寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

寄せ集めエッセイ。「服装について」。。

追悼、アランドロン。。。
 

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私は勝手、アラン・ドロンが好きだった。彼は絶世の美男子だった。この記事を読んで居る方で彼の事を知らない人も居るだろう。彼は若い頃は子供の頃に母親に死別されて、子供の施設に送られて居た。そしてその後里親に育てられ、彼は厳格な寄宿学校に幽閉された。彼はそこを飛び出して。それ以後イタリアのシシリー島のマフィアのボスに可愛がれて、使い走りをして大人になり。彼に寄ってくる女の子たちと懇意になり。ある女優が彼をカンヌ映画祭に連れて行った処。映画プロデューサーの目に留まり。そしてフランス映画界の巨匠。ルネ・クレマン監督の映画「太陽がいっぱい」で一躍有名になった。

 

私はブオトコだ。だから尚更、美男子でカッコイイ彼に憧れた。そして彼の着こなし。トレンチコートの襟を立てる仕草だとかを真似た。彼も、もう86歳になる。彼の経歴を書いて置きます。「仏パリ近郊の町ソーに生まれる。里親に育てられ寄宿学校を転々とする子ども時代を送り、17歳で仏空軍に入隊。除隊後、様々な職を経て、57年の「女が事件にからむ時」でスクリーンデビューする。「恋ひとすじに」(58)で初主演を務め、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」(60)で一躍世界的なスターになる。以降、ルキノ・ビスコンティ監督の「若者のすべて」(60)や「山猫」(63)、クレマン監督の「生きる歓び」(61)、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」(62)で次々と主演を務め、「地下室のメロディー」(63)では仏スター俳優ジャン・ギャバンと共演。66年の「テキサス」でハリウッドデビューしたが、まもなくフランスに戻り、名作「サムライ」(67)に出演する。

 

69年にはボディガードが射殺され、殺人容疑をかけられる大スキャンダルが発生したが、後に容疑は晴れた。その後も「パリの灯は遠く」(76)などがヒットし、初監督作「危険なささやき」(81)では製作・主演も兼ねた。「真夜中のミラージュ」(84・日本劇場未公開)ではセザール賞主演男優賞を受賞。98年の「ハーフ・ア・チャンス」を最後に引退宣言をしたが、00年に復帰しTVドラマ「アラン・ドロンの刑事フランク・リーヴァ」(03~04)などに出演する。最初の妻ナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)との間に生まれた息子アントニー・ドロン、2番目の妻との息子のアラン=ファビアン・ドロンも俳優になった。」

 

私は男優は、勿論渋めの人も好きだ。イブ・モンタンだとか。リノ・バンチュラ。ジャン・ギャバンとかの渋めも好きだ。最近ではジャン・レノとかも。最近の男優で好きなのはヒュー・ジャックマン。ウイリアム・ニールセンとかだ。そして日本では福山雅治とか井浦新とか木村拓哉。亀梨達也そしてGACKTだ。古い処では仲代達也。三船敏郎。原田芳雄。石原裕次郎などですね。人は色々言うのですよ。私などでさえ、色々言われて居る。顔を見せて居るのも一つの要因だろうとは思うが。アラン・ドロンは私のフランスでの永遠の兄貴です。

Alain Delon - tourner dans le vide | 

 

À Toi .. Joe Dassin " Alain Delon and Dalila" 

 

Alain Delon and Sonia Petrovna in “INDIAN SUMMER” 1972 | 

 

ALAIN DELON in D'URBAN/Part2 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

今日撮った写真です。。。。

 

