訪問看護師の女の子が此間だ私に聞いて来た。「〇〇さんは大学行ったの?」だから私は「一応は行ったけど何で?」と聞いた。すると、「〇〇さんはIQ高いでしょう?」と聞く。何故かと言ったら、その子は私のこのblogのアドレスを私からうまく聞き出して居るから、たまに見て居るらしい。私がblogで長文を書いて居たり、音楽以外の事、映画やら思想などに付いても語って居る事を見て居てそう言うのだ。そして言う。「私はIQ低いんですよ。」はっきり言ってIQは関係無いはずだ。私はその子に最近話題になって居る「マルクス・ガブリエル」と言う哲学者が居ると教えた。私はこの哲学者の事は機会があるごとに。ありとあらゆる人に知らせて居る。
その子は言った「マルクス?何ですって、難しくて覚えられ無い」だから言った「ガブリエル。大天使ガブリエルって居るでしょう。ミカエルと並ぶ大天使。だからそう思って覚えればいいんだよ。」そう言ったら、「マルクスは経済学者で居たわよね」と言った。だからガブリエルの本を見せた。そうしたら「この本1ぺージ読むのに1日掛かる。注訳付けて読ま無いと行け無い・・・。」と言った。まあ、人は色々だ。人に貴賎は無い。どんな人も世の中に生まれ落ちたと言う事は必然なのだ。偶然もある意味必然で起こる事なのです。映画監督の河瀬直美さんは言う。樹木希林さん主演の映画「あん」を撮って居たら。希林さんが私に、「木から蒸気が出て居る。この木に私が寄り添って一言言うシーンを撮りたい。」と言った。「そして彼女は、木に寄り添いながら「人は生まれて来て何者かに馴れなくてもいい。ただ生きて居るだけでいいんだよ。生きる価値はあるんだ」そうアドリブで言った。」と言って居た。
川瀬監督は「此れは木から蒸気が出て居たと言う偶然で撮れた芝居では無い。樹木希林と言う役者の必然なのです」と言って居た。そう必然だ。私は頭が悪い。だが、そのせいで、物事に深く惹かれる。何でも追求して研究して見たくなる。人間、蓋をして仕舞ったらお仕舞いだ。その事は、自分が知ろうした事は必然なのだ。切っ掛けは偶然に知った事かも知れ無い。だがそれは必然的にそこに立ち現れて来た事象なのだ。
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つまり、「偶然的な必然」。理由は簡単だ。偶然かの様に見える必然は、それほど個人的で秘密めいて居るからこそ価値のあるものなのだ。共有された瞬間に、それは「ただの物語」へと形を変えて仕舞う。
生きる中で起きる偶然。何なら、世界の殆んどは偶然が構成して居るかの様にも見える。ニュートンの目の前でりんごが落ちなかったら?松本と浜田が同じ学校じゃなかったら?父親と母親が出会わなかったら?こうして、偶然なのか必然なのか判断が出来なく成った事象ばかりがつのり。人生と世界を休みなく構築し続ける。多分、このblogに書いて居る事も一つの偶然であり、必然なのであろう。インターネットの広大な海において、たった一つの記事を最後まで描き通す確率なんて、昔ながらの電卓ではお手上げの確率だろう。
そう言う、「偶然のような必然」、もしくは「偶然的必然のような偶然」は今日も世界をひっそりと彩る。そう言う個人的な彩りに目を向けて欲しい。それは「偶然的必然のような偶然」なんだろう。あなたの中にある物語を存在させる為の偶然。
この間、自分の娘を虐待して殺した父親の裁判が有った。この父親は捕まった時だけに限らず何時も、ヘラヘラ笑って居た。此奴は自分が会社で評価され無い。人とうまく行か無い自分の憂さを全て娘にぶつけた。娘をリンチし食事も与え無い事で晴らして居たのだ。裁判の判決が読み上げられる前は私傷にも涙を流して死んだ子供に謝ったと言うが、私は取り繕った嘘だと思って居た。自分の刑が重くなると嫌だからだ。「私は娘を殴って居無い。」「あれは娘が嘘を書いた。」自分が嘘八百を言って居るのだ。そして判決は、身勝手で悪質千万だ。拠って刑は一番重い16年を求刑された。すると彼奴は弁護士に「16年は重いのか?」と聞いて居ると言う。司法を舐め切って居る。彼奴は刑務所を舐めて居るだろう。刑務所とはどんな処か、食事はご飯が少しに味が付いて無い、きな粉が掛けてあるだけ。あとは適量の醤油をお湯で薄めた汁だけなのだ。そして独房に冷暖房は無く。煎餅布団と薄いモーフだけがある。ある囚人が刑期を勤め終えたら、70歳を超えて居たそうだ。彼は自分の欲望だけの為に人を殺したが模範囚として過ごし、シャバに出て木工の職人として生きて、残り少ない人生を再起して生きて行こうとした矢先に脳卒中で死んだそうだ。人生甘く見て、何にも学びずに生きて来た男の哀れな最後だ。あの父親も刑期が終わって出てくればもう70歳を超えて居るはずだ。
