毎度お馴染みのkiyasumeの小汚い部屋・・・・・。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾
私が付きあって居る。アニメーターでイラストレーターの彼女が描いてくれた私のイラストです。彼女は仕事の依頼も受けて居ます。此処では表示できませんが、今までにイラストやら漫画の依頼を受けて居ます。。。
彼女のYouTube(TikTok)です.....。
https://youtube.com/shorts/jkCL5tAEnn8?feature=share
妹尾隆一郎
1949年6月17日〜2017年12月17日
日本のブルースハーモニカ奏者である Weeping Harp Senoh 妹尾隆一郎を紹介します。妹尾隆一郎は『Blues』の魅力を日本人に知って欲しいと願い活動した人でした。
Weeping Harp Senoh の演奏を一人でも多くの人に聴いて貰いたいと今回挙げて見ました。Weeping Harp Senoh の演奏を聴いて見て下さいね。
私が妹尾さんを知ったのは1974年頃、高校1年生の頃でした。当時ブルースは日本中を席巻して居て。イギリスのブルースロック・ミュージシャン「ジョン・メイオール」のブルースハープを聴いて、それをコピーして居た私に、黒人の本当のブルースをステージで演奏して教えてくれたのが妹尾さんでした。そしてライブを見に行った後に妹尾さんと話して吹き方を色々と教えて貰いました。それ以来、私は妹尾さんのブルースハープに影響を受けて居ます。妹尾さんは2017年にお亡くなりに成りました。68歳でした。
私も所有して居ます。妹尾さんがその開発に参加したもので絶対の自信を持って、皆さんにお勧めするアンプです。
リバーブは附属して居なくて、プリアンプとメインアンプとの間に各自が好きなリバーブユニットを追加出来る様にインとアウトが装備されて居ます。
私は、一切のユニットを追加しないで、このアンプを素のまま使って居ます。
25cmのスピーカーをトランジスタで30Wの定格出力を持つメインアンプで鳴らして居るが、たいがいのステージで充分な体感パワーを持って鳴ってくれます。
トーンコントロールとインプットゲインを受け持つプリアンプ部は12AX7を2本使った真空管アンプで構成されて居て、この部分の回路は妹尾さんが設計しました。 その分、厚い音色が充分得られます。
妹尾さんはSeno-Tera 『One More Mile』や塩次伸二氏とのDuoアルバム『S.R.S.S.』などで使用して居ます。
そして、その次にようやくベンディングに入ります。勿論、息の流れを変えると言った抽象的な言葉ではなく、口の筋肉の使い方から、個々の穴それぞれについて、詳しく紹介されて居ました。そういった基本を習得してから、実際の曲を練習する流れになって居ます。
いわゆるフォーク系のハーモニカ奏法は、ベンドさえ出来ればそれほどテクニックは要らないのですが、ブルースだとベンディングやトレモロなどが非常に重要になります。それらを一からしっかりと練習させる素晴らしい教則ビデオでした。実は今日も久々に引っ張り出して観て見ました。今では出来る事もありますが。妹尾さんの模範演奏は素晴らしいです。
私は妹尾さん自身から直接、練習に来ないかと。妹尾さんのbluesharp教室に誘われましたが、持病の為に行かれず。それで妹尾さんがリットーミュージックから出して居た教則ビデオで練習しました。
生前の妹尾さんの日記から抜粋、、、
「『妹尾の大きまぐれ日記』から2010年 8月 10日(火)『WeepingHarpSenoh』で YouTube にアップするぞぅ先月7月にアメリカはカリフォルニアに住んでいるニールという人から突然メールがきました。そのメールにはアニメ"Cowboy Bepop" に収録されている "digging my potato"という曲の演奏を聴いてブルースハープを始めたと。そして演奏についての幾つかの質問がありました。また『Weeping Harp Senoh』はアメリカで有名だよ!インターネットGoogleで検索したら沢山出て来るよ!そんな感じの内容でした。我ながらビックリ、嬉しい気分になっちゃいました。エヘン!