昨日は郵便局から保護費と年金併せて13万8千円を銀行に入れて来た。今日はいつものラポールすぎでホットケーキを食べようとしたが、休みで空いておらず。もう一つの喫茶店に入って、カレーライスとアイスコーヒーを注文した。そこは安くてそれで870円だった。処で私の郵便受けには鍵が掛かっているのだが、八幡山で食事をしながら鍵を探すも無くなっている。カバンの中を探すも財布の中を探すもどこにも無いのでした。アパートに帰って来て、カバンの中を探すも何も無い。そうこうしてたら訪問看護師さんがやって来た。事情を説明して一緒に探すもどこにも無い。そうだから、私は一景を考え出した。それは私がまたその鍵と同じものを買えばいいのだ。錠舞いが同じなら、鍵は同じなのだから、今かかっている錠舞いは新しく購入した鍵で開くはずだ。だからAmazonから購入したのです。今日には届くと思うし、大体が訪問看護師の女の子がこの郵便受けに入れないで下さいと、張り紙にそう書いてくれて、貼って来てくれた。昨日は病院だったのだ。私は白いYシャツに、カーゴパンツそれにベストを着て腰のベルトにはハーモニカフォルダーに入ったハーモニカ(10ホールズ)をかけて帽子を被って行ったのだが主治医は私の格好が着こなしがいいと大絶賛してくれました。「オシャレですね」と言うのです。私は別にいつも通りなのですけれども、こないだある老人に言われた事がある。「あなたももう65歳なんだからそれなりの服を着てそれなりの格好をしたらどうですか?」なんだろうか60歳回ったから老人の格好をしろと言ってるのだ。私は持論を持っているのですが。老人、まあ壮年になったら爺様然とした格好をするより、若作りをした方がお洒落になれると思っているのですよ。みんな変な思想に振り回されていると思いますよ。歳を取ったら分別のつくそれなりの格好をしなければならない。しかし、それは単なる思いつきの古びた思考が生み出した迷信ですよね。勝手、司馬遼太郎さんは72歳になってもあのトレードマークの長髪の髪型はやめなかったし若者が来ている青いシャツのネクタイを締めてコートを着ていた。そしてそれが似合って居た。この記事を読んでいる皆さんも、60代なら30代の格好を真似てして見たら良いと思います。結構オシャレに着こなせると思いますよ。今はAmazonでもUNIQLOやらGUなど、どこでも格好良い服は売っていますよ。私が指針としている服飾デザイナーが居ます。MBさんです彼はまだ37歳ぐらいですが。色々と服についての蘊蓄を語っていますよ。彼が正装と普段着について語っていますが。今はモードが流行っているのですよ一部の人たちの間では、私は普段着Tシャツは4枚だけしか持っては居ません。毎年、秋から冬にかけては黒いYシャツと黒いベストを着て過ごしていたのですが今年は黒いYシャツは辞めて、白いワイシャツに黒いベストとズボンはユニクロの感動パンツか黒いカーゴパンツを履いて過ごそうとしています。私は今まで多汗症だったけど、今は治っていて夏は暑いけど、その格好で汗疹そんなに書かなくなりましたよ。だから60回ったら変に年寄りっぽく見せるより、若者が来ているような服装やら、私の場合はモードですが、そう言った格好をしてみたらいかがでしょうか。此処で少し詳しく説明します。

モード系ファッションを楽しむためには、以下のポイントを押さえることが重要です。

  • 自分らしさを表現する: モード系ファッションは、自分の個性を最大限に表現する手段です。流行を追うだけでなく、自分に合ったスタイルを見つけることが大切です​。
  • 高品質なアイテムを選ぶ: モード系ファッションは、質の高いアイテムを選ぶことで、その魅力を最大限に引き出すことができます。長持ちするアイテムを選び、長く愛用することが大切です​​。

 

モード系ファッションは、常に進化し続けるスタイルであり、ファッションの最前線で活躍するデザイナーたちの創造力が反映されています。最新のトレンドを取り入れつつ、自分らしいスタイルを見つけてファッションを楽しんでください。

本当は言いたか無いけど、最近の75歳を周った男性は我儘で自分勝手な老人が多い。以前こう言う人が居た。私の掲示板に書き込んで居たので。此方はちゃんと返事を書いたのだが、どこを見て言ってるのか。自分が、 どのblog記事にコメントしたのか解って無くて。「自分の書き込みも掲載されずに、返事も書いて貰えんかった、、」と、新しい記事の掲示板にそう書いて怒って居るのですよ。私は「何だ?」と思って、「あの此処では無いですよ。あなたが書いたコメントは。貴方の書き込みも削除して居ないし。返事もちゃんと書いて居ますよ....。」と言ったのだが。「頭に来た、若造の癖をしおってからに!!」と書いてあるので。その人のblogまで行って掲示板に書き込みを仕様としたら。私の書き込みが出来ない様になって居たのだ。私は「此れだから老人は!!」と怒りが暫し湧いて来た。こう言う歳を取った男性からの、自分勝手な思い込みの書き込みはこの人だけではない。今までに5人も居ました。。。「歳なんだから長髪はやめた方がいい」「嬢ちゃんは(女みたいだと言う事でしょう)みっともないから辞めなさい」

歳を取った人に言いたい。「世の中、自分は歳だから何でも若いものは言う事を聞くだろう。あいつより歳上だから自分の方が正しくて偉い」と言う思い込みは辞めた方がいい。私だってもう65歳にもなる。しかし老人の独り善がりは嫌いだ。そして老人はすぐに僻む。何がどうしたと言う訳でも無いはずなのに。自分の一方的な思い込みで人を曲解する。女性。おばあさんはそう言う事は余り無いが、此れは男性。おじいさんに多い事だろうと最近になって思って居ます。歳を取ると頑固になると言うが。自分の思い込みで勝手に怒って貰っても殆困る。そして言いたい。歳を取ったら若いものの文化はくだらんと言うのでは無くて。若者から学びなさいと言いたい。私なんか自分より14歳も歳下のGACKT君やら32歳も年下の青木志貴ちゃんからパワーを貰って居ますよ。そして私よりも遥かに若い恋人からも、色々と教えて貰って居ます。。。。確かに、若者の文化は納得が行かない事もしばしばありますよ。でも、モノの考え方は参考になるはずです。そうですね、お互いに歳を召した方は昔の話を若者に聞かせて、若者たちは歳が行ったものに最新の情報を教えてあげれば良い・・・・。

