寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

kiyasumeアーカイブス,(特別編)...。過去記事の緊急掲載...。 再び読んで見てやって下さいね。。。また暫く休みますので、宜しくね....。

 

 

 

毎度お馴染みのkiyasumeの小汚い部屋・・・・・。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾

 

私が付きあって居る。アニメーターでイラストレーターの彼女が描いてくれた私のイラストです。彼女は仕事の依頼も受けて居ます。此処では表示できませんが、今までにイラストやら漫画の依頼を受けて居ます。。。

彼女のYouTube(TikTok)です.....。

https://youtube.com/shorts/jkCL5tAEnn8?feature=share

 

 

妹尾隆一郎

1949年6月17日〜2017年12月17日

senoh_2

 
 

日本のブルースハーモニカ奏者である Weeping Harp Senoh 妹尾隆一郎を紹介します。妹尾隆一郎は『Blues』の魅力を日本人に知って欲しいと願い活動した人でした。

Weeping Harp Senoh の演奏を一人でも多くの人に聴いて貰いたいと今回挙げて見ました。Weeping Harp Senoh の演奏を聴いて見て下さいね。


私が妹尾さんを知ったのは1974年頃、高校1年生の頃でした。当時ブルースは日本中を席巻して居て。イギリスのブルースロック・ミュージシャン
「ジョン・メイオール」のブルースハープを聴いて、それをコピーして居た私に、黒人の本当のブルースをステージで演奏して教えてくれたのが妹尾さんでした。そしてライブを見に行った後に妹尾さんと話して吹き方を色々と教えて貰いました。それ以来、私は妹尾さんのブルースハープに影響を受けて居ます。妹尾さんは2017年にお亡くなりに成りました。68歳でした。

 

 
御存知のグヤトーンから出たハープ専用アンプ HP-300(Harpist)です。

 

 

 

私も所有して居ます。妹尾さんがその開発に参加したもので絶対の自信を持って、皆さんにお勧めするアンプです。

リバーブは附属して居なくて、プリアンプとメインアンプとの間に各自が好きなリバーブユニットを追加出来る様にインとアウトが装備されて居ます。

私は、一切のユニットを追加しないで、このアンプを素のまま使って居ます。

25cmのスピーカーをトランジスタで30Wの定格出力を持つメインアンプで鳴らして居るが、たいがいのステージで充分な体感パワーを持って鳴ってくれます。

トーンコントロールとインプットゲインを受け持つプリアンプ部は12AX7を2本使った真空管アンプで構成されて居て、この部分の回路は妹尾さんが設計しました。 その分、厚い音色が充分得られます。

妹尾さんはSeno-Tera 『One More Mile』や塩次伸二氏とのDuoアルバム『S.R.S.S.』などで使用して居ます。

 
下は妹尾さんから貰ったサイン入りCDです。
 
 
 
 
私はBluesharpは妹尾さんの教則ビデオで練習しました。普通、教則ビデオはドレミを吹いたら簡単な曲を演奏させる内容のものが多いのですが、妹尾さんの教材では、ブルースで頻繁に使う1、2穴を中心としたリズム課題を、まずは練習させます。また、リズムのパターンもブルース進行、シンコペーション、スウィングなど、ブルースやロックで使われる実践的なものが中心でした。

そして、その次にようやくベンディングに入ります。勿論、息の流れを変えると言った抽象的な言葉ではなく、口の筋肉の使い方から、個々の穴それぞれについて、詳しく紹介されて居ました。そういった基本を習得してから、実際の曲を練習する流れになって居ます。

いわゆるフォーク系のハーモニカ奏法は、ベンドさえ出来ればそれほどテクニックは要らないのですが、ブルースだとベンディングやトレモロなどが非常に重要になります。それらを一からしっかりと練習させる素晴らしい教則ビデオでした。実は今日も久々に引っ張り出して観て見ました。今では出来る事もありますが。妹尾さんの模範演奏は素晴らしいです。

私は妹尾さん自身から直接、練習に来ないかと。妹尾さんのbluesharp教室に誘われましたが、持病の為に行かれず。それで妹尾さんがリットーミュージックから出して居た教則ビデオで練習しました。

 

