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「大膳大夫様。麾下に加えてくださりませ。某は山本勘助と申します。今川の者にございます」
声を抑えた声が聞こえる。密かに武田館に忍び込んだので無理はないか。背丈は五尺五寸。齢は五十路になる碧眼の老人が現れた。見るからに醜男で足を引きずりながら歩いている。卑賎な小袖姿で信方と晴信に一礼した。
晴信は「面白い奴。気に入ったぞ。勘助と申すのだな? 条件次第で麾下に加えてやる。何が望みだ?」と勘助に微笑んだ。
信方は「若殿。人事の沙汰は若殿と雖も御屋形様のご許可が必要です。勝手な真似はなさいますな」と晴信を制した。
(動悸は胸で激しく波打つ。何もなければよいのだが。何やら勘助が拙者らの活路を開くやも。話を聞こう)
「大膳大夫様。言いたいだけ喋らせていただきます。某のお声が聞き取りにくうございますか? 密かに参りましたので。小声で失礼します。先ほど泣いておられたのは大膳大夫ですね。武田の忍びは手抜かりが目に余りますな。乱波を見事に精鋭に変えて見せましょう。条件はいかがでござりましょうか?」
「乱波だけでは物足りぬ。何か他の仕事をしてくれぬか? 我は一緒におる駿河守以外の知恵者を求めておる。知恵を貸してくれぬか?」
「若殿。程々に。増長はなりませぬ。足元を救われます。勘助とやら何故に今川を裏切る。武田に寝返ってもそんな見返りは用意しておらぬ。だったら知恵を貸してみよ。返答次第ではお主を成敗いたす」
「畏まりました。今川の太守(今川義元)様が某を邪険に扱います。醜男と罵ります。なので武田に仕官を求めた次第です。今ならば大膳大夫様に一番の宝物を献じ奉ります。甲斐の御屋形様の首を取ってきましょう。それでよろしゅうございますな?」
晴信は「待て。父上に手を出すな」と毅然とした態度で一括した。
信方は「若殿。斯様な痴れ者は拙者が成敗します。異存はござりませぬな?」と腰の太刀に手を懸けた。
勘助の目が「ならば?」と一言吐いた。かつ、毅然として信方と晴信を睨んだ。信方と晴信は一瞬体が固まった。
晴信は表情を変えながら一息吐いて「ならば我に仕えよ。孰れは軍師にしてやる。その日まで待て。父上には別の形で復讐する。死よりも辛い仕打ちを我は望む。勘助よ。知恵を貸せ」と勘助を睨み返した。
(やれやれ。今川の間者は斯様な親子喧嘩まで嗅ぎ付けおったか。勘助は見どころのある人物とみた。拙者の足軽に加えよう)
「若殿。ならば拙者の麾下にまずお加えください。ならば何も問題ありませぬ。よろしゅうございますな?」
「勘助をそばに置きたい。今川の風聞が手に取るようにわかるぞ。将来、軍師に置くのも駄目なのか?」
「軍師かどうかは駿河守が見極めます。念のためです。若殿が拙者を父上と呼んでくださりました。そのご恩に報います」
晴信は渋りながら「承知した」と頷いた。
信方は「若殿。では勘助を我が家に連れて参ります。失礼します。勘助早う、いたせ」と一礼して晴信のもとを去った。
勘助は後に続きながら笑いながら「ありがとうございます。駿河守様。腹が減ったのでお屋敷で何か馳走を願います」と先に回って一礼した。
「どけ。厩に行くのに邪魔だ。さっさとせぬか」
「厩に行く必要はございませぬ。西門においでください。我らの手の者が馬をまわしてございます。駆け足でお願いします」
(抜け目のない奴。軍師としては合格かのう。とにかく西門に急げ)
二人は西門に急いだ。正月なので幸いにも誰もいない。西門から出て大きな樹の下に二頭馬が繋がれていた。
「駿河守様。さあ参りましょう。お屋敷では何を頂けますかな?」
「勘助よ。其方の才がつまらぬものだったら承知せぬぞ。わかっておるな?」
信方と勘助は馬を走らせた。信方が先頭に立って進んでいく。勘助は追いかける。