「走馬燈〜〜kiyasumeの生い立ちを短く語ります〜〜。前編」
中学の頃だ、私の周りには3人の大バカ野郎たちが居た。いつも3人で徒党を組んでいて、私につきまとった。一人は大工の息子。一人は豆腐屋の息子、一人は韓国人だった。こいつらは人のやる事を尽く邪魔をした。私はこれでも小学校低学年の頃は野球とかにも興味を持って居た。親父に言ってキャッチボールをしてくれと言ってやって居たら。近所の女の子が「〇〇がキャッチボールなんて出来るのかよ!?」と言って通って行ったら。親父はもう二度とやらなかったし。野球のユニフォームを買ってくれと行っても、買って貰えなかった。親父が買ってくれたのはグローブと野球のボールだけだった。また、小学校2年生の頃に私は扁桃腺の手術をした。それで学校を半年も休んで、学校に復帰しても。勉強に付いて行けなく成ってしまった、それで朝早く起きて親父に勉強を教えて貰う事に成っても、3日坊主と言うのは聞いた事があるが、1日で起きて来なく成った。その頃居た下宿の学生は自分の勝手で食事をしないと(母は3食食事を出していた)食べて居ないのだから食べて無い分金を返してくれと言う大バカ野郎で、私は大っ嫌いだった。それが1968年当時だった、、その次に来た学生は本当なら国立にも行けたはずの男だったが、自分とは比べ物に成らない成績の従兄弟が国立に入ってしまい。やけになって推薦で明星大学に入って来た人だった。しかし頭は切れるし、物事をよく知って居た。
ただ、下世話な処があって、或る日、新宿の盛り場に連れて行って貰った時に、射的屋で撃ち損ねた女の子を彼氏の前でバカにして、その女の子から「何よ、あんた!!」と喧嘩を売られそうに成ったが、その子の彼氏が利口で、うまくその子をなだめて居なく成った。私は自分の部屋が無い事もあり、その学生の部屋に入り浸って、当時、親に占領されて居て見られなかったテレビを見せて貰って居た。14型の白黒テレビだったが、「キイ・ハンター」「あしたのジョー」「ルパン三世」後「ゲバゲバ90分」などを見せて貰って居た。勉強も教えて貰って居た。その学生が、その10年後に北海道の国道で乗せて居た彼女と共に車の正面衝突の事故を起こして、親御さんやら親戚一同の事は解らなく成って居るのに、うちで生活していた事だけは分かっていると、親御さんから連絡があった。しかしその後その人は、その彼女と結婚してからぷっつりと連絡が途絶えてしまった。この学生には色々と教えて貰った。処で3人組の悪ガキ達だ。いつも学校の帰りに家に寄る。私はそれが嫌で堪らなかった。豆腐屋の息子は兄貴がヤクザ者でそいつも与太っていた。大工の息子は親が競馬で60万円を当てると、それで食えると仕事をせずに居て、その息子も当然だと思っていた。韓国人の子は私と同じくロックに興味があったが。毎日、私が夕方から始まるロックの番組を見ようとしていると、3人でやって来て「サッカーをやろう。そんな訳わからないロックなんか聞くのを辞めろ!!」と言う。私は怒ってやらないと言っても、しつこく誘って来る。また、近所にガラスが積んであったらそのガラスを石で割ったり、瓦が積んであると勝手に手刀でそれを割っては怒られていた。
中学の文化祭の時、私はバスレフ式のスピーカーを自作して出品して居た。評判が良く、最もラジカセで「ユーライア・ヒープ」の演奏を流していたせいもあると思うが。色々聞かれた。ところが学園祭が終わると豆腐屋の息子が、そのスピーカーを「俺によこせ」と言うのだ。面倒は御免だから。くれてやった。バザーの時も自分らが何も出せないと成ると、私に何か出せと脅迫的に言って来る。私はラジカセは2代目を購入していたので、前のものをまだ聴けたのだがやると。それを500円で売ったと皮肉を言って来た。私はその頃に成るともう高校も決まっていたので、この馬鹿どもから離れられるのを喜んでいた。その後、私が会社で働いていたら、その豆腐屋の息子がやって来て、「てめえが、この辺をうろちょろしていると聞いて、見に来たんだ。俺は秋田の大学に行った。畑仕事をしている。俺には女房と子供が3人いる。」と得意げに話すのだ。まだ年は21歳だ。どんだけ、ど助平なやろうか?子供が3人、21歳で3人???へぇ〜〜と思ったらそれだけ言うと「此れから友だちの処に行く」と居なくなった。落ち武者か?東京の人間が何で秋田の大学を出るんだ?しかも農家?子供が3人、21歳の身で?。
