昨日は、紀伊国屋書店に行った。
昼はファーストキッチンでハンバーガーとカフェ・ラテを食べました。。。
久々、自撮りです・・・豚だ、豚だ、お前は豚になるのだ〜〜。嫌だ、嫌だ!!
kiyasumeが高校の頃書いた下手な漫画です。_φ( ̄ー ̄ )
しかし、押井監督の最新作の情報は秘密厳守らしく、関係者から、なかなか漏れて来ないですね・・・・でも、もうそろそろ公開だろうと思います。
唐突ですが、此れだけアニメが普及しても、未だに「マンガじゃないか!」と云う輩が居る見たいなので、、、此処でアニメーションとはどう云う成り立ちで構成されて居るのかと云う事をちょっと説明して置きます。
本やマンガと違って映画と云う物はお客さんが観る時間をコントロール出来ないものです。だから、その時間軸その物を演出家が、コントロールしない限り作品に成らない。演出家の最大の仕事は時間軸をいかに操作するかに掛かって居ます。面白い映画だなと感じるかどうかは如何に時間が切り取られているかによります。他人の人生を一番見やすいアングルで見やすい時間で一番良い時間帯を選んで編集をしてやる、劇映画とは要するに他人の人生を2時間成りに圧縮したものです。
こう云った事から、日本のアニメは一つの芸術的様式を手に入れた事に寄って、映画であると云えると思います。其れから、最近思って居る事だけども、日本のリミテッド・アニメの要とも云える出崎 統監督のハーモニー等に代表される、モンタージュ的手法、、、
要するに、エイゼンシュテインのモンタージュ論は、当時流行し始めたソシュールの構造主義の影響を受け、台本の言語的要素を映像に置き換えて編集していく手法であり、エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』の「オデッサの階段」がその典型とされるのだけども。その他にもグリフィス・モンタージュが有り、此れはフロイトの影響を受けたコンスタンチン・スタニスラフスキーの演出論に基づくものであり、俳優たちを特殊な状況に陥れた実際を、複数のカメラを用いたマルチ・カヴァレッジによって同時撮影し、その時間尺を変えることなく多面的な視点を取り入れて線形に編集していく手法であり、グリフィスの『イントレランス』のスペクタクルシーンがその嚆矢とされるけど、日本では前者はアニメ映画に応用されていると思いますし、後者は、例えば黒澤 明監督の「七人の侍」等で可也な効果を上げて居ますよね。エイゼンシュテイン・モンタージュは黒澤監督は、「わが青春に悔いなし」とかで使ってますが、本人曰く、モンタージュは余り良い方法では無いと批判してましたね。実写映画では、成程、使い様によっては効果が良くない方面に行く事も有るのでしょうけど、絵コンテを基本に生み出されるアニメにとっては、効果的に使えるのでしょうね。
此の文を読んで、モンタージュ論に興味を持たれた方は、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」と黒澤 明の「七人の侍」をご覧に成られて観ては、如何でしょうか・・・「そんな物はとっくに観ているよ!!」という方も居られると思いますが、あくまでも余り映画を知らない方向けの発言ですので、御容赦の程を。
アニメで云えば、出崎 統監督は絵コンテで演出する方法で、押井 守監督はレイアウトで演出が決まると考えている見たいですね。
「レイアウトとは要するに画面(カット)の設計図の事で有り、“レイアウトシステム”とは此の設計図を基本にして映画(正確にはフィルム)を製作する方法の事です。設計図としてのレイアウトには、色々な情報が込められて居ます。画面の広さ、背景と動画(セル)を統合させるパース、想定されるレンズの種類、カメラワークを指定する為のフレームや目盛、美術スタッフの為のbookの指定、色彩設計の為の明度の指定、等々・・・・
其れは各部署に分かれて作業するスタッフに取っては、作業の基準となる仕様表で有り、演出家にとっては演出する作品を撮影する前に検討する為のシュミレーションです。映画空間と云う言葉はあくまで概念に過ぎず、スクリーンに写された世界は何処まで行っても平面に過ぎません。実写映画はその平面内にフォーカスと云うレベルを持ちこみ、情報量の粗密に寄ってごく自然に懐疑的な奥行き感を成立させてますが、(特殊な技法を除いて)線と面の表現でしかないアニメは唯、レイアウト上の工夫によって此れを獲得するしか有りません、勿論、すべてのアニメ作品が奥行き感を必要とする訳では有りませんが、平面的公正を基調とする古典的、もしくは芸術的な<アニメーション>ではなく、劇映画としての<アニメ>を目指すなら、此れは避けて通る事は出来ない課題となります、レイアウトの目標、その努力の大半は実はこの「奥行きの演出」に向けられて居ると云っても過言では有りません。」(押井 守談)
