この放送の第1回で、吉田松陰と宮部鼎蔵(ていぞう)が江戸から、1852年の会津の藩校・日新館を見学に訪れ、山本八重の家に泊まるシーンが出てきました。
わざわざ脱藩をして東北旅行に臨んだ吉田松陰と、宮部の二人はその後、雪の中を会津→新潟→佐渡→秋田→弘前のコースをたどり日本海側視察の旅をします。弘前では、伊東広之進という憂国の士に、当時まだ鎖国中の日本の国防のことを語り合うため会い行きます。
今から161年前の冬。ペリー黒船来航の1年前のことでした。
さて弘前のこの伊東広之進のお屋敷は、その後、伊東重(じゅう)という明治の医学士に受け継がれ、伊東重の提唱する「養生主義」に基づいた 《養生(ようじょう)幼稚園》 という園が創立されました。
作家・司馬遼太郎は、著書『街道をゆく』のなかで、その由来を3章にわたって詳しく書いています。
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「この幼稚園は古いです。明治時代にできた私立幼稚園です」と、菊池正浩氏が教えてくれた。このあたりにも、この城下町の物持ちのよさがあらわれている。伊東家のふるい武家屋敷そのものが明治時代に私立幼稚園の園舎としてつかわれ、いまも改造することなく運営されているのである。
……
「あまり今風(いまふう)の幼稚園ではないので」と、菊池さんは、まち自慢にならぬよう、おさえた調子でいった。「たくさんの園児がやってくるという風ではありません」
なるほど、室内に入ると、大きな積み木からして古びていることに驚かされた。どの木も明治以来、園児と遊びつづけたために、四角の角(かど)が丸くなっているのである。
…古めかしいながら、りっぱなすべり台もある。台上にのぼる階段の木の段々だけがあらたに補修されていて、新しい板が気はずかしげにみえるほどに全体が文化財めいていた…
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同書第41巻~北のまほろば(朝日文庫)より
13,4年前、私は園舎をはじめ、その積み木や、遊戯室のすべり台などをどうしても実際に見たくて、同幼稚園へお手紙を書き、見学させていただくことになりました。
ちょうど弘前に住む友人に、近々そっちに行くことを伝えると、そのお父上が地元高校の校長先生を長いことしていた関係から、養生幼稚園をよく知っているので一緒に付き添ってくださいました。
吉田松陰たちが伊東広之進と会談した和室は、「松陰室(しょういんしつ)」と名づけられ、幼稚園の中にそのまま残っています。今その部屋の見学は予約制で有料になっているようですが、その折りは、友人のお父上のお陰で、その部屋で理事長さんがご接待してくださり、色々とお話をうかがうことができました。
訪れたのが2月の連休の時で、やはりとても雪深かく、松陰らここを訪れたときもこんな雪深い同じ時期だったと思います。
コンクリーに鉄柵のフェンスではなく、武家屋敷そのままの瓦を葺(ふ)いたしっくい塀に、園門には雪をかぶった古松の枝がアーチのように門の上にかかっています。どんなに豪華な幼稚園にも真似ができない、重厚なこのお屋敷の、松の下を通って園に入る子供たちをつくづく羨ましく思いました。
養生幼稚園は今年、創立107年を迎える頃です。当園よりもずっと先輩ですが、多くの人たちが出入りした園地と園舎を大切に、新しい子供たちを迎え入れる気持は同じです。
…そんなこんな、大河ドラマを見ていて とても懐かしく思い出しました。
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