「妹尾隆一郎教則ビデオ」の画像検索結果
 
「妹尾隆一郎教則ビデオ」の画像検索結果
 
「妹尾隆一郎教則ビデオ」の画像検索結果
 
 
メーカーには在庫はありませんが「メリカリ」などで中古を探せばまだ売って居ますよ。私は妹尾さん以外の人の教則本やらビデオを多数所有して居ますが。妹尾さんの教則ビデオが一番やりやすかったですよ。中古で探しましょう。。。
 
  

 

 

 

生前の妹尾さんの日記から抜粋、、、

「『妹尾の大きまぐれ日記』から2010年 8月 10日(火)『WeepingHarpSenoh』で YouTube にアップするぞぅ先月7月にアメリカはカリフォルニアに住んでいるニールという人から突然メールがきました。そのメールにはアニメ"Cowboy Bepop" に収録されている "digging my potato"という曲の演奏を聴いてブルースハープを始めたと。そして演奏についての幾つかの質問がありました。また『Weeping Harp Senoh』はアメリカで有名だよ!インターネットGoogleで検索したら沢山出て来るよ!そんな感じの内容でした。我ながらビックリ、嬉しい気分になっちゃいました。エヘン!

また先日の事ですが、大阪の友人が『You Tube』で"digging my potato"の演奏方法を解説している動画があるというのです。さっそく観てみると、アメリカの男性が、なかなかしっかりとコピーしていて、解説も上手いものでした。ハープもいい音で、関心しました。この数年、手作りCDとDVDは何枚か作っては居るものの何十年も正式レコードやCDは発売してないので自分が納得できる近年の演奏を聴いて貰える様にと『You Tube』にアップする事にしました。妹尾隆一郎では、国内に限定される恐れがあるので『WeepingHarpSenoh』で、発信した方が海外にも伝わるとの思惑です。

これまで『You Tube』にアップする事についてはいろいろと問題点が多いと思い、躊躇してきました。今でも問題点は解決していません。一緒に演奏しているミュージシャンへの配慮は当然の事です。いろんな面での著作権との絡みも重要な事です。自分の知らないうちに何処かでのライブを、僕自身の意思に関わり無く無断にアップされている映像が多くていやな想いをしています。(勿論、アップをしたいと本人から連絡を受けて了承しアップされている映像もいくつかはあります)演奏者本人が了承していなければ、インターネットに無断で公開すべきでは無いと考えます。プンプン!」

 

Cowboy Bebop OST 1 - Spokey Dokey

はもにか道場 LIVE 2 Days _1/7_道場のテーマ(Theme for Harmonica DOWJOW)

はもにか道場 LIVE 2 Days _3/7_Early in the morning

はもにか道場 LIVE 2 Days _2/7_They call it stormy monday

妹尾隆一郎ブルースを語る 2015_1_7 

 

 

妹尾隆一郎氏の、弟子であるkiyasumeの、師匠に到底及ばない、ドヘタなハーモニカのアドリブ。

 

 

 

 

 

 

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 最新ラジカセ紹介です

2019年製のラジカセです。最近は日本のメーカーも頑張ってラジカセを作り始めて居ます。勝手のラジカセはもう作れないそうですが 、今のラジカセはアナログとデジタルとを融合した物を作り始めました。ラジカセは1980年当時日本のメイド・イン・ジャパンを代表する家電でした。時代は流れて今は皆さんストリーミングで音楽を気軽に聴く時代ですけど。しかし私は「待った!!」と言いたい。音楽は形のある物だったのです。カセットテープは小さいがおしゃれで機能的、しかも音はいいし手軽です。皆さん、アナログも聴きましょう。ラジカセの復活は嬉しいですよね....

 

 
太知ホールディングス(ANABAS) CDラジカセ (AC電源/乾電池) ホワイト CD-C300
 
価格:

¥6,630

 
ANABASから新発売になったラジカセ。CDとラジオとカセットテープが聴ける!!
  • インテリアにぴったりなCDラジカセ

    カセットも使えるCDラジカセ。使い易い大型ラジオ選局ダイヤル付き。
  • ワイドFM対応のFM・AMラジオ

    ワイドFM(FM補完放送)に対応。AMラジオの番組をFM放送の周波数で聴けるので、ビルやマンションなどAM放送が入りづらい場所でもクリアな音質でAMラジオ番組を楽しめます。
  • カセットテープも再生・録音可能