出崎監督は貸本マンガ時代から、マンガを描いてきた事も有り、多くのアニメーション監督達は、例えば、宮崎 駿監督はアニメーターだったし、絵コンテの段階で、可也、濃密な演出をするのですが、押井監督は、絵が下手だと云う訳でも無いし(マンガ家としてもいけるのではと思うのだけども・・・)自身は絵が下手だと云って居て、あくまで映像作家の地位に拘って居る見たいに思えます。
まあ、少し、演出に付いて押井さんの言葉も引用して書いて見たのだけれども、、私は、映画的に観て優れたアニメが有ると云う事を知って貰いたくて、今回は書いて見ました。。。
映画監督 押井守 妄想を形にする ~新作密着ドキュメント~ (2008)
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最近、また、Bluesharpを買いました。。。
1847年創業、世界最古のハーモニカメーカーSEYDEL、 その「1847」の名のシリーズは、SEYDEL創業以来160年の技術と伝統の中から生まれた高品質なハーモニカです。 世界初、ステンレスリードの採用により、よりよいレスポンス、迫力のあるサウンド、耐久性を実現して居ます。
【SEYDEL(サイドル)】
HOHNER社創立10年前の1847年創業、164年の歴史を誇る世界最古のハーモニカメーカー。
しかし…、第二次世界大戦後、当時の東ドイツ政府によってサイドルの社名の使用が禁じられており、その存在は一般にはあまり知られて居なかった。
東西の壁が取り除かれて以降は再びサイドル名が使える様になり、品質の良さから世界中へファンを広げて行った。創業以来、ハーモニカは全てクリゲンタールの地で経験豊かな技術者によってハンドメイドで作られ、音色、レスポンスの良さ、共鳴音や丈夫な造り、吹き易さはプロ奏者から高く評価されて居る。注目はステンレス・スチール・リード! 通常はリード部分にはりん青銅などの合金が使われているが、ステンレス・スチールは音色の良さと強い耐久性を合わせ持って居る。注目のハーモニカメーカーです。SEYDEL社のBluesharpは別名ハーモニカのベンツとも呼ばれている、高級Bluesharpです。
しかし、使って見れば解りますが、その吹きやすさには脱帽します。
私は以前にSolistと云うモデルを購入して居たのですが、今は生産中止で、替わりにSolist・proと云う機種が発売に成って居ますが、今回は持って居るharpの内、keyDが駄目になったので、それを買おうと思ったのですが、丁度、keyDが売り切れのため、Session Steelと云う機種を購入しました、コムが木製ではなく、プラスチック製なのですが、パワフルに鳴ります。
最近、時間の余裕が少し出来て来たので、harpの練習に充てて居ます....
しかし、忙しく中々練習の時間が取れません、ですので、スケール練習とかはせずに、CDやら音源に合わせてアドリブを吹くと云う遣り方なのですが、それでも、日々遣って居れば成果は出てくると思うのですが・・・・・・
kiyasume's・Blues Harmonica |パーカーズ・ムード......。1分半です。
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毛利甚八著『白土三平伝 カムイ伝の真実』
『決定版カムイ伝全集』に時折載っていた「白土伝」14回分に加筆修正し、さらにほかのルポやエッセイをあわせ、最終的に白土本人と読み合わせて仕上げた本だと言う。
白土三平については、四方田犬彦『白土三平論』(作品社 2004年)があるが、此方は作品論中心。白土は、ほとんど会う事も難しい作家で、直接長期取材しての評伝は、おそらく此れが初めてだろう(四方田も白土には会っているはずだ)。マンガ研究にとって貴重な資料である。
毛利さんはとても真面目な人だ。マンガ原作者としても『家裁の人』で知られる。彼は白土に「弟子入り」のような状態となり、白土のもとを訪れ、一緒に魚を釣ったり、まるで『カムイ伝』に出てくるような自然相手の暮らしを教わって居たらしい。その心酔ぶりは本書を読めば明らかだが、そう言う書き手でなければ立ち入れない処まで入って、白土の生い立ちや戦後の政治過程との関係までを描き出してくれる。同時に、書いてしまう事で白土から出入りを禁じられるのではないかという不安についても話して居た。そういう微妙な心理も映した、愛情あふれる本だ。