私は、それなりの知識(自分が知って居る限りの)はあるつもりで居ますが。最近の若い人たちは皆頭がありますからね。参考になります。私なんぞは65歳にもなるのに彼らに及ばない事が度々ありますから。歳を取った人の知識は古くて断定的です。だから、決して侮って「なんだ、ガキが!!」と言う様になったら。お終いですよ。まあ、でもたまに若くて何も知らない人も居ますけどね。そう言う人は年寄りぶった話し方をしますよ。解って居るのかなと思って話して見ると何も知らない。処で話は変わりますが。GACKT君が何時も言う「思考」其れは単なる、思考と言う言葉よりも彼の哲学の中核を表す言葉ですね。彼の考え方は、実践哲学だ。私が読んで居る。ショーペン・ハウアーが隠居(悪い意味では無い)の生き方を説いた哲学であるならば、GACKTの哲学は行動を旨とする哲学だと思う。マルティン・ハイテガーですら、「存在と時間」で言いたかった事は。都会的な生き方よりも田舎の生き方の方が実践的だと言う事だった。私は、そんなに哲学に詳しい訳では無いので、余り哲学者の論理的な記述が出来ないのだが。。。GACKTの哲学は彼が50年間生きて来て培って来た。想いなのだと思う。

此処で、私が愛読して居る。ショーペン・ハウアーの哲学の思想を書くが、哲学するための要件は、第一に、心に掛かる如何なる問いをも率直に問う勇気を持つこと。第二に、自明の理を思われるすべての事を改めて明確に意識し、それを問題として掴みなおすこと。そのためには、本当に精神的な余裕がなくてはならない。我々自身が行う真剣な瞑想や省察に比べると、他人との対話は機械的である。所詮、他人の事は理解できない。深い哲学的な真理が明るみになると言う事は、対話の中ではありえない。結局、最終的には自分で考えなければならないと言う事。

自分で行った貴重な省察は、出来るだけ早く書き留めて置くべきである。我々は自分の体験でさえ時には忘れて仕舞うものだから。それに、思想と言うものは我々の望み通りではなく、気まぐれに去来するものだから。反面、他人から学び取ったものは、書き留めない方がよい。記憶力に対しては甘やかして従順さを忘れさせない様に。何かを思い出せないときは、すぐ検索するのではなく、何時間でも自分の記憶力に詰問してやめないことが大切。思い出すまでに時間を要した事ほど、長期間記憶に残る....。

 

ディープ・パープル / ハッシュ



しっかりとした思想を持つためには、くだらない事を考えない事がもっとも近道である。暇になるとすぐ書物に手を出すのはよくない。暫くは自分の頭の中を鎮めるがよい。独創的な思想は、歩いて居るか立って居る時に訪れる。座って居る時に訪れる事は極めて稀である。

・ア・プリオリ(先験的、演繹的思考)、ア・ポステリオリ(経験的、帰納的思考)

知識欲は、普遍的なものに向かうときは学究心と呼ばれ、個別的なものに向かうときは好奇心と呼ばれる。女性は普遍的な物事に対する感受性が薄いので。大概の人が好奇心のみである。大抵の人間は、自分の生活の中では、出来るだけ思想を費やさずにやりくりしようとする。考える事は厄介な負担だからである。したがって彼らは、自分の職業上のどうしてもやむを得ない範囲で物事を考え、ごくありふれた出来事を眺めて過ごす。これは「無知な人々の長い閑」である。。。

知性は意志に奉仕するものとして発生した。しかしこれは動物と同じである。大抵の人間は、自分の知性を世俗的な労働以外の仕方で使う事が出来て居ない。彼らは無味乾燥であり、真面目さは動物的なゆとりの無いものになる。意志の催促を受けなくなると、たちまち無為に陥る。笑う対象は下品な茶番であり、普段はくそ真面目な野獣である。大多数の人間は、その本性上、飲食と性交以外の何事にも真剣にはなれない。こうした連中は、宗教や学問や芸術などを大抵は自分の仮面として用いて居る。

天才は、二重の知性を有して居る。一つは凡人同様に意志に使える知性。もう一つは世界を純粋に客観的に把握しようとする知性。天才は大抵は社交嫌いと思われ、時には人の反感を買って近づきにくいと思われる。。偉大な精神は、世間的な対話よりも、しばしば独語を好む。自分と同時代の流儀や見解などを全く無視し、彼らがほめそやすものを軽蔑する。この高慢さを抜きにしては、偉大な人物はありえない。みじめな宿場で一夜を過ごす高貴な旅人であり、夜が明ければ、彼は快活に旅を続けて行く。腕利きはカネと名誉のために働く。天才はむしろ後世に思いを向ける。未来を見て居る。