    カセットテープも再生・録音できます。
  • 2種類の電源に対応

    100V電源以外に、持ち運びにも便利な単2型乾電池6本でもお使いいただけます。
  • おしゃれなデザイン

    クラシックなデザインでインテリア性にも優れています。日本語で分かり安く、操作も簡単。音は中音域が広がるダイナミックレンジ感が聴きやすいです。値段とコンパクトなボディーを考えればこんな物だと思います。悪くは無いですよ。
 
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古書店巡りをした。一冊だけしか欲しい本が無かったのだが、良い目の保養には成った。矢張り、ブック・オフ等と比べると雲出の差を感じる。古本屋にも依るが1冊3千円位する本が2百円位で売っている場合があるのだ。特に馴染みの古書店の2百円コーナーは掘り出し物がある。カバーが少し破れていたりしただけで3千円ぐらいする本が2百円で買えるのだ。昨日は2百円均一の本では無いが。一冊購入した。1千円の本だった。四方田犬彦著の「白土三平論」だ。この本は、可成り状態が綺麗だった。そう言えば。昔、入院中に知り合いになった筑波大の大学院出身の男と話していて、病院の暇つぶし用に読もうと持っていった本を見て、その男が「新品じゃないか?」と怒った事があった。本は手入れをして読んで居れば綺麗な侭だ。よくよく話を聞いて見たら、その30代の男は図書館で借りたり、図書館でよく古い本を売ったりするが、そういった本を買っていて、正規の書店やら古本屋で本を買うのは稀なのだそうだが、、呆れてしまった。贅沢だと言うのだ。私が映画関係のビデオやらレーザーディスクとか楽器を持っているのを知ると「そんな贅沢はいけないんだ。」と言う。呆れてしまった。筑波大の大学院を出ているのかどうか知らないが、子供も良い処だった。そして話をしていると「僕は利口だからわかるけど、〇〇さんはバカだから分からないんだ」と平気で言うのだ。その癖、退院の時にメールアドレスを教えてくれと言い。しばらくメールのやり取りをしてみたが、お話に成らないので、いつの間にか立ち消えに成って行った。
 
 
 
 
 
 
 

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昔勤めていた会社に、バンドをやっているパートの女の子が居た。その子が、或るライブハウスが、火事になったと言う。「なんで?漏電?」と訊いたら、キッス(知らない人はゴメンなさい。口から火を吐いたりするパフォーマンスをするハードロックバンドです)見たいに火を吐いたら燃え移って火事に成ったと言う。

処でライブハウスは60年代に出来た。はじまりはジャズ喫茶だった。「ライブハウスと言う言葉は和製英語だ。その意味は1977年に紹介されているが、ライブハウスと言う言葉の誕生は70年代前半まで遡る。当然のことながら、ライブハウスという言葉が誕生する以前からも、現在のライブハウスと同様に機能する空間は存在していた。50年代のロカビリー・ブーム、そして60年代半ばのグループ・サウンズのブームではジャズ喫茶がライブシーンの拠点となり、芸能システムに組み込まれたメイン・ストリームに位置していた。

1950年代から60年代にかけて、メイン・ストリームのライブシーンを牽引したのはジャズ喫茶だった。その一方で、60年代後半にはオルタナティブのライブシーンが芽生え始めていた。文字どおりのライブハウスが誕生したのは70年代半ばだが、その起源は、60年代後半のカウンターカルチャーと言う時代の空気のなかで誕生したロック喫茶に見ることが出来る。

1969年にライブハウスの「BYG」が出来る。渋谷では初めての本格的なライブハウスで、それまでジャズ喫茶やディスコで演奏していたアーティストが集って来た。1階がレストラン、2階がジャズとロックのレコード喫茶、地下がライブスペースという構成になっていた。

70年代は中野-高円寺ー吉祥寺の中央線沿線の若者文化だった。
1970年代はライブハウスと言う新たな実演の「場」が数多く設置された時期でもあった。それはあくまで、先行していたジャズ、ロック、フォーク、ブルース喫茶と言う音楽ファン対象のコミュニティ装置の延長線と考えられる・・・・

