろうと言って居た。私は幻聴だったが、子供と女の人がやめて呉れと泣いて居る声が聞こえた。私は言った。「女子供に手をあげるな!!」そして、それも幻聴だった様だ。近所の人には大迷惑を掛けて仕舞った。
私はまた。あいつは気狂いだと言われるだろう。処で、この間だが、神経が休まらないので、YouTubeで歌謡曲やらブルースなどの曲を歌って見た。酷い話だがほぼ1年ぶりの事だ。私はカラオケには行かない。歌う歌も馴染みはあるが殆んど歌った事は無い歌だ。しかし歌って見た。結構、上手くは無いが、それなりに音程は外さなかった様だ。まあ、自己満足です。私はバンド時代歌った事は無い。ボーカルが居たからね。久々気持ちが良かったが。誰かが、言った。「毎回、毎回うるせえんだよ!!音楽聴かせたり下手な唄歌いやがってバカヤロー!!」。まあ、窓は閉めては居るが聞こえるのだろう。ただ近所の人に言いたい。1日2時間半は我慢して下さい。ドヘタなハーモニカの音色だとか、此間みたいに下手な唄歌うかも知れないけど。私はそれしか興味がないものでして。すみません。私はこれでもミュージシャンの端くれなんですよ。ヘタですけどね。。。。。。
名著紹介。。。「形而上哲学小説・・・・「死霊=指令」」
埴谷雄高氏は戦後の闇の作家とも言えると思う。戦前は、殆んどの政治活動家が非合法の政治活動に参加するのは当たり前みたいな感覚があった様だ。彼はマルクス・レーニン主義にかぶれた。マルクス・レーニン主義は今の時代に力は無い。ベルリンの壁の崩壊。ソ連邦の解体。この際レーニン像は引き摺り下ろされた。それ以降。共産主義は最早人気は無い。彼は若き日、子供心に台湾において「支配者としての日本人」を強く意識し、罪悪感を覚えて日本共産党に入党し、もっぱら地下活動(農民団体」のオルグ活動)に従事し、思想犯取り締まりの為。1932年に逮捕された。彼は幼少の頃、軍人だった父親が台湾人を刀で斬り殺す場面を見せられて、それ以来、アイデンティティーの崩壊を起こして仕舞ったそうだ。
だから彼の著作「死霊」では「自同律の不快」と言う観念を戦後打ち出して居る。検挙後埴谷は未決囚として田名刑務所に収監され、形式的な転向によって釈放された...。獄中では、カント。ドストエフスキー。またヘーゲル、ショーペン・ハウエルなどを熟読し、若い頃はマックス・ステェルナーの「唯一者と所有」がそれまでの彼のアナキズムを形作って居たと言う。評価としては三島由紀夫は「埴谷雄高氏は戦後の日本の夜を完全に支配した」として埴谷の文学を絶賛してるし。また吉本隆明は、埴谷の文学作品と政治理論の双方を非常に高く評価し、「死霊」第五章を、「死というものを瞬間的にでなく、段階的・思索的にとらえた日本近代文学史上はじめての作品」とし、またその政治理論についても「革命家は行動を起こさなければ行けないと言う観念論ではなく、未来のビジョンを示せば良い言う事を示したコペルニクス的回転である」とした。
埴谷雄高、形而上哲学小説「死霊」
==彼の唯一の形而上長編小説について==
形而上学哲学小説「死霊」は 全十二章を構想し、戦後の約半世紀を費やして執筆されたが、第九章まで書き進められたところで未完のまま終わっている。当初の構想では、釈迦と大雄(ヴァルダマーナ、ジャイナ教の創始者)の議論までが書かれるはずであった。なお、巻頭のエピグラム「悪意と深淵の間に彷徨いつつ/宇宙のごとく/私語する死霊達」は『不合理ゆえに吾信ず』からの自己引用であり、『死靈』は文字通り埴谷の文学的探求の根源から存在する問題意識を小説・物語の形を借りた議論によって形象化しようとした壮大なものであった。
『死靈』は、『近代文学』誌上に1946年1月号から49年11月号にかけて第四章までが連載され、ここで筆者が腸結線を病んだ事情もあって中絶した。長いブランクを経て第五章が、1975年に『群像』で発表され、以後は『群像』誌上で続編が掲載されていった。1976年、日本文学大賞を『定本 死靈』で受賞。以後の単行本は、講談社から順次刊行され、1998年2月から刊行開始された『埴谷雄高全集』第1回配本の第3巻に、『死靈』全編及び第九章未定稿が収められて居る。埴谷自身、文庫判は1世紀以上経っている作品のみとすべきとの考えから、生前は自らの作品を決して文庫に入れようとはしなかったが、2003年に講談社文芸文庫で刊行された。