以前、30代の訪問看護師に1970年代の世相と当時何が流行って、世の中の状態がどうだったかを話した。例えば音楽に付いてだ。「1970年代、当時はブルースが流行って居たよ。丁度、今で言う処のヒップホップ見たいにね。」しかし声高く笑って話を聞いて居ない。人によっては、自分の生まれる前の事なんか、興味が無いと言う人も居る。しかしそう言って居る人たちに言いたい。若いうちはすぐに時が経つ。すぐに歳老いて行くのですよね。それに過去の事は知って居た方がいいのですよ。何かと後々為に成るのですよね。皆さんにも言って於くが。1970年代はエポック・メーキングだった、即ち、大量生産時代の到来である。

 

ニッポン高度成長物語

 

日本に於ける消費社会の成立は,1970年代初頭の高度経済成長の終焉に見いだす事が出来る。 日本の「初期近代」の到達点である高度経済成長期に於いては,消費者の欲望は,有限なものとして捉えられて居た。それに対し,高度経済成長の終焉後の「後期近代」においては, 消費者の欲望は操作可能なものと捉えられる様になった。  高度経済成長期は,「経済成長」と言う「大きな物語」が消費者の消費を動機づけて居た。 この「経済成長」と言う「大きな物語」は,多くの消費者にアメリカ的なライフスタイルへの憧憬を抱かせ,消費への欲望を喚起した。その象徴が,家電製品をはじめとする耐久消費財の消費である。 いわゆる三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)の普及率は,当時の一般家庭の生活水準から考えれば高価な商品であったにもかかわらず,1950年代末から1960年代にかけて爆発的に普及して行った。1955年には洗濯機が約4%,テレビと冷蔵庫は1%にも満たない普及率だった。しかし,1960年には洗濯機45%,テレビ54%,冷蔵庫15%に激増した。 特に,テレビの受信率の爆発的な増加によって,アメリカ的なライフスタイルへの憧憬と言う価値観が人びとに大量に供給される様になる。と言うのも,1960年代前半までのテレビ放送を支えて居たのは,アメリカから輸入された大量の番組であったからだ。アメリカ製の人気ホームドラマが映しだす豊かな生活のイメージ が,「経済成長」の理想像として,人々に供給されて居た。 その様なアメリカ的な豊かな生活と言うイメージは,洗濯機や掃除機,冷蔵庫などの様な家電製品によって,主婦の家事労働からの自由を達成し,「家庭の民主化」を実現出来ると言った価値観を供給した。その結果,多くの消費者は消費への自由の欲望を喚起された 。 この様に,「経済成長」と言う「大きな物語」は,人びとにアメリカ的なライススタイルへの憧憬に裏づけられた社会的な階層の上昇 と「上流階級」への欲望を抱かせる事によって,「消費への自由」へと動機づけを行って居た。

 

1966 昭和東京

 

 

そして人々は,「消費への自由」を通じて,生活水準向上への自由を追求して行ったのだった。 しかし,高度経済成長にも限界が訪れる。と言うのも「経済成長」と言う「大きな物語」は、そもそも消費者の欲望を急速に満たす事によって,アメリカ的なライフスタイルへの憧憬を希薄化すると共に,社会的な階層の差異を解消して行く事を最大の目標として居たからだ。 有限な素材たる消費者の欲望を源泉とする大量生産による価格の引き下げは,需要の拡大を進め,資本の蓄積を生み出す。そして,資本の蓄積は大量生産の合理化を推し進める。大量生産の合理化と,さらなる技術革新をおこなう事によって「生産への自由」を阻害するものを不在とする「消極的自由」の環境を確保しつつ, 「経済的欲望への自由」をさらに追求する。 その結果,生産力が成熟する事で,過剰生産に陥り,消費は飽和点に達して仕舞う 。現 に,耐久消費財の普及率を見ると,1970年までには冷蔵庫や洗濯機は90%を超えており,1975 年までには95%の世帯で冷蔵庫,掃除機,洗濯機,カラーテレビを所有して居た事が確認出来る。 人びとの生活水準の向上で社会的階級の差異等が縮小する事によって,消費者を動機づけて居た。アメリカ的なライフスタイルや「上流階級」への憧憬と言った「大きな物語」も機能不全に陥る事になる。そして,消費者を「消費への自由」へと動機づける「大きな物語」も 凋落すると共に,有限な消費者の欲望も枯渇して仕舞った。

 

Japan in the seventies (2) 70年代の日本

80年代の日本

 

 