東京では中央線を中心に何軒かのライブハウスが出来た。74年11月に「荻窪ロフト」、同年、吉祥寺に「曼荼羅」、そして高円寺に「JIROKICHI」、その1年後に渋谷「屋根裏」が出現することになる。75年発行の『コンサート・ガイド』(のち『シティーロード』)には、何とこの1年で東京に二十数店ものロックやブルース。フォークのライブを見ることが出来る空間(ホールを含め)が出現したとある。この時期を始めとして、規模は小さいが流行にめざとい芸能音楽事務所や楽器メーカー、電気事業会社、レコード会社がテスト・ケースとしてライブハウス経営(ライブハウスと言う定義もない時代であったが)に参入し始めた。新宿には「クレイジー・ホース」「開拓地」が出来、小沢音楽事務所が「新宿ルイード」を発信させる。高田馬場には「PEOPLE」、三ノ輪には「モンド」がそれぞれあった。渡辺プロダクションが興した「銀座メイツ」も日劇ウエスタンカーニバル風にキャンディーズや天地真理、中尾ミエなどを登場させた。

70年代東京のライブハウス事情にも大きな変化が出てきた。まず75年12月に出来たパチンコ屋の上階にある「渋谷屋根裏」のライブ・スケジュールが強力になっていく(シティ・ポップス全盛の時代ですら「屋根裏」はパンクのライブをやっていた)。「新宿ルイード」(小沢音楽事務所)も芸能界絡みのブッキングとは言え田中俊博と言うメジャー・ロックのスペシャリストが入り、歌謡曲路線からロック系にシフトしつつあり、シャネルズ、佐野元春、白井貴子、山下久美子などパワフルな布陣を揃えてきた。「曼荼羅」は浦和から吉祥寺に移転してきたギンギンのロックをやり始めた。高円寺「JIROKICHI」もロフトのスケジュールを意識し、素晴らしいブルースのスケジュールを組むようになった。また、「渋谷エピキュラス」を始め、新宿厚生年金会館、郵便貯金ホール、日比谷野外音楽堂はロック野外イベントの聖地となり、大型ロック・コンサートが開催できる様にも成ったのだ。
さらに、ロック・シーンに大きな影響を残した「ツバキハウス」もディスコのさきがけとして新宿に店を構える。ジャズの大御所「ピットイン」はフュージョンを基盤として六本木に新しいライブハウスを造ろうとしていた。

受験生しか聴かなかった深夜放送(「オールナイトニッポン」が中心)もどんどんロックを流していた。東京の主要都市(渋谷・新宿・六本木など)から発信される新鮮な情報に我々は圧倒されていたのだ。まあ、私は小学生の頃から深夜放送を隠れて聞いて居たのだけども。。。

処でパートの女の子は少しおかしいと言うか、女のくせに胸が無い。膨らみのふの字も無いのだ。私が少し怪訝そうに胸のあたりを何気なく見ていたら、気が付いたらしく。ある社員に「〇〇さん、私、寒がりだから、レオタード着てるのよ!」と突然言いだした。周りが困っていた。そして40代の又、此れが問題のあるパートのおばはんが入って来た。中学生の娘が一人居て、なんとこのご時世に、その子供は高校に行かなかったのだ。成績が余程悪かったのであろう。しかもそのオバハンは、私にプレゼントだと言って、「ブルースギタリスト達が吹くブルースハープ」なる輸入盤のCDをくれたりしていた。一応貰ったが、私は困ってしまった。しかも二人共、仕事はいい加減にしかやらない。そして、1980年代の初等、私が会社の隣にあったコンビニで「週刊テレパル」を購入しテレビ番組をビデオデッキに録画する為、休憩時間にチェックして読んでいると。「いけないんだ!!」「そんなものを読んでいるから新聞を読まなくなるんだ〜〜!」と言う。前にもこう言う手合いのおばはんが居た。その人は私が長髪にしていたら「いけないんだ!!男は刈り込まなければいけ無いんだ!!サラリーマン・カットにしなければいけ無いんだ!!」と言うので「大きなお世話だ!人の勝手だろう!!」と怒鳴ったことがあった。要するに中年のおばはんたちはストレスが発散出来無い。だから無茶苦茶を言う。程度にも依るが。
 

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若松孝二映画考........。

 

「千年の愉楽」

『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』と『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』はいかにも若松孝二監督らしい、いや今時は同監督以外、誰にも取り組むことの出来ない作品だった。その若松監督が最新作として取り組んだのが、中上健次の1982年の短編『千年の愉楽』の映画化だ。「中上文学」はかなり特殊だ。現に「被差別」特有の「血族」や「路地」などの言葉・概念を見るだけでもそんな特殊性がわかるため、私は本格的に中上文学にハマることはなかった。しかし、映画の世界では『軽蔑』が2011年に高良健吾の主演で映画化された為「中上文学最後の可成り特殊な純愛映画」を見る事が出来た。