また先日の事ですが、大阪の友人が『You Tube』で"digging my potato"の演奏方法を解説している動画があるというのです。さっそく観てみると、アメリカの男性が、なかなかしっかりとコピーしていて、解説も上手いものでした。ハープもいい音で、関心しました。この数年、手作りCDとDVDは何枚か作っては居るものの何十年も正式レコードやCDは発売してないので自分が納得できる近年の演奏を聴いて貰える様にと『You Tube』にアップする事にしました。妹尾隆一郎では、国内に限定される恐れがあるので『WeepingHarpSenoh』で、発信した方が海外にも伝わるとの思惑です。
これまで『You Tube』にアップする事についてはいろいろと問題点が多いと思い、躊躇してきました。今でも問題点は解決していません。一緒に演奏しているミュージシャンへの配慮は当然の事です。いろんな面での著作権との絡みも重要な事です。自分の知らないうちに何処かでのライブを、僕自身の意思に関わり無く無断にアップされている映像が多くていやな想いをしています。(勿論、アップをしたいと本人から連絡を受けて了承しアップされている映像もいくつかはあります)演奏者本人が了承していなければ、インターネットに無断で公開すべきでは無いと考えます。プンプン!」
Cowboy Bebop OST 1 - Spokey Dokey
はもにか道場 LIVE 2 Days _1/7_道場のテーマ(Theme for Harmonica DOWJOW)
はもにか道場 LIVE 2 Days _3/7_Early in the morning
はもにか道場 LIVE 2 Days _2/7_They call it stormy monday
妹尾隆一郎ブルースを語る 2015_1_7
妹尾隆一郎氏の、弟子であるkiyasumeの、師匠に到底及ばない、ドヘタなハーモニカのアドリブ。
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最新ラジカセ紹介です
2019年製のラジカセです。最近は日本のメーカーも頑張ってラジカセを作り始めて居ます。勝手のラジカセはもう作れないそうですが 、今のラジカセはアナログとデジタルとを融合した物を作り始めました。ラジカセは1980年当時日本のメイド・イン・ジャパンを代表する家電でした。時代は流れて今は皆さんストリーミングで音楽を気軽に聴く時代ですけど。しかし私は「待った!!」と言いたい。音楽は形のある物だったのです。カセットテープは小さいがおしゃれで機能的、しかも音はいいし手軽です。皆さん、アナログも聴きましょう。ラジカセの復活は嬉しいですよね....
価格: |
¥6,630 |
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インテリアにぴったりなCDラジカセ
カセットも使えるCDラジカセ。使い易い大型ラジオ選局ダイヤル付き。 -
ワイドFM対応のFM・AMラジオ
ワイドFM(FM補完放送)に対応。AMラジオの番組をFM放送の周波数で聴けるので、ビルやマンションなどAM放送が入りづらい場所でもクリアな音質でAMラジオ番組を楽しめます。 -
カセットテープも再生・録音可能
カセットテープも再生・録音できます。 -
2種類の電源に対応
100V電源以外に、持ち運びにも便利な単2型乾電池6本でもお使いいただけます。 -
おしゃれなデザイン
クラシックなデザインでインテリア性にも優れています。日本語で分かり安く、操作も簡単。音は中音域が広がるダイナミックレンジ感が聴きやすいです。値段とコンパクトなボディーを考えればこんな物だと思います。悪くは無いですよ。
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昔勤めていた会社に、バンドをやっているパートの女の子が居た。その子が、或るライブハウスが、火事になったと言う。「なんで?漏電?」と訊いたら、キッス(知らない人はゴメンなさい。口から火を吐いたりするパフォーマンスをするハードロックバンドです)見たいに火を吐いたら燃え移って火事に成ったと言う。