興味をひかれる部分は多くあるが、プロレタリア芸術家だった白土の父の文化政策をめぐる日本共産党との行き違いと、白土の父への反発についての記述は、日本の政治過程と白土作品の関係を見る時重要な背景だろうと思う。白土自身の言葉として〈親父は芸術が政治に従属すると、芸術は堕落すると考えて居たんだ。〉(68p)と言い、共産党入党を父に相談すると、父は〈政治家になって革命をする気なら入党してもいいだろう。ただ絵描きになるなら入党しないほうがいいぞ、俺もいろいろな面で苦労したからな〉(78p)と言ったと言う。「血のメーデー」に参加した52年頃の話らしい。それに対し白土は〈親父の言葉は正しかったと、今は思う〉(同上)と語って居る。こうした記述は、日本の戦後マンガと戦後思想ことに左翼思想との関係を示す示唆的なものだし、マンガ言説の勃興に寄与した作家・白土の作品形成にも重要な資料となる。また、「血のメーデー」に参加した白土自身の観察も生々しく回想され、それが『忍者武芸帳』や『カムイ伝』に役に立ったと語られている(76p)。忍者物については〈忍者ものは五味康祐の『柳生武芸帳』を貸本屋で借りて読んで、こう言う世界もおもしろいなぁと描いて見たものだった〉(85p)との証言があり、また立川文庫を読んで居た事も述べている。ただ、具体的な忍法の内容に幼少期の自然相手の格闘などが生き、独特な白土忍法を生みだした側面も確認できる。忍者物が、小説、マンガ、映画によってブームとなった時、戦前からの尊王思想の復活から反権力思想の反映、戦後のニヒリズムの投影など多くの戦後的な特徴が、GHQ規制からの解放と共に盛んになった時代劇物として表面化したと思われる。白土マンガは、その中でも忍者に反権力行動を見るアクティブな思想として、あらためて見る事が出来るだろう。それだけに、白土が数年の沈黙をへて「神話伝説シリーズ」へといたる70年代の、日本の歴史的思想的変化との関係もまた興味深い。
白土三平という、戦後マンガ史において重要な位置を占める作家についての直接取材をもとにした、こうした評伝が出てくれた事に感謝したい。
ソニー・クリス(Sonny Criss)ことウィリアム・クリス(William Criss, 1927年10月23日 – 1977年11月19日)は チャーリー・パーカー直系のバッパーです。
彼のアルトサックスの音は、勿論パーカーに似ていますが、より軽快な感じです。
しかし不思議な事に、その軽い音の中に何故か哀愁が漂うのです。
その哀愁味は後期になるほど強まるのですが、今日紹介したいのは1956年(クリス28歳時)の録音です。 ここでもさりげなく哀愁味を漂わせています。
このアルバム、クリスの初リーダー作に近い、出世作となったものです。
クリスのいいアルバムは他にも勿論あるのですが、このリーダー・デビューとも言える盤にクリスの美点が最初からぎっしりと詰まっていたように思えるのです。
(3.5.がクリスのオリジナル曲で他は全ていわゆるスタンダード曲です)
ソニー・クラーク (p)
ルロイ・ヴィネガー (b)
ローレンス・マラブル (ds)
●1956年2月24日 L.A 録音
曲を聴きましょう。
1曲目の曲です。
Summertime
いかがでしょうか?
この曲〈サマータイム〉の演奏としてはやや早めの演奏でしょうか?
パーカー死の翌年の録音でもあり、間違いなくパーカー派の演奏なのですが、その音色にクリスらしさが漂っていますね。
ピアノのソニー・クラークもまだ無名時代ですが、後に「哀愁のピアニスト」と呼ばれ31歳で早世したピアニストです。
引き続き2曲目に行きましょう。
Memories Of You
これは完全なバラード演奏です。
フレージング、早い運指で、たくさんの音符をたたみかけるところなど、パーカーの影響が大きいのですが、バラードの雰囲気がクリス独自の世界を作りつつあるように感じます。
パーカーをただ追随している訳ではないと感じる演奏です。
Blue Prelude
さて、筆者はこの〈ブルー・プレリュード〉の短い演奏が一番好きかも知れません。
パーカーの圧倒的な影響下にありながらも、繊細さと物悲しさーー即ちクリスらしさーーをはっきりと表明する演奏に聴こえます。
後の〈Saturday Morning〉の名演に通じるものを感じるのです。
◎11、の「ハウ・ハイ・ザ・ムーン 」では、何も考えずにパーカーのような演奏をして居ます!