 
その出生も家族関係も複雑で「兄の首つり」事件まで体験している中上文学のキーワードは、「血族」と「路地」。この「血族」と「路地」の中の共同体を中心にした「紀州サーガ」と呼ばれる独特の土着的な作品世界をつくり上げたと言われて居る。本作のパンフレット冒頭にある若松監督の「生きることは不条理だから美しい」によれば、2人は「新宿の飲み屋で大げんかをして以来の友人だった」そうだが、そんな若松監督がなぜ、中上文学を映画化したのか。しかも『千年の愉楽』を選んだのは何故か。

若松監督は本作の公開準備中である2011年10月17日に不慮の事故で亡くなった。
そんな思いを持って本作を観ると、寺島しのぶをオリュウノオバ役に起用したのは『キャタピラー』の演技を見れば当然だが、彼女は原作で描かれたオリュウノオバとは全然年齢が違うため、映画化にあたっては「路地の男たちを見守りながら年を重ねていく若きオリュウノオバ」と言う風に台本を大幅修正した。しかしそれでも、中上健次の原作『千年の愉楽』が描くのは、壮大なスケールでの性と生。もっと具体的に言えば、紀州南端の町の「路地」に生きる美しき「中本の男」たちの生と死だ。
 
原作では6人だが、本作では中本半蔵(高良健吾)、田口三好(高岡蒼佑)、中本達男(染谷将太)と言う3人の美しき「中本の男」たちが登場する。美しさ故に多くの女たちが群がってくる、高貴で穢れた血を継いだこの3人の「中本の男」たちそれぞれの生と死は?そんなテーマの原作の映画化に、若松監督が挑んで居る。若松監督はよく中上健次とは新宿の居酒屋で飲んで居た仲だ、だから、ふと彼の作品を映画化して見ようと思い立ったのだそうだ。2012年に若松監督が不慮の事故で亡くなったことを考えると、なんだか感慨深く思える。この映画は、俳優の原田芳雄さんが「自分で監督して撮るのなら、この映画を撮る」と生前言って居たと言う。そして映画は若松孝二が完成させたのです。
 
若松孝二監督最新作「千年の愉楽」予告編
 

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」

ベトナム戦争、パリの5月革命、文化大革命、日米安保反対闘争、世界がうねりを上げて居た1960年代。学費値上げ反対運動に端を発した日本の学生運動も、安田講堂封鎖、神田解放区闘争、三里塚闘争、沖縄返還闘争など、農民や労働者と共に、社会変革を目指し、勢いを増していった。活動家の逮捕が相次ぐ中、先鋭化した若者たちによって、連合赤軍は結成され、1972年2月のあさま山荘へと至る。その後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は完全に失速して行った。テレビ視聴率89.7%、日本中の目を釘付けにした「あさま山荘」の内部では、一体何が起きて居たのか。彼らはなぜ、山へ入り、同志に手をかけ、豪雪の雪山を越え、あさま山荘の銃撃戦へと至ったのか。そして、「あさま山荘」の中で、最年少の赤軍兵士の少年が叫んだ言葉とはー。

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」予告編

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今日の昼食、、、
   
   「ベーコンエッグ・サンドとアイスコーヒー」
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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『日本のブルースハープ奏者列伝』

「妹尾隆一郎」 

「妹尾隆一郎の写真」の画像検索結果

1949年6月17日生まれ、大阪府大阪市出身のブルースハーモニカ奏者。大学入学時に上京し、ポール・バターフィールドのハーモニカに衝撃を受けて以来、ハーモニカの道へ邁進。72年、B.B.キングの来日公演の前座に出演。74年にブルース・バンド、ウィーピング・ハープ・セノオ&ヒズ・ローラーコースターを結成。76年に初アルバム『メッシン・アラウンド』を発表。以降、ソロやバンド活動のほか、他アーティストとの共演やツアー参加、番組音楽制作、後進への指導など幅広く精力的な活動を展開し、日本におけるブルース・ハーモニカの第一人者として活躍。2017年12月に治療専念のためライヴ活動休止を発表後、12月17日に死去。68歳没。