世の中をいい加減に甘く見て生きて居る人間には偶然も必然になら無い。本人が必然に仕無いのだ。世の中には色んな為になる事がわんさかある。勉強をしようとしても、知識欲があってもとてもではないが全部の知識は捉えられ無い。私は良く人に言うのだが。人生は自分に幾ら投資を掛けたかで、その後の人生は決まって仕舞う。私は親に大学と言う投資を掛けて貰った。私は喜んでその投資を受けた。しかし人は皆んな投資を受けられるとは限ら無い。何故なら大学と言う投資には1千万と言う金が掛かるからだ。だから金が無い家では投資を掛けられ無い。だから貧しい家庭の子は高校を出て就職するか、中学か高校を卒業したら職業訓練学校つまり専門学校に通う事になる。
人は良く、ホワイトカラーだけを良しとし皆んながそれに成ろうとする。ブルーカラーはダメだと思って居る。
私は若い頃に高校の担任から「〇〇、お前なら東京電機大学だったら推薦が取れるぞ」と言われた事が有った。私は今なら間違い無く「東京電機大学」に入学して居ただろう。ただ40年前の当時は電気大学と言うと何か野暮ったく、まだ出来たばかりの新設校だし、「電気関係で生きるのはなぁ....。」と思って仕舞ったのだ。私は美大に行きたかった。頭があれば東京藝術大學に行きたかった。しかし藝大は私の頭では行け無い。私は自分の得意の絵の分野に関係する仕事で暮らして行きたかったのです。しかし私は画伯に成ろうとは思って居なかった。当時、出て来て一斉を風靡して居たアニメーション業界か映画業界で働きたかった。アニメーション映画の監督に憧れて居たのだ。
しかし何遍も言って居るが親は猛反対をした。仕方が無いので、慶應義塾大学と東京農業大学を受けた。しかし受験に失敗した。それで滑り留めに受けた拓殖大学に入った。以前先程、話した訪問看護師の女の子に、自分は「大学で第2外国語でインドネシア語を先行したが、今ではドイツ語を学んで居れば良かったと思って居る。まあ、普通はドイツ語かフランス語だからね」と言ったら、「そうよねぇ、、はは、、」と笑って居る。そして私がマルクス・ガブリエルがYouTubeでドイツ語で話して居る画像をパソコンで見て居たら、「言葉なんて解るの?何だぁ!!字幕付きじゃないのよ!解って居る振りして私をバカにしないでよ!!」と言うのだ。私が「拓殖大学は評判が悪いけどアジアに開かれて居る大学で国際学部も有り、留学生も結構来て居るよ」と言うと鼻でせせら笑うのだ。そして「ほらほら大きな声で興奮して言うから」とまた人を馬鹿に仕出す。自分は何々だと言いたく成った。彼女に取って偶然は必然では無いのだ。偶然の侭だ。彼女は自分はIQ が低いから、と言うが、今の世の中、IQで人を図る時代では無い。そう言った事を言う事自体、偶然で生きて居る証拠だ。世の中の流れを全く知らないのです。
ーー今日の夕食ですーー
まあ、どうしても厄介な人の事は悪く言いたく成る。自分らが如何に愚かなのかが解って居無い。大体がその人にマルクス・ガブリエルの本を見せたら、表紙に載って居る写真を見て「なんだぁ〜。今時じゃ無いじゃ無い!」と言うのですよ。誰がイケメンの20代の男の格好をする!!彼はドイツの哲学者で38歳のボン大学の教授だ!!私は今まで書いて来たのは、ホワイトカラーばかりでなくブルーカラーも大切だと言いたいのだ。例えば美容師たち。彼らはブルーカラーのお手本見たいな職業だ。でも彼らは自分に誇りを持って仕事をして居る。私が前にblog記事で紹介した。高木啄也さん。彼はまだ30代の始めだが、彼のカットは凄く斬新で格好が良い。そして彼は、客の心理状態も見て居て髪を切る。例えば前髪が長くて目が隠れて居る人に「あなたは目が大きのだから隠すよりも出した方が良いよ。自信が無いのかな...。もし、良かったら俺にカットを任せてくれる?」と言うのだ。客は高木のカットは有名だし、彼にカットして貰えれば間違い無く、カッコイイ髪型にして貰えるのだから。安心して任すのだ。結果、高木の言って居た通り、前髪を少しウエイブさせてカットした活かしたカッコイイ髪型に変えてくれるのだ。私は彼の仕事ぶりを見て居て気が付いた事が有る。それは、彼は客の為を思って奉仕の精神で仕事をして居ると言う事だ。そして、だからこそ技術を何時も磨いて居る。
高木琢也×三科光平 2018年流行る髪型はウイングウルフ!!