自身は、第九章脱稿時に、全九章及び第九章未定稿をもって『死霊』を完結としたが、友人本多秋五らの説得によって第九章未定稿部分を撤回し、『死霊』は未完という形で終わらせた。なお、第九章の完結後、「『死靈』断章(一)~(五)」として続稿、ないし遺漏稿と思われるアフォリズム的小文は、『群像』1996年8月・9月・11月・12月号、翌'97年4月号に掲載された。これらの断章は『埴谷雄高全集 11巻』にすべて収められた。
1995年1月9日~13日の5夜に渡り、NHK教育テレビが、『 ETV8特集、埴谷雄高・独白「死霊」の世界』を放送。また放送分を書籍化し、NHK出版から同名の著作が、1997年に出版されている(白川正芳責任編集)。また、DVDは出て居ないがビデオテープはNHKソフトから以前発売されて居た。私は今はそのビデオをDVDにダビングして焼いて所有して居て繰り返し見て居る。
2007年10月2日、埴谷雄高の遺品などの寄贈を受けていた神奈川近代文学館は、埴谷の残した膨大な資料の中から(埴谷はどんな些細なメモも捨てることはなかったと言われる)作品の構想過程が分かる詳細なメモを発見。1930年代の物と思われるそのメモは『死靈』が文字通り埴谷の生涯を賭した作品であることを明確に示して居る。なお、これらの資料は『群像』2007年11月号に転載され、研究者の鹿島撤などが解説を加えて居る。
本作は、ドフトエフスキーの作品に多大な影響を受けて居る。共産主義思想の活動家たちの地下活動と、その中で交される議論を主たる題材とした小説であるが、その議論の中では、「無限大」、「存在」、「宇宙」、「虚體」、「自同律の不快」、「のっぺらぼう」、「過誤の宇宙史」―等々独自の意味づけを与えられた命題に関して、身辺や感覚を発端として深遠かつ壮大な形而上学的思索が繰り広げられ、極めて難解な思弁的物語、いや主題に似つかわしく物語の「非在」とも言うべき議論の応酬となって居る。
ーあらすじー
昭和10年代の東京市と思われる街を舞台とするこの小説に於いて、議論の中心となるのは、「虚體」の思想を持ち「自同律」に懐疑を抱く主人公・三輪與志、結核に罹患し瀕死の床に伏す元党地下活動家の三輪高志、「首ったけ」こと自称革命家の首猛夫、「黙狂」と呼ばれる思索者・矢場徹吾ら4人の異母兄弟である。そこに與志の婚約者の津田安壽子、與志と徹吾の高等学校時代の親友の黒川建吉、徹吾が入院する精神病院の医師の岸杉夫、安壽子の父で元警視総監の津田康造とその妻、高志の恋人でありながら高志の同志と心中した姉を持つ尾木恒子、「神様」と呼ばれる少女とその姉「ねんね」、印刷工場主で革命運動にも関わる李奉洋……。
こうした群像が存在の秘密や宇宙や無限をめぐって、異様な観念的議論をたたかわせる。何十ページにもわたる独白を中心とした饒舌な文体によって進められる、非常に緩慢な時間進行の中での対話劇に、永久運動の時計台、《死者の電話箱》・《存在の電話箱》の実験、《窮極の秘密を打ち明ける夢魔》との対話、《愁いの王》の悲劇、「暗黒速」「念速」などの概念、人間そのもの・イエス・キリスト・釈迦・さらに上位的存在への弾劾、ある種象徴的な黒服・青服による「虚体」「虚在」「ない」の三者の観念的峻別についての示唆なども挿入され、一種神秘的・超常的な雰囲気さえただよう。
その一方で、議論の合間にしばしば「あっは」「ぷふい」と差し挟まれるユーモラスな間投詞や、ボートに乗った一行が肥満した安壽子の母の体重により(これまた非常に緩慢に)ひっくり返る場面、「喰った者が喰われた者に弾劾される」と言う、ある種アニミズム的な場面などと言った、スラップスティックな表現もある。なお、「あっは」「ぷふい」はともにドイツ語で、Achは驚きをあらわす言葉で英語のOhにあたり、Pfuiは「ちぇっ!」のように不快、嫌悪をあらわす。そして、ちなみに『死靈』の異母四兄弟は、それぞれスウィンバーンのフランソワ・ビヨンによせた詩"ballad of francois villon prince ob All Bllad-Makas" の一節、"Villon,our sad bad glad mad brother's name!"におけるsad,bad,glad,madに、三輪与志、三輪高志、首猛夫、矢場徹吾がそれぞれ対応されて居る。
埴谷雄高の新資料