処でライブハウスは60年代に出来た。はじまりはジャズ喫茶だった。「ライブハウスと言う言葉は和製英語だ。その意味は1977年に紹介されているが、ライブハウスと言う言葉の誕生は70年代前半まで遡る。当然のことながら、ライブハウスという言葉が誕生する以前からも、現在のライブハウスと同様に機能する空間は存在していた。50年代のロカビリー・ブーム、そして60年代半ばのグループ・サウンズのブームではジャズ喫茶がライブシーンの拠点となり、芸能システムに組み込まれたメイン・ストリームに位置していた。
1950年代から60年代にかけて、メイン・ストリームのライブシーンを牽引したのはジャズ喫茶だった。その一方で、60年代後半にはオルタナティブのライブシーンが芽生え始めていた。文字どおりのライブハウスが誕生したのは70年代半ばだが、その起源は、60年代後半のカウンターカルチャーと言う時代の空気のなかで誕生したロック喫茶に見ることが出来る。
1969年にライブハウスの「BYG」が出来る。渋谷では初めての本格的なライブハウスで、それまでジャズ喫茶やディスコで演奏していたアーティストが集って来た。1階がレストラン、2階がジャズとロックのレコード喫茶、地下がライブスペースという構成になっていた。
70年代は中野-高円寺ー吉祥寺の中央線沿線の若者文化だった。
1970年代はライブハウスと言う新たな実演の「場」が数多く設置された時期でもあった。それはあくまで、先行していたジャズ、ロック、フォーク、ブルース喫茶と言う音楽ファン対象のコミュニティ装置の延長線と考えられる・・・・
東京では中央線を中心に何軒かのライブハウスが出来た。74年11月に「荻窪ロフト」、同年、吉祥寺に「曼荼羅」、そして高円寺に「JIROKICHI」、その1年後に渋谷「屋根裏」が出現することになる。75年発行の『コンサート・ガイド』(のち『シティーロード』)には、何とこの1年で東京に二十数店ものロックやブルース。フォークのライブを見ることが出来る空間(ホールを含め)が出現したとある。この時期を始めとして、規模は小さいが流行にめざとい芸能音楽事務所や楽器メーカー、電気事業会社、レコード会社がテスト・ケースとしてライブハウス経営(ライブハウスと言う定義もない時代であったが)に参入し始めた。新宿には「クレイジー・ホース」「開拓地」が出来、小沢音楽事務所が「新宿ルイード」を発信させる。高田馬場には「PEOPLE」、三ノ輪には「モンド」がそれぞれあった。渡辺プロダクションが興した「銀座メイツ」も日劇ウエスタンカーニバル風にキャンディーズや天地真理、中尾ミエなどを登場させた。
70年代東京のライブハウス事情にも大きな変化が出てきた。まず75年12月に出来たパチンコ屋の上階にある「渋谷屋根裏」のライブ・スケジュールが強力になっていく(シティ・ポップス全盛の時代ですら「屋根裏」はパンクのライブをやっていた)。「新宿ルイード」(小沢音楽事務所)も芸能界絡みのブッキングとは言え田中俊博と言うメジャー・ロックのスペシャリストが入り、歌謡曲路線からロック系にシフトしつつあり、シャネルズ、佐野元春、白井貴子、山下久美子などパワフルな布陣を揃えてきた。「曼荼羅」は浦和から吉祥寺に移転してきたギンギンのロックをやり始めた。高円寺「JIROKICHI」もロフトのスケジュールを意識し、素晴らしいブルースのスケジュールを組むようになった。また、「渋谷エピキュラス」を始め、新宿厚生年金会館、郵便貯金ホール、日比谷野外音楽堂はロック野外イベントの聖地となり、大型ロック・コンサートが開催できる様にも成ったのだ。
さらに、ロック・シーンに大きな影響を残した「ツバキハウス」もディスコのさきがけとして新宿に店を構える。ジャズの大御所「ピットイン」はフュージョンを基盤として六本木に新しいライブハウスを造ろうとしていた。