Roller Coaster feat. 妹尾隆一郎 - A Tribute To Little Walter Jacobs (Harmonica Cover)

 

「西村ヒロ」

山口県出身。少年時代にギターを弾き始め、大学在学中にブルース・ハープを手にする。1984年12月から半年、シカゴでセッション活動をして腕を磨いた。タング・ブロックの名手として知られ、数々のレコーディングやライブ・サポートをこなす。また、自らのバンド、HooDoo Boozeでも精力的に活動を行っている

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「NATUKO」

東京のモッズシーン、ブルーズシーンの中に、華奢な身体に似合わずブルーズハープを吹きまくり、ディープにヴィンテージな味わいの曲を歌う女性NATSUKOがいる。彼女のブルーズハープの実力は、世界的なハーモニカメイカーであるドイツのHOHNER社公認アーチストとして認定されるほど折り紙つきであり、日本人女性のブルーズハーピストとしては、最高峰の領域にいる。ボーカリストとしても、Blues, Jazz, Jive, New Orleans R&Bなどのヴィンテージサウンドを、思いのほかラウドに歌い上げるパフォーマンスは、一度見たら忘れられないインパクトを持っている。彼女の存在や、その秘めたポティンシャルについては、あまり数の多くないライブで直接触れた人達を中心に、限られたゾーンの中でしか知られていない。そのNATSUKOが、アーチストとして一歩前に進み出す為に、初めてレコーディングを行い、『Blue Stocking』と題したデビューアルバムを発売。

Blues Harp Natsuko Band-Rocket 88

 

KOTEZ「コテツ」Bluesharp奏者。

1971年東京生まれ。17才から10ホール・ハーモニカを吹き始め、2001年、シンガーソングライター/ピアニスト、YANCYとのデュオ「コテツ&ヤンシー」でアルバム・デビュー。現在は、ドクター・ジョン、バディ・ガイ、オーティス・ラッシュとの競演でも知られる、KOTEZ&YANCY。ムッシュかまやつ、LEYONA、鮎川誠、近藤房之助、山岸潤史などゲストを迎えたコラボレーション活動もあるブルーズ・バンド、blues.the-butcher-590213(永井ホトケ隆+沼澤尚+中條 卓+KOTEZ)。八木のぶお、KOTEZのツイン・ハーモニカによる2つのユニット、HARP MADDNESS、電気HARP MADDNESS。ベーシスト、江口弘史の提案により、KOTEZのVOCALを全面に打ち出したユニット、100%KOTEZsings。TAPスタイルの異なる、ふたりの女性ダンサーとのユニット「なまはむめろん」等をレギュラーに、ライヴ、レコーディング、CFナレーション、音楽ライターなどを幅広く活動中。

荻窪RNS七周年記念ライブ シカゴビート「コテツ」

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片付けて居たら。高校生の頃に描いた漫画がまた出てきた。探して居たら小説も出て来たが、丁度シナリオの勉強をやり出した時で、暇つぶしに書いて居たモノだろう。昔は何にでもチャレンジして居たっけ・・・・

 

 

 

私は4月で64歳を迎えた。しかし、自分では精神年齢は40歳ぐらいだと思って居る。此の間、中学校の同級生数人と偶然にばったり会うことがあったのだが。皆んな老けていて驚いた。大体が服装がいけない。年寄り然とした、じじいの格好をしているのがいけない。私は歳だが、髪は長髪にしているしパーマを掛けて居る。服装も成るだけ洒落た格好を心がけて居る。私の頭の隅にはトラッド・ファッションと1970年代のフラワームーブメントのファッションセンスが常にある。だから、成るだけ、それに沿う様な格好を考えて居る。良いではないか。もう生きても10数年の短い命だ。それから、ジーパンは今はすべて日本産のものを購入して居る。今、海外では日本産のジーンズがもてはやされて居る。日本産のジーンズは海外で評価が高い。しかし私がお洒落な格好をしても、最近は誰からも何か笑われたりとか文句を言われたことは一度も無い。強いて言えば、私が調子が最悪に悪かった時を見ている訪問看護師から、「〇〇さんは、前は今みたいにちゃんとして居なかったんだから・・・」と言われるぐらいです。(笑)