クリスは50歳で自殺しています。
日本では長い間「初来日を直前に控えた謎のピストル自殺」と言われて居ましたが、
現在Wikipediaでは「病苦(胃癌)による自殺」と断定されて居ます。
今日紹介したアルバムの後、明るい音色を生かした演奏でヒットアルバムも出しましたし(〈Up up and Away〉など)、後年の〈Saturday Morning〉のような情念に訴えるようなアルバムも作った人でした。
- まずは『ただレコードが聞ければ良い』と言う、いわゆる興味本位でプレーヤーを購入する場合にオススメのプレーヤーを教えて置こうと思う。
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■2:譲り合いの精神を持とう
■3:レコードをひろげて置かない
■4:人の買ったレコードを評価しない
TOKYO VINYL #001 (東京 × Creative Director) / 小松正人 (Komatsu Masato)
HMV渋谷店復活!!! 早速行ってきたよw
輸入新品レコードを買う前にコレだけは知っておこう!
【How to 個人輸入】カナダのAmazonで買ったらレコード7枚で1万円も得した件
私は、最近、カセットテープに凝って居る。昔は高校の頃は、カセットテープのケースに自分で写真でコラージュしたものを、表紙にして居た。結構うまく出来て、市販のテープみたいに見えるので、高校の同級生たちに見せると、たちまち賛否両論が起こった。ある人は「よく出来て居て自分も欲しいからケースの表紙の作り方を教えてくれ。」またある人は「お前が作ったテープを俺にくれ。」また反対に「カセットテープの表紙にアーティストの写真なんかコラージュしやがって気に喰わない。」または「幼稚だ。バカらしい。」人は千様万別だ。1970年代から1980年代に掛けては手作りのものを結構皆んな作って所有して居た。私はブルース・ギタリストでシンガーだった「フレディ・キング」のレコードを録音して、当時音は悪かったが、ロック・ミュージシャンやらブルース・ミュージシャンのライブ音源がAMラジオで放送して居たが。私はもれなく毎週放送される音源を楽しみに聴いて、それらのライブ音源をラジカセで録音してコレクションにして居た。
サンスイステレオラジカセと録音したカセットテープを紹介!
FM東京やNHK-FMで放送されるライブ音源。唯一、日本でブルースのレコードを掛けて放送した、音楽評論家の中村とうようさんがディスク・ジョッキーを務めた「ブルース・アワー」。テレビの音楽番組、確かフジテレビだったか、夕方5時に放映される「ザ・ロック」「ミュージック・アワー」などは私が愛してやまない貴重な音楽の音源を流してくれた。高校当時は、学生の身分であるから、金は持っては居ない。私はカセットテープを買い込み、ラジカセで音楽を録音して、それを大切に所有して楽しんだ。そして私はそれだけでは物足りずに高円寺にあるブルース喫茶に足繁く通った。そしてそこで日がな一日、ブルースを聴いて居た。マスターとも友達になった。また、音楽通の人たちとも交流が出来た。私は乏しいお金でレコードを月に2枚ぐらいずつ購入して居た、殆どがブルースのレコードだった。高校と大学の数年間は、今思うとバンドをやって居た事もあり。意固地だがブルース一筋だった。勿論ロックも聴いては居たが、私にはブルースの方が魅力があったのだ。矢張りブルース喫茶と言うだけはあって、ブルースに造詣が深いミュージシャンやら、大学生らが大勢来て居た。ある日、そのブルース喫茶で知り合った同じ高校生の友人が、自分の高校の担任の先生の家に行こうと言って私を誘って連れて行った。その教師の住んで居る家は平家の一軒家だった。友人に促されて、その家に入ると間取りが結構広く。8畳と10畳が2部屋の畳敷の3部屋が連なって居た。その8畳間に高級ステレオが置いてあり、その先生はヘッドフォンを掛けて、身体をクネらせ、大音響でブルースとロックを聴いて居た。知識も半端ではなく「カーター・ブラザーズのレコードは聴いた?」と聞いて来た。