呆れて物が言えなかった。大工の息子は鳶職になっていて柄は物凄く悪く成って居たし。その二人が親父の葬式会場に来た。来てもらいたくも無かったが唾を吐いて与太った、どこのチンピラが来たのかと思ったら豆腐屋の息子だった。まあ、この葬式には会社で働いていたフリーターも来たが正社員より皆んなしっかりしていて驚いた。彼らには役者になると言う夢があるから、しっかりしている。前に会社で、私の弟の事を土方でもしてるのかと人をおちょくっていた、レンタルビデオ店からビデオを借りても返さなくて、100万円を払わされた高校中退の男は、黒い服が無いらしく灰色のブレザーでやってきて、お焼香も満足に出来ない様だった。鳶職になった同級生は中学の頃、私がフォーカス(オランダのロックバンド)を聞かせたら。全然興味が無く(と言うか解らない、理解が出来ないのだ)...。学校の音楽の先生が名盤だと言っていたから買ったという「展覧会の絵」を掛けて説明をしだした。まあねぇ〜〜当時、エマーソン・レイク&パーマーがプログレッシブ・ロックにしたり。シンセサイザーの第一人者の冨田勲が演奏しても居たのだが、そいつはそんなことも何も知らない、ただ音楽の教師が良いと言ったから聴いて居ただけだった。
Focus - Hocus Pocus Live '73
ELP - Pictures At An Exhibition (full album)
『展覧会の絵』冨田勲(シンセサイザー)
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2023年、今年もよろしくお願いします。
今回は2枚の自撮りの写真を挙げて置きます。3キロ太ったり痩せたりしています。あぁ〜〜〜〜我ながら見苦しい・・・
kiyasumeのへたっぴなハーモニカです、聴いて見てやって下さいね。。。
「走馬燈〜〜kiyasumeの生い立ちを短く語ります〜〜。後編」
私は、或る日、母に自分の子供時代から大学時代まで、家の犠牲にされたと文句を言った。弟が生まれた頃には長屋暮らしだった処から、1階が会社になっている2階建ての家に変わって居たが (1967年頃に建てた)その後生まれた弟は姉さんと同じ部屋に居たが、私は部屋が無かった。そこに毎日のように親戚がやって来るのだ。やってられない。だから、ブルースやらジャズを聴く為にもそう言ったブルース喫茶。ジャズ喫茶などに毎日通っていた、図書館になぜ行かなかったって?そこが私らしいと我ながら思う。勉強をするだけの目的なら図書館が良いだろう。しかし音楽も聴きたいのだ。話は変わるが、弟は小学校から私立の成蹊小学校に通って居た。幼稚園の先生から弟はIQが並外れて居て高いから、普通の小学校に行かせると才能を潰すと言われたからだ。それにその頃は家に余裕もあった。この頃になると家もまた新しく建て直した。2度、建て直したのだ....。私も幼稚園の頃に従兄弟らみたいに私立の小学校に行かせてくれと言って居たが、家に金が無いのとそんな雰囲気は微塵もなかったのだった。弟は「僕は青虫電車に乗って小学校まで行くんだ」と喜んでいた。何しろ母と父と連れ立って面接に行った時、バカ親父は面接の途中から、トンチンカンな話をし出し母を大いに困らせたそうだ。
しかし弟は自分の面談が終わると、なんと授業をやっている教室に勝手に入っていき、勝手に開いていた席に座って先生の話を聞いていたそうだ。試験が終わってから弟は親の元にやって来てこう言う問題が出た。こう言う話が出た。と具体的に言えるほど覚えて居て、周りの親御さんに質問されていたぐらいだった。そんなことで弟は一発で合格した。弟は良く幼稚園生の頃に友達の家に、テストの用紙を自分で作って渡して、嫌がれる程、勉強が好きだった。後年、私は家の犠牲にされたと言ったら、母は「ごめんね・・・」と言って大粒の涙を流して泣き始めたので、私は「でもそのせいで、弟が医者に慣れたのだからいいんだよ」と言って母を落ち着かせた。次の日に黒澤明の東宝のレーザーディスク21枚が発売された。母は映画好きな私のため予約を入れて居てくれていた。その翌日。弟がタクシーで、21枚のレーザーディスクを全部買って、家まで持って来てくれた。私は1990年代まで黒澤明の映画は日本では発売に成って居なかった為。アメリカのクライテリオン盤を購入していたが此れで要約、全巻揃ったのだった。弟にはクロード・ルルーシェ監督作品の「愛と哀しみのボレロ」のビデオテープをお礼に買って挙げた。