受験生しか聴かなかった深夜放送(「オールナイトニッポン」が中心)もどんどんロックを流していた。東京の主要都市(渋谷・新宿・六本木など)から発信される新鮮な情報に我々は圧倒されていたのだ。まあ、私は小学生の頃から深夜放送を隠れて聞いて居たのだけども。。。
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若松孝二映画考........。
「千年の愉楽」
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』と『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』はいかにも若松孝二監督らしい、いや今時は同監督以外、誰にも取り組むことの出来ない作品だった。その若松監督が最新作として取り組んだのが、中上健次の1982年の短編『千年の愉楽』の映画化だ。「中上文学」はかなり特殊だ。現に「被差別」特有の「血族」や「路地」などの言葉・概念を見るだけでもそんな特殊性がわかるため、私は本格的に中上文学にハマることはなかった。しかし、映画の世界では『軽蔑』が2011年に高良健吾の主演で映画化された為「中上文学最後の可成り特殊な純愛映画」を見る事が出来た。
若松監督は本作の公開準備中である2011年10月17日に不慮の事故で亡くなった。
そんな思いを持って本作を観ると、寺島しのぶをオリュウノオバ役に起用したのは『キャタピラー』の演技を見れば当然だが、彼女は原作で描かれたオリュウノオバとは全然年齢が違うため、映画化にあたっては「路地の男たちを見守りながら年を重ねていく若きオリュウノオバ」と言う風に台本を大幅修正した。しかしそれでも、中上健次の原作『千年の愉楽』が描くのは、壮大なスケールでの性と生。もっと具体的に言えば、紀州南端の町の「路地」に生きる美しき「中本の男」たちの生と死だ。
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」
ベトナム戦争、パリの5月革命、文化大革命、日米安保反対闘争、世界がうねりを上げて居た1960年代。学費値上げ反対運動に端を発した日本の学生運動も、安田講堂封鎖、神田解放区闘争、三里塚闘争、沖縄返還闘争など、農民や労働者と共に、社会変革を目指し、勢いを増していった。活動家の逮捕が相次ぐ中、先鋭化した若者たちによって、連合赤軍は結成され、1972年2月のあさま山荘へと至る。その後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は完全に失速して行った。テレビ視聴率89.7%、日本中の目を釘付けにした「あさま山荘」の内部では、一体何が起きて居たのか。彼らはなぜ、山へ入り、同志に手をかけ、豪雪の雪山を越え、あさま山荘の銃撃戦へと至ったのか。そして、「あさま山荘」の中で、最年少の赤軍兵士の少年が叫んだ言葉とはー。
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」予告編
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『日本のブルースハープ奏者列伝』
「妹尾隆一郎」
1949年6月17日生まれ、大阪府大阪市出身のブルースハーモニカ奏者。大学入学時に上京し、ポール・バターフィールドのハーモニカに衝撃を受けて以来、ハーモニカの道へ邁進。72年、B.B.キングの来日公演の前座に出演。74年にブルース・バンド、ウィーピング・ハープ・セノオ&ヒズ・ローラーコースターを結成。76年に初アルバム『メッシン・アラウンド』を発表。以降、ソロやバンド活動のほか、他アーティストとの共演やツアー参加、番組音楽制作、後進への指導など幅広く精力的な活動を展開し、日本におけるブルース・ハーモニカの第一人者として活躍。2017年12月に治療専念のためライヴ活動休止を発表後、12月17日に死去。68歳没。
Roller Coaster feat. 妹尾隆一郎 - A Tribute To Little Walter Jacobs (Harmonica Cover)