1950年代後半から1970年代に活躍して居た黒人のブルースバンドで長男のアル・カーターがギター、次男のジェリー・カーターがピアノ、三男のロマン・カーターが歌とベースを担当して居る。1949年にカリフォルニア州サン・ファーナンド・ヴァリーに移住し、1954年にバンドを結成し活動して居た。60年代はジェリーとロマンが兵役に就き活動を一時中断したが。1964年にアール・コールマンがプロデュースし、彼の持つレーベルに「Consider Yourself 」、「Southern Country Boy」を吹き込んだ。後者はJowelに買い取られて再発売され、65年に南部でヒットしました。その後もJowelにシングル盤を5枚程度吹き込んだ。思えば、今よりも当時の方が私はブルースを本格的に聴いて居た様です。そして私が「余りカーター・ブラザーズは聞いて居ない」と言うと「「Jowel盤」は聴かなきゃ駄目だよ。」と教えてくれた。
Carter Brothers Southern Country Boy
またアイルランドの白人のブルース・ロック・ギタリストが作った「taste」も聴いてご覧と教えてくれた。その高校教師は可也な音楽通でした。8畳間と2間の10畳間にはぎっしりとレコードが置いてあり。そのレコードは壁沿いに天井まで渦高くラックに収まって居た。他にも4畳半程の部屋がありそこが寝室の様だった、ベットは置いて居なかったが、和室で押し入れがあったから多分布団が積んであったのだろう。そしてその人が座って居るオーディオ・コーナーには、当時進歩的なインテリが読んで居た、漫画月刊誌「ガロ」の1964年からのものが積み上げて置いてあった。私は凄い人だと思った。その人は30歳で独身だ。そしてレコードは1万枚を超す枚数だったので一軒家の平家を借りて居ると言う事だった。私は圧倒された。他に本棚があって哲学書、「デゥールズ・ガタリ」「ラカン」やら、「キネマ旬報」が置いてあった。私の父親は本を全く読まなかった人だ。母は児童文学書の文庫本を訪問販売で売りに来たものを買って小学生の頃に家の居間に置いてあったが。自宅にあったのはその本16冊だけだった。私は自分もこう言う人の様になりたいと思った。
Taste - What's Going On (Live At The Isle Of Wight)
私は今現在、その目標は3分の1ぐらいは達成して居る。そしてそれで最後だろう。レコードは720枚。CDは460枚ぐらい所有して居る。他にビデオテープがいまだに60本。DVDは2,640枚、書籍が760冊ぐらいはある。これでもレーザーディスク・プレイヤーとレーザーディスク400枚ぐらいは処分したのですが。お陰でやっ噛まれる事もある。物を溜めない人は贅沢だと怒る人も居る。人は色々な事を言う。いいでは無いか、私に取ってはささやかな楽しみだ。私の歳になれば自宅を持って、自家用車は2台あり子供が2人は居て。奥さんがガーディニングをして居て。部屋には4kテレビとオーディオ類。パソコンがあるだろう。私にはそんな幸せな家庭は無いのだ。勿論、私も4Kテレビとパソコン。それにステレオ。ビデオデッキ。カセットデッキ。ブルーレイ・レコーダー。ラジカセがある。それにハーモニカ・アンプが2台とハーモニカ12本入りのケースが7個ある。あとハーモニカ用のマイクが6本ある。これは趣味の問題だ。他人がとやかく言う事では無いはずだ。しかし私のアパートに来た人は、やっ噛むのだ。皮肉を良く言われる。そして生活保護を受ける様な身分のくせに贅沢な生活だと罵られる。そう言う人は月30万はする旅行に行って居る。高級レストラン、料亭で4万円ぐらいのコースの食事をする。そして自宅には4Kテレビと豪勢な家具類が置いてある。自分は何なのだ。要するに人を頭からバカにして居るから贅沢だと言うのだ。「生活保護を受けて居る様な、障害者の貧乏人は貧乏生活をしていろ」と言いたいのだろう。人は醜い。お陰で私は他人が嫌いに成った....ああ、また愚痴になって居る。話を戻そう。若い頃に影響を受けた事はその後の人生を左右する。おそらく生涯その事からは離れられないのだ。反対に言えば若い頃に何に興味を持ち、何を目指そうとしたのかでその後の人生は決まる。
【レビュー】現代向きのVHSビデオデッキで再生してみた!