私は一部の人に言いたい事がある。君たちは自分より年上のものに対する口の聞き方も解って居無いじゃ無いか?あんたたちは専門職なんだから、医療の現場で身を持って仕事をして居る自負は無いのですか?患者は馬鹿では無いのだから、それに言いたい。自分と人を比べるな。私が病状が酷かった時期の事で私を推し量って考えるな。偶然と思った事はある意味必然なのですよ、、私は思う。だから運命と言う物はあるのだと。そして運命を見出せるか否かが問題なのです。問題は運命を感じて居るか否かです。人生で深く意味のある事、出来事により深い意味があると思えた時、自分自身に近づいて居るのです。運命は必然を意味しない。運命は自由を意味するのです。自分が自由になった時、初めて運命を見出せます。考えて下さい。
自分への投資と言うのは自分でも出来るのですよ。例えば働いたらその労働での対価を廻せる分だけ自分への投資とすれば良い、自分で働きそれに付いての暮らしぶりは、自分への対価で出来ます。当たり前ですけど。私はそうやって、自分に投資した。良くそう言う事が出来ない人が居る。しかし此れは無駄金では無い。自分への投資に使うお金なのだから。買い物を考えて見よう。欲しい物がある。自分に取って役に立つ物だ。此れもある人が言って居たが、私がアニメの同人誌を見せて「世の中にはこう言う物もあるよ。」と見せたら、「値段は幾らするのか」と聞いたので「8百円ぐらいですよ」と言ったら、「8百円なんて高い!!買えない!!」と言うのですよ。まあ、お子さんが居るから、生活費で無駄な出費を押さ得て居るのは解るが...。その人は素人のアニメオタクの研究家が精魂込めて作った同人誌の価値がまるで解って居ないのだ。そう言っては興味を示さずに一体何に興味を示して購入すると言うのだ。私は何も同人誌を買えとは言って居ない。ただそうやって自分への投資を拒んで何に成る。私は自分が此れは必要だなと思ったものは決まって購入する事にして居る。良く流行の断捨離に共鳴して物を持たない様に暮らそうと考えて居る人が居る。ミニマムな暮らしだ。最近はトレンドで流行って居るからだ。
私は映画はBlu-rayやらDVDを購入するし、BS/CS・地デジを週単位でチェックしブルーレイ・レコーダーのHDDに気に入った番組を録画して撮り溜める。そして厳選して残して於きたい映像をブルーレイに録画する。私は映像は頻繁に鑑賞する方です。テレビは情報の宝庫だ。自分が知らない事を番組で教えてくれる。まさにミニマムな自分への投資なのですよ。しかし最近の若者はそれをしないらしい。例えば映画はネット・フリックスなどで観たい物だけを購入して一度観ればもう見無い。自分の糧にしようと言う欲は持って居ないのだ。そんな事がミニマムなのか?私は物を持ちたく無いミニマムの人に打って付けの場所があると思う。それは図書館です。知識の宝庫だ。日本で販売して居る本なら何でも揃って居ます。しかも無料です。学ぶ意欲さえあれば、手軽に知識が手に入ります。自分への投資の方法として選んで損は無いですよ。あとラジオだ。これもディスク・ジョッキーが最新の情報。旬な情報をタダで提供してくれる。私は何時も言うが、私に情報を教えてくれる人は居ない。だからテレビとラジオそしてネットで仕入れる情報が指針に成って生きて居るのです。確かに本を読む行為と言うのは時間が掛かるし、根気が居る。しかし一旦手に入れた情報は知識と成り、自分が生きて行く上での血肉となり指標となる。
以前、親しくして居る、ある人がblogに17歳の女子高生がイケメンの王子様を必ずゲットするんだと言う心構えでの投稿が新聞に載って居たから、その子はイケメンの王子様と結ばれるであろうと書いてあったのですが、「私は何だかなぁ...。」と思ったので。その人には悪いかな?キツい言い方かな?とは思ったが、感想をコメントした。その子はその人が書いてある事に拠るとイケメンの王子様に気に入られ様と、お化粧をし、良い洋服を着て居ると書いてあった。だから言ったのだ。彼女は「めちゃカッコイイ」だとか「食べれる、食べれる」とか言って居ないか?「勉強はして居るか?」「イケメンの王子様は利口な女性が好みだ」と。するとその人は、彼女の決意は固いそこら辺の女子高生とは違う。だから必ずイケメンの王子様と結ばれると思うと言う。その子は、イケメンの王子様に気に言って貰える様にアイドル番組でイケメンを研究し、そして付き合い方はイケメンが出て来る恋愛漫画で勉強中だと書いてあった。幼いのだ....。とても17歳の女の子だとは思えない。17歳と言ったらもう大人です。男の正体と言うものは知って居る頃だ。その子は自分の決意を熱く語ると友人は皆んな呆れて笑うと書いてあった。その事からも明白な事だ。私は悪いけどその女子高生を応援は出来ない。幼すぎるのです。ただ確かにその情熱は買ってやっても良いかとは思いますが....。彼女を援護したその人は恐らく17歳の少女が頑張って居るのだと評価したのだろう。男は女性に対して見目形で惚れるのでは無い。内面から溢れ出る。賢くて可愛いらしい知的な女性らしさに惹かれるのだ。それはお化粧をし、良い洋服を着て漫画で付き合い方を学んで得られるものでは無い。
ーkiyasumeー