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左利きながら、右利き用に弦を張ったギターを逆向きに持って弾くユニークなスタイルを持つ。同様のスタイルには、有名な処ではアルバートキングが居る。通常の弦の配列に比べて、より高音弦でのチョーキングがしやすいと言われて居る。
オーティス・ラッシュは素晴らしいブルース・シンガーでブルース・ギタリストだった。私は彼のコブラ盤など彼の名演奏を収めたレコードなどを所有して居ます。彼のギターの特徴はアール・フッカーやらロバート・ナイトホークのスライド・ギターのトーンやフレーズを指で再現しようとしてその試みが彼のダイナミックでアーシーな独自のプレイと成って居た。1970年代高校生だった頃に、当時のロックミュージックの月刊誌「ミュージック・ライフ」にオーティス・ラッシュの事を教えてくれとハガキを出した処、採用されてオーティス・ラッシュのミニ記事が掲載された事があった。
コブラレーベルに残した初期の録音、"All Your Love"や"Double Trouble"などは彼の代表曲となって居る。ロックのギタリストを中心に、影響を受けたミュージシャンは多い。エリック・クラプトンも大きな影響を受けた一人で、ジョンメイオール&ブレイカーズ時代に"All Your Love"を、またソロになってから"Double Trouble"、"Groaning The Blues"をカヴァーして居る。ステイーブ・レンボーンは、バンド名をオーティスの曲名から「Double Trouble」と名付けて居る。意外な所ではエアロスミスが"All Your Love"をカバーして居る。
ギターのチョーキングとビブラートが特徴的。彼はレコーディングの機会に恵まれて居たとは言い難く、実力のわりには作品は少ない。2004の脳梗塞で倒れ、以来リハビリを行って居たが、2018年9月に公式サイトを通じて死が発表された。日本人の妻を持ち日本でも人気が高い
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さて、5日振りの更新です。今日は訪問看護婦さんが来ました。丁度、Bluesharpのケースを開けて居た処でした。それを見て、「凄いですね。」と言って居ましたが、、多分、12本、Bluesharpが入って居た所為でしょう。まあ、知らない人が見たら、同じharpが、12本もあるので、不思議に見えるのでしょうけど・・・Bluesharpは1本ずつ、keyに寄って別れて居ます。1本ずつがひとつの音階に成って居ます。12本で要約、全ての音階で吹ける事に成ります。この事は、Bluesharpを知らない人は解らないはずです。全部のkeyを1本で吹けるharmonicaもあります。そのharmonicaの事を、chromatic・harmonicaと言います。chromaticはBluesharpよりも大きいです。そして、Bluesharp見たいには吹けません。まあ、Bluesharp がBlues、Rock専用とすると、chromatic・harmonicaは何方かと言うとJazzとかClassical music専用です。私はこのharmonicaも吹きます。以前、写真を挙げて居るので、このblogで見た人も居るかと思いますが、また挙げて置きます。
クロマチックとは、「半音階」を意味します。 クロマチック・ハーモニカの横にレバーがあり、このレバーを押すことで半音上の音が出ます。 クロマチック・ハーモニカは一本だけで全ての音階を演奏出来るのです。 ... どんな曲でもクロマチック・ハーモニカが1本あれば、演奏出来てしまうのです。
ブルースハープとは、HOHNER(ホーナー)社の商品名で、10個の穴がある事から、一般的にはテンホールズ(10 Holes)と呼ばれます。ポケットの中に入れて持ち運びが出来るくらい小さく、安いものでは1本1,000円位からあり、人気モデルの価格帯は3,000円台と、比較的購入しやすい手ごろなハーモニカです。ブルースを演奏するのであれば、ベンディングなどのテクニックもありますが、その単純な構造の為、楽器としての差はそれほど無く、プレイヤーのセンスによって演奏が大きく変わる奥の深い楽器とも言えます。
山下 伶 / リベルタンゴ
ハーモニカ教則『ブルース・ハープ完全攻略』平松悟 Digest (演奏の後に吹き方を教えています。)