歳を取っては最初から全く興味がなくて新しい事に興味を持つと言う事は無い。例え、自分は歳を取ってからこんな事に興味が出て来た、これは初めての体験だと思っても、その核になって居るものは本人には解らないであろうが。若い頃に影響を受けた事がベースになって居るのだ。また、若い頃の事をいったん拒絶しても、歳を取ってから、その事をまた再度興味を持ってやりだすと言う事がある。それだけ10代後半から20代の始めに身につけた事、考えて居た事は消えてはなくならない。私は一旦ロックはもういいと思って聴いて居なかった。しかし最近になってまた聞き始めて居る。聴いて見るとどれもこれも新しい発見がある。若い頃に気が付かなかった点やら、十分に聴いて居なかったミュージシャンが気に掛かる。私は最近、「頭脳警察」などに嵌まって居る。1970年代の初頭から80年代に掛けて音楽シーンを直走ったバンドだ。私はファースト・アルバムしか聞いて居なかった。TSUTAYAから最近、セカンド、サードとCDを借りてカセットテープに録音して聞いて居る。今聴くと当時は過激だった歌詞も、これは硬派だけどアリだな。と頷けるのだ。彼らの音楽は全共闘の連中やら当時の世相に感化された人たちの鎮魂歌だった。ファースト・アルバムはいきなりライブだ。そして放送禁止用語もあってセカンド・アルバムは当時1週間ぐらいで発売禁止になった。しかしギターと歌のパンタは神聖化されて居る。彼らも、もう今や70歳を超える。しかし頭脳警察は最近若手のミュージシャンをメンバーに添えて復活した。彼らの歌にはアナーキーな香りが漂う。昔は時代もあり問題視されたが、今は今風の体制批判などの歌が聞ける。パンタは最近死去なさいました。合掌🙏
頭脳警察 / 銃を取れ Live
もう一つのバンドが居る。「外道」だ。彼らも1970年代にミッキー・カーティスらに見出されたバンドだ。加納のギターはブギを多用して居た。しかし今はリードギターとしてブルージーなフレーズを聞かせる。バンド名の「外道」とはライブ演奏で問題を起こした時に警官から昔言われた言葉だ。それをバンド名とした。彼らもまた最新のCDをリリースして居る。あと昔のバンドで今気になって居るバンドが居る。日本で初めてシカゴ・ブルースの雰囲気の曲を演奏して居た「村八分」だ。彼らは確か京大の西部講堂でのバンド・ラストのライブ盤が正式なレコードとなった様に記憶して居る。ギタリストのチャー がパンク・ロックの「セックス・ピストルズ」を聞いて。「これって「村八分」じゃない?」と言った事が伝説になって居る。パンク・バンドとしても影響力があった。こう聞いて行くと、昔のロックバンドは毒気があった。いや、強烈な個性があった。そしてどのバンドも反体制でアナーキーだ。
外道ライヴ!! 約40年前の日本に、こんな素晴らしい音楽が!!
くたびれて / 村八分(from "1979")2019 Remaster
80年代から90年代に掛けて有名だったパンク・ロックバンド「スターリン」は吉本隆明の対幻想に感化されて居た。哲学者・吉本隆明も「スターリン」を気に入り。よくメンバーと雑誌やテレビで対談をして居た。私はパンクは余り詳しく無い。パンクを語るには歳を取りすぎた様だ。ただ今挙げたバンドはよく聴いては居た。私はこれでもブルース・ハーピストの端くれだ。どうしてもブルースからは逃れられない。ブルースは有りと凡ゆる音楽に影響を及ぼして居る。クラシックを除いてだが。ただ中国ではブルースは受け入られては居ない。ブルース・ハーピスト平松悟はハーモニカ1本持って中国大陸を横断したそうだ。彼は至る所でブルースを演奏したが中国人はちっとも感激しなかったそうだ。中国にもロックバンドは居る。以前、テレビで見た事があるが、はっきり言ってお粗末なものだった。ブルーノート・スケールが解らないのだ。中国で文化大革命の後に上映された「君よ憤怒の川を渡れ」での劇中に流れるブルージーで居て尚且つジャージーなメロディーを聴いた観衆は戸惑ったそうだ。初めて聴く旋律だったからだ。この映画は中国で大ヒットし。国民的な映画として人気が高い。反対に台湾。香港などはブルースが僅かながらだが浸透して居る。「クリエイション」と言うバンドで「マウンテン」のベーシストで音楽プロディーサーのフィリックス・パッパラルディーとアメリカ・ツアーもした事がある日本のブルース・ロックギタリスト、竹田和夫は香港のクラブで演奏して居るブルース・ギタリストを見出した。「Tommy Chun」と言う。私は彼のCDを持って居る。
THE STALIN 【仰げば尊し】
Tommy Chung HK blues legend
何故なら確かセカンド・アルバムだったと思うが、私のブルースハープの師匠である、ウイーピング・ハープ・セノウこと、妹尾隆一郎さんがハープで共演して居るからだ。彼のギターは黒人というよりの白人のブルース・ロック・ギタリスト、ジョニー・ウインターやらエリック・クラプトンを可也研究したフレーズを弾く。歌声はまるでジョニー・ウインターそっくりだ。聴く処に寄ると台湾やら香港のブルース・シーンは最近になって要約1950年代のシカゴ・ブルースなどを聴く人が増えたらしい、そう言った意味では、日本のブルース・シーンは本場アメリカに次ぐと思う。ヨーロッパでのブルース・シーンもデンマークでのブルース・ミュージシャンは聴くべきものがあるが、大体がヨーロッパはクラシックの土壌だ。フランスではそれでもある程度のブルース・シーンは開けて居る。矢張り日本がアメリカの次だろうと思う。