人はなぜ僻むのか。相手に対して何の理由か対抗心を表したり、厳しい視線と口調で批判したり。僻む人、と聞くと、思わず身構える様にして、対応しなければ、と、思った事はありませんか?または、僻む人から身に覚えのない攻撃を受けたりして、心痛めて居る人も居るのではないでしょうか。僻むの言葉の意味を調べて見ると、「物事をすなおには受け取らずに誤解して、自分が悪く扱われて居ると思う」とあります。言い換えると、目の前で起こって居る事に、素直に喜んだり感謝の気持ちを持てず、疑いの目で見たり、すねたり、怒ったりする状況、とも言えます。 そんな、ちょっと面倒な、僻む人とはどんな人なのでしょうか。自分は違う、と、いい意味でも悪い意味でも自分を特別視して居ます。また、他人がほめられたりして居るのが受け入れられない、子どもっぽいと言う面も僻む人にあると思います。 では、僻む人の特徴はどの様なものでしょうか。また、どのような性格の人が僻む感情を抱くのでしょう。幾つか挙げて行きます。
大抵の人は、誰かがほめられたり、仕事でも頼られたり、任されたりする場面を見ると、「○○さんすごい!」と思いますよね。また、それを励みに、自分も頑張ろうと発奮したりして、いい刺激に成ったりする事と思いますが、僻む人は違います。 僻む人は「○○さんのせいで、わたしは…」「どうせわたしなんか」など、自分が評価されない事を不満に思い、もしかしたら、自分の努力不足かも知れないのに、他人と比べ、僻みます。 たとえ言葉に出さず、心の中で思って居るだけでも、とっさの発言や行動で表れるので、この人は何らかの原因があって僻んで居るんだなと、周囲は何と無くでも感じて居るのでは無いでしょうか。
〔Live MV〕僻人/四音
ツァラトゥストラはかく語りき ~ SNAKE BOOTS(Live) - THEATRE BROOK
僻む人は、自分以外の誰かが集まって話して居るのを見ただけで、「あ、自分の事何か話してるのかな」「わたし、何か失敗したかな」などと、自分とはまったく関係の無い話をして居るかも知れないのに、まず、そう捉え、僻みます。 冷静に考えれば、近くに居る人の事を悪く言うと言う事など、まず、ありません。しかし、僻む人は、人が口を開けば、自分の悪口を言って居る、そう言う思考に偏りがちな一面があります。 さっきの人たちが何を話して居たのか気に成って、仕事も手に付かず、作業スピードも落ちる一方。それくらい、僻む人は、自分に対してのマイナス思考が強いのです。
僻む人は、何でも自分に矢を向け、自分の至らなさを考える日々。向けられた矢の痛みは、素直に物事を受け取れない、人がうらやましい、そんな僻む感情、ネガティブ思考をどんどん生み出して居ます。 その日々重ねられるうっぷんは、怒りに変わります。他人をうらやんだり、自分を追いつめたりと言う僻む感情のエネルギーは、どんどん内へと溜まり、ちょっとしたきっかけで、僻む人は怒りを爆発させます。 僻む人は内向的であるがため、外へどうエネルギーを出したらいいかわからず、怒り、と言う形でしか自分を表現出来ずに、周りが困惑して仕舞います。
人間、失敗や間違いは誰にでもあるもの。そう寛大に受け止められる人はいいのですが、僻む人はそうは思えません。これまでの心理的原因をひっくるめるような理由と成りますが、かまって貰う、評価して貰う為には、「よく出来る自分」で居ないといけないと思って居るのです。 しかし、そう自分の思う様に事は運ばず、至らない自分、失敗ばかりの自分に目を向け、自分で評価をどんどん下げて行きます。いわば、そんな自分を認められないのです。 結果、「何をやっても失敗ばかり」「いいよね、あなたは」と、僻む人の口癖のような言葉を、顔を合わせるたびに、何度も聞く事となるのです。
私の母型の従兄弟で「純也」と言う男が居る。彼は「何で俺は其方で〇〇ちゃんたちと一緒に育てて貰えなかったのだ。もし一緒に育てて貰えれば、自分はこんなバカでは無かったし大学へも行けたのに。」と言った。話を聞いて居ると、面倒を見て貰うのを当然だと思って居る。母が埼玉のその家に行った時だ。帰りに成ってタクシーを拾って帰ると言ったら。おばさんが「純也」を使ってと言うのだ。そして母は純也に送って貰って自宅に着いたら彼は手を出して、「おばさん料金は?」と言うのだ。だからまあ、仕方が無いと思い5千円を小遣いだと渡すと、こう言った「おばさん、これ片道分だよ、俺はまた埼玉まで帰らなければ行けないんだから....。」と言うのだ。母は黙って1万円札と取り換えたら「普通は片道1万円だよおばさん」と言って帰って行った。何時も自分らと私たちを比べて僻むのだ。そして山手住まいのお金がある私たちからは援助を受けて当たり前だと持って居る。そして純也は言う。「俺は拓殖大学、何て程度の低い大学に行った〇〇ちゃんにも負けて劣るバカ!!」と言う。自分は中央大学のスクリーミングに通い。付いて行けなくて辞めたのだ。なんで僻む。自分は生まれが悪かった。だから生まれが良い私の家で育ちたかったと思い込んで居る、家がどれだけの苦労をして居たか知りもせずに。私の実家は父の給料だけではやって行けなくて、母が部屋を3部屋貸して下宿屋をして居たのだ。山手のお金持ちでは無い。私は純也に哲学書を読め、心理学書を読めと薦めたが。読んで見ると「あんなものはおかしいんだ俺は信じない」と言う。そしてフロイトのエディプスコンプレックスを読んでこう言う「俺の海馬はブルンブルン音を立てて怒り狂って居る」。学術書だと言う事が丸っ切り何も解って居ない.....。