今思えばこの頃が一番良かった頃だった。その後、下宿屋を辞めた母は体が怠いと言い出し、買い物にも行けなくなり生協で済ます様に成っていった。父はおそらく痴呆が進んでいたのだと思う。或る日、父の部屋から大音響でブルースハープの「ジューク」の演奏が聞こえて来たので、なんだと思い行って見るとハーピストの松田幸一がテレビで演奏している模様が大音響で写っていた。すると半開きのドアに隠れていた71歳の親父が『こらこらこら〜〜。出て行きなさい♪」と出て来て、いたずらっ子みたいに笑みを浮かべて言うのだ。まるで小学生見たいだった。そして私が部屋で寝て居たら自分のテレビを観ていて、「この低音はあいつがステレオを掛けて居るのに、違いないから音を下げろと言って来い!」と母に言い、母が私の部屋に来て寝ている私を観て、怒ってバカ親父に「あの子は寝ているじゃないの!このテレビの音でしょう!!」と怒ったら「そうかい・・・」と言うのだそうだ。バカ親父は自分に都合が悪くなると「そうかい...。」と言ってごまかす癖があった。はっきり言おう、私は死んでも許せない人間が居る。それは、ゆきかず。かしろう。けんじ。バカ親父だ。あとは母方の血筋は好きだが、父方の血筋は嫌いだ。まあ、私は、この間の入院で輸血をして血液の殆どを他人の血に入れ替えたらしいから。訪問看護師に言わせると私は陽気になったそうだ。以前は黙っていてあまり口を聞かず。大人しかったが、その頃と比べると別人だとよく言われる。そう言えばこの間、このblogを読んでいる訪問看護師が何か自分の事が書いてあったのを読んだらしく。この間来て、「〇〇さん、何書いてるの!!」と言って居たが(笑)「過去記事だよ」と言いたかった。blogを書くと言うことは良くも悪くも自分の私生活が公になるものなのだから、皆んなは、その辺の処は折り合いを付けて読んで居てくれています。そうしないと成り立たないのがblogですから....。
処で、そうこう仕手居る内に、段々母も言うことがおかしくなって行き。近所の内科に連れて行ったら「認知症」だと言われた。そして「君も病気なのだから、此の儘、二人で暮らしていると、大変な事態に陥るから早く施設に入れなさい」と、きつく忠告された。私は困って弟に連絡したら、「何でもかんでも俺のところに言って来て貰っても困る!!」と言われた。姉さんに電話を掛けても「私はもう他家に嫁いだ身だ!言ってくるな!!」と言う。私は内科のクリニックの先生が紹介してくれた池尻大橋の病院の脳外科に母を連れて行って診てもらうと、アルツハイマー型認知症で完治は不可能。まあ、進行を遅らせる薬は出せるので出しときますとの事。レントゲンの写真は脳が萎縮して居た。しかし、それから6年間、母は頑張った。おかしな事も言い始めてはいたが、何時も池尻大橋の病院で診てもらった帰りに。レストランと書店が一緒になっている、あおい書店に寄って外のレストランで食事をしたり。私が母を連れて新宿の居酒屋に連れて行ったり、映画を観に連れて行ったりした。姉弟は何も言って来なかったし、様子も見に来なかった。そして或る日、母との別れがやって来た。私の持病が悪化し病院に1年と3ヶ月も入院したのだ。私は一人残してきた母を案じた。そして退院時には誰も迎には来なかった。私は入院中に弟が私の私物をどうにかしたいと主治医に相談しているとケア・マネージャーから聞かされた、そうしないと、私がまた実家に住んでしまうからと女医と画策して、私の荷物をロッカールームに入れられないかと言って居たらしい。
退院の一週間前に、1日だけ弟が面会に来た。弟は言った。「自分は離婚をして、今の家も実家も大きすぎるから処分したいので、兄貴は外で一人で暮らしてくれ、どこかで一人で暮らしてくれていればそれで良い。お袋は自分一人では施設代が払えない為、兄貴にも半分出して貰って施設に入れた、、」と言う。「部屋代は持ってやるから」と言われた。しょうがない。私には実家の権利も何も無い。渋々、マンションに引っ越して来た。すると姉さんから電話が掛かって来て。「このバカヤロー!!◯はな!!離婚で慰謝料に70万も毎月払ってるんだ。それなのにお前が何で家賃を肩代わりして貰ってるんだ!!いい加減にしろ。このバカヤロー!!」と罵しられた。その2年後、弟は心不全で死んだ。心不全とはよく推理ドラマなどをご覧になっている方は解ると思うが、病歴が何も解らない時によく使われる病名だ。