「西村ヒロ」
山口県出身。少年時代にギターを弾き始め、大学在学中にブルース・ハープを手にする。1984年12月から半年、シカゴでセッション活動をして腕を磨いた。タング・ブロックの名手として知られ、数々のレコーディングやライブ・サポートをこなす。また、自らのバンド、HooDoo Boozeでも精力的に活動を行っている
「NATUKO」
東京のモッズシーン、ブルーズシーンの中に、華奢な身体に似合わずブルーズハープを吹きまくり、ディープにヴィンテージな味わいの曲を歌う女性NATSUKOがいる。彼女のブルーズハープの実力は、世界的なハーモニカメイカーであるドイツのHOHNER社公認アーチストとして認定されるほど折り紙つきであり、日本人女性のブルーズハーピストとしては、最高峰の領域にいる。ボーカリストとしても、Blues, Jazz, Jive, New Orleans R&Bなどのヴィンテージサウンドを、思いのほかラウドに歌い上げるパフォーマンスは、一度見たら忘れられないインパクトを持っている。彼女の存在や、その秘めたポティンシャルについては、あまり数の多くないライブで直接触れた人達を中心に、限られたゾーンの中でしか知られていない。そのNATSUKOが、アーチストとして一歩前に進み出す為に、初めてレコーディングを行い、『Blue Stocking』と題したデビューアルバムを発売。
Blues Harp Natsuko Band-Rocket 88
「コテツ」Bluesharp奏者。
1971年東京生まれ。17才から10ホール・ハーモニカを吹き始め、2001年、シンガーソングライター/ピアニスト、YANCYとのデュオ「コテツ&ヤンシー」でアルバム・デビュー。現在は、ドクター・ジョン、バディ・ガイ、オーティス・ラッシュとの競演でも知られる、KOTEZ&YANCY。ムッシュかまやつ、LEYONA、鮎川誠、近藤房之助、山岸潤史などゲストを迎えたコラボレーション活動もあるブルーズ・バンド、blues.the-butcher-590213(永井ホトケ隆+沼澤尚+中條 卓+KOTEZ)。八木のぶお、KOTEZのツイン・ハーモニカによる2つのユニット、HARP MADDNESS、電気HARP MADDNESS。ベーシスト、江口弘史の提案により、KOTEZのVOCALを全面に打ち出したユニット、100%KOTEZsings。TAPスタイルの異なる、ふたりの女性ダンサーとのユニット「なまはむめろん」等をレギュラーに、ライヴ、レコーディング、CFナレーション、音楽ライターなどを幅広く活動中。
荻窪RNS七周年記念ライブ シカゴビート「コテツ」
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片付けて居たら。高校生の頃に描いた漫画がまた出てきた。探して居たら小説も出て来たが、丁度シナリオの勉強をやり出した時で、暇つぶしに書いて居たモノだろう。昔は何にでもチャレンジして居たっけ・・・・
私は4月で64歳を迎えた。しかし、自分では精神年齢は40歳ぐらいだと思って居る。此の間、中学校の同級生数人と偶然にばったり会うことがあったのだが。皆んな老けていて驚いた。大体が服装がいけない。年寄り然とした、じじいの格好をしているのがいけない。私は歳だが、髪は長髪にしているしパーマを掛けて居る。服装も成るだけ洒落た格好を心がけて居る。私の頭の隅にはトラッド・ファッションと1970年代のフラワームーブメントのファッションセンスが常にある。だから、成るだけ、それに沿う様な格好を考えて居る。良いではないか。もう生きても10数年の短い命だ。それから、ジーパンは今はすべて日本産のものを購入して居る。今、海外では日本産のジーンズがもてはやされて居る。日本産のジーンズは海外で評価が高い。しかし私がお洒落な格好をしても、最近は誰からも何か笑われたりとか文句を言われたことは一度も無い。強いて言えば、私が調子が最悪に悪かった時を見ている訪問看護師から、「〇〇さんは、前は今みたいにちゃんとして居なかったんだから・・・」と言われるぐらいです。(笑)