ジーパンと言えば亡くなった父親が「俺だってジーパンを履いてみたいんだ」と言うので「履けばいいじゃないか」と言っても「なぁに〜が」と言っていた。親父は会社を5時に退社すると夜の12時までパチンコ屋に居た。毎日だ。自分の玉が無くなると隣の男がやっている様子を食い入る様に見ていて、「じじい!そんなに玉が欲しいのならくれてやらぁ〜」と投げつけられた玉を拾ってまた始めて出たと喜んで居たと言う。そして玉がもらえない時には床に這いつくばって、落ちている玉を拾い、また、始めていたらしい。毎日夜の12時半に帰って来て、母に食事を作らせて、私はリビングにあった、テレビで放送大学の「芸術論」の講義を楽しみに見ていると、人の眼の前でわざと新聞を広げて邪魔をする。そして「お前はバカか、勉強は学生時代でおしまいだ!」と怒鳴る。私は「何をバカなことを言っているんだ、学びは一生だろ。」とよく喧嘩になった。親父は結局タバコの煙が充満しているパチンコ屋に毎日7時間近く居て、その為に肺がんになり、最後は骨ガンに転移して、そして死んでいった。大バカ野郎だと思う、しかし自分が設立した会社を兄貴とその息子らに乗っ取られて焼けに成って居たのも確かな事だけど。

私は親父の会社に入る前にバイトを幾つかした。東京出版のアルバイトは半年した。本の仕分けと取次店までの区分けだが、バイト代は10日ごとに支払われた。大体3万5千円位だった。そこから昼食代として三百円が引かれた。食堂では秋刀魚定食か、惣菜パンに牛乳だった。今はオートメーション化されて居て、機械がやって居て、かつて働いていた人たちはどうなったのだろうかと思っていたら、何とAmazonが全員を引き取って雇用したと聞いた。他に古本屋などでバイトをした。私は極力本は処分しないたちだ。どうしてもの時は町の古本屋に売りに行く。ブック・オフとかには持っていかない。あくまで町の古本屋だ。もう数年前になるが、津野海太郎氏が編集して出して居た「季刊・本とコンピューター」という月刊誌を10冊纏めて売りに行ったら6千円に成った事があった。しかし。いざ、古本屋に勤めてみると、その厳しさ、大変さが良く解ったものだ。そしてバイトと言えば、高校の頃、知り合いの同級生が自宅にやって来て。パーティーのバンドをしてくれと切実に頼まれた。聞けば仕出し弁当屋が主催するパーティーで頼んでいたバンドが、断ってきたというので困っていると言う。あまり乗る気ではなかったが、そいつが気の毒に思い引き受けた。会場に行ってみると仕出屋の社長が居て、一人1万円をくれると言う。機材は揃って居た。私はとりあえず自分を含めたギター3人とベース、キーボード、ドラムを引き連れて演奏を始めた。レーナード・スキナードの曲から、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルの曲を演奏した。しかし反応がイマイチだった。その内、カラオケ・タイムになり、女の子が松田聖子やらピンク・レディーの曲を歌うと言い出した。ギター3人でなんとかバックをこなして居たが、途中、嫌気が差したギターが1人とベースがもう帰ると言って居なくなった。何気なく、ふと会場に居る男たちを見てみると、リーゼント・スタイルが殆んどだと言う事に気が付いた。だからロックン・ロールをやれば良いかも知れないと思い。ギターをベースに持ち替えて、クリフ・リチャード。ファッツ・ドミノ。リトル・リチャード。チャック・ベリーの曲を立て続けに演奏した。ギターもキーボードも合わせて乗ってやった。そうしたら皆んな雄叫びを上げて、踊り狂い始めた。中にはビールを私の頭から掛ける者も出て来た。散々な目にあったが、主催者の仕出し弁当屋は大喜びだった。おかげで友人の面目も立ったし、金も貰えた。そんな事があった。即席編成のバンドではあったが、良くやったと思う。。。

 