前に書いた通り姉が弟の遺産は処分した。実家に置いてあった、私の私物も勝手に処分された。実家を処分する時に、「セコムを1時間だけ外してやるから必要なものは取りに来い」とケア・マネジャーから聞かされた。1時間ではどうにも出来無い。そして私はマンションには住め無くなり、今のボロアパートに引っ越して来た。此間6年ぶりに姉さんに電話を掛けたがこの間書いた通りだ。剣もほろろ、相手にもされなかった。これが私の人生だった。普通、私の歳ならば奥さんが居て、子供がもう成人して居るだろう。しかし私には許されなかった。私は一人だ・・・永遠に死ぬまで..........。死んでも親父と同じ墓に入るつもりは無い。骨は海にばらまいてくれと言っておこうと思う。
「あいつの好きそなブルース」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド from album "あゝブルース Vol.1" 1976年
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押井守 アニー賞の生涯功労賞 『ウィンザー・マッケイ賞』を受賞
さらば愛する日本よ 密着 押井守の世界挑戦800日
押井守監督のこと・・・・(WWF)
「押井守作品」に対して特に注目することとなったきっかけを『ビューティフル・ドリーマー』に求めるという人は私以外にも多くいると思います。少なくとも私にとって、この作品で特徴的だったのは、「世界とはどういう構造をもっているのか」という問題意識に対するかのような描写でした。ここから『存在と時間』におけるハイデッガーに見られるような、実存哲学ないしは現象学方面のまなざしで押井守作品を「解読」することが「正解」だという考えにとびついてしまったのも無理からぬことだったかもしれません。
実際、『ビューティフル・ドリーマー』にも、また、『天使のたまご』や『とどのつまり…』などそれ以降のいくつかの作品にも、見方によってはかなり顕著な「実存哲学を思わせるような記述」がみられることは事実だと思います。
しかし、ここで注意しなくてはならないことは、「押井監督がこれらの作品において実存哲学の問題を述べ論じたかったのだ」、すなわち「作者の言いたいことはこれなのだ」という「解読」は、たいへん断片的な考え方であって全体的なものの見方ではないし、またあまり生産的な考え方ではないという点です。こういった「解読」は、作品を単なる知識の座に陳列し、博物館のごとき静態的なまなざしで見、考えるというあやまちにつながりかねません。これは、後の作品における構造主義、記号学、虚構論などの諸要素についても同様です。
これが学術的な思想の結実である「論文」などなら、あるいは作品それ自体を「作者のことばを伝えるメッセージ」と考え、それが「作者の伝えたいこと」を忠実に伝えているか否かという観点から単体で研究の対象とする方法も採用する価値が十分あるでしょう。しかし、映画などの作品というものは、それ自体がスタンドアローンで存在していても意味はありません。作品は「それを鑑賞する」というイベントの上において初めて生きた意味を有するものであり、ゆえにそれは常に、鑑賞するという能動的な行為のもとに考えるべきなのです。
したがって、作品の背後にある「作者の意図」といったものは、あくまでも二次的なものとして取り扱うこととなります。作品と出会い、それを鑑賞するというイベントはあくまで鑑賞者のものですから、作者の意図などというのはあくまで作品を構成する一要素、作品について考える際の参考のひとつにすぎません。
これはかつて拙文において述べたのですが、私は基本的には主に「解釈学」という立場から押井守作品に対して語っています。この立場はすなわち、「鑑賞すること」というできごとに際するという観点から作品を考えることを標榜していたわけです。作品と、それを鑑賞するわれわれをとりまく環境を総合的にとらえるまなざしが、『押井論』における私のスタンスであったつもりです。ですから、さらに厳密にいえば、ここでいう「解釈学」は、ある作品に対してその作者が作品を生み出すに至った背後の事実・状況を忠実に再現することを旨とするシュライアーマッハー流の解釈学にとどまらず、その作品を生み出した作者、時代、状況、そしてまたそれをわれわれ自身が観るという有限性を前提としたまなざしにおいて論ぜられる総合的な解釈学でなくてはなりません。これはむしろ、ハイデッガーやガーダマーの解釈学の考え方に近いものと言えるでしょう。