Bensonhurst Blues - Oscar Benton перевод на русский
The Twelve Bar Bluesband - I 'm a Bluesman - live at bluesmoose Café
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寺山修司の短歌。。。
歌人としての寺山修司は、塚本邦雄や岡井隆と並んで、革新的な前衛短歌運動を組織した事で知られている。
「寺山修司・全短歌集」より
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(27ページ)
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(162ページ)
草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ(164ページ)
いずれも彼の代表作として広く暗誦されている歌である。どれも響いては来る。それでも、これらの歌にある新しさ、と言う点については、正直ピンと来なかったのだ。「前衛は滅びやすい」と言う言葉のとおり、新しいものと言うのはすぐにその新しさを失って仕舞う。寺山修司が発表した当時に新しかったものが今の私に取って新奇なものとは映らないのも、仕方のない事なのかも知れなかった。そもそも、寺山修司が新しいかどうかなんて、文学史を書く様な人だけが気にするべき事で、個人には何の関わりもない些末な事柄に違いない。いつもどおり、好きだった歌をだらだら引用していけばいいじゃない、とも思っていた。でも、最初に書いたとおり、違和感があったのだ。現代の立場から見ても、「この歌人はちょっと違うぞ」という感覚があった。それなのにこの違和感に与える言葉が見つからずに居たのである。
永田和宏の「現代秀歌」がヒントとして与えてくれて居たのは「フィクショナルな私」という抽象的な言葉で、どう言う事なのか、頭の弱い私にはやはりピンと来ない。ところが、先日気晴らしに映画を見て居た時に、ああ、寺山修司の短歌って映画なんだ、と、ふいに思い付いたのだ。私は「フィクショナルな私」と言うのを、「私」すなわち一人称の置き換え程度にしか考えておらず、だから「フィクショナルな私」と言われても、それだったら『源氏物語』で作中人物の立場で歌を詠みまくった紫式部だって、「フィクショナルな私」を書いて居たはずだ、などと言う的外れな事を考えて仕舞って居たのだが、此処での話題はじつは一人称にあるのではない。寺山修司の短歌は、映画なのである。つまり、誤解を恐れずに言うと、寺山修司は三人称で短歌を書いたのだ。
以下。寺山修司・短歌大全から抜粋。。。
鉄屑をつらぬき芽ぐむポプラの木歌よ女工のなかにも生れよ(10ページ)
だれも見ては黙って過ぎきさむき田に抜きのこされし杭一本を(12ページ)
めつむりていても濁流はやかりき食えざる詩すらまとまらざれば(13ページ)
にんじんの種子庭に蒔くそれのみの牧師のしあわせ見てしまいたる(16ページ)
かわきたる田旋蹴とばしゆく人たち愚痴を主張になし得ぬままに(17ページ)
轢かれたる犬よりとびだせる蚤にコンクリートの冬ひろがれり(18ページ)
広場さむしクリスマスツリーで浮浪児とその姉が背をくらべていたり(19ページ)
枯れながら向日葵立てり声のなき凱歌を遠き日がかえらしむ(22ページ)
群衆のなかに昨日を失いし青年が夜の蟻を見ており(28ページ)
意図的に、「私」が登場して来ない歌ばかりを選んで見た。すべて第一歌集『空には本』より。映画という考え方を持って見てみると、寺山修司の目がカメラの向こう側にあるような気がして来る。「女工」や「牧師」、「浮浪児」といった語句は、此処では「私」の目に映って居る人びとと言うよりも、三人称で語られている文学の登場人物として現れて居る様に思えるのだ。しかも、これは歌のなかに「私」が出て来る時も同様なのである。
向日葵は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低し(7ページ)
銃声をききたくてきし寒林のその一本に尿まりて帰る(12ページ)
鶏屠りきしジャンパーを吊したる壁に足向けひとり眠れり(13ページ)
父葬りてひとり帰れりびしょ濡れのわれの帽子と雨の雲雀と(13ページ)
冬の欅勝利のごとく立ちていん酔いて歌いてわが去りしのち(14ページ)
朝の渚より拾いきし流木を削りておりぬ愛に渇けば(15ページ)
胸の上這わしむ蟹のざわざわに目をつむりおり愛に渇けば(17ページ)
わが野性たとえば木椅子きしませて牧師の一句たやすく奪う(17ページ)