この様な消費者の欲望の枯渇と「大きな物語」の凋落を受けて,新たな差異の創造に基づいて,消費者の欲望を創出する消費社会が 出現する事となる。 高度経済成長期における単一の商品の大量生産から,差異化にもとづく多品種少量生産へと消費社会の変容と自由の所在転換を行なう事により,「機能性や合理性を基盤とするモノ作りの社会」から「消費者の欲望を創出する社会」へと転換された。 生産者は差異化された商品,記号化された商品を生産する事によって,消費者の欲望を創出する。それを通して,自らの「積極的自由」 を行使出来る「消極的自由」の環境を創出する事によって「経済的欲望への自由」を拡大して行く事になる。 消費社会に於いては,消費者の欲望は差異を生産する事によって操作可能なものとして捉えられる。それゆえ,消費社会に於いては限界効用よりも「限界差異」が追求される。生産されるモノも,「使用価値」と言う視点からは捉えられない「超機能的なモノ」が大量に生産される様になる。そしてモノは,他の物との差異の体系のなかで,「記号」としての価値を獲得して行く事となる 消費社会における自由消費社会における消費者の最大のテーマは, 「消費への自由」を通じた自己アイデンティティの形成であると言える。「大きな物語」が凋落した後期近代の社会に於いては,個人が自らの物語を紡ぎだし,自己アイデンティティを形成し,維持する事になるからだ。 例えば,リースマンは『孤独な群衆』の中で,差異の生産の軸になる「製品差」と似た様な考え方が,パーソナリティの生産に付いても当て嵌まると言って居る。つまり差異化は生産の場のみならず 消費の場に於いても重要な要素となり,パーソナリティや自己アイデンティティの形成にも影響を与えると言う事だ。 また,1980年代のパルコや西武百貨店の広告に於ける,「女の時代」「じぶん新発見」「裸を見るな裸になれ」と言ったキャッチコピーに象徴される様に,消費社会では消費する事の意味と生きる意味(自分らしさ)とが密接に結びついて居る事が確認出来る。 80年代当時。吉本隆明が広告塔となり「コム・デ・ギャルソン」を颯爽と羽織り、埴谷雄高などから。「哲学者が時代と寝てどうする。」と強く批判を浴びせられる論争があった。。。

 

 

井上雅人「コム・デ・ギャルソン論争とアンアン革命――埴谷雄高と吉本隆明の論争にみる、プレタポルテへのまなざしの変化」

 

 

私は、時代の流れには「波」があると思って居ます。あくまでも「個人的な感覚」ですが、10年毎の時代のトレンドを以下の様に見て居ます。

1980年代 『金融』の時代
1990年代 『IT』の時代
2000年代 『環境/ECO(エコ)』の時代
2010年代 『ヘルスケア』の時代
2020年代 『AI・ロボット』の時代

此処でひとつ補足して於たいのは、上の記載は、それぞれの時代に於いて「何が重要であるか」ではありません。「ヘルスケア」や「環境」と書いてある事からも分かる通り、上に記載してあるものは、全て、「今も、これまでも、これからも」、時代に関係なく、重要なものです。では、上の年代毎の分類は何を意味して居るのでしょうか。これは、それぞれの時代の中で「ビジネスと言う切り口で見た際に、拡がりを見せる業界」を記載して居るものになります。

時代は変化している

【1980年代】特に「プラザ合意(1985年)」以降、金融システムが一気にその複雑化を増しました。

【1990年代】「一人に一台のコンピューター」や「インターネットの存在」が当たり前になりました。「Windows 95」の発売も象徴的な出来事です。

【2000年代】1997年の京都議定書に基づく排出権取引が始まったのは2008年です。ハリウッド俳優のレオナルド・ディカプリオが、高級車ではなくプリウスでアカデミー賞の会場に登場して話題になりました。アル・ゴアが、環境活動を認められIPCC(気候変動に関する政府間パネル)と共にノーベル賞を受賞したのもこの年代です。

【2010年代】世界の中でも特に少子化・高齢化が進んでいる国である日本に住む我々は、いつもニュースで「国の医療費40兆円」という話を聞かされて居ます。アメリカ人は2010年代に、「オバマケア」と言う言葉を何回聞かされた事でしょうか。増える人口、延びる寿命、それらを支える制度としての「医療」。2010年代ほどヘルスケアがクローズアップされた事はありませんでした。

 

 

 

1991 新宿 東口と西口の散策散歩 Shinjuku Lunchtime Walkabout East and West 910523

渋谷駅再開発2013→2020~シブヤは7年で此処まで変わった~

【4K】[東京散歩] 渋谷 2020/04/11 [Tokyo Walk] Shibuya

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聖書の言葉から抜粋、、
 
『愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』
 
(聖書)Ⅰヨハネ 4:7~8

 

【VLOG】2022年8月某日、ライブ直前の何の変哲もない日。

 

 

短いブルースハープ・ソロ

 

 

 

「深いい言葉・・・・」

 

君は、未来に向かって準備をして居るか?

未来が不明瞭で、不安な貴方。

まずは身近にある、やるべきことを、真摯にやれ。

同じ場所に居ても地団駄を踏むだけでは

先に進まない事に、いい加減に気付け。

何が何だか解らなくても。ひとまず行動する、

そんな推進力を持てるヤツに、運命の女神は微笑む。

 

未来に恐怖を抱き「来ないで」と祈ってしまう君。

その恐れの正体は何だ?年齢か?自分が失われていく感覚か?