「押井学」の可能性
WWF発行「押井学会」より。。。
少なくとも2000年12月現在、「押井学」という言葉―オシイマナブさんという人の名ではありません―はまだありません。これは勝手に、多分に恣意的につけた名辞です。普通は、「シャーロック・ホームズ学」とかいうように、作中のキャラクターを対象とするケースが多いようですね。しかし、「カント学会」などと言った研究学会はごく普通に存在しているのだから、「押井学会」があってもよかろう、「押井塾」なんてものもできたのだし……ということで強引に宣言したものです。その対象は押井守作品一般であり、作品それ自体は言うに及ばず、その鑑賞というできごとに関して干渉する要素、概念、思想などについて論及することを旨とします。
押井守作品は、論究の角度によってきわめて多義的にとらえ、分類することが可能です。そしてその分類は、それぞれの論究の「まなざし」を規定することとなります。そのさまざまな「まなざし」は、さまざまな論を生むことでしょうし、多くの分野の専門的知識の共有を可能とし得るかもしれません。かつて私が書いた『押井論』などは、できるかぎりの多面的な見方を示そうとしたつもりなのですが、筆者の無能からその水準はまったくの初歩であり、せいぜい方針案としての基礎研究の域を脱しません。しかし、今回の私の無茶な要求仕様に対して執筆を快くお引き受けいただいた論者の方々は、実に高度で多様で実り多い論を展開してくれました。この場を借り、伏してお礼申し上げるところであります。このご恩はいずれ、精神的に。
「ミネルヴァの梟は、暮れそめる黄昏を待ちて飛び立つ」という有名な言葉があります。これはヘーゲルが『法の哲学』序文において述べた文言です。現実のできごとが終焉を迎えつつある場において初めて学としての哲学が成立する傾向が、歴史のなかには多々見られるという意のようですが、どっこい「絶対速度」の情報が世界を駆けめぐる21世紀はそんな悠長なことを言っている場合ではありません。作品との邂逅は常に現在の問題ですし、押井監督はこれからも新作をどんどん繰り出してくるでしょう。また制作の世界には、押井監督の模倣子が確実に増殖しつつあります。こうした時代に同席した幸運を生かし、攻性のアプローチをとるための形として、この本を企画した次第です。
この本を手に取った貴方はすでに、「押井学会」というひとつの環境を構成するメンバーです。押井監督の作るレベルの高いマップのダンジョンを攻略するためには、技術的戦略に基づくパーティ・アタックが基本ではありますまいか。
WWFの会報誌から、「ヘーゲル奥田氏」の論稿を抜粋しました。「WWFとはアニメの評論論考誌です、特に、「押井守」についての分析研究論考が鋭く、大学の哲学科を出た、ヘーゲル奥田氏の論考は目を見張るものがあります。WWFの雑誌はAmazonでも購入出来ますし、WWFのHPからでも購入出来ます。私も読ませて貰って大いに参考にさせて貰っています。よかったら、皆さんも読んで見て下さいね、そしてWWFのHPにおいては、論考の一部がタダで読めるようになって居ます。よろしかったら、読んで見て下さいね・・・・・・。♪( ´▽`)
「押井守のインターネット論」 押井守語る、、、。
インターネットの登場は、社会のありようを大きく変えてしまった。ネットは物流の仕組みを変え、情報の流れ方を変えた。そして、この後はAI(人工知能)が僕たちの暮らしに大きくかかわってくる。AIが人間の仕事の大部分を奪ってしまうという予測もある。それは、人間が仕事をしなくても豊かに暮らしていけるユートピアか、それとも、人間がAIに使われるデストピアか。
人間の集合知がネットの健全性を保ち、コストを限りなくゼロにすることができるようになるという、のんきな予測は大方外れたようだ。人間はネットを悪用し、ニセの情報を流して金儲けをたくらんだり、政敵に攻撃をしかけたりするようになった。だから、ネットの中には悪意に満ちたデマが飛び交っている。50%外れる天気予報と、100%外れる天気予報はどちらが信用できるか。よく冗談で言われることだが、もちろん100%外れる天気予報の方が信用できる。予報と逆の天気を予測すればよいからだ。