エディプスコンプレックスとは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くと言う、幼児期に於いて起こる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑制の事を言う。
フロイトは、この心理状況の中に見られる母親に対する近親相姦的欲望をギリシア悲劇の一つ『オイデーブス』(エディプス王)になぞらえ、エディプスコンプレックスと呼んだ(『オイディプス』は知らなかったとは言え、父王を殺し自分の母親と結婚(親子婚)したと言う物語である)。
まず子供は母親を手に入れ、父親の様な位置に付こうとする。男児に於いては母親が異性であり、ゆえに愛情対象である。子供は父親のような男性になろうとして(同一化)強くなろうとする。子供はじきに父親を排除したいと思う。しかし父親は子供にとって絶対的な存在であるので、そのうち父親の怖さに気付く。最初は漠然とした不安や憎しみしか抱いてないが、子供が実際に母親ばかりにくっついて居ると、父親は「お前のペニスを切り取るぞ」と脅すのだと言う。
ただしこの言葉は実際に言われるとは限らず、大抵の子供はこの脅しを無意識的な去勢不安として感じる様になる。こうして子供はジレンマに陥る。母親を求めれば「去勢される」し、父親の元に跪いて父親に愛される母親の立場に収まるのならば、子供は「去勢されて居る」と感じるのであり、どちらにしろペニスを保持するための葛藤にさいなまれるのである。
この際に子供は自分のペニスを保持するために、近親相姦をする欲求を諦め、また父親と対立することも諦めて、両親とは別の方向へ歩き出す。こうしてエディプスコンプレックスは克服されて、子供はペニスを保持しながらも社会に飛び立つ。その後の時期は潜伏期と呼ばれ、幼児的な欲求(性的な欲求)を無意識化に抑圧して、ほとんど表出しなくなるのである。
エディプスコンプレックスでは二つの側面が生じる。子供は最終的にこの葛藤から逃れる為に両親を捨てるのであるが、子供は父親と対立するために「同一化」して居た強い男性的側面と、父親から「やってはいけない」と言われた禁止事例を、超自我として形成するのである。それは良心や倫理観や理想として保持され、潜伏期以後の子供の行動を統制する様になる。
またエディプスコンプレックスの葛藤を克服すると、子供は近親相姦的願望やそれに付随して居るリビドー、それに去勢不安や父親への攻撃心などを無意識抑制する。これらの欲望はエディプスコンプレックスが生じるまでは子供の思いの侭に表出されて居たが、この葛藤と克服を機に、それらは捨てられる事になる。
これらの欲求は無意識に捨てられる。つまり無意識に抑制される。こうして、その頃までは曖昧だった意識と無意識の境界が明白に形成される様になる。子供はエスから自我を派生分化させて、つまり抑圧によって近親相姦的願望や去勢不安などを無意識に押し込めて、現実的な自我を作る。また同一化した部分と禁止事項が合わさって超自我が作られる。こうして三つの心的構造が作られるのだとジークムント・フロイトは主張して居る。
私は純也に無意識の領域に付いて学べと言ったのだ。だが彼にはこの理屈は奇異なものとして映り、到底理解は出来無かった様だ。
また、ラカンの鏡像段階と言う考え方もある。
「ラカンにその理論的出発点を与えたのは、劇場で女優Zにナイフで切りかかり、防ごうとした女優の手に重傷を負わせた、一人のパラノイア女性である…。エメは文学者になるべく、多くの書き物を書きためて居た。三十歳を過ぎた頃、彼女は一時期、被害妄想に掛かって、病院に入院して居た事がある。そこを退院してから、彼女は自分の原稿をある出版社に送り、出版を断わられると、その出版社を訴えるべく訴状を認(したた)め、出版社の事務員につかみかかって警察の世話になる。この時は説諭のみで済んで居る。しかし彼女は女優Zと文学者P.B.とが結託して彼女の事を小説に書いて居るとか、Zが彼女の子供を殺そうとして居るとか言った内容の妄想を発展させて居た。この妄想を基にして、彼女はZに切り掛かったのだった。
鏡像段階
「ラカンによる、人間形成の一時期をさす言葉。それは生後6ヵ月から18ヶ月の間に当たる。この時期子供はまだ無力で、運動調節能力も無い状態であるが、自分の身体の統一性を想像的に先取りして我が物とする。この想像的統合は、全体的な形態として同じ姿をもった人間の像への同一化によって行われる。そしてその同一化は、幼児が鏡の中に自分の像を見ると言う具体的経験を通して起こり、現実のものとなって行く。鏡像段階において、将来自我となるものの雛型ないし輪郭が形成されると言えよう。鏡像段階という概念は、J.ラカンの古い業績の一つであり、彼は1936年にマリエンバードの精神分析会でそれを報告して居る。この概念は、実験に基づく幾つかの成果によって裏付けられており、それらは次の二つに分類できる。
1)一つは、鏡に映った自分の像を前にした幼児の振舞いに関する児童心理学および比較心理学から得られた成果である。ラカンは「―その鏡像を歓喜の表情で誇らしく引き受け自分のものにする事、また鏡像による同一化を我が物とする際の遊戯的な自己満足」を強調して居る。
2)第二には、動物の生態研究から得られたもので、ある種の動物は自分と同類の動物を視覚的に知覚する事のみによって、一定の生物学的成熟と構造化に達すると言う事実である。ラカンによれば、人間の場合、鏡像段階が意味を持つのは、その早すぎる誕生―これは生まれた時の錐体路系の解剖学的未成熟によって客観的に証明されうるものだが―と生後数ヶ月の運動調節不全との関連に於いてである。」