案ずる事はない。本来なら歳を重ねていくとは素敵な事だ。

僕を見ろ。

年々、出来る事も、その範囲も、手にした成果も、増えて居る。

 

「自分に自信が無いから出来ない」「歳を取ったら出来ない」

そんなのはただの言い訳だ。

『自信』は、自らの行動をひたすら積み重ねる事で生まれるもの。

そして正しい努力を続けて居れば歳を重ねる事は怖くない。

美しく歳を重ねた分だけ人の色気や雰囲気が滲み出る。

 

言い訳ばかりして居る、そこの君。

その間にも、時間は刻一刻と過ぎ去る。

今日を生きられなかった人も居るんだ。

すぐさま行動に移せ。未来の自分が後悔しない様に。

 

人生の最も必要なのは「幸福」だ

そして、人生をより豊かにしてくれるものが富であり、

富を得るために必要なのが『成功』だ。

もし君が、幸福と富の両方を手にしたければ、

君は「成功」ではなく、「成幸」を手にする必要がある。

富があるだけでは「幸福」だとは言えない。

いくら富を持って居ても。周りに信頼できる人間が一人も居ず、

孤独に苦悩しながら生きて居る様な金持ちの人間や、

金を稼ぐ度に日々を過ごすストレスで人生の楽しさを見失い、

絶望して居る経営者も居る。

 

 

人生において。心から幸福を感じる為には、

おまえ自身の「美学」「思考」「行動」「発言」「感情」と言う、

生きる上で大切な5つの要素が

ハーモニーを奏でて居る必要がある。

このハーモニーが崩れると、幸福を見失う。

美学に基づく思考にそぐわない行動。行動の伴わない発言。

それらの、辻褄が合わない不協和音から派生する負の感情。

これらが存在する陰り、ストレスは抱えても。

「成幸」のハーモニーを総出る事は出来ない。

美学に基づく思考によって導き出される、

自分がするべきベストな行動。

行動が伴い、自信に満ち溢れた発言とコミュニケーション。

何の後ろめたさも無い、充実感に溢れた日々の感情。

 

幸福と富、どちらが掛けても人間はストレスを感じる。

一度きりの人生。

君なら、そのどちらも手にすることが出来るはずだ。

             GACKTの著作「GACKTの勝ち方」より抜粋、、

 

===『哲学者・吉本隆明』===

数十年前、当時のニューアカの中心人物だった浅田彰や中沢新一、また彼らの後見人的存在の蓮実重彦や柄谷行人らも含めて、彼らは吉本隆明という巨大な存在に対する思想的カウンターパートとして出てきた側面があり難解なものをいかにわかりやすく説明するかと言う事が一つの流行になって居た事もあった。吉本隆明は知の巨人でした。 

 吉本隆明。

詩人、評論家。東京に生まれる。東京工業大学電気化学科卒業。いくつかの会社を組合運動で追われるが、その間、戦中世代として受けた敗戦の衝撃からの精神的転機を図る思想劇ともいうべき、詩集『固有時との対話』(1952)、『転位のための十編』(1953)、評論『マチウ書試論』(1954)などを発表して注目された。ついで、戦後革命とその挫折(ざせつ)を弾劾する論拠として、戦前戦後のマルクス主義文学者の戦争責任を糾明する評論『文学者の戦争責任』(1956)から、さらに転向の原因を権力の強制による屈服とする通説に反して、大衆からの知識人の孤立として剔抉(てっけつ)する評論『転向論』(1958)に及ぶ、非共産党左翼の思想と論理の確立に努めた。安保闘争に際して「全学連」を支持し、1961年(昭和36)「自立」を掲げ、谷川雁、村上一郎(1920―1975)と『試行』(1964年に個人誌に切り換え)を創刊。「大衆の原像」論の視点から『日本のナショナリズム』(1964)、『自立の思想的拠点』(1966)の刊行を経て、それを『共同幻想論』(1968)の刊行によって結実する一方、文学における言語表現の分析『言語にとって美とは何か』(1965)、心的世界の解明『心的現象論序説』(1971)の刊行によって既成のプロレタリア芸術論を排した。その後、多様化した評論活動として、『源実朝(さねとも)』(1971)、『源氏物語論』(1981)等の古典文学論、『最後の親鸞(しんらん)』(1976)、『〈信〉の構造』(1983)等の宗教論、『悲劇の解読』(1979)、『宮沢賢治』(1989)等の現代文学論、『マス・イメージ論』(1984)、『ハイ・イメージ論I・II』(1989、1990)等の大衆論と表現論を融合する取組み等、文学と思想の浩瀚(こうかん)な著書によって、不断に革新の展望を開いた。