ネットの中には真実も虚偽もある、と言われる。だからこそ、ネットの情報は信用できない。すべてが虚偽ではなく、どこかに嘘が紛れている。だが、それは一見、真実のような顔をして僕らに微笑みかけてくる。どれが本当で、どれが嘘なのか。僕らには見分けがつかないのだ。
真実と虚構のあわいに興味を持ち続けてきた僕の、インターネットに対する意見は本書の中で十分に述べるつもりである。個人が義体と電脳によって強化された近未来を描いた僕の作品で、人間の意識は広大なネットにつながっている。そんな世界を20年も前に描いたが、スマートフォンの登場で、本当に人間が常にネットにつながる世界が実現してしまった。
だが、僕が描いた世界はさらにその先の話で、そこでは人間の意識が広大なネットの海に融合するところまで行ってしまう。もはや機械の体すら必要ではなくなり、意識だけが、世界を駆け巡る。
そのとき、人間はこの世界を、宇宙をどのように認知し、どのような世界観を持つのだろうか。あるいはそのとき、宇宙は人間をどのように認識するのか。物理法則から解き放たれた人間の存在を神は許すのか。これこそが僕が映画で描く、人間の未来像であり、シミュレーションだった。
その思考実験は、現実の今の人間をも照射する。僕らがいつか意識以上の存在になれるのだとしたら、今の物理法則の中で生きている僕たちはいったい何をなすべきか。こんな不自由な、血と肉でできた体を抱えて、なすべきことがあるのだろうか。日々の現実に流されず、本質を突き詰めて考えていくとは、どういうことなのか。
まるで哲学のような問いになってしまったが、本書ではもっと単純に、幸せになるためには何をすべきか、社会の中でポジションを得ていくにはどうしたらよいのか、そんなことも僕なりに論考している。
ただ、本質的な議論からは目を離さずに考えたつもりだ。
どうやら、僕たちは生きている。ゴルギアスが何と言おうと、僕らは世界を認識している。どう考えても、僕らの胸の奥には、何か、僕ら自身の核のようなものが備わっているとしか思えない。それが、心と呼ばれるものか、精神と呼ばれるものかは別にして、その実感は確かにある。胸の奥の核を、やはりないがしろにするわけにはいかない。その、意識のようなものを受け入れてくれるほどに、ネットの空間はまだ十分に発達してはいない。もう少し、この肉体の中に閉じ込めておいて、その核が命じるものに従って生きていくしかない。
本書を著した理由はここにある。しょせん僕らはもうしばらく、不自由な人間として、本質を見極め、虚構と真実を手玉に取り、うまくやっていくしかないのである。
『ひとまず、信じない――情報氾濫時代の生き方』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・押井 守
1951年東京都生まれ。映画監督・演出家。大学卒業後、竜の子プロダクション(現・タツノコプロ)に入社。以降『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(95) 『アヴァロン』(2001)『イノセンス』(04)『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』(15)などを手がける。最新作は『ガルム・ウォーズ』(16)。著書に『仕事に必要なことはすべて映画で学べる』、共著に『身体のリアル』などがある。最近までメルマガ『世界の半分を怒らせる』を配信していた。------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「ライプニッツのモナド」
ライプニッツのモナド論
ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz(1646-1716)は、ドイツが生んだ最初の大哲学者である。ドイツ人はライプニッツ以前にもヤコブ・ベーメとマルチン・ルターという偉大な思想家を生んではいるが、体系的な哲学を展開したのはライプニッツが始めてである。以後ドイツ哲学は多かれ少なかれ、ライプニッツの影響を蒙った。
ライプニッツはドイツ哲学の父といわれるにしては、非常にかわった学説を展開した。しかも、バートランド・ラッセルがいうように、彼は生前自分の説の全部を公開したわけではなく、その全貌は20世紀に入ってようやく明らかになってきたといういきさつもある。ラッセルはライプニッツ自身が生前に公開した説と、秘蔵していた説との間には非常な懸隔があるともいっている。一筋縄の解釈ではすまない、懐の広い思想家だというのである。