鏡像段階(atade du miroir)
「ラカンが初めて「鏡像段階」と言う表現を用いたのは1936年、フランス百科事典の「家族」の項に於いてである。ラカンは、その後この主題を再び取り上げて彼の教えの中で展開して行く事になる。それと言うのも、鏡像段階は、直ちに理想自我、そして二次的同一化の基礎となる自我の最初の芽生えの成立を説明する理論だからだ。鏡像段階は一次的ナルシシズムの到来であり、しかも此れは全くの神話の意味でのナルシシズムである。と言うのは、鏡像段階は死、つまりこの時期に先行する期間に於ける生の不全と言う限りでの死を指し示して居るからだ。実際、此れは6ヶ月から18ヶ月の間に位置する人間存在の構成の一段階であり、この期間は神経系の未発達を特徴とする。この人間に於ける特有の出生時の未成熟性は、分析治療で見られる様な寸断された身体( corps morcelé ) の諸幻想に拠って証明される。この期間こそメラニー・クラインが「分裂的」と呼んだもので、鏡像段階に先立つ時期である。
したがって幼児は、前鏡像期に於いては寸断されたもの生きて居る。たとえば自分の身体と母の身体との間、あるいは自身と外界との間に、なんらの差異も設けない。ところが母に抱かれた幼児は、自分の像を認める事になる。実際、幼児が鏡の中の自分を観察し、鏡に映った周囲を見ようと振り向くのを見る事が出来る(此れは最初期の知性である)。そこでこの幼児の身振りと、はしゃぎぶりから、鏡の中にある自分の像に対しある種の認知がなされて居るのが解る。そして彼は、自分の動きが鏡に映し出された自分の像や周囲ともつ関係を、遊びながら試し出す。
鏡像段階は同一化の一つとして、すなわち主体がある像をわがものに引き受ける時に生み出される変容として、理解されるべきである。この像が形成的な効果を持ちうると言う事は動物行動学上の観察により証明されて居る。事実、鳩では生殖腺の成熟には同種が視界内に置かれて居る事が必要条件となる。しかもそれは鏡に映し出された自分の像で十分である。同様に、トビイナゴの弧棲型から群棲型への移行は、ある段階の個体に、類似の像の動きをただ視覚的に見せるだけで引き起こされ、この類似の像の動きとはその種固有の運動に十分近い様式の運動でありさえすれば良い。これらの事実は同種形態的な同一化の次元に属する。そこで同時に像は、すでに自我の誤認 (méconnaissance) の機能を指し示すおとりの能力を保持して居る事が明らかとなる。
したがって鏡像こそが、幼児に自分の身体の直観的な形を与えると同時に、自分の身体から周囲におよぶ(内界 Innenwelt から環界 Umwelt におよぶ)関係も与えると言う事が出来る。すなわち幼児は、その身体の全身像を想像的に先取りする。「主体はみずからが二重化して居るのを見て、反射された、束の間にすぎない、かりそめの自己支配の像によって構成された自分の姿を見て、ただ自分が想像してい居る事に拠ってのみ、自分が人間だと思う....。しかし、鏡に映った身体像を我がものとして引き受けると言う意気揚揚とさせる勝利において本質的な事とは、母に抱かれた幼児が、自分の発見に認証を与えて貰おうとする様に、彼に眼差しを送って居る母のほうへ振り向く事である。「そう、それがお前だよ、よしお」と母に認めて貰う事によりはじめて、「それはお前だ」から「それは私だ」が導かれる事になる。
幼児は一連の同一化の過程を経る事で、一定の自分の像を引き受ける事が出来るのだが、しかし幼児の鏡への同一化の内実を、単なる経済論的な次元へ、あるいは(視覚的なモデルが主たる役割を持って居るとは言え)単なる鏡像の領域へ帰す事は不可能である。何故なら、幼児が自分を見るのはつねに、自分の目に拠ってでは決して無く、彼を愛したり嫌ったりする人物の目に拠ってなのであるから。此処に来て我々は、幼児の身体像を基礎づけて居るものとしてのナルシシズムの領域を、母の愛、彼に投げかけられる眼差しという点から取り扱う事になる。幼児がこの像を我がものとし、内在化する事が出来る為には、彼は大文字の他者(この場合は、母)に於いて一つの場所を持たねば成らない。よしおと言う名で呼ばれる権利(ないしは呼ばれる事の禁止)をもたらす、この母による認知のしるしは、一なる印として働く様になり、そこから理想自我が構成される。この点では、「盲人でさえ自分が眼差しの対象である主体である」。
しかし鏡像段階が、人間がはじめて自分が人間であると言う経験をする原初の出来事であるとすると、人間が自分を認知するのは他者の像(他なる鏡)に於いてである事になる。人間はまずはじめに、他者として自分を生き自分を体験する。さらに鏡の中に自分を認知するのと平行して、幼児には同等の年齢の者に対する特別な行動が観察される。幼児は他者を前にすると興味深く観察し、そのしぐさをいちいち模倣し、文字通りスペクタクル(光景=見せ物)の中で、その他者を引きつけ、あるいはその気を引こうとする。それをただの遊びにすぎないとして仕舞う事は出来ない。幼児はそうした行動によって、この年齢ではなお不完全な協調運動に先んじて居るのであり、また他者になぞらえる事で自分を社会的に位置づけようとして居る。重要なのは、彼を承認する資格を与えられて居る者を彼の方から承認する事であり、その者に自分の価値を認めさせ、その者を支配する事である。