吉本隆明、全著作。

『吉本隆明全著作集』15巻・続3巻(1968~1975、1978・勁草書房) ▽『吉本隆明全集撰』全6冊(1986~1988・大和書房) ▽吉本隆明研究会編『吉本隆明が語る戦後55年』1~12(2000~2003・三交社) ▽『吉本隆明全集』38巻・別巻1(2014~ ・晶文社) ▽『共同幻想論』改訂新版(角川文庫) ▽『心的現象論序説』改訂新版(角川文庫) ▽『マチウ書試論・転向論』(講談社文芸文庫) ▽『源氏物語論』(ちくま学芸文庫/洋泉社・MC新書) ▽『ハイ・イメージ論1~3』(福武文庫/ちくま学芸文庫) ▽『宮沢賢治』(ちくま学芸文庫) ▽吉本隆明著『わが「転向」』(文春文庫) ▽『定本言語にとって美とはなにか1~2』(角川文庫) ▽鮎川信夫著「吉本隆明論」(『吉本隆明詩集』所収・1958・ユリイカ) ▽磯田光一著『吉本隆明論』(1971・審美社) ▽菅孝行著『吉本隆明論』(1973・第三文明社) ▽埴谷雄高著『吉本隆明を「読む」』(1980・現代企画室) ▽好村冨士彦著『真昼の決闘――花田清輝・吉本隆明論争』(1986・晶文社) ▽神山睦美著『吉本隆明論考――了解を基礎づけるもの』(1988・思潮社) ▽松岡祥男著『吉本隆明と吉本ばななのあいだ』(1990・大和書房) ▽鷲田小弥太著『吉本隆明論――戦後思想史の研究』(1990/増補版・1992・三一書房) ▽斎藤慎爾編『埴谷雄高・吉本隆明の世界』(1996・朝日出版社) ▽吉本隆明・吉本ばなな著『吉本隆明×吉本ばなな』(1997・ロッキング・オン) ▽芹沢俊介著『主題としての吉本隆明』(1998・春秋社) ▽小浜逸郎著『吉本隆明――思想の普遍性とは何か』(1999・筑摩書房) ▽岡井隆著『吉本隆明をよむ日』(2002・思潮社) ▽竹田清嗣著『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』(講談社学術文庫)』

 昔買った、「共同幻想論」のCD-ROM.

✳︎「共同幻想論」とは。

共同幻想論とは、幻想としての国家の成立を描いた国家論である。当時の国家論は、集団生活を成立させる機能として国家を作ったと言う社会契約説や、国家とはブルジョワジーが自分の既得権益を守るために作った暴力装置であるというレーニン的な国家論が一般的であった。つまり、国家とはルール体系であり、機能性を重視したシステムなのである。しかし、吉本は、国家とは共同の幻想であると説く。人間は、詩や文学を創るように、国家と言うフィクションを空想し、創造したのである。これはルイ・アルチュルセールのイデオロギー装置論に似ている。人間は自分の創り出したフィクションである共同幻想に対して、時に敬意を、時に親和を、そして時に恐怖を覚える。特に、原始的な宗教国家ではこれは顕著である。その共同体で、触れたら死ぬと言い伝えられている呪術的な物体に触れたら、自分で本当に死ぬと思い込み、心的に自殺すると言う現象も起こりうる。個人主義の発達した現代でも、自己幻想は愛国心やナショナリズムと言う形で、共同幻想に侵食されている。共同幻想の解体、自己幻想の共同幻想からの自立は、現在でもラジカルな本質的課題であると吉本は指摘している。

吉本は血縁・氏族的共同体(家族)が、地縁・部族的共同体(原始的な国家)に転化する結節点として、兄妹・姉弟の対幻想に着目している。兄妹・姉弟の対幻想は、夫婦の対幻想とは違って、肉体的な性交渉を伴わない対幻想なので、いくらでも無傷に空間的に拡大できる。兄妹・姉弟の対幻想が、他家との婚姻と言う形で空間的に拡大しているため、国民は心理的な一体感を共有し、幻想としての国家が成立するのである。逆に言えば、原始的な国家の成立は、兄妹・姉弟の近親相姦が自覚的に禁止されたときに求められる。中上健次の「国家は白昼に突発する幻想化された性なのだ」と言う言葉は、このことを指している。

また、吉本にとって、高度な経済力や科学力を持っていた近代国家である戦前の大日本帝国が、やすやすと天皇制と言う、宗教性の強い古代・中世的な政治体制やイデオロギーに支配されてしまったことは大きな難問だった。吉本は、宗教・法・国家はその本質の内部において、社会の生産様式の発展史とは関係がないと主張し、政治体制は経済体制に規定される(唯物史観)とするロシア・マルクス主義を批判する。その試みは、吉本にとってロシア・マルクス主義からの自立であって、少年期に骨の髄まで侵食された天皇制と言う共同幻想を意識化し、対象化し、相対化しようと言う試みでもあった。

 

 