だがライプニッツが歴史上に影響を及ぼしてきた思想とは、無論彼が生前に公開した著作の中で展開したものだ。それは「単子論」のなかで展開したモナドという実体をめぐる議論と、独特の論理学に支えられた「弁神論」とで代表される。
まず、ライプニッツは何故「モナド」という奇妙な概念を思いついたのか。これはギリシャ哲学における「アトム」と外見が似ているが、アトムとは異なって物質的な内容を持たず、徹底して精神的なものである。しかもこの精神的なものが、我々には物質的に写る世界を構成している真の単位なのだという。世界は無数のモナドが集まって構成されており、それらは自体では消滅せず、互いに交渉を持たず、一つ一つのモナドが宇宙全体を反映しているというのである。
ライプニッツのモナドは、デカルトとスピノザによって提出された実体をめぐる議論への、彼なりの解答であった。また当時盛んであった宗教論議における、神と人間との関係についての、ひとつの優れた解釈でもあった。
デカルトは実体として精神と物質をあげ、さらにこれらを創造した神を究極の実体と定義した。これに対しスピノザは、実体の定義上神のみが唯一絶対の存在つまり真の実体なのであり、それ以外のものは実体としての神の遇有的な現われなのだとした。
ライプニッツもこの二人と同様実体の定義から議論を始め、モナドに行き着いたのだった。
ライプニッツはデカルトのいう延長は実体ではありえないとした。なぜなら延長あるいは広がりは多岐性を含意しているがゆえに、それは実体の集まりを想起せしめるからである。実体とは定義上単一なものであり、したがってそれは広がりを持たないに違いない。
では広がりを持たないものが集まったからといって、何故空間が形成されるのか。この問いに対しては、ライプニッツは空間そのものの実在性を否定した。ライプニッツによれば世界には空間も真空もないのであり、ただ無数のモナドが充満している。そしてそれは一つ一つが魂のようなもので、物質的な色合いはいささかも持たない。
一方神のみを唯一絶対の実体とするスピノザの説に対しては、ライプニッツは表立った議論をしていない。何事につけ抜け目のないライプニッツのことであるから、スピノザの悪評が自分の身に降りかかることを避けたのであろう。その実ライプニッツのモナドは、スピノザの神が属性や様態となって顕現したのだといっても良いほど、スピノザの説に似ているところがある。
ライプニッツは宗教上の心性としては、カルヴィニズムに近いものをもっていたようである。それはモナドの定義のなかにも反映されている。
ライプニッツによれば、この世に存在する無数のモナドの一つ一つは互いに何の交渉もない。それなのに何故、異なったモナドの間に因果関係のようなものが生じるのか。我々人間自身においても、あのデカルトを悩ましたように、精神と身体との間に調和ある現象が生ずるではないか。
この問いに対してライプニッツは、各々のモナドのなかにはあらかじめ確立された調和があると応えた。宗教上の予定調和説の哲学版である。さまざまな事象が我々の眼に調和しているように見えるのは、神によって作られた多くの時計が、互いに関係せずとも同じ時刻をさすのと同じことなのだと、彼はいうのである。
この予定調和説はさらに進んで、モナドの中にはあらかじめ宇宙の全体が組み込まれているのだという、驚くべき主張につながっていく。我々の眼には偶然に映ることでも、モナドにあらかじめ組み込まれたものが実現しているのであり、モナド相互が調和しているようにみえるのも、この組み込まれている運命のようなものが発現したことの結果なのだ。
この主張は、主語と述語に関するライプニッツの論理学の考え方と密接な関係を持っている。ライプニッツによれば、特定の主語に属するとされるあらゆる述語はあらかじめ主語に含まれていなければならない。それと同じことがモナドにもいえる。モナドは哲学上の概念であるが、論理学の上からは述語を包括する主語のようなものである。だからそれは述語に相当するものをあらかじめ自分のうちに含んでいる。
これはかなり踏み込んだ決定論である。世界には偶然のものは何も存在しない。すべてはあらかじめくみこまれたものによって、必然的に生起する。スピノザの神によく似ているであろう。