われの神なるやもしれぬ冬の鳩を撃ちて硝煙あげつつ帰る(18ページ)
夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず(21ページ)
歌の中の「われ」までもが、三人称で語られる文学の登場人物の様に思えはしないだろうか。たとえば岩田正の「郷心婦」が見せて居た様な日常感、現実味と言うものが、此処にはぜんぜん存在しない。ただ、これも誤解を招きそうなので書いて置きたいのだが、寺山修司の「われ」から現実味が感じられないと言うのは、けっして悪い事ではない。良いとか悪いとか、そう言う事ではないのだ。小説作品で一人称と三人称のどちらが優れて居るか、と言う様な議論がぜんぜん意味のないものであるのと、事情はまったく同じである。「われ」の存在から現実味が感じられないからと言って、その「われ」の言葉が美しくない訳はないのだ。
下向きの髭もつ農夫通るたび「神」と思えりかかわりもなし(22ページ)
「雲の幅に暮れ行く土地よ誰のためわれに不毛の詩は生るるや」(23ページ)
目つむりて春の雪崩をききいしがやがてふたたび墓掘りはじむ(23ページ)
寝にもどるのみのわが部屋生くる蠅つけて蠅取紙ぶらさがる(28ページ)
コンクリートの歩道に破裂せる鼠見て過ぐさむく何か急ぎて(28ページ)
一本の骨をかくしにゆく犬のうしろよりわれ枯草をゆく(29ページ)
わが影を出てゆくパンの蠅一匹すぐに冬木の影にかこまる(30ページ)
蠅叩き舐めいる冬の蠅一匹なぐさめられて酔いて帰れば(30ページ)
以上はすべて第一歌集『空には本』に収められた歌で、この歌集に寄せられた「あとがき」的な文章も掲載されていた。
「新しいものがありすぎる以上、捨てられた瓦石がありすぎる以上、僕もまた「今少しばかりのこっているものを」粗末にすることができなかった。のびすぎた僕の身長がシャツのなかへかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした。定径詩はこうして僕のなかのドアをノックしたのである。縄目なしには自由の恩恵はわかりがたいように、定型という枷が僕の言語に自由をもたらした」(「僕のノオト」『空には本』より、32~33ページ)
枷が自由をもたらす、というのは非常にウリポ的な考えかたで、個人的にはかなりテンションが上がってしまうのだが、この「僕のノオト」にはこれまで述べてきた事に関連する非常に重要なことが書かれているので、立ち止まることはせずにそちらを見る。
「僕はどんなイデオロギーのためにも「役立つ短歌」は作るまいと思った。われわれに興味があるのは思想ではなくて思想をもった人間なのであるから」 (「僕のノオト」『空には本』より、33ページ)
「ただ冗漫に自己を語りたがる事への激しいさげすみが、僕に意固地な位に告白癖を戒めさせた。
「私」性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである」(「僕のノオト」『空には本』より、34ページ)
そう、言うまでもなく短歌というのは「「私」性文学」なのだ。「無私に近づく」というのは、内容を一般化しようと言うのではない。そうではなく、寺山修司は、三人称の立場から歌を詠む術を編み出した。これは、ただ「私」という語の代わりに登場人物の名が充てられた様なヘミングウエイ的な三人称ではない。それはむしろラディゲ、「肉体の悪魔」を一人称で書いたのち、殆ど同じ話である「ドルジェル博の舞踏会」を、今度は達観した三人称で語りなおしたラディゲに近い。ラディゲがこの二作品のあいだに体験したのと同じ思考の転換、つまりは革命が、十代の寺山修司にも起こったのかも知れない。第二歌集『血と麦』の「あとがき」にはこんな文章もあった。
「私はコンフェッション、と言う事を考えて見た事もなかった。だが、私個人が不在であることによってより大きな「私」が感じられるというのではなしに、私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を越える一つの力が望ましいのだ。私は近頃Soul という言葉が好きである」(「私のノオト」『血と麦』より、83ページ)
「いったい、十六年という歳月は、長いのか短いのか、どちらだろう。むろん作者にとっても、それはどうとも言えないはずだが、変貌という点ではめざましく、出現の当時が十八歳、早稲田の教育学部の学生だったのが、現在は劇団天井桟敷の主宰者で前衛演劇の中心人物となり、その成果を世界の各国に問うているのを見ても肯けよう。一方、千年の歴史を持つ短歌の中においてみると、その年月は、あたかも掌から海へ届くまでの、雫の一たらしほどにもはかない時間といえる。だがこの雫は、決してただの水滴ではなく、もっとも香り高い美酒であり香油でもあって、その一滴がしたたり落ちるが早いか、海はたちまち薔薇いろにけぶり立ち、波は酩酊し、きらめき砕けながら「いと深きものの姿」を現前させたのだった」(中井英夫「解説」より、186~187ページ)
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