互いに向かい合った幼少の子供に見られる転嫁現象( transitivisme) にはじつに驚かされるが、そこでは文字通り他者の像に騙し取られて居る。ぶった子がぶたれたと言い、そちらの子の方が泣き出して仕舞う。此処に認められるのは、想像的審級つまり双数的関係、自身と他者の混同であって、人間存在の構造に関わる両価性と攻撃性である。自我とは、反転した構造のうちにある鏡像である。主体は自分を自らの像と混同し、自分の似姿との関係の中で、写しによって同時に想像的にだまし盗られて仕舞う。したがって主体は、自ら差し出す事に決めた自分の像のうちに疎外されて居るのである。しかも主体はその疎外について無知であり、こうして自我の慢性的な誤認が形成される。主体の欲望についても同様の事が言える。つまり主体は、他者の欲望の対象の中にはじめて自らの欲望を見定める事が出来る。
鏡像段階とは構造論的な交差路であり、そこで交わって居るのは以下のものである。
1.自我の形式偏重。幼児はある像へ同一化するが、この像は彼を形成する一方で、しかし原初的に彼を疎外し、他者に同一化する転嫁現象に於いては彼を「他者」として仕舞う。
2.人間存在の攻撃性。自分が消滅されたくなければ、自らの場所を他者から勝ち取り、他者に自分の価値を認めさせねばならない。
3.欲望の対象の出現。その選択はつねに他者の欲望の対象に準拠して居る。」
ラカン派 精神分析
以上が心理学で私が純也に知って貰いたかった事です。彼の姉の恵さんはこの私のblogのアドレスを教えろと言って来て、私が教えたら。「此れでそっちの事が筒抜けで全部分かるわ!」と言うのです。同じく今日書いて来た訪問看護師の女の子もblogのアドレスを教えろと言い 、教えたら看護師全員に見せて居る節がある。彼女も「これで全て解るわ」と言って居た。なんて醜い根性なんだ。そして看護師の女の子は自分が知ら無い事を書いてあるから僻んで疎ましく思い。私に大皮肉を言う。人の勝手ですよ。嫌なら、見なければ良いだけです。人と自分を比べて自分が劣るからと言って僻んで皮肉を言うのはどう言う物だかと思う。人に敵意を向けて皮肉を言う暇がったら、本の1冊でも読んで居た方が良いのです。
下に10年前の大河ドラマ「風林火山」を載せて置きます。人生哲学を言って居ます。良かったらご覧下さい。短い動画です....。
この人たちに言える事は、自分は無いのか?と言う事だ。自分のくだらない幼稚な知識で、人を推し量り、それで自分は満足して居る。私から学ぼうともしない。私は結構色々な事を言って居るのだ。しかし聞く耳を持たない。それは私の言う事が全く知らない事だからだ。学ぼうとはしないらしい。そして頭に来て皮肉を言う。人間自尊心が幾ら高くても教養が無ければ何にも成らないのですよ。今回、私はホワイトカラーとブルーカラーに付いて書いて来た。物事は起こる事は幾ら偶然だと思って居ても、必然なのだと言う事を解って貰いたい。偶然ならば、それを必然に変える様に努力をするべきだと思う。偶然の侭に翻弄されて生きて行って何に成るのですか。知識は自分で自分に投資をしなければ身に付かない。人を見て皮肉を言って居る暇がったら自分も学びなさいと言いたいです。知識は自分へのアップロードで増やすのです。まあ、私が何を言われても黙って居れば良いのだろうが、何時までもそう言う訳には行かない....。
NINGEN ISU / Lovers' Suicide in Shinagawa (人間椅子/品川心中)
Ningen Isu / Heartless Scat (LIVE) 〔人間椅子/無情のスキャット・ライブ映像〕
NINGEN ISU/Life for Sale (人間椅子/命売ります)
THE BLUES BAND すし ランジェリー・パブ・ブギ 1995
私が友達付き合いをさせて貰って居る女の人たちが居る。私よりも勿論、人生経験はお持ちな人たちだ。その一人が「くりまんじゅう」さんと言う。彼女は聡明で若造の私がよく動画をコメントに貼って知らせるのだが。嫌がらずにきちんと見てくれて感想を述べてくれる。もう一人はやはり70歳代の「ハナ」さんだ。彼女は私のblogをよくリンクしてくれる。二人とも若い私の話を嫌がらずにちゃんと聞いてくれる。若いと言っても、私ももう来月で63歳です。もう、等にジジイだ。このブログで知り合った人たちは皆私の財産です。例えば宇宙論を唱えて森羅万象の宇宙神の事を考えて居る「真鹿子」さん。小説を書いて居る「まかろん」さん。哲学に強く物知りで学がお有りになる「モービル」さん。オーディオ通で日々、如何にしたら最良のステレオ・システムが完成するか、日々オーディオの研究をして居る「トレイル」さん。そして、私の戯言の書き込みを快く受け入れてくれて居る「マサ」さん。クラシックのフルート奏者の「素子」さん。まだ、私よりは若いが短歌の読み手で川柳なども得意なそして思想に詳しい「櫻井丹九郎」さん。哲学者「ZIP」さん。ピアニストで歌声広場を提供して居る「のびた」さん。その他、色々な人たち。ある人が私に言った。「愛され無いなら愛しなさい」また或る人も言った「笑顔を見せてくれ、作り物でいいから笑ってください」皆さん私を評価してくれて居る。勿論この方達とは、じかに会う事は無いだろう。このサイバー空間だけの親友だ。私は、今まで余りいい事は無かった。だから、このサイバー空間で知り合った人たちを大切にしたく思う。