さて一人一人の人間もやはりモナドであると観念される。そのモナドは自分のうちに宇宙全体の出来事をあらかじめ組み込んで持っている。だからそのモナドにとっての世界の現われは、偶然に見えるようでも、必然の出来事なのだ。ライプニッツにとって、一つのモナドは世界を表象する単位である。その限りでミクロコスモスと言う事も出来る。「モナドとは何か?」
ギリシア語のモナスmonas(単位,一なるもの)に由来する概念。単子と訳される。古代ではピタゴラス学派やプラトンによって用いられ,近世ではニコラウス・クサノスやブルーノが,モナドを世界を構成する 個体的な単純者,世界の多様を映す一者としてとらえた。これらの先駆思想を継承して,ライプニッツは彼の主著《モナドロジー》において独自の単子論的形而上学思想を説いた。ライプニッツは物理的原子論を批判して,宇宙を構成する最も単純な要素すなわち自然の真のアトムは,不可分で空間的拡がりをもたぬ単純者であり,いわば〈形而上学的点〉とも言うべきものであると主張した。
「アトムとは何か?」
原子と訳される。レウキッポスやデオクリトスによって代表されるギリシアの原子論哲学が提出した用語。〈切る〉を意味するギリシア語の動詞temneinと否定の前綴aとからなる形容詞atomos(切られない)に由来し,単数ではatomon,複数ではatomaと呼ばれた。この哲学はこうした語源的意味を生かしながらアトムを,切断し破壊することの不可能な不変の極微の物質として万物の基礎においた。万物はこれらの複数の原子の統合によって構成されるのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「写真論と哲学」
写真論というと、すぐにロラン・バルトの「明るい部屋」を引用する人がいる。かつて-そこに-あったもの、という例の本である。たしかに、写真とは記憶であるのだが、バルトの言っていることはそれに尽きるのであり、むずかしく考える必要はない。写真は哲学ではなく、視覚によるメッセージの手段であり、哲学的な解釈は写真をややこしくするだけだ、と私は思っている。写真論というと、ほかにはスーザン・ソンタグの「写真論」とか、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」などを引用する人も多い。しかし、これらも哲学者による写真論あるいは映像論であり、あまり意味があるとは思えない。私はこれらの本を読んでいるが、写真論に引用しようとは思わない。
写真論はもっと平易な言葉で語られるべきであり、写真論をややこしくしたのは哲学者と一部の写真評論家のせいだと思っている。つまり、小難しい言い回しをして、わざわざ(としか私には思えないのだが)読者を混乱させることによって、なんとなく高踏的な雰囲気で幻惑しているにすぎない、と思うのである。
そういう中で、哲学者だが平易な文章で写真論を展開してくれるのは黒崎政男さんである。黒崎さんの文章はわかりやすいし(本職のカント哲学の著作は読んでいないのだが)、論旨も明快である。このデジタル時代に写真家は耐えることができるのだろうか、という問いかけにはうなずかざるを得なかった。つまり、デジタル画像がモニタ上でピクセル等倍あるいはそれ以上に拡大されて、ピントやブレを指摘される。そして、それだけでその写真がネット上で批評されてしまうのだ。
黒崎さんの写真論はややもすると、ハードウエアからの発想が多いが、傾聴に値する内容が多い。興味のある方は「哲学者クロサキの写真論」などを読まれるといいだろう。
以上、今回は私の生い立ちから、押井守論、そしてライプニッツなどの哲学を語って見ました。ところで今回の哲学の論考を紹介して居る事で、哲学の論争を仕掛けられても、私は何も応じませんので、悪しからず・・・。
それ以外のコメントには対処致しますので、皆さん何か言いたい事があれば書き込んでくださいね。ああ、しかし、私を貶すコメントは無視しますから、その辺は宜しくお願い致しますね、、それでは今回は此処までにしときます。また次回の更新でお逢いしましょう・・・・・・。☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
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