ジーパンと言えば亡くなった父親が「俺だってジーパンを履いてみたいんだ」と言うので「履けばいいじゃないか」と言っても「なぁに〜が」と言っていた。親父は会社を5時に退社すると夜の12時までパチンコ屋に居た。毎日だ。自分の玉が無くなると隣の男がやっている様子を食い入る様に見ていて、「じじい!そんなに玉が欲しいのならくれてやらぁ〜」と投げつけられた玉を拾ってまた始めて出たと喜んで居たと言う。そして玉がもらえない時には床に這いつくばって、落ちている玉を拾い、また、始めていたらしい。毎日夜の12時半に帰って来て、母に食事を作らせて、私はリビングにあった、テレビで放送大学の「芸術論」の講義を楽しみに見ていると、人の眼の前でわざと新聞を広げて邪魔をする。そして「お前はバカか、勉強は学生時代でおしまいだ!」と怒鳴る。私は「何をバカなことを言っているんだ、学びは一生だろ。」とよく喧嘩になった。親父は結局タバコの煙が充満しているパチンコ屋に毎日7時間近く居て、その為に肺がんになり、最後は骨ガンに転移して、そして死んでいった。大バカ野郎だと思う、しかし自分が設立した会社を兄貴とその息子らに乗っ取られて焼けに成って居たのも確かな事だけど。
私は親父の会社に入る前にバイトを幾つかした。東京出版のアルバイトは半年した。本の仕分けと取次店までの区分けだが、バイト代は10日ごとに支払われた。大体3万5千円位だった。そこから昼食代として三百円が引かれた。食堂では秋刀魚定食か、惣菜パンに牛乳だった。今はオートメーション化されて居て、機械がやって居て、かつて働いていた人たちはどうなったのだろうかと思っていたら、何とAmazonが全員を引き取って雇用したと聞いた。他に古本屋などでバイトをした。私は極力本は処分しないたちだ。どうしてもの時は町の古本屋に売りに行く。ブック・オフとかには持っていかない。あくまで町の古本屋だ。もう数年前になるが、津野海太郎氏が編集して出して居た「季刊・本とコンピューター」という月刊誌を10冊纏めて売りに行ったら6千円に成った事があった。しかし。いざ、古本屋に勤めてみると、その厳しさ、大変さが良く解ったものだ。そしてバイトと言えば、高校の頃、知り合いの同級生が自宅にやって来て。パーティーのバンドをしてくれと切実に頼まれた。聞けば仕出し弁当屋が主催するパーティーで頼んでいたバンドが、断ってきたというので困っていると言う。あまり乗る気ではなかったが、そいつが気の毒に思い引き受けた。会場に行ってみると仕出屋の社長が居て、一人1万円をくれると言う。機材は揃って居た。私はとりあえず自分を含めたギター3人とベース、キーボード、ドラムを引き連れて演奏を始めた。レーナード・スキナードの曲から、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルの曲を演奏した。しかし反応がイマイチだった。その内、カラオケ・タイムになり、女の子が松田聖子やらピンク・レディーの曲を歌うと言い出した。ギター3人でなんとかバックをこなして居たが、途中、嫌気が差したギターが1人とベースがもう帰ると言って居なくなった。何気なく、ふと会場に居る男たちを見てみると、リーゼント・スタイルが殆んどだと言う事に気が付いた。だからロックン・ロールをやれば良いかも知れないと思い。ギターをベースに持ち替えて、クリフ・リチャード。ファッツ・ドミノ。リトル・リチャード。チャック・ベリーの曲を立て続けに演奏した。ギターもキーボードも合わせて乗ってやった。そうしたら皆んな雄叫びを上げて、踊り狂い始めた。中にはビールを私の頭から掛ける者も出て来た。散々な目にあったが、主催者の仕出し弁当屋は大喜びだった。おかげで友人の面目も立ったし、金も貰えた。そんな事があった。即席編成のバンドではあったが、良くやったと思う。。。
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大都会PARTⅢテーマ曲