==懐かし映画劇場==
「トワイライトQ」
シリーズ全6話で構成される予定であったオムニバスの物語。アメリカのテレビドラマシリーズ『トワイライト・ゾーン』、『アウターリミッツ』や、日本の特撮テレビドラマ『ウルトラQ』の路線を狙った構成であった。
1話目は『魔法の天使クリーミー・マミー』からの繋がりで、脚本家の伊藤和典とキャラクターデザイナーの高田明美がアニメ監督の望月智充と組んで、時間テーマの正統派の娯楽SFアニメ『時の結び目 REFLECTION』(ときのむすびめ りふれくしょん)をリリースした。
2話目は原案からタッチした押井が、「訳が分からない作品を作る」と風評が立ったOVA『天使のたまご』や実写映画『赤い眼鏡』と言った流れの作家性を強く発揮された作品『迷宮物件 FILE538』(めいきゅうぶっけん ふぁいる ごひゃくさんじゅうはち)をリリースしている。
結局、6話予定だったこのシリーズは、2話で制作が終了する結果となった。だが、2話目で試みられたような、抽象的な映像と難解な長台詞による独白で構成される内容、実際の風景写真を取り込んだ独特の映像手法、テーマなどは、のちに劇場版『機動警察パトレイバー』にて結実する。
ーストーリー
探偵がある親子の調査を依頼されるところから物語は始まる。その夏、首都上空では原因不明の旅客機失踪事件が相次いでいた。探偵はその親子の調査を続けていくうちに自分も次第に奇妙な物語の中の一部に組み込まれて行って仕舞う。
本編ノーカットです。Twilight Q Part 2: Mystery Case
数ある押井作品で、いちばん何度も観ているのはこの『迷宮物件』であろう。むろん好きな作品である事もさる事ながら、30分という短さが気軽に観る気を起こさせたのである。逆に、押井守に対して「ノンケ」の友人等に貸して、最も「訳が解らん」と言われた作品もこれである。
当時、業界は一種のバブル期だった様に思う。色々なオリジナルビデオアニメが次々と出、巷にレンタル・ビデオ屋がどんどん増えた。『トワイライトQ』なるビデオアニメ企画が立ち上げと言う話を聞いて結構期待したものである。
『トワイライトQ』の第一話はたしか『時の結び目』と言う作品だった。さっそく購入して来て(初めはレンタルで借りた。)少々がっかりした。ありふれて居て、全く面白くは無かったからだ。当時すでに可成りな押井ファンとなって居た私の目には、なんだかアリガチで俗な作品に映ったのである。
しかし、第二話であるこの『迷宮物件』は、私の好みにずばり合った作品だった。暗い男のモノローグが延々と続く。そのストーリーは、事情を知らない他人に説明するのに窮するたぐいのものである。いやあ、いい。もう、嬉しくてたまらないと言った感じの作品なのだ、少なくとも私に取っては。
もうひとつ関係ない話をするが、当時、角川(だったと思うのだが)から『迷宮物語』なるオリジナルビデオアニメが出ていた。押井監督自身の言にも「さんざん間違えられた」と言うものがあったが、確かに紛らわしかった。『迷宮物語』はこれもおぼろげな記憶で申し訳ないが、たしか3つのエピソードからなるオムニバス形式で、全体的に余り好きで無い角川アニメとしては割と好きな作品だった。
押井監督によると、この作品は『天使のたまご』の後日談だと言う事だが、いまだにどういう部分においてそうなのかよく理解できない。まあ確かに登場する「女の子」は「タマゴの殻」を象徴すると言うヘルメットをかぶっては居るのだが、押井監督の言う様な「ひよこ」のイメージには思えないのだ。むしろ、あの女の子は鼻を垂らして居て「のら犬」に見えるのは私ばかりではあるまい。
作品の内容は、一言で言えば「難解」だ。「エピステーメー」との対比で言えば、これは「類似」の要素よりも、「表象」の要素が大きいように思える。外観が似ている(神ならぬ身にはあんまり似て居る様には思えないのだが)「旅客機」を、「魚」と呼び替えると言う作業は一見「類似」の思考に近しいものとも思われるが、言語的な操作―指示する言葉と指示される物とのねじれた関係や、物語論に関するギミックなどは、やはり「表象」の思考空間に展開する作品と観て良い様に思う。この作品から、押井作品群は全体として「表象」の知的領域へと踏み込んで行く様である。
此処で提出された「神様」のまなざしについての考えは、後の『パトレイバー2』に引き継がれて言ったのでは無いかと想像して居る。
あと、『迷宮物件』に特徴的なのは「音」である。この作品、映像もさる事ながら、ことさら音に凝って居る様に思えるのだがいかがであろうか。そう言えば、この頃、アニメの世界では「ドルビーステレオ音声」が流行って居た様に思う。各部分で使われて居る効果音は秀逸であったが、実の処、私はステレオにテレビを繋げて、ドルビーサラウンド・ステレオを楽しんで居た。ステレオのスピーカにサブスピーカーを常設し、効果音も再生して居たのだ。しかし、ドルビー・サラウンド・ステレオは迫力がありすぎる。よく1階のお勝手で食事の支度をして居た母がうるさいと怒って注意しに来た物です。今となっては懐かしい思い出です....。
今回は以上です。此処まで読んでくれて有り難う御座いました。コメントなど頂けると励みに成ります。よろしくお願い致します。。。