黒い色は重く感じる。白い色は軽く感じます。重力的に言うと黒は重く感じるので下になり。白は軽く感じるので上になります。何の話かと言うと、服の話です。だから普通は黒い色のパンツを履いて上は薄い白系のものを着るといいのだそうです。私は何時も最近は黒いYシャツに黒いパンツに黒いべストを着て居ます、夏なので、薄めのものと厚手のロングベストを両方持って居るので。今までは薄手のロングべストでしょうか・・・。春先とか秋口には厚手のロングベストを着ますが。それと白いYシャツにベスト、そして感動パンツかカーゴパンツでしょうか?それが夏服です。そして秋口にはデニムバッチ・ジーンズにミュージシャンが印刷されているTシャツに、デニムバッジ・シャツを上着にして着て居ます。私は白いジーパンを1本だけ持って居るのですが、何時も履くのは黒いUNIQLOの感動パンツです。それを2本しか持って居ませんが。取っ替え引っ替え履いて交互に洗って居ます。もう1本購入したく思うのですが。何時もサイズが売り切れでありません。

UNIQLOは本当に安くて素材の生地もいいので、感動パンツはいいですよね。あとジーパンかな?UNIQLOのものです。見た目はジーンズに見えるけど、伸縮する素材で出来て居る変わったジーンズです。それとまだ購入して履いては居ませんが、少しカーキ色がかったクリーム色のズボンです。此れもUNIQLOから購入しました。今年の春先にはGUから左右色が違うデニム・ジャケット。半分薄いブルーと半分紺のものです。これを購入しました。先ほど言った白いズーンズは白いジージャンと2年前に購入しましたが。如何にせん、あれからズボンのサイズがLLかXLに成って仕舞ったので。恐らくLサイズなので履けないでしょうね。押入れの奥の方に入って居てどこにあるのか分かりません。それと3年前の秋口に購入した、まだら模様のドレーブニット・コートを持って居ます。2年前迄はよく着て居ましたけどね。あとロング・マキシ・トレンチコート、日本製だと思いますよ。そしてヨウジ・ヤマモトブランドのものと、そっくりのチェスターコート。(本物は高くて購入出来ませんでした。)

それと他にアート・チェスターコートと、まだら模様のチェスターコート。それから秋口と春先に着られるヨウジヤマモトの薄手のコート。ジャケット4着、うち1着はヨウジヤマモト。ああ、そしてショートコート。ラシャ柄のもの2着と普通のもの2着。バーバリの高級コート1着。デニム・ジャケット1着。ミリタリー・ショートコート1着。ミリタリージャケット1着。まあ、書いて見たら可成り持って居ますけど(^_^;)、、ほぼコートと上着は此れだけ持って居ますね。。。まあ、私はTシャツは殆んど着ないんですよね。だから、何時も黒いYシャツですよ。夏も冬もね。此間ヘルパーのおばさんから言われたけど?暑く無いって?、、「何時もYシャツじゃ無い?何でTシャツ着ないの?」と言われて居ますけど・・・・。前の美容室の大バカヤローの美容師ならず理髪師からは反対に「何でTシャツなんか着て居るの?」と言われたしね、

人の言う事を一々間に受けて居たら、どうしようもありませんよね。私は私なのだから好きな格好をします。誰がどう言おうとね。前に中華飯店に初めて入った時に。私の長髪と着て居るものを見て、ウエイトレスのおねえちゃんが何故か「ロックスターだ!!」?と言って騒いで居たり。その次には喫茶店で食事して居たら。今時だと思うけど、その喫茶店は部屋の中が薄暗かったのだけども、1眼レフのデジタル・カメラのシャッター音とフラッシュ焚かれて写真撮られて?一体なんだろ?と思って居たら。どうやら雑誌の喫茶店特集の記事の写真だったらしい。そして「あいつなんだ?芸術家か?、いや、ミュージシャンだろ?それか物書きかな?」とかヒソヒソ話されて仕舞い。人は何思うか、、そこの喫茶店は可也此処の界隈では有名な所ですから。沿線沿いの喫茶店として雑誌によく載る事があります。もし雑誌見て居て、喫茶店でポークジンジャー食べながらアイス・カフェオレ飲んで居た。私の写真を見つけたら、まあ、、よろしくです。全身黒ずくめですから一眼で解りますよ。このblog読んで居る人なら、顔はもう知って居るでしょうからね。

 

眠たくてうたた寝して居るkiyasume.....。

コメント一覧

kiyasume
nekono-hironyaさん、書き込み有難う御座います。
そうですね、、エアポート・シリーズの一編でしたね。
エマニエル夫人のシルビア・クリステルが恋人の
役で出ていましたよね。コンコルドに亀裂があって、
最後まで残っていたドロンも皆んながだしゅつした
後にだしゅつしたのですよね・・・・・・・・。

また来て下さいね。宜しく.....。
nekono-hironya
こんばんは。
アランドロンは、エアポート80で超音速旅客機コンコルドのパイロット役してましたね。
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