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話は変わるが、また会社で働いていた頃の30年程前に成るが。品物を運んできた業者が会社に面した家の横側に車を付けて寝て居るのだ。だから2階から見えるので、私はシャッターを開けて、車の窓を叩いて、開けたから倉庫に入れろと言った。しかし毎日のように明方5時に来るのだ。よくよく話を聞いてみたら群馬から来ると言う。朝の4時にはもう着いて居ると言うのだ。傍迷惑な業者だとは思うが仕方がない。一度、医大生だった弟が私が起きられないので業者の相手をしていたが、荷物を積みだしたので、朝早くから大変だなと思い手を貸したら「さっさと、やって!!やって!!」と言われたと物凄く怒ったのだが、あいつはやはり労働者には向いて居なかったのだ。40年程前に一度、新宿の東口に行くので地下道を一緒に歩いて居たら、「ねえ、あいつ私のものを皆んな持って行ってしまうんだヨォ〜」と女の浮浪者から声を掛けられた。そしたら「何で、あんな人から声を掛けられなければならないんだ」と嫌悪感を一杯にして怒って居た。弟が高校1年位まだ15歳の頃だった。私は母を池尻大橋の大衆食堂に連れて行って、手伝いのお姉ちゃんと話をしたら、母が驚いて、「お前、前から知ってるように話すんだね?」と言うので「郷に入れば郷に従えだよ。あの子この店の看板娘だろう。客が気さくに声かけて居るじゃない?」と言ったら、母が驚いて「お前は誰とでもうまくやろうとするんだねぇ」と感心して居た事があった。
 
私はどっちかと言えばそうだ。だってその子は見た所、訳ありな感じがした子で年は19歳位だった。高校を卒業してから食堂の手伝いを仕手居るのだ。休日以外は閉店まで働いて居るのだろう。だからこの食堂にやってくる労務者風の親父たちから気さくに声をかけられて居るのだから。人は色々な事情を抱えて居るものです。私の母は育ちが良いので、新宿へ行くと何時もデパートの食堂で食事をして居た。だから私は新宿の居酒屋などに連れて行って食事をすると、母は居酒屋なんかには入った事が無いと言って居た。私は勿論デパートのレストランで食事をするのも良いけど。庶民的な居酒屋などで食事をするのも好きだ。場所によって使い分けて居る。定食屋などにもよく入る。その店々で特色のある美味しい食事が味わえるからだ。しかし私は会社に居た様な低俗な人間は嫌いだ。菅原と言う男は私を見ると「ボンボンぶりやがって」と難癖を付けて来た。自分は秋田から歌手を夢見て東京に出て来たと得意になって話す。まあ、それもいいだろう。しかし余りに無知だった。歌手になると言っても歌謡曲しか知らないのだ。
 
私がツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」を会社のピッキング中に聴いて居たら。「凄い音楽だ最新の音楽か?」と聞いて来たので「いや1969年ぐらいのハードロックの曲だよ」と言うと。「フン!ボンボンぶりやがって!!」と言うのだ。処置無しだった。そしてその男は会社の集金の金を使い込んでクビに成った。岡本と言う会社創業以来から居る男は人が飲みかけに仕手居る缶コーヒーを飲んで。出前物だとか弁当を買って食べて居て、席を外そうものならその人の食べて居た箸で、少し貰うと言っては勝手に食べるのだ。汚くて堪ったものでは無い。労務者だってそんなことはしない。しかしそんな事をして居て。会社から離れて焼き鳥屋を始めた頃から客の残したものを食べて居たら。筋萎縮症になって、また会社に舞い戻ってきて、そして惨めに死んで行った。親父も「ボンボンはきれえだ」と言って、石原裕次郎の映画は観なかった。食わず嫌いなのだ。
 
何故、昭和30年代、裕次郎がスターとして人気があったのか。それは石原家と言う名門の家に生まれながらも役柄はやくざ者。マドロス。労働者。人力車引き。絵描き。トランペッター。先生。と多岐に渡って役柄を演じた為だ。私は「ボンボンはきれえだ」と言った親父を軽蔑して居た。裕次郎はいいではないか?彼は大動脈瘤解離と言う重病を負いながらもそれを克服して、「大都会」「西部警察」「太陽にほえろ」などでボス役を演じてその存在を見せ付けた。また制作サイドにも名を連ねて刑事ドラマに新境地を開いた。人は誰も自分が生まれる処は選べない。だから何だ、何も金持ちと自分を比べる必要など無いではないか?例えバカにされても自分は自分なのだから。自分の本分を守って居さえば、それで人生はいいのだと思いますがね。。。今回は此処までにします。今回は2年前に書いた記事の再編集でした。また次回逢いましょう。。。

大都会PARTⅢテーマ曲

 

 

 

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